エントリ

 場外乱闘掲示板からの転記です。

 場外乱闘に「結果が悪ければ所詮過失じゃないの?」というスレッドが立っています。
 以下は、そのNo.16の私のカキコの転記です。

 大前提を確認します。
 裁判官や検察官は、医療に関する問題について、裁判官や検察官独自の判断だけで結論を出すことはありません。
 傷害罪においても医師の診断書がなければ傷害の存在の認定をしません。
 医療過誤業過事件においても、被疑者または被告人たる医師がやるべきことをやらなかった又はやってはいけないことをした、という別の医師の見解がなければ過失を認定できません。
 民事でも被告医師敗訴のための立証の程度は違うかも知れませんが本質的には同じです。

 つまり、医療事故訴訟は、実質的には医師対医師の争いなのです。

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コメント(114)

>つまり、医療事故訴訟は、実質的には医師対医師の争いなのです。
LMnet の トラックをみていて やっと上記のことがわかってきました.
その道の大家であっても???なことを言われる”大先生”は確かにいらっしゃいますので
その方がもし判定されると食い違いがありうるのかな と不安になることもあります.

>「結果が悪ければ所詮過失じゃないの?」
上記の結論は医療が基本的に準委任契約とされ、現行で妥当な医療水準の医療を行っていれば、結果が悪くても過失なしとされるはずだが、裁判所の判例をみると、運用上は結果が悪いと過失が認められる確率が高い。
そしてそのことを前提として、その運用を裁判所に強いているのがいわゆる大御所のトンデモ鑑定ではないか、という議論でしょうか。

その前提として、鑑定は通常複数、作成されるはずであり、通常患者側と医療側の鑑定書では正反対の事実認定となり、我々医師側がトンデモ判決と感じるのは、弁護側に近い中間の認定が採用された場合のことが多く、その点からみれば、裁判官の裁量の部分も大きく、大半を医師の鑑定書に原因を帰するのはいかがでしょうか、という反論はいかがでしょうか。

私は裁判官が、トンデモ鑑定を見抜けるようになるのが、一番いいと思っています。ある程度の医学知識(医療専門部の判事にはあると思いますが)大体そういう鑑定にはロジックに無理があるので、見抜けることが多いように思いますので。
大御所のトンデモ鑑定については、大御所がいかに多忙かをしる人間のひとりとして、現実的には無理からぬことかと思います。大御所に鑑定をまわさないようなシステム造りが必要と思います。

No.2 通りがかりCさま

>私は裁判官が、トンデモ鑑定を見抜けるようになるのが、一番いいと思っています。ある程度の医学知識(医療専門部の判事にはあると思いますが)大体そういう鑑定にはロジックに無理があるので、見抜けることが多いように思いますので。

私も上記のような考えでいたのですが、裁判官には「私知利用の禁止」の原則というものがあるようなので、それとの整合性が取れるかという心配があります。例えば非常によく勉強した裁判官が、原告、被告の主張どちらもおかしいと考えた場合どうなるのでしょうか?

「私知利用の禁止」の原則

以前からコメントしなければと思っていた点ですが、医師(&その他非法曹)の皆様に、↑の概念について誤解があるように思います。

その原則は条文上書いてあるものではなく、弁論主義から導かれる帰結のひとつにすぎません。
つまり 「弁論主義」 という原則・法制度に付随する制約として出てくる概念であり、あらゆる 「私的に知っていること」 に及ぶようなものではありません。
言葉だけが一人歩きすると本来の意味を大きく外れてしまいます。

時間がないので取り急ぎ注意喚起まで。

医局で昼飯を食いながらこそこそと書いたために意味不明の駄文になってしまいました。

>No.3 田舎の消化器外科医さん
>No.4 fuka_fuka(イソ弁) さん

>「私知利用の禁止」の原則

ご指摘ありがとうございます。初めて聞く用語です。勉強してみます。

連投ですみません。A4の文章をLetterサイズに変換するのに朝4時までかかり少し疲れているので論理的な意見ではありませんが。

No.3 田舎の消化器外科医さん
>原告、被告の主張どちらもおかしいと考えた場合どうなるのでしょうか?

