エントリ

 どういうタイトルにしようか迷いました。
 医療か科学か?
 医師は科学者か? etc
 
 穏当なところで、上記のタイトルにしました。
 医師の皆さんのご意見を聞いてみたいと思います。

 なぜこのようなエントリを立てたかといいますと

 医療は科学的だ、医師は科学的に考えている、医学は自然科学だ、というようなことを強調する人に限って、司法に対してはステレオタイプの見方をすることが多いように感じられるからです。

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コメント(143)

医療は 医・看護などの実践で、社会的な要素も 大きいですね。
医学は 経験科学ではありますが 科学的といえない部分も大きいと思います。
科学的 とは 何か が問題になりますね。

再現性はない、再現できない、
個別性は大きい、
必ずしも 論理がない、
結果良ければ みたいな部分も大きい、
個人の技術にかなり依存する、
技術では 工学にも近い面もある、
心理や教育との重なりも大きいが、心理学や教育学は科学?

医療と医学は全く違った概念だと私は思っています。

医学は純粋に科学であるべきです。そしてそれは経験と理論からなります。ただ、あまりにも不透明で未知な部分が多く、その分ミステリアスになるのは仕方がないと思います。病気にしても治療にしても、複数の要因からなる。その分、原因がわからないことが多い。また、それ故、多くの誤解を生んだりするのでしょう。もちろん、特に外科的な分野では芸術的な要素を含むこともあるでしょう。
異論もあるでしょうけど、私はそう信じてやってきています。

一方医療とは医学を元にした分野ではあるけど、政治や社会などを包括したものでもあると思います。従って医療は医学より複雑にならざるを得ません。

まあ、結局医療者であっても医学の定義すら見いだすことのできない複雑かつ奇怪な学問であるともいえますね。

基礎医学の先生方にいわせると臨床はscienceとしてはちゃんちゃら、、 だそうです。
私もかつて基礎研究に夢中になっていたときは同意していました。
でも、その後臨床を深めれば深めるほどそうでもないと思い始めました。
さっき別のエントリに書き込んだ 

医学とは厳正なscienceと微妙なartである
というのは、その後の実感です。
科学100%ではないことは多くの臨床医は同意すると思いますが。

ところで私は、学生の時 精神科の講義を聴いて、これは文学か?と思ってしまったバカモノです。

常日ごろ思っていることですが、「医療」「医学」「保険診療」の3者はキチンと区別する必要があります。

全てを満足する場所で治療を受けることが理想的なのですが、なかなかあっちをたてればこっちがたたずというジレンマに陥ることが少なくありません。

私の印象では、「医学=科学」「医療=社会学」「保険診療=経済学」かな。

モトケン様

yama様のおっしゃるとおり医療と医学は別物です。
医療と医学はかけ離れた存在です。ご配慮いただいたため誤解が発生しそうです。
医師は科学者か?ときいていただいた方がよかったかもしれません。 モトケン様ともあろう方が医療と医学を一緒くたにしていると思われてはなりません。

もしかして、モトケンさんは、医学は科学なんだから、白黒きちんとつけられるはずだと誤解しているのじゃ?
医学は科学だから、科学としての限界がある。特に、医学は人という再現実験が非常に困難なものを対象にしているから、同一条件での再現というのはまず不可能です。

少なくとも医療は純粋科学ではないでしょうね。
自分自身では自分を技術者ないし職人と考えていますが。

最近ではむしろ司法という物事の定義レベルから人間の手によって形作られる分野がなぜこうまで再現性が低くなるのかということに素朴な興味を覚えます。

医療自身は科学ではないが科学を応用しているのは事実です。そうでなければ納豆ダイエットと大して変わりありませんから。
したがって老人の医者さんに同意。医療はテクノロジーであろうと思います。

では医学は科学か?科学であったとしてもP

>ある町医者さん

 逆です。
 白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ、と言いたいわけです。

 にもかかわらず医療は科学的だと強調される医師がおられるので、医療側の皆さんはどう考えているのかと聞いたのです。

 科学的だとおっしゃる方は大抵司法を攻撃するときにそれを強調されるように思えるのは気のせいですか?

>老人の医者さん

>自分自身では自分を技術者ないし職人と考えていますが。

 私もそう思ってます。
 法律家も同じく職人だと思ってます。
 私は学生に、法律家は大工さんと本質的に変わらない、と言ってます。

蔓延するニセ科学……(ぼそ
そもそも科学とは、白黒つけられるものではないのではないでしょうか。
白黒つけられる!っていってるのは、たいていニセ科学だったりして。

私も医師は技術職であり、一種の職人だと思います。昨今Evidence based medicin(EBM)というのが流行していますが、これはartの領域である医療を、なるべくぶれの少ないscienceの領域に近づけるべく出てきた考え方ととらえています。(その考え方を身につけたとはとても言えませんが)

医学はやはり科学だと思いますが、元になるヒトという存在が余りに多様性に富むために、数学や物理学に比べて再現性の恐ろしく低いものになると考えます。また仮説を立ててもなかなか人体で実験するわけに行かないので、そう言う意味でも科学としては未熟なものにならざるを得ません。(まあ生体実験をやった外道な人たちも今の医学の基礎を作っているわけですが)

考え方としては某救急医様の「医療=社会学」「保険診療=経済学」というのに近いでしょうか。

科学的であろうとすることは患者個人で考えるのではなく、患者や疾患、治療を計量可能な「数」に還元することです。
薬理学的に作用を予想するだけではただの仮説で、実験による検証なしには科学たりえないと思います。
具体的には、「心筋梗塞後の死因には不整脈死が多いので抗不整脈薬は心筋梗塞後の死亡を軽減するだろう」というようなことで、これはただの仮説です。多くの患者に対する無作為化試験を経て、ようやく科学的、すなわち統計学的に仮説の妥当性が否定され、科学的根拠となるわけです。
医学でいう論理などは多くは厳密ではありません。「XだからYであろう」は科学ではありません。
しかし医学の知識には多くの場合科学的根拠が希薄です。
医学の中で科学とは極く一部で、あとのほとんどは非科学的な誤りの多い経験則と推論による思い込みです。
対処すべき問題が無限にある状態ではすべての問題に科学的に対処することは理論的に不可能ですし、実際には物理的制限があります。
科学的根拠を得る努力が足りないと言う面もあるでしょうし、人間がほとんど本能的に科学的根拠を嫌うという面もまたあると思います。科学の内部の正しさは絶対的なものですが、その結果を受入れることが人間として正しいかはまた別の問題だからです。正しい科学的知識が医者や患者に受入れられればどんなに医療は単純になるだろうかとよく空想してしまいます。

モトケン様
「白黒つかないから科学ではない」は間違いです。医学に含まれる科学のほとんどは確率なしには扱えません。さらに科学的知識とその適用は別の次元です。科学的な試験に基づいて医療行為を行うことはできますが、複雑な人間に対する一つの医療行為が科学たりえることはありません。
ただ、実際には科学的な知識に基づいて医療を行うこと自体が難しいという場合が多いのですが。
医療と医学の違いを強調する医療関係者が多いことは、医学が期待したほど医療を助けてくれないことをよく示していると思います。

医療はミクロでは科学で、マクロでは科学的養素が少ないと思います。医療は社会学的な要因がありますのから。
加えて、医療には「科学的な医療」と、「非科学的な医療」があると思います。

実験をもとに考えられた治療は科学的だと思いますし、経験をもとにしたものは科学からすこしばかり遠ざかるかもしれません。

皆さんがおっしゃってるように、医療=科学ではないです。

ただ、科学的な研究に従事したことがある人、科学的なものの考え方に慣れた人は
司法関係者より多いと思います。

No,2 yamaさんもおっしゃられておりますが。
医学は科学に近いですけど。
医療は科学ではないですね。

私は医者ってのは、半分技術職、半分サービス業だと思っています。
言い方悪いかもしれませんけど。
昔の医者は、技術だけ良ければ良いんだ。
みたいにして、偉そうにしていて。
最近は、やたら、サービス業だ、て事が強調されすぎているようですけどね。

半々ではないでしょうかね。

ただ、技術職ではあるんですが。
全てが自分の経験からだけではなく、世界中のいろんな治療とか薬とかのエビデンスを基にして治療なり診断なりをしている。
って事は事実なので。
科学的な部分もあるんですけどね。


No.12 DDMR(外科医) さん

「白黒つかないから科学ではない」は間違いです。

白黒がつかない=統計学的検定ができるようなしろものでない
あるいは    =統計学的検定を経ても有意差がない
ということです。ですから間違いではありません。およそどんな科学でも実験結果は統計学的検定が必須であり、十分小さいP値で白黒を判断するもののはずです。

>モトケンさん
>逆です。
> 白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ、と言いたいわけです。

1)医学は科学なんだから、白黒きちんとつけられるはずだ
2)白黒つけられないんだから、(医学は)科学じゃない

これは対偶です、逆ではありません。
1)と2)は同義(同値)です。

私の指摘通りだと、モトケンさんご自身が認めていることになります。

ちょっと極端な例になりますが、わたくし個人的には「医は科学的か」という命題は「戦(いくさ)は科学的か」という命題と等価であるとお答えしてみたいです(場違いぽくてバツの悪い笑)。

>「戦(いくさ)は科学的か」という命題と等価であるとお答えしてみたいです

大きな意味での「戦」(≒戦争)は経済学です。
小さな意味での「戦」(≒戦闘)は動物の生態に近いと思います。

概ね、皆さん(医師)と同意見です。私の場合、医療=経営学でもありますがね(マジレス禁!)。

>昔の医者は、技術だけ良ければ良いんだ。
 みたいにして、偉そうにしていて。
 最近は、やたら、サービス業だ、て事が強調されすぎているようですけどね。

医療の世界だけではないようです。最近、飲み屋で初対面の塗装職人さん(仕事にプライドを持っていました)と、そのような話をして意気投合し、深酒をしてしまいました。で、その時の結論は「三波春夫が悪い!」ってことになりました。

話は変わりますが、
私が司法に対して「医療(医学の意)は科学だ〜!」と叫びたくなるのは、司法に「可能性」とか「因果関係」という言葉を使われたときですね。

医学は「可能性」とか「因果関係」という言葉を物理や化学などの他分野の科学と、共通の理念で使い、(たぶん)翻訳無しに通じあえるのが「科学」の仲間の証であるかと。

司法で言う「可能性」とか「因果関係」の意味は科学でのその言葉の意味とは違うということは、なんとなくわかってきました(ぼんやりですけど)。「可能性」とか「因果関係」は科学にとっても大切なキーワードな訳でして、それを別な意味で使われると、頭では司法は別の意味で使っているんだと理解しても、腹の中ではモヤモヤしてしまいます。

医療とは先にも書きましたが、医学という科学的なものを元とした分野であると私は思います。概念として別物と言いたかったわけです。だから違いが述べられても直接比較することはできません。
司法の場では私は医療も大切だけど、医学という科学も大切だと思います。そういう意味で今までの私の主張は何ら矛盾がないものと信じております。そしてそういう科学的な裏付けの元に司法はなされないと、医師はなぜ医学的に正しいことをやったのに間違っているといわれるのか?と思うことになるのです。
つまり、医療とは医学という科学を前提とした社会学的、経済学的な包括的事象であると私は考えています(医学と医療の違いに関する論文を私は書いたことがあります)。

総論的には、社会学的な面で言えば医療が尊重されるけど、医学的な問題が出たときは医学が尊重されるべきだと思います。両者をうまく組み合わせることが大切です。

では科学とは何でしょう。別のスレでも書きましたが、一つは経験に基づく知識体系、もう一つは数学的アプローチから証明された知識体系があります。それぞれ帰納法とえんき法と考えていただければ数学をかじったことのある方は理解できると思います。
ただ、医学は大変複雑です。一つの公式では成り立たない奇々怪々な事象がしょっちゅうあります。それは確率論で説明ができると思います。確率論もまた科学です。別スレでもいいましたが、「科学的なもの=答えは一つ」ではありません。多数回答が出ることもあるし、高校生レベルの数学のように答えが一つしかないものもあります(高等数学では解が複数なんてことや、どう考えても証明できないものまでさまざまです)。ともか科学は自然界に存在する理論体系の中にあるのです。

経験に基づく知識体系としては、例えばメンデルの法則が好例ではないでしょうか?科学的証明は何もないけどこのような法則が成り立つ(後に遺伝子が発見されて科学的に証明されました)。数学的アプローチから証明された知識体系としては今はやりのEBMがあります。これにより、否定されたそれまでの医学(少ない理論に基づく科学を多くの理論に基づく科学で否定してしまうということ)は多数あります。

ただ、一般の人から見るとあるときは医療論を持ち出し、ある時は医学論を持ち出すという日和見的なところが許せない、となってしまうかもしれませんね。

ついでにいうと統計学の有意差が出たから証明できた、というのは厳密に言うと間違いです。人の決めた、「95%の信頼区間から逸脱したものを棄却といいましょう」と決め、さらに「AがBであるとは言えなく無い」を「有意差を持ってAはBであるといえる」とエイヤで決めてしまったわけです。
統計学の概念はとても難しいので、私もいつもこんがらがってしまいます。

> No.19 元ライダー.開業医さん

こりゃ医療=司法対訳同音異義語辞典が必要かも知れませんね。
あとは「ミス」とか「過失」とか。

No.16 ある町医者さん

モトケンさんこたえる気もしませんでしょうから、僭越ながら私にこたえさせてください。

命題というのは if.....⇒then.....という形式をとるんです。だから1)は
1)もし医学が科学ならば医学は白黒をつけられるはずである。
したがって2)は
2)もし医学は白黒をつけられないならば、医学は科学でない
というわけです。

後ればせながら、
医学は科学です。発展途上ですので、数学や物理とは異なります。
医療は科学ではありません。学問ですらない。実践行為です。

医療の基盤は科学である医学です。
ゼネコンがマンション建てる建築業は科学ではありません。建築工学は科学です。

科学とは人間が森羅万象を理解する営みの中で、「反証可能な理論」を「仮説と客観的データ」で「論理的に構成する」作業です。
残念ながら科学者がいつも科学的な態度を取るとは限りません。戦争中の科学者の態度やオウム真理教事件などで自明です。

ここで発言される医師の皆様には努めて理性的な態度をお願いします。多くの人が見ています。2ch風では困ります。

> No.12 DDMR(外科医) さん
具体的には、「心筋梗塞後の死因には不整脈死が多いので抗不整脈薬は心筋梗塞後の死亡を軽減するだろう」というようなことで、これはただの仮説です。多くの患者に対する無作為化試験を経て、ようやく科学的、すなわち統計学的に仮説の妥当性が否定され、科学的根拠となるわけです。
CAST studyのことですね。科学とはなんぞやということを知るための好例と思われるのでちょっと説明をさせてください。

医学は多くの科学によって積み重なねてきました。
その昔(といっても20年くらい前のことですが)、心筋梗塞後に起きる心室性期外収縮及び心室頻拍という不整脈が起きると死亡率が増えるということが科学的にアプローチされました。この不整脈を減らせば心筋梗塞後の死亡率を減らすことができる、と医師たる科学者は考えました(そう考えるのは当然ですよね)。そして抗不整脈薬を用いた臨床試験をデザインしました。この抗不整脈薬は心室性期外収縮を減らすことが明かな(つまり科学的に証明した)薬です。
そして試験が始め、さぞ死亡率が減るだろうと期待されました・・・・が、どうも逆に死亡率が増えているらしい。で統計を取ってみると減らしたい不整脈は減っているのに死亡率が増えている、ということでこの臨床試験は中止になります。
どうやら死亡率増加の原因は別の不整脈を起こす催不整脈作用にあるらしいということが予想されました・・・・が、こんな危険な試験はできませんから結局それは誰も証明できませんでした。

科学は万能ではありません。いくつもの理論の積み重ねによってできあがるのです。理論が増えていくことで否定される理論もあります。物理学もそうでしょう。新理論の上に否定されてしまった理論があります。ニュートン力学はアインシュタインの相対性理論によって否定されてしまいました(厳密に言うと物理学入門や簡易式としてニュートン力学は今もなお使われています)。
科学とはその程度のものです。しかし、そのときの科学はその時点において最も正しいことでもあるのです。だからこそ事後法は違法なわけです。

>うらぶれ内科さん

ある町医者さんの仰ることを三段論法で書いてみると
1.科学は白黒付けることができない
2.医学は科学である
3.ゆえに医学は白黒付けることができない

と言うことなのではないかなと思います

No.16 ある町医者さんのコメント
1)医学は科学なんだから、白黒きちんとつけられるはずだ
2)白黒つけられないんだから、(医学は)科学じゃない

これは対偶です、逆ではありません。
1)と2)は同義(同値)です。

方向が逆なので、「医学」の評価は正反対なのでは?
1の前提は科学⇒結論は白黒
2の前提はNot白黒⇒結論はNot科学

>医療=経営学

結論はやはり! 昔から、医は○○術なり とか言いますし(あれ?)

冗談はさておき、科学を強調される先生がほとんど居られませんが、言い難くなっているのかも。
「可能性」とか「因果関係」は科学で無くてもあらゆる言葉の構成で使い、司法の場だけが特に違うとは感じませんが、何か特徴が有るのでしょうか?

>yamaさん

ただ、一般の人から見るとあるときは医療論を持ち出し、ある時は医学論を持ち出すという日和見的なところが許せない、となってしまうかもしれませんね。

私としてはこれが気になったわけですが、医師の方々が自覚的に使い分けをされているのなら、それは構いません。無自覚に使い分けているのなら、少々問題かなと思いますが。

>モトケンさん
> 白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ、と言いたいわけです。

科学がすべて白黒つけられると思うのは間違いだと思います。

一般人の私が言っても説得力がないので
天羽優子先生をご紹介します。
先生のホームページをご覧いただければわかっていただけると思います。
(結構有名な先生ですのでご存知かもしれませんが)

されど医療は科学的であるべきだと思います。(この場合”的”が重要)科学とは実験により検証されるべきものであるからです。仮定があり実験によってその仮定が裏づけされると言う流れが科学だと思います。医療行為とはその流れを完全に行うわけですから科学的であると思います。

医療行為も科学的であり、そしてすべて科学的に理屈付けされているものではないのですから、その途中にはさまざまな実験(ちょっとニュアンスが違いますが)があるわけで、今分かっている範疇だけで医療が行われてしまえばこれから新しい治療法は開発されません。したがって新しい治療法が紹介されれば実験したいと思うのが当たり前だと思います。(実験と言うと人体実験を想像してしまい敏感に反応されてしまうのが怖いのですが、他にいい言葉が見つからないので。スミマセン)この辺のジレンマが医師の皆様にはあるのではないかと感じています。

>pontuko(一般人)さん

天羽優子先生をご紹介します。

このブログでも、何度か書き込みを見受けたような記憶があります。


この辺のジレンマが医師の皆様にはあるのではないかと感じています

同感です。実際のところ、医療が科学に近づくためには、人体実験は不可欠だと思うのです。例えば、毒物が人体に与える影響を正確に知るためには、実際に投与する事が不可欠だと思うのです。医師が科学者であろうとするのなら、人体実験をしてみたいという誘惑はあって当然だと思うのです。

しかし、一方で医師はそのような誘惑を振り切ろうとする強い自制心を持っているはずです。医師は人体で実験を行う技術も知識も備えており、人体実験を行おうと思えばできるはずですが、そのような事は異常な事態を除いて聞いたことがありません。それが、自制心の証拠です。

サイエンスとヒューマニティーの間で引き裂かれているのが現代の医師の姿なのかなと思いました。

>No.15 うらぶれ内科 さん
解説ありがとうございます。私は言葉尻を捕えただけだったのですね。

医学には科学的な部分が一部含まれるものの、あとは科学とはほど遠い仮説のつみかさねです。
ですから医学=科学というのは医学を過大に評価しているか、科学を過少に評価しているかどちらかです。
医療において科学的根拠に基づいて判断を下せる場面は多くはありませんが、科学的な根拠があるにも関わらずそれに従わないのは、エゴです。(もちろん従いたくても金・法・制度・心などの問題で従えない場合が多いことは痛いほど知っています。) 科学的根拠を無視した医療や、科学的根拠を無視した判決は認めるべきではありません。
科学とはただの信仰で、普遍的な価値があるなどとは思っていませんが、科学の説得力にかなうものは未だないはずです。また、科学を無視した医学に価値があるとは思えません。そんなものは痛みを伴うカウンセリングと名乗るべきです。
科学的根拠のない領域の医療行為に関する議論でもめることが多いのでしょうから実際には空論なのかもしれませんが、「医学は科学」とか「医学は科学じゃない」という言葉を見ると医学のことも科学のこともまじめに考えたことがないのではないかと思ってしまいます。
医療は科学ではありませんが、科学に反する判決には納得できません。

こんがらがってきたので、娘からチャート式数学Aを借りましたところ、

命題 P→Q に対して

Q → P  は 逆
not P → not Q は 裏
not Q → not P は 対偶

と書いていました。発症初期の老眼が進行していなければ上記のとおりかと
あとは、皆さんで考えてください。

>No.26 MultiSync@一市民さん
>>医療=経営学

マジレス禁!と言いながら自分でマジレスしますと(^^;
昔は経営のことなんてほとんど考えなくてもよかったが、今はそれでは破産してしまう(医療が成り立たない)という意味も含んでいます。

>何か特徴が有るのでしょうか?

例えばこれ、警察が司法かどうかは別として。

どうも白か黒といった2元論が問題ですね。
白か黒か完全に決定して進んでいくのは数学だけの世界です。
自然科学や医学や医療には必ずグレーゾーンがあって、自然科学はグレーゾーンが十分に小さく、無視しうる程度にまでになっている。(その意味で白黒をつけている。)そしてグレーゾーンが十分小さく取れる範囲にその領域は限定される。
医学は他の自然科学と比べるとかなりグレーゾーンが広がっている。
医療は医学と同程度かあるいは全部グレーであるといった感じではないかと思ってます。

>元ライダー.開業医さん
ちょこっと調べてみましたが、その因果関係というのは、法的ではなく自然科学的な因果関係の様ですね

 末期がん患者ら7人が人工呼吸器を取り外され死亡した富山県射水(いみず)市の射水市民病院の延命治療中止問題で、県警の依頼を受けた専門医が、一部の患者について人工呼吸器を外した行為と死との因果関係があるとする鑑定結果をまとめたことが28日、わかった。
http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20070329ik01.htm

一部の患者にとっては人工呼吸器の取り外しが死期を早めたが、他の患者にとってはそうではなかったと判断したのではないでしょうか。

こんばんは。
医療崩壊を憂えてこのブログに辿り着き、
半年ほど勉強(ROM)させて頂いている会社員です。
専門家の議論に割り込むのは気が引けるのですが・・・
今回は珍しく初手から議論がこんがらかってよく分かりません。
お願い事を書かせて下さい。

モトケン様の設定されたこのエントリのお題をもう一度ご覧下さい。
「医療は科学的か?」です。
医学を問うておられず「医療」です。
科学であるかどうかではなく科学<的>か? です。

では、門外漢はROMに戻らせて頂きます。
失礼致しました。

PS.モトケン様
かなり意図的で意地悪なエントリではありませんか?

>KY(会社員)さん

>かなり意図的で意地悪なエントリではありませんか?

 実は半分喧嘩を売ってます。

 というか、売られた喧嘩を買ったと言うべきかも(^^)

 ただし、大方のコメントは私が本心では期待していたまっとうな意見だと思っています。

いやー、しまさん、参りました。マスコミ表現を真に受けた私が愚かでした。
記事が変!というエントリーでしたから、記事の詳細も変だと思わなくては・・・

でもね。

>その因果関係というのは、法的ではなく自然科学的な因果関係の様ですね

ということは、しまさんも法的因果関係と自然科学的因果関係は違うと感じているのかと?

(間違って「ミスと過失」のエントリーに書き込みミスした(笑)コメントで、相変わらずくだらないものですが(過失的内容?笑)、いちおうこちらに載せてください。)

言葉の定義の問題として、医療という時通常は医師だけで行われているものではない、コメディカル、パラメディカルもそれぞれコストをかけて医師とともにひとつの医療に従事しています。もちろんそれぞれの科学と実技があります。

このエントリーで医療という言葉は医師の個人的技リョウの部分だけについて問われているのだとしますと、これももちろん科学「的」な方法で技リョウの向上をはかるためのプログラムが存在します。スポーツ選手の能力向上に運動科学的トレーニングが存在するように。で、このスポーツ科学ももとは医学という科学の成果から派生した科学でもあるのです。ややこしいですね(笑)。

(今回追加)
>No.25 しまさんのコメント
すごい、のひとことですね。ぶっ飛びました(笑)。

>No.35 モトケン様
お返事を頂けるとは思っておりませんでした。
ありがとうございます。
また、私のような素人にとりましても、専門の方々の真摯な議論を
側聞できる、貴重なこの場を継続頂けるようで安心致しました。
感謝致します。

よけいこんがらさせてしまったような、、、

モトケンさんは、
1)医学は科学なんだから、白黒きちんとつけられるはずだ、と誤解しているという指摘。
2)白黒つけられないんだから、(医学は)科学じゃない、と誤解しているという指摘。

1)と2)は全く同じことを言っています(なぜなら対偶だから)。

私は、1)を使いましたが、2)はDDMR(外科医) さんが使っています。
私とDDMR(外科医) さんは、全く同じ指摘をしていることになります。モトケンさんの「白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ」というのは、モトケンさんの誤解だと。

それと命題には、「AならばBである」というような形式の命題もあれば、別の形式の命題もあります。
例えば、「Aでない」というのも命題では?

なお、私は、医学は科学である(べきだ)、という意見に賛成です。
医療は、科学である医学という根っ子から離れすぎてはいけないと思っています。
ただ、こうなるともう各個人の哲学みたいなものになってしまいそう。

ROMに戻ると申し上げましたが誤解を生む表現があったのかもと・・・
補足致します。
先のコメントで「初手から」と申しました。
こんがらかったのは、対偶が云々ではありません。為念。
本筋の議論で勉強させて頂けると嬉しいです。

>しま様

>pontuko(一般人)さん

>>天羽優子先生をご紹介します。

このブログでも、何度か書き込みを見受けたような記憶があります。

 それ、多分私のかきこみですね(苦笑)

 で、私見ですが、医学は残念ながら科学と言えるものではないと思います。せいぜいのところ科学の衣を纏ったartというところでしょうか。この世の学問の中で真に科学と言えるのは数学と物理学と化学(それもすべてではなく・・・)だけだと思います。

従って

具体的には、「心筋梗塞後の死因には不整脈死が多いので抗不整脈薬は心筋梗塞後の死亡を軽減するだろう」というようなことで、これはただの仮説です。多くの患者に対する無作為化試験を経て、ようやく科学的、すなわち統計学的に仮説の妥当性が否定され、科学的根拠となるわけです。

 とおっしゃるDDMR(外科医)様の御意見には反対です。統計の危うさを知っている人間ほど、この説には反対だと思います。無作為前向き試験の証明するところはせいぜいのところ「AであればBである可能性が非常に高い」というレベルのもので、「AであればBである」という「事実の証明」にはなりえません。真に科学的と言えるのは完全無欠な演繹的証明によってのみなされるものです。しかし、人体(生体)は極めて巨大なブラックボックスであるため完全無欠な演繹的証明が不可能です。その為、やむを得ず統計学的手法でこれを代用しているに過ぎません。

 その典型的一例が傷の消毒であると思います。
 1800年代後半にリスターによって「傷の消毒によって創の化膿、創感染による死亡が減らせる」という報告があり、多くの追試によってこれが認められました。この当時使用されたのは石炭酸(フェノール)で、仮にこの当時「フェノールによって傷を洗浄することで創感染が減らせるか?」という無作為前向き試験が行われれば「統計学的には」これは証明されたと思います。
 ところが、知ってのとおり、現在では傷に消毒薬をつかうことはむしろ否定されています。ではリスターは何を間違ったのか?傷を洗浄するという「行為」の意味あいを軽視して、「フェノールの効果だ」と思い込んでしまったことがリスターの過誤の原因だったわけです。

 この事は何を意味しているかというと、帰納的アプローチを取るにせよ、演繹的アプローチを取るにせよ、人体(生体)には外的環境をふくめて変数が多すぎるために、正確な条件設定が極めて困難であると言うことです。

 統計学的アプローチをまるっきり否定するものではありませんが、統計はあくまで統計であり、人体におけるあらゆる環境について完全に理解しうる手法ではないと思います。このことはEBMの元祖・提唱者であるDr.Sackettの言葉、「最も重要なエヴィデンスは目の前にいる患者である」という言葉にも表れています。むしろDr.SackettがEBMを提唱したのは「統計は完全な手法ではない、しかし目の前にいる患者に対するに当たって、もっとも確からしい手法を選択するのに完全ではないにせよ、統計学的手法を用いることで確実度が高まる可能性をアップすることが出来る」という意味であると思います。

んで、医療に到っては到底科学と言えるものではないと思います(苦笑)。

対話できるブログっていいですね。勉強になりました。

白黒つけられないが科学を標榜する医学と、
科学ではないが白黒つける司法と。

なんとなく、白黒つけられるものは科学ではない、という命題がなりたってしまいそうな(笑)

>DDMR(外科医)様

>白黒つけられないが科学を標榜する医学と、
科学ではないが白黒つける司法と。

 司法は社会的要請により「やむを得ず」白黒つけると考えるべきかと。
 白黒つけられるものは科学ではないという命題が成立するならば、科学の根冠である数学は科学ではないと言うことになります。

>No.43 僻地外科医さん
>科学の根冠である数学は科学ではないと言うことになります。
言葉の定義において申しますと数学は抽象思考世界での作業、科学は四次元現象(現実)世界での作業ですから、両者は異なると思います。

白黒つけることを目的に、司法が作られ、目的に沿って組み立てられていて。
司法では結論を決めますよね。

「白黒付ける」にも司法の結論とは別の意味が有って、科学的には優劣や甲乙の評価を行う意味でしょう。
例外や別の解釈が含まれると、命題としては不完全ですね。

再現性は科学の重要な要素、これが上手くいかないならば科学的とは評価し難いですが、医学の限界かも。

で、その医学を根拠に医療を施された、医療を良く知らない患者の気分は、予想屋任せの馬券、或いは営業マン任せの株或いは先物取引の顧客と似たような状態になりそうです。

結果が思わしくな買った場合の、恨みたくなる気持ちは、その辺りから出てくるような。

No.43 僻地外科医 さん
すみません。冗談のつもりだったんです。中途半端でしたか。

科学かどうかということと、白黒つけられるかどうかということは別の問題だと思います。
実際は外科医は白黒つける場面ばかりですよね。
司法が白黒つけるのも同じようにその局面に限ってのことだというのはよく理解しているつもりです。
それにいずれにしろ最終的には人間が白黒つけなくてはならないと思っています。
限られた情報の中で白黒つけなくてはならない裁判官の気持ちというのは医師に似たようなものなのでしょうか。しかも有罪・無罪どちらにしろだれかからは恨まれることがほぼ確実ですよね。

「医療は科学的か?」

科学的でない医療、というものがありうる以上、医療は本質的に科学的であるというわkではない。となると、この命題は
1)現実に行われている医療は(おおむね)科学的か?
あるいは
2)医療は科学的に行われるべきか?
いずれかの意味と理解すべきでしょうな。

将棋指しは科学的か、とかネットナンパは科学的か、とかと似たような問いにも見えますなぁ・・・

>僻地外科医さん

それ、多分私のかきこみですね(苦笑)