以前、刑事でしたが、どんな法律か忘れましたが、検察官の2つの刑罰を加算する際の加算法に誤りがあるとして、裁判所が検察の量刑以上の判決を出したことがあったように記憶します。地裁だったと思いますが、高裁かもしれません。ただし一回しか見たことがないので、きわめてまれなケースかもしれません。
民事の医療過誤裁判ではどうかわかりませんが、理論的には裁判所が独自の見解を示すことが可能なのではないでしょうか。(確信はありません)

CID 63542>鑑定にはロジックに無理があるので、見抜けることが多いように思いますので。

裁判官には(少なくとも私の知る裁判官は)論理的に考えることに私の100倍くらい長けているので、見抜けるのではないか、と思ったという面もあります(ちなみに暗記力は私の10倍くらいと思われます)。裁判官は司法試験の上位者が多いそうですが、想像ですが、きっと司法試験が論理的な人が上位になるようにできているんではないでしょうか(今は予備校のテクニックもあるでしょうが)。暗記第一の医師国家試験とは違うかもしれません(これも今は違うかもしれません。)。

>No.5 いのげさんのコメント CID 51166
>医師が判断するとしても 一人ではやはり相当な確率で間違えます
>割り箸事件裁判の死因について 旧帝大教授で脳外科学会会長で
>専門医試験委員長の大先生が論破されちゃったという実例があります

であるからこそこのようなことがおきるのだと思います。

知的財産権や医療裁判などの特に専門性の高い分野の裁判に共通することであろうと思いますが、鑑定をどのような人が、どのような立場で作成するかは非常に重要な問題です。医療側、患者側の鑑定は当然偏りますが、中間の鑑定を作成する場合も、例えば、大学の医師であるか、地域医療の専門家か、勤務医か、開業医か、その医師の心情、社会的状況によってどちらかに偏ることがあると考えます。この偏りを和らげる方法が必要と思います。そのためには、学会などが主導して、小児のエホバ信者に対する輸血のように、ある程度基準をつくることが良いのではないでしょうか。また現在は、医学教育、卒後教育として、鑑定が登場することはありません。ある意味限られた証拠から、事実を判断する裁判官のような仕事であるのに、証拠検討の方法論を習ったわけではなく、いきなり、「このカルテから判断するに、この医師の判断は間違っているとはいえないと思いますか?」なんてきかれても無理なのは当然です。ほとんどの医者は傷害事件の時に包丁が上向きに刺さっているのと下向きに刺さっているのとどっちが量刑が大きいかなんて知らないかと思いますが、刑事事件ではこういう細かいことまで決まっています(腹部刺傷患者を見た際は刺さった包丁が腹部大動脈を損傷するかどうかを心配する前に、どちら向きに刺さっていたかを確認することが重要です(^^))。医療裁判でも(多くの場合カルテとなると考えますが)証拠を検討する方法論をある程度決めていく必要があると思います。
裁判官も、トンデモ鑑定を真に受けて、そんな鑑定を書く医師が悪い、と一方的に責めるのであれば、権力作用たる司法権の付託をうけるものとして、権利のみの行使に終始し、義務を果していないように思います。

まぁほとんどの専門領域において、個別の出来事の解釈を問われた場合意見は分かれるんでしょうね。その原因は様々ですが。
例えば学会からも相手にされない非常に奇矯な意見、明らかに誤解に基づく意見を述べる「専門家」もいますしね。
ただ裁判という場では、それら錯綜した中から正しい/妥当な/比較的無理のない解釈を選ばなければいけません。

この選ぶのはまさに裁判官の仕事のひとつであります。というのは、そういった意見が分かれるのは当然あり、裁判システムが動き始めた時からわかっていることだから。
つまり裁判は医師対医師の対立があるとしても、そこから【正しい】判決を導くのは裁判官の仕事であり、それを医師や医療界のせいにしてはいけないでしょう。


純粋に医学的立場で言うと、一部の権威に鑑定させて裁判で相手側が突っ込みを入れる、とかいう形式よりも、症例をセミオープンにして利害関係のない多数の医者が自由にディスカッションするのを傍から見ている、という方式のほうが正しい答えにたどり着く可能性が高いと思いますね。科学はそうやって発達してきましたから。