いえ、ご本人のコメントです。


傷を洗浄するという「行為」の意味あいを軽視して、「フェノールの効果だ」と思い込んでしまったことがリスターの過誤の原因だったわけです。


「外科医の世紀」を読むと、以下のように書いてあります。

彼は濃度の薄い石炭酸溶液を用いることを知った。最初は濃い溶液を用いており、それによる組織の刺激があったが、薄い溶液なら刺激はなかった。(P.332)

なかでも、石炭酸がリスターの最大の発見である、という基本的な誤りを犯していた。石炭酸を使用しようと他の薬剤を使用しようと、「創から微生物が侵入するのを阻止することが根本的な原則である」というリスターの発見は誤ってとらえられていた。(P.345)

リスターは、石炭酸の効果自体は重視していなかったのだと思います。もし、石炭酸の効果を重視していたのなら、濃い溶液を使用し続けていたと思います。

リスターに取っては、石炭酸は手段に過ぎず、目的ではなかったのではないでしょうか。

で、まあ余談ですが(これは本当に偶然に見つけました)

その後、アメリカのローレンス博士と薬剤専門家のランバード氏が、リスター博士の手法に基づいて新たな消毒薬の研究を行い、1879年、安全性と保存性の高い製品の開発に成功しました。二人はリスター博士のもとに訪れ、博士に敬意を表し、博士の名前にあやかりこの琥珀色の消毒薬を“リステリン”と名づけることを申し出ました。二人の熱意に推され、博士も承諾し、ついに“リステリン”が誕生しました。
http://www.listerine-jp.com/about/index_01.html

な、なんだってー。いや、有名な話なんでしょうが

 私の理解では,医療は「科学である医学を応用した社会の営みの一つ」と理解しております.
 私は医学は科学として差し支えないと考えます.皆さんが指摘されているように,白黒つけられるかそうでないかが科学か科学でないかの分かれ目であるとする考え方自体がそもそも誤りです.
 例えば,サイコロをふったとき,どの目が出るかは白黒つけられません.ですが,それぞれの目が出る確率は6分の1であると言うことはできます.同じように,サイコロを600回ふったとき,1の目が出る回数は100回かそれに近い値になり,サイコロをふる回数を増やしてゆけば1の目が出る回数がふった回数の6分の1に集束すると言えます.これは白黒つけたことになりませんが,科学であることに異論はないと思います.
 医学においても,一人の患者ではなく,患者集団としてみた場合,ある治療行為に対する結果はその集団に確率に沿った分散で分布しますので,集団で見た場合には再現性も担保されています.ですが,これは個別事象における結果を約束するものではありません.当たり前です.
 くどいようですが,医学は科学ですが,確率論的科学ですから,白黒はつけられません.当たり前です.集団が対象であった場合でも,白がA%,黒がB%といった答えしか出ません.
 では医療はどうなのだ,という問いになるでしょう.最初に書きましたが,医療は「科学である医学を応用した社会の営みの一つ」です.ここで注意すべきは,医療には科学である医学では未だ解明されていない部分を内包しているという事実です.
 例えば,癌は進行すると転移し,患者は死に至ります.癌の転移のメカニズムがすべて科学的に解明されているわけではありませんが,癌の転移は医療で扱わざるを得ません.ただ,医学としてわかっている部分も当然ながらあり,食道癌ではm2までの浸潤ならリンパ節転移がなく,m3ならリンパ節転移が10%の確率だとかいったことはわかっています.
 司法の場に即してたとえると,ある医療行為Aを行わなかったことが死亡につながったかどうかが法廷で争われたとき,科学である医学としては,Aを行わなかったことが死亡につながったかどうかはわからないのです.ですが,Aを行わなければB%の確率で死に至る,ということはできます.
 で,ここまでは要素が単一の場合に限って単純化した話です.
 現実の医療の場では科学的に解明されている要素だけでも複数の要素が絡んでおり,さらに医学の及ばない(要はわからない)要素の絡みもあるかもしれないのです.ですから,さっきの例えのAを行わなければBという確率で死に至るというのは特定の条件下でしか成り立たない話で,被係争事例における条件が違えばもうどういった確率になるかはわからない,といったところになります.
 医師が司法に対してステレオタイプな見方になるのは,医療が複数の確率論的要素の絡み合いで成り立っているために,確率すら予測できない事態が多く存在することに加え,司法が確率論的科学というものに対する理解すらないことが原因になっているのだと思います.

医者に方法論的哲学を求めるのは、犬に生物学上のラテン語名をきくのと同じことです。

医学はたしかに応用科学のひとつではありますが、医者は元来科学者ではありません。理容師とか葬儀屋の仲間であります。そんなもんに学問を要求してはなりません。

ちなみに、では法学は学問かといいますと、これもちがいます。これも技術です。旋盤加工やなんかと同じ技術であって、学問ではありません。学問とはその名のとおり、問いがまずあって、その未知の問題に対して追求するのが学問ですが、法学は違います・・・あとはちょっと忘れました。
ラテン法の時代から、法学は基本的に法律学であり、瑣末な技術にすぎません。

だから、医療も法学も似たりよったりです。
医者も弁護士も技術者であって、学者ではないという当たり前の結論です。


>No.46 DDMR(外科医) さんのコメント
に全面的に同意です。
医行為という傷害行為を業としている以上、自分も無傷でいられる道理がないという覚悟のようなものを医師たる者は他から求められているのでしょう。ヒポクラテスの誓いにも書かれていますように。

例えば問題の福島事件の医療側は病院として民事の賠償責任を求められたら拒絶するべきでないでしょう。額については別に話し合うとして。また手術に加わった医師全員も身分についての処分は受け入れるべきだし、この事件では実際に停職処分などを受け入れていましたね。独りだけ処分では明らかにアンフェアですが(執刀医以外への処分があったかどうか失念しました)。

ただし、刑事責任についてはこの手術に関する限り受け入れるべき過失行為など誰にもなかった事はすでに公判で事実として明らかになりました。この手術において行われた外科(産科)的内科(麻酔科)的処置はすべて、それを続ければ無事手術を終えることができると経験的に50%を越える確率で期待できる処置ばかりでしたし、処置を続けるにあたって技術の未熟性は全く認められませんでした。また、死因は少なくとも出血死では絶対的にありません。これで検察の起訴事由が根拠をすべて失ったわけです。ところが刑事裁判の公判が現在でもなお維持されている正当な法的理由がまったくわかりません。

このコメントに見られる法律の理解度について、添削指導をたまわりたいです。

旧制の時代には、医者も弁護士も大学を出なくてもなれました。専門学校でよかったんです。つまり、学位をもってなくても、医者や弁護士という職業は元来つとまるのです。これがこれらの職種がもともとアカデミックなものではない(学問ではない)というひとつの証左であります。

客観性を最重要視するのが科学じゃないんですか?
医療に説明不可能な職人芸があるとすれば、その部分は未だ科学ではないけれど、それを客観的に説明できるように努力するのが医学で、医学は科学。
数学は公理から始まる人工物だから自然科学とは毛色が違うけれど客観性があるから科学。
法学は人工的かつ膨大な理論体系と言う点で数学と似ているし、法律家の間では客観性があるのだろうから、それ自体は科学かもしれない。
でも「必ず」白黒をつける裁判官の仕事は科学的ではないと思う。
分からない事を分からないと言えるかどうかが科学と非科学の分かれ道のような気がします。

>hamsterさん

学位をもってなくても、医者や弁護士という職業は元来つとまるのです。これがこれらの職種がもともとアカデミックなものではない(学問ではない)というひとつの証左であります。

アメリカのロー・スクールやメディカル・スクールも同様な考え方なのでしょうね。

>アメリカのロー・スクールやメディカル・スクールも同様な考え方なのでしょうね。

アメリカの場合(つまり日本の戦後も)、欧州とは学位制度がかなり異なります。だから、日本の旧制(欧州に近い)の意味での大学あるいは大卒ではないのです。旧制の意味では、アメリカでマスターあるいはドクターを出て、やっと大卒といえると思います。
だから、バチュラーだけを出て入るメディカルスクールやロースクールの卒業生を学問的にどうランクづけるかはむつかしいですね。MDやJDやMBAは学位ではなく、職能タイトルに近いと思います。日本の旧制の意味での大卒とはいえません。(欧州でも単なる法学部卒は職能タイトルだけで学位をもってません)日本で最近できた法科大学院では、なんとか博士号を「専門職学位」などいう言い方をしていますが、やはり狭義の意味での学位ではないということです。
蛇足ですが、医学者や法学者はもちろん学者であり、学位をもってますよ。

>しま様

リスターは、石炭酸の効果自体は重視していなかったのだと思います。もし、石炭酸の効果を重視していたのなら、濃い溶液を使用し続けていたと思います。

リスターに取っては、石炭酸は手段に過ぎず、目的ではなかったのではないでしょうか

 いま、出張中で中味を確認できないんですが・・・。
 仮に石炭酸の効果ではない・・・とリスターが考えたならば最終的にはただのリネン(若しくは濡らしたリネン)になっていたんじゃないでしょうか?。で、さらにその下のしま様の御発言にありますように、リスターが傷の化膿を防ぐのは「消毒薬の効果ではない」と考えたのであれば「より強力な消毒薬」に目を向けたわけはないと思いますよ。

 たしか、彼の本に書かれていたのは「細菌を遮断すること」がリスターの発見だったということですが、現在「強力な消毒薬であるヨードホルムに浸したガーゼを傷に詰める」という手法は創治癒には最悪で、かつ単に良く洗浄した後スポンジなどで浸出液を吸収する方が感染率が低いことがしめされています。細菌を遮断する手段として消毒薬を考えたのもまちがいと言うことですね。

>No.51,No.53 hamster さん
のコメントに同意です。
その由来からしてともに不幸な状態にのみ必要な賎業(笑)でもあり、社会の幸福な生存に必要不可欠な技術として日夜磨きをかけながら最も基礎の部分を支え続ける両輪であるべきと思います(笑)。

No.50 田舎の一般外科医さんのコメント
>個別事象における結果を約束するものではありません.

私は、そのとおりと思うんです。
科学は、「個別事象における結果を約束するものではありません」。厳密な科学の代表である物理学だってそう、ましてや医学ではなおさらです。

にもかかわらず、司法がそれを要求しているところに無理が生じているのだ、という可能性はないでしょうか?
田舎の一般外科医さんが言われる「司法が確率論的科学というものに対する理解すらないことが原因」という可能性は、考えられませんか?

医学では、何%の確率でなどというのを示すことは難しい。せいぜいが、「たぶん」とか、「まず」とかいう修飾語で表現できる程度ではないでしょうか。
でも、これって、医学だけではない、科学という分野の宿命じゃないですか。科学という方法論からは、そうならざるをえないものじゃないですか。

No.52 ぼつでおk(医)さんのコメント
>例えば問題の福島事件の医療側は病院として民事の賠償責任を求められたら拒絶するべきでないでしょう。

福島事件というのが大野病院事件のことを指しているのなら、私は、拒絶すべきだと思います。
もし、福島事件(大野病院事件)のようなことで、民事の賠償を受け入れるべきとなれば、不幸な結果に終わった事例は賠償すべしというのと同じではないでしょうか。

疾病や事故で不幸な結果になったとき、その不幸な結果に終わった人を助けるべきなのは社会(自治体や国)であって、疾病や事故の人を助けようとがんばった医師や救急隊員(病院や消防署)ではない。

>No.30 DDMR(外科医) さん

科学とはほど遠い仮説のつみかさね

私はそれには少し異論があります。仮説を立てて実証していくという作業だけでなく、仮説を立てるという行為も科学であると私は認識しています。
もし、上記が認められないのであれば、疫学は科学ではないということになりかねません。
医学は基礎医学、臨床医学の他に疫学という社会医学的なところからも発展してきていると思います。そしてその中には統計学的に証明されていないものもあります。しかし、経験から仮説を立て、それを医学としているわけです。
エビデンスというのは段階があるのだと思うのです。何も大規模臨床試験の結果がエビデンスではありません。数人以下規模で検討した症例報告も立派なエビデンスです。理論的に導かれる仮説もです。ただ、臨床試験の段階はそれが正しい確率を段階的に良くしていく作業に他なりません。
同じように科学にも段階があるのだと思います。
私は確率論的なことがむしろ科学だと認識しています。素粒子物理学は確率論でしかものを言えません。そして万物は素粒子からなっています(これとていつ否定されるかわかりませんけど)。つまり、万物は確率論からなるとも言えるのではないでしょうか?。もし、完璧に白黒がつけられるものが科学だと言うならば、初歩的な物理学や初歩的な数学だけが科学となってしまい、あとはすべて非科学になってしまいます。

と勝手に思いこみをしていますが、これは私の認識ですので正しいとは限りません。ご批判をお待ちしております

科学という言葉さえ解釈が違うのでいろいろな多数の正しい意見が出てきます。おそらく私の意見も正しいし、DDMRさんの意見も正しいのだとおもいます。この問題は奥が深いと思います。しかしこれだけは言えます。
「科学とは正しいとは限らず、いい加減なものである。ただ、現時点でそれに勝る正しいことは無い」

>No.60 ある町医者さん
コメントありがとうございます。
エントリーが違うことを承知の上でNo.52を書き込みました、皆様、モトケン先生ごめんなさい。
ですので、この先の議論は福島大野病院事件のエントリーへ移って行うことをおゆるしください。取り急ぎお詫びまで。

科学は十分小さい統計誤差の範囲内できちんと白黒をつけています。白黒をつけるというのは元になるその仮説に対してです。そうして確立された仮説は容易には覆すことができず、また、その仮説と結果を元に新たに仮説を次々と構築することができます。これらによって出てきた結果はそれぞれ統計誤差が十分小さいため、最終的結果も十分に信頼できることになります。その意味で演繹的であり、その守備範囲において十分に予言能力を持ち、結果を実用上まったく差し支えないまでに保証をしております。であるから、人工衛星を飛ばし、原子力発電を行い、コンピュータが机の上に載っているわけです。単に経験論の積み重ねでは決してありません。

No.59 ある町医者さんは物理学でも個別の結果を保証しないとおっしゃってますが、そういう例があるならば、ご提示していただけませんでしょうか。きちんと自己完結しているはずだと思うのですが。

そのような科学的結果を裁判にかけるとおかしなことになります。ガリレイ裁判が有名ですね。この話は落ちがあり、20世紀になって一般相対論ができると天動説、地動説、どっちを支持しても「カラスの勝手でしょ」てなことになったようですが。

さて、医学は科学でしょうか。少なくとも結果の再現性については他の自然科学よりだいぶ劣るように思えます。少なくとも仮説がひっくり返ることはしばしばあるように思えます。
医療はかような医学に基づいており結果はしばしばグレーであり、だからこそ紛争が起こり、裁判になるわけです。であるからそんな恐ろしいことに従事している医師は身を守らなければならないわけで、そのためにも「この医療行為はこの程度のグレー度である」ということを約束事としてできうる限り統一的に打ち出しておくことは必要ではないかと思います。

ついで「99.9%は仮説」という本を紹介いたします。

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31662220

人間が工業製品であれば、科学的であれたのでしょうが…

No.63 うらぶれ内科さんのコメント

ある町医者さんは物理学でも個別の結果を保証しないとおっしゃってますが、そういう例があるならば、ご提示していただけませんでしょうか。

 医学部の大学受験に必要なレベルでの物理学では個別の結果を保証する領域しか扱いませんからそう思われるのも仕方がありません.
 実際には量子という考え方があって,現代の物理学においては一つの量子の振る舞いについてはその結果を保証していません.例えば,光は普通の理解では再現性のある振る舞いしかしないように思われていますが,光子レベルではそうではないのです.人が感じている光は恐ろしく多数の光子の集団なので,外形的には規則的な振る舞いしかしていないように見えているだけです.個別の結果を保証しない実例としては光電効果などを挙げることができますが,説明し出すと長くなるので調べられたらいいと思います.
 医学でも同様に,恐ろしく多数の患者に対する医療介入の結果は一定するはずで,一つの量子=一人の患者と考えると,量子物理学とその本質において差はありません.

>科学は十分小さい統計誤差の範囲内できちんと白黒をつけています。

しかし、実際の適用に当たっては、理論をあてはめてすべてを解決していなし、解決できない。よい例ではありませんが、ジェットコースターも事故を起こすわけで、人間がすることに完璧はない。銀行が統合してコンピュータ・システムを統一化するとトラブルが発生した。

ミスや過誤を全く許さない社会というのも、息が詰まりそうな気がします。科学に基づくが、人間がすることには限界があり、ミスや過誤は生じる。その程度が、問題であるとなると思います。

ブルーな色はモトケンさんの心の中かと心配しましたが、杞憂だったようですね v(^^)v

a) 医学は科学であるべきですが、なかなかそうもいきません。人体という複雑な系を相手にしているのに、実証的な研究が完全にはできないからです。そこで心理物理やイメージング、動物実験からの推測、症例研究で隔靴掻痒を続けるわけです。その動物実験も日本国内ではかなり困難になりました。基礎屋としては涙がとまりません。

だからといって731部隊をもう一度つくるわけにはいきませんよね。本当は医学が科学であるためには必要なことですが、それをやってしまったら科学の基盤である文明そのものを否定することになってしまいます。

従って、医学は手かせ足かせ状態の科学です。科学の方法論は取り入れていますが、完全にはそれを実装することができません。

b)医療は科学ではありません。医療は「目の前の個人を救う」「社会に幸福をもたらす」という特定の人文的価値に基づいた明確な目的を持っているからです。科学の目的は「理解すること」ですから、根本の思想が違うわけです。

科学的方法論が多くの問題にとって非常に有効であった(これは人類の文明の歴史から実証されていると考えてよいと思いますが)ことから、医療はよりよく目的を達成するために科学的方法論を援用しているのだと考えています。

その科学=医学が不完全なものですし、目の前の患者を治療するのに研究結果を待つ訳にもいかない。逆に治りさえすれば、場合によっては治らなくても患者や家族が喜べば、目的は達成される。ですからかつては呪術も立派な医療行為でしたし、半ば実証的に経験を体系化した漢方も現在的な意義を失っていないわけです。

(* まあ、水子の霊障がどうのといった脅迫まがいの詐欺や、水の思いがどうのマイナスイオンがどうのといった疑似科学は別です *)

モトケンさんの医療問題論議で時々感じるのが、
1.法廷は実証的ではない、非科学的である(e.g. 論文の扱いが悪い)
2.目の前で苦しむ患者に対し、on-goingにどうすればいいのか
という二つの問題の混乱ですね。

2.は良きサマリア人法にも関係してきますね。医療は業として行う点が違いますが、保健医療(ペイが予め固定である)と、古典的な職業倫理観によって、「特定の治療行為に対して報酬を受けている」と常日頃感じている臨床の先生方は多くはないのではないかと思います。「医師として働いている」ことに一定の社会的価値があり、それに対する報酬を受けているという感じなのではないかと。

> No.65 さなぎまんさん
 人間が工業製品だったら科学的だという考え方は二重の意味で誤りです.
 第一に,工業製品の代表に自動車がありますが,自動車がいつ壊れるかは確率的に分散しており,さなぎまんさんの考える科学ではないことは自明です.
 第二に繰り返し述べているように,人を対象にしていても,医学は科学です.多数の集団で考えればその結果は一定に集束します.

No.63 うらぶれ内科さんのコメント
>No.59 ある町医者さんは物理学でも個別の結果を保証しないとおっしゃってますが、そういう例があるならば、ご提示していただけませんでしょうか

これに答えるのは、もう各人の科学に対する哲学みたいなものになってしまいます。
何が正解かなどというのはないと思いますので、以下のレスは、あくまでも私はそう考えているというだけにしておいてください。

人工衛星を飛ばすこと。
ある個別の人工衛星については、結果は保証されていない。

科学においては、「白黒をつけるというのは元になるその仮説に対してです。」ではありませんか?
個別の事象に対してではない。
個別の事象に対しては、科学で言えることは、せいぜいがこれくらいの確率でこうなるだろうということまでではありませんか。
個別の事象で、結果を100%保証できる科学分野ってあるでしょうか?
せいぜいが、確率上、より厳密に保証できるだけだと思います。

> No.66 田舎の一般外科医さん
私の解もそれに通じるところがあります。ほぼ同意いたします。
(初歩的な数学と初歩的な物理学しか解の統一はできないと書きましたので理解していただけるかと)

> No.67 ある経営コンサルタント さん
本来過失は想定内のことを問うべきなのかもしれませんね。でもその想定内の範囲がどこまでなのか・・・これが個人個人で意見が違うから問題が起きるような気がします。

さらにいうならば、今の科学は倫理と共にあります。特に生物学や医学の分野はそうです。この問題のために絶対に実証できないことがあります。
いや、物理学の分野だって例えば原子力なんて倫理の問題が立ちはだかっているでしょう。

No.66 田舎の一般外科医さん
 

実際には量子という考え方があって,現代の物理学においては一つの量子の振る舞いについてはその結果を保証していません.

その結果というのはニュートン力学的な軌道の決定という意味ですか?できないのはニュートン力学という仮説がもはや成り立たないからです。そもそも軌道の概念がない。この軌道の振る舞いを決定できなくてもこのことは重要でありません。量子の集団的振る舞いは量子力学で完全に決定され、量子力学は十分な予言能力を持ち実り豊かな結論をひきだし、きちんと不確定性原理という仮説を実証しており、なおかつニュートン力学を内包しており、自己完結しているはずです。つまり結論として得られた個別の結果が仮説に矛盾することはない。量子力学はただ解釈ができないだけです。

 なお量子と患者を同一視することはあまりにも乱暴な議論ではないかと思います。量子が不確定なのは不確定性原理によるものであり、患者が不確定なのは人間の体が超複雑系であるからです。

No.67 ある経営コンサルタント さん

分かってはおられると思いますが、科学と科学の適用とは区別して考えるべきです。

科学に基づくが、人間がすることには限界があり、ミスや過誤は生じる。その程度が、問題であるとなると思います。

まさにその程度が問題であり、医学の応用である医療もミスや過誤の程度が問題であります。どの程度は許容されるのか、明らかにすべきときがきているんではないかと思います。

答えが既にわかっているようなエントリですな。
では、こういう命題はどうでしょう。
「判決は、政治的ではないと言えるか?」

結論が見えた気がしますが。

医療は、医学に基づいて患者の体に手を加えているが、医学において結果を担保できる範囲が極めて狭く、現場は手探り状態。
患者と医師らの願いや努力は如何あれ、人体を余計に傷付けた結果も起り得る。

ということで、宜しいでしょうか?

しかし、医療は古くは呪術に含まれたことが有るくらいのものです。
患者(私も含む)は先生を頼りにして、それでほぼ安心しきっている、または安心したい願望を持つ傾向が有り、司法関係者と言えどもそれに近い、と思います。

結果が悪ければ「裏切られた」思いは『事前の印象』との乖離が大きいだけ強くなる。

医療関係者が責任の追及を逃れるには、まず仰るように、科学の担保する範囲を明示する。

一方、誤解を解く努力も要るのでしょう。
医院の正面に「直るとは限りません、当然失敗も有り、科学的に確認された範囲以上の責任は取れません」と大書するくらいは必要、でもこれって患者の不安を煽ってる様な気が(汗)

>僻地外科医さん

仮に石炭酸の効果ではない・・・とリスターが考えたならば最終的にはただのリネン(若しくは濡らしたリネン)になっていたんじゃないでしょうか?。

当時、消毒済みのリネンというのは存在しなかったと思います。思いつきですが、石炭酸が現在で言う滅菌と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。

希釈した石炭酸についても同様で、石炭酸を加えた水を使用する事は、現在の塩素入り水道水と同じような意味合いを持っていたのではないでしょうか。当時、ロンドンの上水道といえども、塩素は入っておらず、不潔なものだったと思うのですが。

 医者でもなく法学にも疎いので、一患者になりますでしょうか。

 ちょっと脇道にそれるかもしれませんが、医学が科学的かどうか?という点は専門家に任せるとしまして、「対象へのコントロールの度合い」についても、結果がどの程度担保できるか、ということについては大きいと思いますが。

対象が、物理学(理論)のような仮想的な理想系でもなく、物理学・化学の実験にあるような複雑ではあるがコントロールできるように構築された実験系でもない。
生きている人間の体を扱う上で、制約(損傷を加えたり生命活動を停止させない条件つき=機械であれば分解して修理もできるでしょうが、人体が分解できるはずもなし)があり、もともと生命活動自体がとんでもない複雑系である、というところが。

また、科学的というところでも、「制御系での実験を通じて「真実」へ肉薄する」というところへの問題もあるかと。
一定条件の元でN数を稼いだ実験を行って、その結果から何が起きているかを考察する、という実験結果を元にして「真実」を考察し、理論化していく、というのは普通のことです。

そうした「実験」を行えない状態の下では、仮説から、「真実」の判断や検証などに対してなかなかすっぱりとはいかないことになるかと思いますが。

医療が科学的か、という点では、結論が出かかってるのではないかと思います。

さて、それから問題となるのは、司法が科学的でありえるのか、ということではないでしょうか?

皆さんどうおもわれますか?

いま、投稿して思ったのですが、
司法が科学的でないという前提に沿った疑問ではありません。

医療が科学的か?という質問に対して司法が科学的であるか?ということは
このブログの討論で必要ではないかとおもったのです。

この質問に対して、異論はあると思います。
それを含めて議論があるとうれしいです。

『まん延するニセ科学』視点・論点 大阪大学菊池誠教授
http://www.youtube.com/watch?v=sCKPIzb3ajA

医療が科学かどうか、議論する前に、一度、御照覧ください。

”科学のようで科学でないニセ科学を信奉する人は、実は科学を信じていない訳ではなく、科学を信頼するが故に(科学的に見える)結論を受け入れている”
という論旨です。

科学的思考と、ステレオタイプとは相反する概念ですので、ステレオタイプ思考しかできない人には科学的思考がないといっても過誤ではありません。
が、科学の基本原理を理解しない人には、科学的説明をする人を自説を否定するステレオタイプと考えるかもしれません。
アメリカのキリスト教原理主義者が進化論を受け入れないようなもの、と言えば御理解に役立ちますでしょうか?

法曹の方が、法の基本原理を理解していないと嘆かれるように、医療者からは科学的(医療的)基本原理を理解していないという嘆きが互いにあることは不思議でも、背反的なことでもありません。
大事なことは、『隙間を埋める安易な結論で妥協せず、単純でない世界をキチンと合理的に考える』ことであり、その思考プロセスを大事にすることです。

医療とはちょっと距離がある身ですが、おじゃまします。

まず、科学とは何ぞや?ですが、実際のところ厳密に科学と非科学が分けられるというわけではないようです。

疑似科学と科学の哲学

ただ、科学に携わる身の実感からすると、実験・観察結果から検証できる形で結論を導くのが科学であるように思います。○○という方法で取ったデータを○○という検定にかけたところ、危険度○○で有意であったため、○○という結果である。そうすることで、同じことをすれば同じ結論になるという再現性を担保するわけです。

また、白黒つけるためには、きちんと手順を踏まなければならず、それを満足しないものは「わからない」という結論になります。そういう世界から見ると、判決で「合理的である」とか書いてあると、合理的であると言いたいだけちゃうんかと、まあ、生理的な反感を覚えることもあります(^^;


医療はガイドラインの部分はそれなりに科学として白黒ついたものだと思いますが、実際の個々の治療は「わからない」部分が多いように見えます。これは、裁判でも個々の事件の「完全な」検証はできないというのに通じると思います。

問題となるのは、医療裁判では医療水準というガイドラインのようなものを認定した上で、それに個々の事件を当てはめていることです。裁判所の認定する医療水準が科学的なもので、個々の事件の当てはめのみに問題があるなら(当事者は嫌でしょうけど)ほかの裁判でもある必要悪?として、それほど問題にならないと思います。現状では、科学的に制定されるべきガイドラインが、非科学的に裁判所に勝手に決められてしまうということで、医療側からの反発が出ているのではないでしょうか。違うかも知れませんけど…

>しま様

当時、消毒済みのリネンというのは存在しなかったと思います。思いつきですが、石炭酸が現在で言う滅菌と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。

希釈した石炭酸についても同様で、石炭酸を加えた水を使用する事は、現在の塩素入り水道水と同じような意味合いを持っていたのではないでしょうか。当時、ロンドンの上水道といえども、塩素は入っておらず、不潔なものだったと思うのですが。

 現在私が創部に当てているもので滅菌(または消毒)済みのものはほとんどありません。なにせ、創部から出て来る浸出液は細菌の塊みたいなものですので、リネンの方をいくら滅菌しても感染率に差は出ません。

 次に水道水に関してですが、細菌がないものと考えるだけならば当時でも一度沸騰させた水に細菌がいないことは解ってました(パスツールの実験があったことがリスターの発表を裏づけていたので)。また、発展途上国で湿潤療法をされている先生もいらっしゃいますが、どうしてもきれいな水がないときは川の水で洗わせるそうです(さすがにこれは私もどうかと思いますが・・・)。すくなくとも「飲める水」であるかぎり、創部を洗うにはなんらさしつかえありません。

>しま様

当時、消毒済みのリネンというのは存在しなかったと思います。思いつきですが、石炭酸が現在で言う滅菌と同じ役割を果たしていたのではないでしょうか。

希釈した石炭酸についても同様で、石炭酸を加えた水を使用する事は、現在の塩素入り水道水と同じような意味合いを持っていたのではないでしょうか。当時、ロンドンの上水道といえども、塩素は入っておらず、不潔なものだったと思うのですが。

 現在私が創部に当てているもので滅菌(または消毒)済みのものはほとんどありません。なにせ、創部から出て来る浸出液は細菌の塊みたいなものですので、リネンの方をいくら滅菌しても感染率に差は出ません。

 次に水道水に関してですが、細菌がないものと考えるだけならば当時でも一度沸騰させた水に細菌がいないことは解ってました(パスツールの実験があったことがリスターの発表を裏づけていたので)。また、発展途上国で湿潤療法をされている先生もいらっしゃいますが、どうしてもきれいな水がないときは川の水で洗わせるそうです(さすがにこれは私もどうかと思いますが・・・)。すくなくとも「飲める水」であるかぎり、創部を洗うにはなんらさしつかえありません。

すくなくとも司法関係者のように訳のわからない論理を元にした議論をしないだけ
医療関係者とは話しやすいと思うのですが、文系の理屈は数値や実験を
元にしたものでないものが多く正直疲れます。

>ash さん

 私や他の弁護士さんは、「訳のわからない論理を元にした議論」をしていると思っているわけですか?

 こういうコメントにどのような意味があるのですか?
 
 世の中に数値や実験の対象になるものがどれだけあると思っているのですか?