ちょっと今忙しいところで、具体的に書けないので申し訳ないのですが、モトケンさんの説「医療事故訴訟は、実質的には医師対医師の争いなのです。」には、抵抗があります。

理由としては、いくつかの判決を読んで以下のような印象を持ったからです。
1.必ずしも原告側証言医師が被告側医師の非を認めている場合ばかりではないようである。「○○していれば助かった」程度のものがあるようであるが、では○○をしなかったことが被告側の非であるかどうかについて突っ込んで証言しているのかがはっきりしない。
2.原告の拠り所の多くは、学術論文にありがちな、「○○を念頭において精査を奨めるべきである」という報告のようである。しかしこのような論文は、医療の質を高めるためにその専門分野の医者が書いた啓蒙であって、実際にそこまでできるかどうかはまた別問題であるが、法廷では同一視されることがあるようだ。(航空事故調査委員会の報告を以って裁判を進めるようなものですかね)
3.「○○すべきだった」という話は簡単だが、「○○する必要まではなかった」の証明は難しく、「その状況なら○○まではしなくても仕方がなかったんじゃないのー?」と思ってみても、いざ裁判官を説得しようにも説得力のある説得ができない。(「悪魔の証明」ってこれですかね?)

特に2と3が危惧される現状では、原告側協力医には絶対になるべきではないし、また裁判所が頑張っているらしい第三者の鑑定も、十分な解決はもたらさないと考えてしまいます。

医療訴訟テーマに討論 医師、裁判官ら300人参加 さいたま
http://www.saitama-np.co.jp/news06/30/16x.html

これを見ると、医学的に明らかな内容を弁護士は正しく判断出来ないとしか思えないのですが、これも「かばい合い体質」という事になるのでしょうか?

No.9 「過失」判断さん

溝は限りなく深いということでしょうかね。

医者同士のかばい合い体質を言うのなら、

最高裁が示したという、医療訴訟の因果関係の立証要件 「訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を検討して、特定の事実発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑いを差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りるとものである。」

これなんて、要は非医療者のかばい合い体質以外の何物でもないように思いますねー

医師対医師の争いよりも、裁判自体に問題があると考えられた例を紹介します。

先天緑内障で失明した子供について、乳児期に診察した眼科医が先天緑内障の検査を怠って先天緑内障を見逃した過失を認めた例。尚、賠償金は1億3千万円あまり。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070306132932.pdf

先天緑内障の初期症状としては、羞明(まぶしがること)、角膜混濁(黒目が濁ること)、角膜径拡大(黒目が大きくなること)、などがあり、そういう例では先天緑内障を疑うんですが、

(1) 原告側は、生後3ヶ月での1回目の受診時に「羞明、角膜混濁、角膜径拡大」を医者に伝えたし、生後7ヶ月での2回目の受診時にも「羞明、角膜混濁、角膜径拡大」を医者に伝えたという。

(2) 判決では、1回目の受診時には上記のような事実は認められず、2回目の受診時には羞明については医者に伝えたが、角膜混濁、角膜径拡大については触れられなかったとした。

(3) さて、上記のように事実認定がされたわけであるが、ではこの2回目の受診時に、羞明だけを伝えられた状況で先天緑内障に関する検査をしなかったことの当否を、裁判官はどうやって判断したのか、これが疑問です。

原告側鑑定医は、当然原告の主張つまり(1)に沿って意見を述べるでしょう。「2回もこれだけ緑内障の徴候がそろっているのを見逃せば、それはさすがに過失だ」、と。しかしそもそも裁判官が前提(1)を認定しなかった以上、原告側鑑定医の証言はそのまま採用できるはずもなく、(2)の認定事実の下に被告医師の過失の有無を改めて問わなければいけないでしょうが、判決文にはそのような手順を踏んだ跡が見られません。

判決文だけから判断すると、裁判の手法自体が杜撰で、問題が非常に大きいと感じました。

 >No.11 
 興味深く読ませていただきました。有難うございます。しかし先生、裁判の手法自体が杜撰、といのは少し言い過ぎじゃないです?私はこの例は「医療訴訟に関するパネルディスカッション」の例と同じような、医者と法曹家の見解の相違のように思います。