モトケンさんに同意。
元東大医学部教授のベストセラーを思い出しました。

すべからく医療者は科学者であると同時に哲学者たるべしと思っております。
四苦八苦に直接関わる職業柄、物事を深く考えずにはおれません。
司法に於いても同様なのでしょう。

乱暴な議論ですが、司法にとっての法と医学にとっての科学は共通点があるのではないでしょうか。
法や科学を軽視したり、短絡的な解釈をもとに他者を批判する行為は許せないのです。
これは普段から法や科学についてよく考え、その意味と限界について悩んでいるからこそのことです。
司法には司法の言語があり、医療には医療の言語があります。
自国の言語を深く考えない人ほど他国の言語を蔑むのです。

お題には直接関係ありませんが・・

http://www.yomiuri.co.jp/iryou/news/iryou_news/20070518ik08.htm

医療事故調、調査3か月「難しい」
モデル事業 医師ら報告

 秋田市で17日から始まった日本法医学会(中園一郎理事長)総会で、厚生労働省が新設を検討している医療版の事故調査委員会に関する公開討論会が行われた。

 事故調のモデル事業に携わった医師らが討論者として出席。調査期間について厚労省の目指す3か月では難しいことや運営に膨大な人材や費用が必要なことなどの課題を報告した。

 討論会では、モデル事業の中央事務局長を務めた山口徹・虎の門病院長(内科)が「調査開始から遺族らへの説明までに3か月を目標としていたが、実際には7か月を要した。相当なマンパワーや施設、費用が必要だと改めて確認された」と報告。事業に参加した帝京大学の森茂郎教授(病理解剖)も「調査に時間がかかると、病院から遺族に説明ができず、かえって不信感を与える」とした。

 法医学者からは「診療関連の死亡は、死因不明の全異状死の5%に過ぎない。なぜ全体の制度改善にしないのか」と、死因究明制度そのものの見直しを求める意見が出た。討論者の佐原康之・厚労省医療安全推進室長は「臨床医から診療関連死の第三者的調査組織を求める声が多く、異状死の死因究明の中でも最も大きな問題」と述べた。

 医療版の事故調査委員会 診療中の患者の予期せぬ死亡(診療関連死)の死因究明と医療事故再発防止を目的に、厚労省が2010年度からのスタートを目指す第三者調査組織。「事故調」として知られ、医師と法律家らで構成。05年9月から東京都、大阪府など7地域でモデル事業が進められている。

(2007年5月18日 読売新聞)

宇宙を飛ぶべく作られたロケットですらうまく飛ばさんのに、
死ぬべくして生まれた人間をうまく治すことができると本気で思うのか?

科学を知らんやつほど科学を妄信する。

信じるのなら宗教のほうが救われる。財布の重みが救いの量だ。

真実は時にあなたにとってやさしくない。
それを理解するのは難しい。

>DDMR(外科医) さん

乱暴な議論ですが、司法にとっての法と医学にとっての科学は共通点があるのではないでしょうか。

同感です。

また、司法にとっての法学と、医療にとっての医学は共通点があるように思います。医師が持つジレンマと、法律家の持つジレンマもまた同種のものなのかも知れません。

>No.87 一般人さん
お題には直接関係ありませんが・・
医療事故調、調査3か月「難しい」

いえ、思い切り関係していると感じますが。

科学的か否かはさておき、「技術的に」みた場合、原因追求・真相解明が十分行われてはじめて、その真相から、「どこに責任・問題があったのか、あるとすれば誰に過失があったのか」などがでてくるので、まず原因追求・真相解明ありきです。
飛行機事故や列車事故に限らず、事故の責任・問題を技術的に白黒つけようとすれば、「原因追求・真相解明」を徹底的に行うしかなく、それが不十分のまま責任や過失などを問うのは「技術的」にはナンセンスなわけで。

>宇宙を飛ぶべく作られたロケットですらうまく飛ばさんのに、
死ぬべくして生まれた人間をうまく治すことができると本気で思うのか?

>科学を知らんやつほど科学を妄信する。

宇宙をうまく飛んだロケットもありますし、病気が治る人もいます。うまく飛ばせなかったロケットもありますし、病気が治らず亡くなる人もいます。

私自身は科学については無知だと思いますが、無知ゆえに妄信するつもりもありません。

「科学を知らんやつ」をバカにするのも結構ですが、「科学を知っている」といえる人がこの世にどれほどいるのでしょうか?


昔から偉い人は無知の知こそ重要と説いておりましたな。

モトケン様のお題のひとつである、>医師は科学者か? について一言。

このエントリーで議論されている医師の殆どが、科学的思考をトレーニングされていると思われますが、今後育っていく医師は、徐々に科学的思考能力が落ちていくと思われます。

私は地方国立医大の医局に入局しましたが、大学院は医局を離れ生化学教室で、実験をさせていただきました。その期間に、基礎医学の先生方のサイエンスに対する真摯な姿勢と、論文の読み方(いい加減な論文の見破り方)を教わり、さらに、自分自身で基礎医学の論文を書くことで、その後の臨床現場でも、十分にコントロールを設定していないような、いい加減なSTUDYの嘘を見破れるようになったと思っています。

現在の、若手医師は、大学にも残らず、おそらく医学研究もしないものが増えてくるように思います。したがって、科学的な思考能力に欠ける医師が量産されるのではないかと危惧しています。(臨床現場のみで、真の意味でのサイエンスをトレーニングするのは、よほどいい指導者にめぐり合わないと困難だと思います。)

>No.93 田舎の消化器外科医さんのコメント
は、同時に医師が行う医療と、民間療法や健康食品器具等の学問的でない治療とを区別する際の判断の基準にもなり得ると思いました。

医学は科学的思考のもと日々進歩する。
そのフィールドにいるものは科学の可能性と限界をおのずと知る。

医療には科学的思考なく、医療者の知識は生命を語るには限りなく少ない。
医療者は宗教家に近く、四苦から逃れたい人々はそれにすがる。

医療を信じるも信じないのも個々の自由です。
信じない人は・・・別に病院来なくていいですよ。
トラブルの元だから。

モトケンさんは倒れたらなにを信じてどこにいきますか。
決めとかないと救急車呼ばれて病院きちゃいますよ。

>コバッチさん
モトケンさんはきっと医療も司法も疑っているのです。
疑っているものに身をゆだねなければならないのが人生ではないでしょうか。

医療には知れば知るほど分からなくなる深さがあるのと同様司法にもその深さがあると思うのです。
その深みに思いをはせ、敬意を示しつつ現実的な解決策を論じ合うのがこのブログなのではないでしょうか。就中医療者が法学、司法を学ぶ場所としてすばらしい「寺子屋」であると思います。

No.93 田舎の消化器外科医 さん、2ちゃんの噂では旧帝大以外の医学部では基礎医学講座を全て解体して、基礎医学教育センターみたいなところから講師を派遣する形にする予定があるとかないとかいってますね。

実際の所、そこまでごり押ししなくても、医学部出て医師免取った人で、あえて任期制の基礎医学講座に入局して、生物系のポスドクと張り合おうなんて奇特な人ってどれだけ残るでしょう。旧帝大医学部以外の基礎からは医学部出身者がほとんど消えるのではないかと思います。

ええっと,まず田舎の消化器外科医先生と私(田舎の一般外科医)は別人です.よく似ているので混乱しますが・・・.
No.93 田舎の消化器外科医さんのコメント

現在の、若手医師は、大学にも残らず、おそらく医学研究もしないものが増えてくるように思います。したがって、科学的な思考能力に欠ける医師が量産されるのではないかと危惧しています。

 私はこれには異論があります.大学に残って研究したから科学的思考能力がつくというのは甚だ疑問です.私は数学や物理などの基礎科学の素養のないまま基礎医学をやっても科学的思考は身に付かないと思っています.
 また,臨床医が大学に残って研究するのは研究で何かを解明することではなく,学位を取ることが目的になっています.特に外科系では本来手術を修練すべき時期に研究をして時間を費やすことの愚かしさは小松先生の「医療崩壊」に述べられているとおりです.
 臨床医に科学的思考が必要であることは論を待たないのですが,研究することがそれに資するか疑問ですし,臨床医のトレーニングをわざわざ遅らせるシステムが正当化されうるとも思えません.

Top Journalを狙える環境で一生懸命研究して臨床に戻った医師と臨床だけをしていた医師は異なったバックグラウンドを持つと思います。教科書をどこまで信じるかという観点からも違うでしょう。基礎医学だけをしている人からみればきちんと証明されていないことをベースに運用するのが臨床医学であり、さらに社会的環境や個別の状況を斟酌しておこなうのが医療です。
ちなみに僕は多くの医師が科学的思考を身につけていると思ったことはありません。総説を書くような先生ですら我田引水が多すぎます。日本の教科書は書きっぱなしでOKです。僕自身もチェックされて直されたことはありません。英文で書く時は相当にチェックが入ります。


No.98 田舎の一般外科医先生

大学に残って研究したから科学的思考能力がつくというのは甚だ疑問です.私は数学や物理などの基礎科学の素養のないまま基礎医学をやっても科学的思考は身に付かないと思っています.
 また,臨床医が大学に残って研究するのは研究で何かを解明することではなく,学位を取ることが目的になっています.特に外科系では本来手術を修練すべき時期に研究をして時間を費やすことの愚かしさは小松先生の「医療崩壊」に述べられているとおりです.

上記に関しては全く同意します。
自分は医局の先輩の実験を見て、「こんないい加減でいいのか?」と思ったので、あえて基礎医学の大学院に行きました。同じく外科の大学院に入った同僚と比較して、臨床経験は若干少なくなりましたが、15年たった今では、科学的な考え方を身に着けた(と自分で思っている)経験は貴重であったと思っています。
外科系の医師で、臨床一筋で育ってきた方は、優れた職人であり、artistにはなれるかも知れませんが、なかなかscientistとなるのは難しいと思っています。

ついでに書かせていただくと(いま少し酔っています)、m3でも2chでも、自信満々に結論を決め付けた書き込みをする(多分)医師が多く見られるのですが、本当に真実の重みを考えたことのある人なら、いかなる場合でも断定的書き方をするのは非常に勇気のいることであり、安易に断定的に書かれている投稿を見ると、この人はscientificではないなと思ってしまいます。(要は医師の中にも科学者とはいえないなと感じる人が多々いるということです。)

反論お待ちします。

まあ、断定表現の形式ではなく、その伝えたい内容を理解するという姿勢で良いのではないでしょうか。
私も時々バッサリとやるもので(^^;

> No.100 田舎の消化器外科医先生
 気分を害されたのであれば謝りますが,先生への反論において私は断定的な書き方をしたつもりはありません.3つの段落のうち1番目と3番目は「思っています」と「思えません」で終わっていますし,2段落目は私と小松先生の見解が一致しているだけでなく,巷間でも多く言及されていることを述べたに過ぎません.
 もしかするとNo.50のコメントについてのご指摘かもしれませんが,ここで私が書いていることは数学や物理といった基礎科学の理解を敷衍して述べているに過ぎません.ご存じの通り,古典数学や古典物理+量子論などは100年先にも現在の教科書の内容が通用しうる積み上げ学問の世界です.私でなくても,医療をある程度知っていて数学・物理といった基礎科学の理解がある人間であればほぼ同じような見解を持つはずで,断定しうることを断定しているに過ぎません.

No.102 田舎の一般外科医先生

No.100の自分の発言は、先生の発言を揶揄して述べたものでなく、このようなレスを下さる先生に対して、気分を害することは全くなく、ともに議論できる同士として評価しています。(自分が批判しているのはもっと短絡的で底の浅い意見に対してです)

ただ、先生も触れられているように、外科の職人芸をひたすら極めることと、純粋なscienceを極めることを両立させることはもとより無理なことと思っているですが、自分の世代は、建前としては二兎を追うことを要請されていたのではないかと思っています。

このスレでは、医療を行う上で必要なこととして、科学的な考え方を用いた医学がベースにあるということで、ほぼコンセンサスが得られていると思います。ただ、それを実践していくこれからの医師たちが、真に科学的な考察が出来るような教育がなされるような環境にあるかどうかを危惧しているということです。

本音をいうと、(皮肉でなく)旧帝大卒の優秀な先生方の考えでは、自分の考えが杞憂で、臨床のみの経験でも十分科学者として評価できるような医師が今後も育っていくだろうという意見があれば、自分も安心します。

外科系の医師で、臨床一筋で育ってきた方は、優れた職人であり、artistにはなれるかも知れませんが、なかなかscientistとなるのは難しいと思っています。

 やはりこの部分に関しては私の見解は異なります.
 元々科学的な思考ができるかどうかはきちんとした研究に携わったことがあるかないかで決まるのではなく,その人それぞれの科学というものに対する基礎的な素養が大きく影響していると思います.数学や物理などの基礎科学が積み重ねの学問であり,基礎的な素養をすっ飛ばして枝葉を理解できることはあり得ません.
 科学的思考というものには自ずと古典数学や古典物理の素養が欠かせないのです.
 逆に,数学や物理をそれなりに修めている人たちで科学的な思考ができない人はいません.

昔々数学屋になりたかったおいらの感じでは、科学に大事なのはセンスオブワンダーだなという気がします。
ロジカルに詰めていく作業というのも大事は大事だけど、例えばそこまで厳密に詰められなくてもニュートンは微積分の基礎を確立したし、ファインマンの経路積分に到っては多分今も正当化されていない。
ロジカルな部分を越えた何か、凡人では一生かかっても見えない何かが見えるのがポイントかと。

 「医療は科学的か?」の前に「科学(的)とはなにか?」という問題があり、医学に限らず、昔から様々な人々が議論してきました。
 例えば、最近読んだ、酒井邦嘉著「科学者という仕事」(中公新書)より引用しますと、
「科学は正しい事実だけを積み上げてできていると思うかもしれないが、それは事実ではない。実際の科学は、事実の足りないところを「科学的仮説」で補いながら作り上げた構造物である。科学が未熟なために、本来必要となるべき鉄骨が欠けているかもしれないのだ。新しい発見による革命的な一揺れが来たら、いつ倒壊してもおかしくない位である。(中略)。
 哲学者のK・R・ポパーは、科学と非科学を分けるために、次のような方法を提案した。反証(間違っていることを証明すること)が可能な理論は科学的であり、反証が不可能な説は非科学的だと考える。検証ができるかどうかは問わない。(中略)。
 科学的仮説は検証と反証をくり返しながら発展していく。」
と、科学それ自体の未熟性について言及しています。
 「医療は科学的だ、医師は科学的に考えている、医学は自然科学だ、というようなことを強調する人」は、おそらく「科学は万能である」という誤った原理主義のような認識にとらわれているため、「司法に対してはステレオタイプの見方をすることが多い」のだと思います。

 大昔、医学の知見がまだ少ない頃、医療は経験に頼っており、医師はシャーマンといわれていたそうです。長い年月をかけて医学的知見が蓄積するにつれ、徐々に体系化されてきましたが、まだまだ未知の部分が多く、しかも個々の例に適用する場合はさらに多くの因子が関与して、予測困難な状態と言えるかもしれません。
 個人的には、「現代の医学・医療は科学的である(科学的手法に基づいている)が、未熟である。(→医学・医療の不確実性)」と思います。
 この未熟性について、もし明るみになると医学・医療に対する信頼が失われるかもしれないという医療者側の恐れから、これまでは非医療者には隠され続けてきたわけですが、知識・情報(量・技術)の進歩・普及に伴い、非医療者の考えも変化してきたことにより、徐々に医療の不確実性が説明されるようになってきたと感じます。今後は情報公開・知識共有の方向に進むだろうと思います。

No.106、No.107のハンドルネームに職業分類を入れるのを忘れてました。

はじめまして
いつも、ROMなのですが、久しぶりに見てみると、どうも議論が混乱しているようでしたので、はじめて書き込んでみることにいたしました。
自己紹介ですが、僕は、2年ほど前に逃散した、元小児科勤務医です。

まず、医学(医療)が科学的かどうか、という議論の前に、すでに多くの方が書いていらっしゃるのですが、(世間のイメージと異なり)科学的事実というものは、相当不確実なものだと思います。

医学に限らず、自然物を対象にした自然科学(自然物を対象にしない数学などは、ここでは、「科学」に含みません)では、確実にコレコレであるという風に言えることは、実は、多くはないのではないかと思います。
その時々の実験技術や、予算、社会の考え方などにより、確認不可能な「科学的仮説」が多数存在することは、むしろ、当たり前です。
その意味では、医学が、「自然科学」であり、かつ、「白黒つけられない」のは、むしろ、自然科学の当たり前の姿だと思うのです。

逆に、法律や数学、倫理といった、自然物を対象にしない学問のほうが、観念的、人工的に構築された枠組みが大きなうウェイトを占める分だけ、白黒つけやすいのではないかと思っています。というか、むしろ、法律などは、本来白黒つかない争いごとでも、白黒つけるために作られた枠組みなのだと思っています(悪意はありません。僕自身も、多少、現実にそぐわない決着だったとしても、暴力による争いよりはマシと思っています)。

もちろん、医学(そのほかの自然科学にも)にも、おおむねこれで正しいだろうといったコンセンサスはかなりありますし、それに従うのが合理的な場合には、そうするのが、現実の医療のありかたです。

>No.69 田舎の一般外科医さん

確かに工業製品でも人体でもサンプル数が増えれば、自然に再現性ある一定の値に
集積していくというのは理解しています。

ただ、工業製品の場合、製品として出荷されるものは一定の誤差許容範囲内のもの
のみですが、人体の場合には明らかに誤差許容範囲外の方が多く存在しています。

ミクロの視点で見れば、出荷されている工業製品は一定の精度が確保され、ある
程度、そのふるまいも予測可能な範囲に収まることとなります。医療の場合には
対象となる人体が企画内に収まる保証はなく、ある程度大サンプルで確認された
薬効や副作用も、各個体それぞれで見ると決して同じ反応を呈さないということ
も、日常にありふれて存在しています。

条件を設定して均質な集団を作ってその反応を見るという点では科学であると
思いますが、それを個々の患者に当てはめる場合、再現性のない特異な反応を
呈する場合もあり、その意味で科学と言い切れない部分も多くあります。

そして、工業製品の製造物責任と、医療における結果責任の違いをあまり理解
していない警察や検察などの司法や行政のありかたにはいささか首をかしげて
います。

院生のはしくれよりこれからは勤務医のはしくれと名乗ります。

モトケンさん。周回遅れのコメントですいません。

>逆です。
>白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ、と言いたいわけです。
>にもかかわらず医療は科学的だと強調される医師がおられるので、医療側の皆さんはどう考えているのかと聞いたのです。

No2.yamaさんのコメントに賛成です。上記についてですが、昔の医療は経験による医療が専らでした。しかし、現在はEBMに基づく医療が重視されます。これは経験に基づく医療の対極にあります。医師が科学者かどうかということですが、それはわかりませんが、科学的論理的思考ができるかどうか、客観的に物事を判断できているかが重要ではないでしょうか。独りよがりでは困りますので。そのため医師は一時期、大学院に進み、研究をするように勧められます、純粋にそれだけが理由ではないのですが・・。

>自分自身では自分を技術者ないし職人と考えていますが。

現在ではこうであってはいけないと学生の頃から教育されています。

あ、言い忘れました。
医療は科学的かと言われれば未だ否でしょう。今後、どうなるかはわかりませんが、科学的思考は重要です。私たち医師が大学院で行っているの基礎研究も、薬学や農学、基礎医学教室などの研究者からすれば、まだまだですし、片手間でしているのだから基礎の先生方を前にしたら恐れ多くて科学者だのと申せません。

ROM専ですが時々拝見させて頂いております。
現場から程遠い環境におりますのでコメントする立場に無かったのですが、今回は自分向きのエントリーなのでコメントさせていただきます。

まずは、私の現在の立ち位置をはっきりしておいた方が良いと思われますので、そこからはじめますと、、
とある大学の基礎の教官をやっております。
卒業後そのまま、基礎研究の分野に入ったものです。
いわゆる健康診断のバイト以外では医療行為に携わっておりません。
私自身は医療の科学的でない部分に絶望し、基礎研究にのめりこんで今に至っております。


すでにコメントにもある内容とかなり重複する部分もありますが、、
私自身が思うところは(少しradicalですが・・)
医学は経験論を何とかして科学的な土俵に乗せようとしている学問
医療は医学を元に行う確率論的なギャンブルorArt
です。

医学と言うのは物理や数学のような厳密な証明なんぞ不可能です。
大規模な薬剤比較試験が行われてもいつも間にか以前否定された治療法が復活すると言うのが医学です。
(高血圧に対するサイアザイドの扱いの変遷なんかが良い例でしょうか?雑誌で斜め読みした程度なので誤っていたらご指摘下さい)

医学に限らず生物学全般に特に言えることですが
常にunknown factorの影響をかなりの部分で抱えており、
それを否定することが出来ません。
技術的な回避方法として無作為割り付けを行いますが
あくまでも他の要因に関しては目をつむることが出来る免罪符であってunknown factorの影響を否定した事にはなりません。

このような物理、数学からみたらきわめていい加減な科学である医学を元に行われている医療を科学的と呼ぶのは極めて無理があると思います。
2つの治療A,Bがあって大規模なstudyで最終的に棄却水準5%なり1%でAの方が有意に優れているという結果が出たとしても、
新たな患者さんが来られた時に、どちらの治療がより治療効果が上がるのかは治療を行ってみないとわかりません。
私のような「ガチンコ」の基礎研究者からすると大規模なstudyをやらなければ有意差がつかないようなもんは
「男性と女性はどちらの方が優秀か?」、「白人と黒人でどちらの方が優れているか?」という問いと同じぐらいばかげた"fallacy of statistics"と思ってしまいます。

科学的である姿勢は必要でしょうが、
医療はおよそ非科学的なものであると思います。

>No.113 基礎研究者(医)さん
私も卒業後そのまま基礎研究(大学院+α)に入っています。
その後、勤務医を経て今では基礎医とは最もかけはなれた開業医になっています。
根性無であるがゆえにこのような変遷を経てきた訳で、その道一筋の皆さんには及びませんが、それぞれの立場で物を見ることができるかとも思います。

そのような目で見ると、基礎研究者(医)さんのコメントは医療全般に対するコメントとして同意できるのですが、医療と一括りにしないで局所的に見てみると、例えばシビアな患者さんに対する輸液管理なんかは、かなり科学的です。一方、侵襲を伴う手技はかなりart的です。このようにart的な要素と科学的な要素が混在しているのが医療だと思うのですが、現状ではart的要素が大きなウエイトを占めています。その上で、現場の臨床医は医療において科学的ウエイトを増加させる役割を基礎研究者の皆さんに期待しています。

>大規模なstudy

手法や考え方はある程度科学的なのですが、その目的は純粋に科学的知見の獲得だけではありません。医療を取り巻く営利企業の経営戦略が多分に絡んでいます。そこに純科学的に見れば”ばかげた”studyを行っている理由があると経営者でもある開業医(である私)は見ています。

No.113 基礎研究者(医) さんに質問です。

 基礎研究者(医)さんは、物理や数学のように厳密な証明ができる分野のみを「科学」と考えているのでしょうか。
 統計学的手法が主体となる社会科学の分野や地球や宇宙規模で考える地学(気象、地震等も含む)、天文学等の分野は科学に含まれないのでしょうか。

この治療は、科学的な根拠はなく、昔から習慣的に行われているからやっているものだと知った上で行うことは、「科学的」なんじゃないですか?

以前問題にした「医学は科学なんだから、白黒きちんとつけられるはずだ」とか「白黒つけられないんだから科学じゃないでしょ」、さらに「一つの正しい意見」などという考えが非科学的なのであって、科学であるからこそ白黒つけられないものなんだと知った上で治療したり、判決を下したりすることは、科学的だ、、、と私は思っております。

医学は科学。ただし、医療は科学ではない。
ここまでは、ほぼコンセンサスはできたのではないでしょうか?
医療は科学である(べき)医学の応用であって、他のかたも言われているように、アートとか技術とか言われてもしかたはないものじゃないですか。
私は、匠の世界だと思っています。
だからこそ、伝承というのが大事なんだけど、どうもこの医療崩壊でそれが途切れそう。

大規模臨床試験は完璧ではありません。私は多くの医師も患者もその他の科学者も罠にはまっていると思います。
大規模臨床試験は言うまでもなく、エビデンスを作るためのものです。しかし、ヒトのゲノムというのは一卵性双生児でない限り同じではありません。つまり、そこで得られた結果はあくまでも確率論でしかないということです。
エビデンスには信頼度があります。この信頼度は1例報告から大規模臨床試験まで様々ですが、確かにより信頼性の高いエビデンスを構築していくことは科学者として大切な姿勢ではあります。

繰り返しますが、私は医学は科学であるべきと思っています。つまり科学的でない部分も多少は含んでいるという認識です。エビデンス構築は手法の上では完全なる科学です。しかし、白黒つけられるという完璧な結果は残念ながら得られません。もしかしたら、もっと科学の進歩した宇宙人がいたら、非科学的と思うかもしれないのです。科学と非科学の境界は実に曖昧です(つまり、グレーゾーンがあるということ)。
真実が見えない現時点において、エビデンスで得られた結果はこれまでのものよりも正しいとは言えますが、科学が進歩すると正しいとも言えなくなる可能性を秘めているわけです。言い換えると自分たちの考えは常に誤っているとも言えそうです。

この認識を誤ると行政においても司法においても医療を語る上でとんでもない過ちを犯してしまいます(それとも、すでに犯しているか・・・)。
一番良い対応は、自分たちの考え方は常に間違っている、という姿勢ではないでしょうか?この考えが足りないからトンデモ判決とかが生まれるのだと思います。

科学哲学論争になりそうで心配なのですが、、、

No.117 yama さんのコメント

もっと科学の進歩した宇宙人がいたら、非科学的と思うかもしれないのです。

何か違和感を感じます。
非科学的な治療法は、最初から非科学的なものだったのであって、否定されたから非科学的なものになるのではない、と思うのですが。

我々が現在やっている医療の中にも、医学という科学に基づいていないものがある。ただずっとやられていたからやっているだけというのもあります。それが将来、医学的な根拠に基づいて否定され、きちんとした医学的な根拠に基づいた治療法にとってかわられるようなことがおこるでしょうが、それは医学が進歩したから非科学的なものになったのではなく、最初から非科学的なものだったのではありませんか。

それと、ある治療法が将来否定されたとしても、その治療法が非科学的だったのだとはならない。
科学だから否定されもする。
科学でない、例えば魔法とか信仰とかであれば、それを科学で否定することは不可能ですし。
この例で一つ思い浮かぶのが乳癌手術のHalsted法です。
私は専門外で知識でしか知らないのですが、現在はほとんど行われていないのですよね?
ほぼ否定された術式のはず。
でも、Halsted法自体が非科学的だったわけではない。
医学的つまり科学的な根拠があって行われていたし、そして科学的な根拠によって否定された。

> No.118 ある町医者 さんのコメント
>>非科学的な治療法は、最初から非科学的なものだったのであって、否定されたから非科学的なものになるのではない、と思うのですが。

 同意します。科学と非科学は全く別のものと思います(非科学はあくまでも非科学であり、科学そのものに含まれる不確実性はやはり科学であって非科学ではない)。
 近年行われている臨床試験の目的は、「新規治療法が従来の治療法よりも優れているか」ということを検証することであり、従来の治療法が間違っていることを検証することではありません(従来の治療法が複数存在する中でどの治療法がより優れているかを検証することはある)。
 「昔から習慣的に行われている治療」であっても、「治療しない場合」と比較することによって、その有効性についてある程度検討できると思います。しかし、コストの問題と、人道的な問題によって、現実的には不可能なだけです。人道的な問題とは、傷病者を全く無治療で観察することは(よほどの理論的裏付けがない限り)できないということです。新規治療法の有効性の検証では、従来の治療法との比較か、あるいはプラセボを用いる場合でも、従来の治療法を行った上で、比較しているものが多いと思います(例えば標本数を増やすなどして、新規治療群とプラセボ群の間で従来の治療法についてはできるだけ差がでないように調整して、検討している)。

#115通行人A先生
医学そのものは科学の範疇に入れても「概ね問題ない」と思います。(「概ね」と言うのはProfクラスでも臨床系の先生ですと科学的でない方がおられるからです)
また、私は地学等が科学で無いとは全く思っておりません。
物理や数学と比べるとunknown, uncontrollableなfactorが多いだけです。逆に理論物理や数学者になれるほどの頭は小生は持ち合わせていませんし、unknown factorのコントロールが勝負になるような学問分野にいるからこそ、大して頭の無い小生が今の研究業界で生き残れており、同級生の半額の額面収入でもこの仕事を続けようと思う訳であります。

しかしながら、先のコメントでも述べました通り、医学は科学なれど
医療は科学にあらずと言う点はご理解いただけますでしょうか?
たとえば通行人A先生が挙げられた
AとBの治療法のどちらが優れているかを、マスで見た際に「科学的に」(この点に関しては一部同意しかねますが)比較する事は可能でしょうが、この「科学的」な手法によってAが優れているとされた時でも、大規模なstudyもしくはmeta analysisをやらなければ差がつかないような場合は、医学としては意味が「それなりに」ありますが、個々の患者さんを目の前にしたときには、自分の選択の「免罪符」以上の意味はほとんど無いと「科学的」には考えます。すなわち大規模になることによって統計的な「自由度」が大きくなりかろうじて検出された差ということで「単なる統計のまやかしによる差」です。
ですが、これが小規模なstudy一つ、一つで差がついたとなると全く違う意味を持ち、このような差でAが優位と判定されたのであれば、積極的にAを選択する意義があるかと思います。

また、元ライダー先生が少しコメントされておられますが、
近年の大規模studyにおいては優位性が否定されそうになると、企業が支援を打ち切って頓挫すると言うstudyがすくなからず存在します。またa prioriに設定したend pointは無視してposterioriに有意差が認められたendpointを誇張した広告を見かけます。
このため大規模なstudyに対する信頼性というのは見かけよりもかなり怪しいものだと思います。

少し話が拡散しましたが、、私の意見をまとめますと
・理論物理や数学だけが科学だとは思っていない
・医学は「科学的」であるべき学問だが、諸般の事情「指導する人間の質」、「企業論理」、「実践する現場の人間(この部分は指導者の問題です)」により必ずしも「正しい科学」の体裁をなしていない。
言うことです。

そのような状況で我々に出来ることとすれば、
そのような「一見正しい」科学のまかやし(偽科学とは違います)に惑わされないためにも医師が科学的なトレーニングを受けることはなのではと思います。

あくまでも全般的なコメントですが。。

> No.118 ある町医者さん
おっしゃることは良く分かります。私もつい最近までそう思っていました。

私も詳しく検証したわけではないのですが、たとえば血液型による性格診断を例に取りましょう。
これは始めた人がある程度データを取って検証して行ったのか(つまり、そういう論文もあったようですが、古いマイナーな論文は現在見ることもできない場合もありますよね)、あるいは根拠はないけど面白いからやった(これは非科学的です)のか分かりません。ただ、一ついえることは戦前に多くの医学者がこの説を解いていました。つまり、一部の科学者にとっては科学的な裏づけがあってのことだったのかもしれません。現在となっては失われてしまったかもしれない論文を探すことでしか証明できませんが。
現在では非科学的ということで落ち着いていますが、最初に科学的に吟味したのかどうか分からない以上、今となっては科学的なのか、非科学的なのか分かりません。一方、脳科学の面や免疫学の面からある程度血液型が性格に及ぼす可能性があるという仮説も存在します。ただし、この仮説はつい最近出たものです。非科学を科学で裏づけしようとしているだけかもしれません。
もちろん異論はいくらでもあると思いますけど、これなど科学と非科学の境界があいまいな典型的な例かな、と私は思っています。説の起源が分からないと境界はあいまいになってしまうのだと思います。ちなみに私はこの問題に対しては科学的か、非科学的か、自分でも答えが出ていません。時代が下がればさらに検証は難しくなるでしょう。

先のコメントはこういうつもりで述べて見ました。
まあ,哲学論になると一人一人で意見が違いますから.でも,それはそれでよいのではないでしょうか?