 乳幼児で羞明の訴えがあれば前眼部所見に異常がなくてもトリクロ下で精査をせよ、というのが裁判所の判断で、眼科臨床の現場の実感としてはそれはちょっと厳しい、ですよね。ただ、「うつ伏せ寝させる事を要する程の羞明」の訴えがあったのならば、被告病院のH先生は念のため3ヶ月程度先に再診予約を取っておく、という慎重さが必要だったのかもしれません。でも、私も外来では、実際に親御さんと話をする中でそこまで慎重にならないこともしばしばありますから、この事例のような話を聞きますと、自分は今まで幸運だっただけなんだなぁ、と思ってしまいます。

 判決文ではH11年8月受診時に精査をしていれば緑内障性の視神経乳頭変化を指摘できたように読めますが、実際はこの時点では、乳頭は正常の範囲内の変化だった可能性が高いと思います。とすると、精査しても、前眼部眼底異常なしで仰臥位の眼圧が(その後のデータと同じすると)25〜28mmHg。これだけで直ちに手術に踏み切るものでしょうか。まあ要経過観察には違いありませんが。

>No. 12 Cat Surgeonさん

お読み頂きありがとうございます。言われるとおり「医者と法曹の見解の違い」も関係しているかと思います。しかし私には、この判決にはそれ以前の問題があると感じました。私が思うところの判決文のキモの部分ですが、

羞明は先天緑内障の初発症状の1つであること,H医師は,原告Aの羞明が結膜炎と関連するものと判断したのであるが,被告病院眼科再診時には結膜充血は初診時より改善していたのに,このときになって初めて羞明の訴えが出てきたことに照らすと,上記判断が正しかったとはいい難く,上記判断をすることが無理もなかったといえるだけの事情があったと認めるに足りる証拠もないこと,H医師自身,先天緑内障のことは頭にあったと供述していること(証人H)に照らすと,H医師には,被告病院眼科再診時において,先天緑内障を疑い,眼圧測定,眼底検査を実施すべき法律上の注意義務があったというべきである。
「被告病院眼科再診時には結膜充血は初診時より改善していたのに,このときになって初めて羞明の訴えが出てきたことに照らすと,上記判断が正しかったとはいい難く,」と認定していますが、その認定の根拠となるような証拠があったのかどうかがわからないのです。また、「先天緑内障を疑い,眼圧測定,眼底検査を実施すべき法律上の注意義務があったというべきである。」との認定についても、根拠がわかりません。裁判官が医療行為の適否についての判断をするときは、専門家(医師)の証言などの根拠が必要だと思うのですが、この判決文からはそれが見取れないのです。

この件の、医療行為に関する見解はCat Surgeonさんの見解に全く同意です。ただ、判決の下し方については、上記のような理由で、杜撰ではないかと思った次第です。

>No.13 峰村健司(眼) さん
>裁判官が医療行為の適否についての判断をするときは、専門家(医師)の証言などの根拠が必要だと思うのですが
 裁判官は証拠を自由に評価できます。専門家の証言をトレースしなければならないものではありません。
 No.11でいみじくも、
>前提(1)を認定しなかった以上、原告側鑑定医の証言はそのまま採用できるはずもなく、
 とおっしゃっておられるように、専門家の証言を厳格にふまえなければならないとするならば、専門家の鑑定意見の前提と裁判官の認定とが少しでもずれれば意味のないものになってしまいます。これを解消するとすれば、裁判官は自分の認定事実を鑑定医に伝え、それにそった意見をきかなければならないことになりますが、それは訴訟法上無理だと思います。

 シロウト(裁判官)が医学的判断を下しているわけではなく、原告被告両方の、医学的な意見も含めたいろんな主張を聞いて、「どっちに分があるか」を判断しているのだと思ってください。モトケン先生がエントリに「実質的には医師対医師の争いなのです」と書かれたのはこういうことではないかと思います(違うかもしれません^^;)。

No.14 藤花さん

コメントありがとうございます。スレッドストッパーの名を欲しいままにするところでした(笑)