ちなみに手法的な科学性と非科学性については同意です。

>No.120 基礎研究者(医)さんのコメント

 コメントありがとうございます。
 医療は医学に基づいて行われており、医学が科学に基づいていることは、共通の認識と思われます(程度の違いはあるようですが)。確かに医療は、医学に基づいた判断に加えて、生物学的個体差、患者さんの価値観(患者さんの社会背景や人生観など)、医療提供者の技能・経験、医療施設の設備、人的・時間的制約、医療保険制度などの要素も考慮された上で行われます。
 その上で、私の認識は、No.32 うらぶれ内科さんのコメントに近いのですが、「医療が医学に基づき、医学が科学に基づく以上、医療は科学に基づく」と思います(ただし未知の部分や不確実なところが多い)。医療は科学的であるべきだが現状はそうなっていないという意見は理解できます。しかし、医療と医学は全く異なるという意見には少し違和感を覚えます。
 つまり、医療に科学的側面があるからこそ、「科学的である姿勢が必要」で、「医師が科学的なトレーニングを受ける」必要があるのではないでしょうか。そして、医療が医学(そして科学)に基づいているからこそ、医学的(そして科学的)に検証・評価し、コントロールしようとしているのではないでしょうか。もし医療は「非科学」であると定義してしまうと、「医師が科学的なトレーニングを受ける」必要はなくなり、また非科学(の領域)を検証することは不可能なので、暴走する危険性があるのではないかと思います。
 私は、unknown factorの多寡と「科学的であるかどうか」は関連がないと思います。unknown factorが存在するからこそ、それを解明していくことが研究者の使命なのではないでしょうか(可能かどうかは別にして)。もしunknown factorが存在しなければ、研究する必要はなくなるのではないでしょうか。

(No.122の続きです)

次に、疑問点をいくつかあげさせていただきます。

(1) 「単なる統計のまやかしによる差」
 統計学は数学の領域で、社会科学や臨床医学だけでなく、基礎医学、実験物理、分析化学でも必要と思います。誤差はサンプル数が少ない場合に問題になると思います。誤差の影響を少なくするためにサンプル数を多くしたり、無作為割付けを行ったりしているのではないでしょうか。一般に、小規模な臨床研究で得られた結果を、大規模臨床研究で検証する流れが多いと思います。
 次に、(臨床研究に限らず)研究は一定の条件下で行われるため、研究結果は、研究デザイン、対象の設定、研究方法、データの棄却方法などを検討した上で評価・解釈され、仮説の検証が行われると思います。そして、有意な結果が出たから即正しい(あるいは間違い)というわけではなく、「この研究結果からどの程度のことがいえるか(あるいはいえないか)」を(読者が)評価するのではないでしょうか。従って、「単なる統計のまやかしによる差」と言ってしまうのはやや乱暴なように思えます。
 また、臨床研究はあくまでも多数の患者を対象にした研究ですが、参考となる情報の一つにしか過ぎません。個々の患者さんの診断法・治療法を考える際は、複数の臨床研究の知見に加えて、基礎医学の知見(解剖学、生理学、生化学、病理学、薬理学など)なども含めて可能な限り得られた情報を吟味した上で、患者さんの情報(問診、診察所見、検査所見)と照らし合わせて組み立てていき(このステップを「科学的」とみなすかどうかは個々人で異なるかもしれません)、一つの臨床研究の結果だけを元に判断するわけではありません。

(2) 医学・医療に携わっている者に科学的な技能が備わっていないことと、医学・医療そのものが科学的かどうかは別の問題ではないでしょうか。他の科学の分野でも同様と思います。

(3)「企業が支援を打ち切って頓挫すると言うstudy」
 医学以外の分野においても、大規模な実験や高コスト技術を用いる研究については、コストの問題や政治的な理由で中止されることはときにみられると思います。研究の中止・実施困難の問題と、医学・医療そのものが科学的かどうかは別の問題ではないでしょうか。

(4)「posterioriに有意差が認められたendpointを誇張した広告」
 医学に限らず、間違った解釈を誇大広告することはときにみかけます。結果の解釈・広告の問題であり、医学・医療そのものが科学的かどうかとは別の問題ではないでしょうか。

長文になってしまいました。失礼しました。

No.121 yama さんへ
「血液型と性格の間には、血液型によって性格を判断できるほどの強い相関はない」
これが科学的結論です。今後弱い相関が認められることはあるかも知れませんが、実は強い相関があったのだ、と言うことにはならないでしょう。

トピズレですが、科学的かどうかを論ずるエントリで、非科学の典型である「血液型性格判断」擁護ともとれる発言はふさわしくないと思ったもので。

参考までに。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E6%B6%B2%E5%9E%8B%E6%80%A7%E6%A0%BC%E5%88%86%E9%A1%9E

毎度横から失礼致します(笑)。

医療という場合、日本ではほとんど厚労省が指揮監督しています。その定義を用いると、医療は科学ではないといえると思います。
基礎研究者(医)さんは文部科学省管轄下で医学研究という科学を行っています。その立場からすれば医療は科学ではないとおっしゃるのは当然かもしれません。

大学病院など研究教育機関で行われる診療は厚労省文科省の両者をスポンサーとして医療と医学を同時に行っています。逆に言うとどちらか一方にだけ従う必要は無いともいえます(笑)。

> No.124 bamboo さん

「血液型と性格の間には、血液型によって性格を判断できるほどの強い相関はない」
これが科学的結論です。今後弱い相関が認められることはあるかも知れませんが、実は強い相関があったのだ、と言うことにはならないでしょう。

私はすでに上記のことをよく知っています。
しかし、強い相関が無くても絶対関係ないとは言い切れません。ちなみに私はこの説を擁護しているつもりはありません(誤解を招いてしまったようですが)。しかしながら科学的に少しでも考えられることは可能性として考えねばならないというのが科学的に正しい姿だと私は思います。私自身、この問題については、ほとんど関係ないのではないか、という意見の持ち主です。しかし、科学的に考えられる以上、無視するわけにはいかないと思います(皆さんが、非科学、非科学というのにうんざりしたというのもあります)。
要するに科学は不確実で、深く、永遠の謎、ということが言いたかっただけです。現在非科学とされている分野でも見方によっては過去に科学であった一例として乗せたつもりです。
可能性を考えること・・・これは科学で最も必要な行為の一つではないでしょうか。
もちろん、学会でも論争があるように私の意見を否定していただいてもかまいませんが、少なくとも科学とはなんぞやということを議論する上でこの場でふさわしくない議論とは思いません。それについては明確です。

yama さんへ
私がno.121の発言で引っかかったのは以下の部分です。

現在では非科学的ということで落ち着いていますが、最初に科学的に吟味したのかどうか分からない以上、今となっては科学的なのか、非科学的なのか分かりません。

 血液型と性格との間に強い相関は無いというのが科学的結論だと言うことは、十分に科学的に吟味したことを意味します。主に心理学者の仕事ですが、その様な研究はやり尽くされています。性格を判断するには役に立たないような弱い相関に付いてまで否定する研究結果は、私の知る限りありません。たとえ否定的な結果が出ても、もっと大規模の研究であれば差が出たかも知れないと言うことを否定出来ないからです。でも、その様な弱い相関があったとしても、何か意味があるでしょうか。

要するに科学は不確実で、深く、永遠の謎、ということが言いたかっただけです。

 科学に携わる人で、これを否定する人はいないと思います。血液型による性格判断を批判する人でも、正確を期する人たちは「血液型と性格の間に関連があるとは言えない」と言う言い方をします。

> No.127 bambooさん
誤解させてしまったようですが、

現在では非科学的ということで落ち着いていますが、最初に科学的に吟味したのかどうか分からない以上、今となっては科学的なのか、非科学的なのか分かりません。

のところは、この説が発表された当時(つまり、戦前と言うことですね)どの様なアプローチでこの説を説いたのか解らない→科学だったのか非科学だったのか、今ではもはや解らない、ということを言いたかったのです。現在を持って科学的か非科学的か解らないと言っているわけではありません。誤解させてしまったようで反省しています。
血液型による性格判断を批判する人でも、正確を期する人たちは「血液型と性格の間に関連があるとは言えない」と言う言い方をします。

要するに、因果関係がはっきりしない、ということを言いたいのでしょうが、これについては特に否定をしません。私も同じような考えの持ち主ですから。ただ、少しは関係あるかもしれないというのはあり得ない話ではありませんし、あり得る話ですよね。誰も証明していないのですから。従って私の発言は間違っていないと思いますが・・・。その上で、
でも、その様な弱い相関があったとしても、何か意味があるでしょうか。

と言われていますが、結局それを言いたかったのでしょうかね。
気を悪くしたら申し訳ないのですが、私はこのような考えはあまり好きではありません(良い、悪いとか正しい、正しくないということを言っているのではなく、このような考えは私は好きではないということです)。意味のなさそうなトリビアを解き明かすのも科学者のロマンってやつじゃないかと私は思います。
もちろん、多くの税金を使って、というのであれば問題ですが、趣味でやるのは許されるのではないかと思います。もちろん、差別とかに発展してしまっては元も子もないわけですが、それを言ったら医学研究だって差別の温床になっているわけで・・・。

むしろ、私としては、なぜbambooさんがこの話題がこのスレにふさわしくないと思ったのか、それが不思議でなりません。それとも誤解だったのでしょうか?もし、おかしな文章があればご指摘いただければと思います。今後の自分自身の反省にします。
何度も言うようですが、私はこの説を擁護するつもりは全くありません。ただ、頭ごなしに「関係は全くないんだよ!」という方がいるので、そういう人達に釘を刺したいのと、科学と非科学のあいまいさの例として挙げただけのことです。それに、自分の発言を見返しても積極的に擁護しているような部分は見あたらないのですが・・・・。

ところで、科学のロマンを否定されてしまっては私も反論の材料がなくなってしまいますね。人間の知りたいという欲望が科学を発達させてきました。もちろん、非人道的な研究はやるべきではありませんが、これは動かし様のない事実です。興味のない人間にとっては専門外の研究は「意味があるのでしょうか?」で終わってしまいます。私はそのような冷めた人間ではないので、いろんなことを知りたい、と思ってしまいます。どんなにつまらないと思えるような研究でもいつかは役に立つかもしれない、とさえ思います。
それにそのトリビア的な研究から重要なテーマが思いつくかもしれません。無意味から有意を作り出すことは科学だけでなく、芸術分野にもよくあることです。

bambooさんは柳田理科雄さんの発表した一連の本を見たことがあるでしょうか?あれなど、まじめで堅い科学者なら正直、くだらない本のベストセラー的な好例と思うでしょう。嘘もたくさんあるし、誰も証明できていないことだから実証できないかもしれないし・・・・。でも、本当に科学的にはどうなんだ?柳田さんは嘘をついているんじゃないか?という探求心、懐疑心、興味のある人間にとってはいろいろ考えさせられるし、もっと知りたい!と思うことでしょう。作品自体おもしろいし、考えさせられる。私自身、彼の作品は大好きです。

yama さんへ
 トピズレなので、最後のレスとします。
121ではこのように言っています。

私も詳しく検証したわけではないのですが、たとえば血液型による性格診断を例に取りましょう。

 血液型で性格を診断できるという主張は、血液型と性格の間にきわめて強い相関があるという主張です。でも、128では、弱い相関で、意味が無くても研究する意義があるという主張に変わっています。私とすれば、yama さんが、血液型による性格判断の歴史をご存じないと思わざるを得ません。私の提示した、リンク先すら読んでないのではありませんか。

No122 通行人A(内科医)先生

やや、言葉足らずであったのと、少しradicalに書きすぎな部分がありますのでその辺を中心に。

医学に基づいた判断に加えて、生物学的個体差、患者さんの価値観(患者さんの社会背景や人生観など)、

一応、社会科学まで含めますとここまでは科学です
価値観というのは経済学のeconomic decision theoryでは個々の価値観というものを効用関数として考慮に入れますので。
しかしながら
医療提供者の技能・経験、医療施設の設備、人的・時間的制約、医療保険制度などの要素も考慮された上で行われます。

これは科学ではありません。
また、救急の場面ではバランスを元に見切り発車をせざるを得ない場面が当然あるかと思います。
故にかなりradicalではありますが
「医療は医学を元に行う確率論的なギャンブルorArtです。」
といった訳です。やや過激過ぎたかも知れません。
また、医療はあくまでも医学と言う科学をbaseに行っているわけですから、全く科学的でないと言っている訳ではありません。
当然ながら、医師が科学的なトレーニング受ける必要はあると考えております。
我々の世代以下の人間が大学院に来ない事に関して私はかなり憂慮をしております。
もしもこの傾向が続くのであれば、学部生のうちにそのようなトレーニングも施す必要があるかも知れないと私は真剣に危惧しております。
私は、unknown factorの多寡と「科学的であるかどうか」は関連がないと思います。unknown factorが存在するからこそ、それを解明していくことが研究者の使命なのではないでしょうか(可能かどうかは別にして)。もしunknown factorが存在しなければ、研究する必要はなくなるのではないでしょうか。

この点に関しては私の説明不足で誤解を招き申し訳ありません。
研究と言うのは当然の事ながら未知の事象を明らかにするために行っているものです。しかしながら、これまでの科学の歴史において繰り返されて来たことですが、自分が知りたい事象の変数を操作して何らかの差を得たつもりが、実は全然思いもよらぬ変数の違いによって得られた結果だったと言うことは良くある話です。
最近の生物学ですと、初期の遺伝子改変ネズミで得られた結果の少なからずの知見がその後の検証でひっくり返りました。
私がunknonw factorとして言いたかったのは、自分が知りたいと思う対象以外で今回得られた結果に対して影響を及ぼしそうな未知の要因をどれだけ、排除するか?という点でのunknown factorです

(続く)

(続きです)
No123 通行人A(内科医)先生

(1) 「単なる統計のまやかしによる差」
 統計学は数学の領域で、社会科学や臨床医学だけでなく、基礎医学、実験物理、分析化学でも必要と思います。誤差はサンプル数が少ない場合に問題になると思います。誤差の影響を少なくするためにサンプル数を多くしたり、無作為割付けを行ったりしているのではないでしょうか。

ここは私の言葉足らずで完全にかみ合っておりませんね。
申し訳ありません。
私が「統計のまやかし」と言ったのはサンプルサイズを「大きくした」時の問題点を言っているのであります。
極端な例を挙げますと、
「イカサマでなくちゃんとした」さいころでも1万回も振ると1と6の目が出る各々の確率に有意差が出る場合があると言うことです。
また、AとBの集団が5%水準で有意差があると判定されてもサンプルサイズが大きい場合にはAとBの分布はかなりの部分でoverlapしています。故に「大規模なstudyもしくはmeta analysisをやらなければ差がつかないような場合は、医学としては意味が「それなりに」ありますが、個々の患者さんを目の前にしたときには、自分の選択の「免罪符」以上の意味はほとんど無いと「科学的」には考えます。」
と書いた訳であります。

(3)「企業が支援を打ち切って頓挫すると言うstudy」
 医学以外の分野においても、大規模な実験や高コスト技術を用いる研究については、コストの問題や政治的な理由で中止されることはときにみられると思います。研究の中止・実施困難の問題と、医学・医療そのものが科学的かどうかは別の問題ではないでしょうか。

これは昨今のEBM(evidenced-based medicine)信者が増えている(特に我々の世代で)現状においては無視できないと思います。
要するに世の中に出ているevidenceに関しては、かなり
「企業側の利益になるようなbiasがかかっている」という事です。
またEBMと言うのはある程度司法判断に影響を及ぼす事が予想されるので、このEBMにはこのようなbiasがかかったものが少なからず存在することは医療関係者であればある程度認識していますが、司法の方々にもアピールしていく必要は多分にあると思います。

(4)「posterioriに有意差が認められたendpointを誇張した広告」 医学に限らず、間違った解釈を誇大広告することはときにみかけます。結果の解釈・広告の問題であり、医学・医療そのものが科学的かどうかとは別の問題ではないでしょうか。

しかし日経メディカルなどの大規模studyのインチキ考察の発表を臨床系の教授がされていますよね。発表をしないにしても、その広告の直後に討論会(座談会)が載っていますよね?
本来科学を主導するべき立場の方々がこれで良いのですか?
と私は思いますが。。。

> No.129 bamboo さん
私は強い相関があるなんて一言も言っておりませんが・・・。すでにWikipediaは見ましたが、あまり信用ならないのではないでしょうか?ただ、その先のリンク先までは見ておりません。
あなたの勘違いだと思います。