専門家の証言を厳格にふまえなければならないとするならば、専門家の鑑定意見の前提と裁判官の認定とが少しでもずれれば意味のないものになってしまいます。
うーん、違った前提下に述べられた意見にどれほどの意味があるんでしょうかね? この訴訟の場合、「先天緑内障の症候がこれだけそろっていて、しかも2回続けて見逃したのはけしからん!」というのと、「羞明というありがちな症状に対して、先天緑内障の検査をしなかったのはけしからん!」(←これは私の中ではトンデモ鑑定)というのは天と地の差があるわけで…「事実がちげーだろ!!」ということになるんですが、その場合、前者の鑑定意見は実際のところ無意味です。
これを解消するとすれば、裁判官は自分の認定事実を鑑定医に伝え、それにそった意見をきかなければならないことになりますが、それは訴訟法上無理だと思います。
裁判官が証人に対して、「こういう前提ならどう思うか?」と質問すればいいんじゃないかとも思うんですが、それが出来るのは刑事裁判だけなんでしょうか? 「訴訟法上無理」で済ませて泰然としてられても困りますね。ホント、こんなことやられて「これが裁判だ」とか言われたら、そりゃあ「裁判は医療に介入するな」って言う人が出てくるのは、止められないでしょうね。

というか、これは医療裁判の問題というより、広く裁判一般の問題ですかね。

法曹の方のご意見を頂きたいところです。

「実務においては、双方当事者が主張する複数の事実関係を前提にして鑑定を依頼することが多いが、鑑定人の負担は大きくなる。裁判所は、鑑定以外の証拠調べが終了した後に鑑定を依頼するときには、その段階の心証に基づいて鑑定の前提となる事実関係を明示した上で鑑定を依頼してもよかろう。」(西口元「医療過誤訴訟と鑑定」太田幸夫編『新・裁判実務大系1 医療過誤訴訟』青林書院517頁。西口氏は現在東京高裁判事)

>No.16 an_accused さん

>裁判所は、鑑定以外の証拠調べが終了した後に鑑定を依頼するときには、その段階の心証に基づいて鑑定の前提となる事実関係を明示した上で鑑定を依頼してもよかろう

医療の素人たる裁判官が、鑑定を待たずに心証を下してどうするというのだろう?

幾度か述べているように、事実認定そのものの把握が医療裁判の大事な部分を占めており、素人の心証を得てから玄人の鑑定を仰ぐなどというのは、本末転倒であろう

判断材料が揃ってないのに、どうして心証が優先されるのだろう????
素人の心証を元に、玄人の鑑定の元となる事実関係を明示????

本当にこんなことが裁判実務で罷り通っているなら、判決が玄人から信用されないのは当然のように思える。

an_accusedさんが西口氏を批判している引用ととって宜しいのでしょう
内部からもっと批判はないのでしょうか????

ちょっと話がずれてしまうかもしれませんがすみません。裁判には素人で皆様のように聡明ではない医者のはしくれです。

過失を問う裁判の場合、たとえば被告と同レベルと思われる医者が100人いたとして、最低限90人(本当は99人?)くらいは防げたと思われる事故でない限り、敗訴したとしたら不当だと思いますがいかがでしょうか。福島大野や大淀あたりはそういう事例だと思います。

もしかしたら鑑定医如何では、「自分だったら絶対起こり得ない」という考え方をされてしまうかもしれないと感じました。名医だったり、逆にほとんど臨床をしない医師が多いでしょうか。世の中の医療レベルをよく知っていて、それに応じた対応ができる鑑定医を選ばないといけないはずですが、なぜかトンデモ鑑定医が多く選ばれているようです。そのあたりも問題だと思います。

また「**がある患者さんには全例CTを撮るように」としかとれない判決が出たりしていますが、そのように昨今の医療現場を無視した判決も鑑定医がまともであれば出ないと思います。鑑定医を鑑定する制度が欲しいです。

No.16 an_accusedさん
遅ればせながら、引用のご紹介ありがとうございました。

で、No.11に私が感じた疑問は、結局のところ、当然の疑問なのかあるいは頓珍漢な疑問なのか、如何なものでしょう? 今度の水曜日に、地域の先生方との勉強会のときにこの判決文を題材に、医療訴訟に関して私が感じた問題点として話してこようと思っています。