ついでに

私も詳しく検証したわけではないのですが、たとえば血液型による性格診断を例に取りましょう。

の部分がなぜ強い相関があると言っている文章と言われるのか、説明いただけますでしょうか?書いた本人もなぜそのように解釈出るのか全く理解できません。というか、そういうつもりで書いたのでは無いのですけど・・・・。ということは別に主張を変えておりません。明らかにあなたの勘違いです。
説明できなのであればこれ以上の議論は無駄なのでやめます。勘違いさせてごめんなさいの一言で済むことなので。

ということで、勘違いさせて済みませんでした。
> bambooさん

基礎医学者さんの言われていることは、基本的に私と同じですね。
私が簡単にいって、基礎さんが小むずかしく言ってるだけで。
http://www.yabelab.net/blog/medical/2007/05/16-175540.php#c54394
http://www.yabelab.net/blog/medical/2007/05/16-175540.php#c54401

それと、統計はあんまり理学とか化学は使わないですね。これを駆使するのは、心理学とか教育学、経営学などのような文系の学問(?)です。
基本的に科学は法則定立的なので、妥当するかしないかで、微細な統計はあんまり必要ないのです。だから、理学者は一般に統計学にはくわしくないです。有意差なんて有り難がってるのは、文系のインチキ学問です。

また、統計や確率を使うことと、その現象が自然現象かどうか科学の対象かどうかとは、直接には関係ありません。
応用科学である医学や地球物理学なんかでも、簡単な統計、確率論は使うと思います。だからといって、その対象が自然法則では説明できないものだということではない。

たとえば、棒を一本立てて手を放す、棒がどちら側に倒れるかといった場合は、人間はよく確率を使います。でも、この現象自体は徹頭徹尾の物理現象であり、100%計算可能なのです。現在はそれが機械的にももちろんできると思います。でも19世紀には複雑すぎて、また当時の機械では計測不可能だったので、便宜上確率を使わざるをえなかったのです。これは観察者の能力にとって対象が複雑すぎる場合ですよね。

医学の対象である人間の有機的変化、身体現象はあまりに複雑すぎて、いろいろな物質や電気が関係する(こころの問題はさておいて)ので、物理現象と割り切ってさえ、そう簡単に計算したり、予測したり、説明できないので、その前段階として、おおまかな統計や確率を使うのです。
でも、医学の本来の役割は、ある病理現象や身体過程に関係のある物質を割り出して、科学的に(法則的に)説明することでしょう。だからこそ、科学を基礎にした応用科学というわけです。

一方、科学には、本来科学的、法則的ではないが、便宜上ふくまれている手続きや学科があります。たとえば、生物学や昆虫学です。生物の分類は、あんまり科学的でない、適当です。遺伝子が何パーセント異なるから新種だとかいわない。あくまで形態学的です。これ、全然科学ではないです。でも、他の自然科学に役立つ学科なので、今は理系に入ってるわけです。昔は生物学や博物学は文学部にありました。数学もです。この辺は多少時代の影響を受けますね。

あと、基礎さんが使う、医療と医学という区別は、私に言わせれば、それは方法論的な区別ではなく、むしろ、人間の区別ですよね。医師と医学者という。旧制でいう医専と医学部の区別みたいなもんですよね。

>>No.130, 131 基礎研究者(医)さんのコメント
>また、医療はあくまでも医学と言う科学をbaseに行っているわけですから、全く科学的でないと言っている訳ではありません。

 コメントありがとうございます。
 上記を確認できましたので、安心しました。おそらくそれを理解されている上でコメントされているのだろうと思ってはいましたが、先生のような立場の方が「ギャンブル」などと表現されていたので、こだわってみました。科学(の範囲)の捉え方の程度は個人によって異なるので、上記さえ確認できれば、あとは問題ないと思います。(なお、先生が「科学ではない」とされた私の引用部分について、私はその後に「その上で」とことわりを入れています。)

 “unknown factor”については先生の意味することも含んで用いています(No.123で「研究は一定の条件下で行われる」とコメントしました)。先生のあげられた例(遺伝子改変ネズミ)は、「科学には限界がある」ということを示しているのであって、「科学ではない」ということではないと思います。

 質問(3), (4)に対する先生のコメントは、直接の回答にはなっていないのですが、本エントリの範囲が「医療は科学的(に行われている)か」ということまで含んでいるとすれば、現状の問題点の一つを挙げているということで、大切なご指摘と思います。
 なお、途中で打ち切られなかった研究においても、有意差を認めなかった研究は、有意差を認めた研究と比較して、掲載されにくい(出版されにくい)傾向があると考えられていて、「出版バイアス」として臨床研究の専門家の間では認識されており、その対策がいくつか考案されているようです。

(今回もまた続きます。)

(No.136の続き)

 一点だけ、

>私が「統計のまやかし」と言ったのはサンプルサイズを「大きくした」時の問題点を言っているのであります。

これはやっぱり意味が分かりません。しかし、

>「イカサマでなくちゃんとした」さいころでも1万回も振ると1と6の目が出る各々の確率に有意差が出る場合があると言うことです。

この例で、「場合がある」と表現されているので、もしかして「第一種の過誤」のことかなと推測しました。「母集団」「標本」「第一種の過誤」「第二種の過誤」「検出力」などの用語をキーワードとして統計学のテキストをお読みいただければ幸いと思います。

 統計学では、「母集団」における帰無仮説および対立仮説の検定を行うことが目的ですが、母集団全体(サイコロの場合は無限に振り続ける)を対象にするのは困難な場合がほとんどなので、母集団から「標本」を抽出して(サイコロの場合は振る回数を決める)、算出された標本の統計量(平均値や標準偏差など)から母集団のパラメータ(平均値や標準偏差など)を推論します。
 1回の試行における標本数(ここではサイコロを振る数)をnとして、それぞれの試行において統計量を検定します。「試行を何回も行うと」、ある試行において、標本抽出(サイコロの場合は出る目)の偏りが生じて、有意差が出てしまう(あるいは出ない)ことがあります(この場合、nが大きいからではありません(後述))。もし「帰無仮説(1と6の目が出る確率は同じ)が真(「イカサマでなくちゃんとした」さいころ)である」とすれば(あらかじめ分かっているとすれば)、有意差が認められてもそれは「第一種の過誤」と考えられるため採用できず、再試行が求められます。(逆に、帰無仮説が偽であるのに棄却しないこと(本当は差があるのに、その試行において差が見出せないこと)を「第二種の過誤」といいます。)実際は、帰無仮説の真偽は不明なので、過誤かどうかの判断は困難なこともあり、慎重に考察する必要があります。
 第一種の過誤にしても第二種の過誤にしても、その発生率を減少させる対策は、「標本数(サンプルサイズ)nを増やす」(標本の偏りの発生率を小さくする)ことです(第一種の過誤の場合は有意水準を厳しくする(小さくする)ことも対策になります)。ただしその可能性を0にすることはできません。サンプルサイズ(標本数)は大きければいいというわけでもなく、適切なサンプルサイズは計算によって求められます。
 いずれにしてもサンプルサイズについては統計学では理論的に扱われているので、「まやかし」と言ってしまうのはやや乱暴かと思います。

(すみません。まだ続きます。)

(No.137の続き)

 もし先生がサンプルサイズにこだわるのをやめて、他の要因(不適切な実験計画)のことを問題にされるのであれば、先生の主張は少し理解できます。
 すなわち、ある臨床研究において有意差を認めた(あるいは認めない)場合、常に、仮説の設定、対象の設定(抽出法)、検証の方法、用いられている統計手法、交絡因子の制御方法、データの解析方法などが不適切なために生じている可能性がないかを吟味する必要があります(サンプルサイズについては十分に大きいかを吟味する)。そして「この研究結果からどの程度のことがいえるか(あるいはいえないか)」を評価します。こうした文献の評価方法(批判的吟味)は、一般的に科学研究論文を読む上でも同様ではないでしょうか。
 そしてEBMでは、あくまでも主治医が、目の前の患者さんの診療に必要な「原著」を読み、上記の項目を自分で評価することが基本とされます(そうした文献読解能力が求められます)。現実的には時間的に困難なところもありますが、努力されている方はいます。
 EBMについては、解説書や雑誌が近年増えてきたので、一度目を通していただけるとEBMの理解が深まるのではないかと思います(本ブログで私もCID 36376で一部引用しましたので、もし参考になれば幸いです。)
 EBMとは臨床研究のことではなく、目の前の患者さんの個々の診療において診断・治療を選択・決定するプロセスのことです。繰り返しになりますが、臨床研究の知見はそのための情報の一つにしか過ぎません。
 その過程を理解された上で、先生が「免罪符」とおっしゃるのは自由です。

 また長文になってしまいました。失礼しました。

>通行人A(内科医)先生

type I error, type II errorに関しては「一般的な理解としては」ご指摘の通りであります。
(その程度の理解が無いようではガチンコの基礎の研究室の教官は勤まりません。
知らなければ、学生から袋叩きにあって学生から完全に無視されるようになります)

もし先生がサンプルサイズにこだわるのをやめて、他の要因(不適切な実験計画)のことを問題にされるのであれば、先生の主張は少し理解できます。

いわゆる「不適切」な実験計画と言うのは論外というか、一発レッドです。
あくまでサンプルサイズを大きくした時の「practicalな」significanceを問うているのです。

例えば条件A、条件B各々が-1〜1、-0.9〜1.1で正規分布を取っていたとします。
各々500サンプル取った時、通常の乱数発生器を使用して検定にかけると、10000回のうち約35%で5%の有意差があると判定されます。また、1%の優位水準でも16%程度で有意差があると判定されます。
2群間の差をもう少し大きくして-1〜1、-0.8〜1.2とすると5%有意水準で87%程度の確立で有意差有りと判定され1%有意水準で72%有意差有りと出ます。

要するにサンプルサイズをこのレベルまで大きくしないと判定できない差と言うのは、平均値でみてこの程度の差な訳です。こんな条件下でsignificanceがあると「科学的な手法」でAが有意と判定されたところで、現場で自信を持ってAを使えますか?
と言う意味を込めて大規模studyの差は「免罪符」と言っているのです。

EBMに関しては学生時代の知識からほとんどupdateされていないので前述のコメントを含めて私の勘違いがあればご指摘下さい。

EBMとは臨床研究のことではなく、目の前の患者さんの個々の診療において診断・治療を選択・決定するプロセスのことです。

とありますが、もしもこれが私が「忌み嫌う」現聖路加病院院長のおっしゃる所の
診断決定プロセスの事を示唆されているのであれば、議論はかみ合わないかも知れません。F先生が言われる所の「意思決定」はutility functionを無視した学部生レベル以下の研究なので。。
もしも、それと違うことを意味しておられるのであれば
かなり過激な事を言っているのであらかじめ謝らせていただきます。
かく言う私は学部時代にF先生の授業&テストですっかりEBM嫌いになり、
EBMに関してはかなりbias込みの(自覚しています)否定的な立場を取っています。

かなり、本題から外れてしまいました。

先日、大学の倫理委員会主催の更新講習会でNEJMやLancetなどの名だたる雑誌に大規模studyを投稿する際にはstudy開始前に解析のendpointなどを定めて登録をしないと投稿を受け付けないようになっているみたいですね。
unpublished biasを解消する試みも色々とされているのですね。

NNTを使えば簡単に終わる議論のような。。。。

EBMを嫌う前に、サケット先生の言葉を読み返してみると良いのですが?

EBMとは,「目の前の患者に当てはめることができるか」という視点から文献等のエビデンスを検討する作業を繰り返すことなのである。EBMは,その別名を,「tailor-made medicine」,あるいは,「customized medicine」というように,個々の患者に最適な医療を「特注」しようと努力する医療である。
最終回 EBMに基づいたガイドラインの滑稽 より引用
李 啓充(マサチューセッツ総合病院・ハーバード大学助教授)

EBMを否定するというのは、患者さんに合った適切な治療を放棄している態度に他なりません。
論文に潜んだバイアスであるとか、個々の診療の落とし穴、社会状況も全てEBMの範疇です。

総合治療効果=f(医療行為、患者背景、社会環境、偶然、資金、医療資源。。。)
として、他の誤差発生要因が数十%になれば、ある論文の示す数%優位な医療行為の差など誤差範囲ですわな。
(例:ど田舎で医療資源も限られている中での大量化学療法)

例えていうなら、ある目的地に行くのに最初の10kmは詳細な地図があるのに、残りの100kmは略図しかない。それでも最初の10kmでも分かる部分は分かった方が迷わなくていいじゃないの?
でもあんまり固執してもねぇ。。。。ということです。
後の100kmにエネルギーを費すことは分かっているのだから、分かっていることはできるだけ簡便に効率良く行きましょうや、というのも全体を見通せばできる価値判断です。

EBMの手法は、個々の診療行為を正しく思考して実践していることのアリバイ作りでもあるので、”EBM信者”などというふざけた言葉を使う御仁がどんな診療行為をしているのか、興味があるところですね

通行人Aさんのいう統計は、高校レベルの統計で、論文を書くひとが使う統計技術とは違うのです。この「高度な統計技術」は、あんまり意味のない実験データから、もっともらしいグラフを描くための増幅技術で、まやかしなのです。あくまで、論文の本数をふやすための技術です。
研究者には、本来の研究目的とは異なるいろいろな事情があるのです。

>>No.139 基礎研究者(医)さんのコメント

 お忙しいところ、コメントありがとうございます。
 先生のあげられた例は、やはり「第一種の過誤」「第二種の過誤」「検出力」をシミュレーションしているだけにしかみえないのですが、そのことではないと言われるので、もう少し考えてみました。
 わざわざ2種類の状況を設定されていることから推測すると、実は有意差が正しいかどうかということではなく(サンプルサイズにこだわられていたため混乱しました)、「有意差があると結論された場合、その結果にどれだけの意味があるか」ということを問題にしているのではないかと思いました。とすると、まさにその点こそ臨床研究における結果の解釈にあたって最も重要なことであり、また臨床研究の目的の一つともいえます。結果の解釈にあたっては、有意差の有無だけが問題なのではなく、「その研究結果からどの程度のことがいえるか(あるいはいえないか)」を評価することの方が重要で、例えば名義属性間の関係を推定する場合、古くからある「相対危険度」や「オッズ比(ケースコントロール研究の場合)」に加えて、研究によっては「絶対危険度減少率absolute risk reduction (ARR)」、「治療必要例数number needed to treat (NNT)」、「絶対危険度増加率absolute risk increase (ARI)」、「副作用発現必要例数number needed to harm (NNH)」などの指標が参考になるかと思います(なおARR、NNT、ARI、NNHの訳語は定まっていないそうです)。その結果と解釈を参考にしてどのように判断し行動するかは次のステップと思います。
 確かに臨床研究には限界がありますが(どの分野にも限界は存在すると思います)、その限界を認識した上で利用することにより、昔と比べて参考となる情報が増えているということだと思います。将来生物学的個体差の理解が進めば、研究手法が同じであっても仮説設定や対象の設定が変わってくるでしょう。あるいは、今後、より良い別の手法が開発されるかもしれません。もし臨床研究手法そのものを全く信用できないと決めつけるのであれば、臨床研究結果を全く参考としない医療が行われることを容認するのか、そうでなければ、他によりよい手法(案でもよい)の提示が必要だと思います。

>「不適切」な実験計画
 これは少し説明不足のところがありました。方法が全く間違っているということだけではなく、方法の限界(観察期間など)も含めて用いています(不適切であることには変わりありませんが)。

>かく言う私は学部時代にF先生の授業&テストですっかりEBM嫌いになり、EBMに関してはかなりbias込みの(自覚しています)否定的な立場を取っています。
 了解しました。少なくとも先生がEBMについてある程度理解されている上であえて発言されている(問題提起されている)ことが分かりました。(F先生については、巻頭のあいさつのような文しか読んだことがないので、同じかどうかは分かりません。)

タイトルと対になる問いを色々かんがえてみたのですが

「司法は神学的か?」

が穏当なところだと思います。
ちなみに、私の答えは

「両者、ともに工学的たりうる」

です。

P R

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