また改めて法曹の方にお尋ねしたいところです。

No17 Med_Law さん
西口判事(Nコートとして有名)の意見(N.16)はそう読むのではなく、鑑定に必要な前提事実関係について整理した上でという意味であり、そこには専門性を伴う判断ではなく、事実はどちらかという面での心証の意味だと思います(その認定に専門性が必要なら除かれるでしょう)。
だから、そういう鑑定人以外でできる事実認定まで鑑定人にさせるのは負担が大きくなるという最初の一文があるのではと考えます。

>No.20 psq法曹さん

>裁判所は、鑑定以外の証拠調べが終了した後に鑑定を依頼するときには、その段階の心証に基づいて鑑定の前提となる事実関係を明示した上で鑑定を依頼してもよかろう

医療の素人たる裁判官が、鑑定を待たずに心証を下してどうするというのだろう?

相当事者の事実関係の整理の段階とは言え、民事裁判で客観的事実が揃わないうちに「心証」を部分としても持つことは、拙速ではないのでしょうか?

臨床疫学的な言葉を使えば、事実が揃う前に結論を想定することは予断バイアス(bias)であり、交絡因子(confounding factor)のふるいわけを 難しくします

自分勝手な間違った思い込みを支持する証拠は、いくらでも出てくるし、思い込みに反する証拠は価値がないように思い込むものです。特に、医療文献などゴミから宝物まで幾らでもあり、ゴミと区別がつかない者は簡単に騙されてしまう難しいものです。

医療という特殊領域の裁判において、事実が揃わないうちに予断を持つべきではありませんし、特にその予断が感情に合致(=被害者)している場合は、被害者も加害者も存在しないという状況(=予断を持たない平衡状態)まで復帰させるのは、簡単ではありません

専門性があるかどうかという判断は、専門家でないと分かりません
程度問題ですが、、、、
専門家を呼ぶ前に分かる事実で心証を決めてはいけないので鑑定を依頼するということではないのでしょうか?
部分から全体を逐次推測するのは必ずしも悪いとは言いませんし、効率的運用からはそうしておられるのでしょうが、医療裁判においては、慎重に判断する必要性からも、拙速な部分的心証を持っては頂きたくないと思います。

「心証」という裁判官の大変な重責を表す言葉を簡単に使って欲しくないものです。


(・・・野党の追及みたいになってきたぞ。。。笑)
(psqさんは大好きなので、感情と批判とは別物と思って頂けると助かります)

>峰村先生(19)

 コメント15でお示しになられました今回の峰村先生のご疑問についてはごもっともなご疑問だと考えましたので、僭越ながら応答させていただきました。本来ならもう少し丁寧な応答をすべきだったのですが、某所における“戦闘モード”が解けきっていなかったため、必要最小限の引用のみで応答してしまいました。失礼いたしました。
 さて、某所においてもご紹介いたしました中本敏嗣他「医事事件における鑑定事項を巡る諸問題―よりよい鑑定事項を目指して」(判例タイムズ1227号)では、 以下のような記述があります。

(以下引用)
 「過失や因果関係の前提となる診療経過に関する具体的事実関係(たとえば、エコー検査を実施したかどうかなど)は、基本的には、裁判官が判断すべき事柄である。診療経過に関する事実関係の認定は、医学的知識と経験のない裁判官にとり容易なことではないが、カルテ等の証拠や実際に診療に当たった医師、患者本人などの関係者を尋問することによって認定すべき事柄であり、通常の民事訴訟の事実認定の手法と大きな違いはない。その意味では、鑑定になじまない事柄といえる。(中略)もっとも、医学的知見に基づく評価を含む前提事実に関して、その有無、評価などを鑑定事項とすることは十分考えられる(証拠により確定された事実〔症状、検査結果など〕を踏まえてどう評価するかという専門的知見を問う点で、単なる事実関係を問うものとは異なる。)。もし、医学的な知見に基づく評価を伴うため上記事実関係の認定に困難を来たしているのであれば、少なくとも、どのような医学的知見が不足しているため、どの点が認定できないのかを明確にすべきであろう。」(同論文18頁)
 「前提となる事実関係に争いがある場合、裁判所が当事者に対して裁判所の認定事実を積極的に示唆して、その点を争いのないものとする合意をして、鑑定事項を決める方法と、争いがある事実関係を前提に、場合わけをしたうえで、鑑定事項を決める場合がある。」(同19頁)
(引用終わり)

 拙コメント16で引用いたしました西口論文および中本他論文における「鑑定」は、あくまでも「裁判所が依頼した鑑定人による鑑定」のことです。峰村先生がコメント11で言及されておられる「原告側鑑定医」とは、いわゆる「原告側協力医」のことではないかと私は理解しています(なお、私は混乱を避けるために「公的鑑定」と「私的鑑定」、「鑑定医」と「協力医」はきちんと区別される必要があると思っています)。
 ご提示の事案について、峰村先生は「原告側鑑定医は、当然原告の主張つまり(1)に沿って意見を述べるでしょう」とおっしゃっておられますが、そもそも本判決には原告側鑑定医(協力医)がどのような事実を前提にどのような意見を述べ、それが裁判所に示されたのかも判然としていないに感じます。
 なお、原告側協力医の意見は一般に「原告が訴訟に踏み切るか否かを決めるとき(すなわち訴訟提起前)に徴されることが多いと考えられ、その結果原告側協力医の意見は「原告の主張+原告収集証拠(証拠保全等によって得られた証拠も含む」を基礎に形成されることになります(他に判断材料がないからです)。が、必ずしもそのような場合ばかりでなく、訴訟提起後、とりわけ争点整理が終わり両当事者による主張・立証が始まってから意見書作成を求められる場合は、当然に原告側協力医といえども相手方の主張や相手方の持つ客観証拠も踏まえて意見を述べる必要があります(相手方当事者主張の事実のほうが採用される可能性がある以上、それをまったく無視して意見書を書いたところで、峰村先生のおっしゃるとおり、せっかく書いた意見書が無意味なものになるからです)。

>psq法曹先生(20)
 補足のご解説いただきありがとうございます。「裁判官が認定事実を鑑定医に伝えないなんてけしからん!」とご立腹の先生がいらっしゃったので、「いやそんなことはありませんよ」と申し上げたとたん、今度は「鑑定医に自分の認定事実を伝えるなんてけしからん!」とお怒りのお言葉を賜ったので、正直ウンザリし、放置するつもりだったのですが、先生のコメントに接し、自分の不親切さが原因であったと気づき、改めてコメントさせていただいた次第です。重ねて御礼申し上げます。

>Med_Law先生
 峰村先生ご提示の事案をお借りして申し上げますと、

(1)原告側は、生後3ヶ月での1回目の受診時に「羞明、角膜混濁、角膜径拡大」を医者に伝えたし、生後7ヶ月での2回目の受診時にも「羞明、角膜混濁、角膜径拡大」を医者に伝えたと主張。
(2)被告側は、1回目診察時にはそんなこと聞いてないし、2回目の診察時にも 「羞明」については聞いたがそのほか(角膜混濁、角膜径拡大)は聞いてないと主張。

 で、「実際に言ったかいわなかったか、聞いたか聞いてないか」については、原被告双方の主張や双方申請証人の証言、カルテ、育児日誌、他の病院での診察記録などを踏まえて裁判官が判断すべき事柄であって、鑑定医に判断を丸投げすべきものではない、ということです。

an_accusedさん、某所ではありがとうございました。
ついでにコピペさせていただきます。

たとえば、同じく集中部のひとつである民事34部の前田順司判事によれば、平成13年4月から平成14年2月までの間の新件約160件のうち、鑑定を実施したのは僅かに7件であったという(本年3月15日の東京三会主催シンポジウムにおける発言)。
 このように鑑定実施率が低いのは、一言で言って、鑑定を待つまでもなく裁判所が心証をとってしまうから、である。
 集中部のある判事は、裁判所が鑑定を採用する典型的な場面として、次のふたつを挙げている。
・証拠調を実施した結果、原告不利(医療機関側が無責)との心証をとった場合で、原告側から鑑定申請があった場合。この場合は、原告に立証を尽くさせるという意味で、鑑定を採用する。
・また、尋問を経ても裁判所がどうしても責任についての心証を採れなかった場合も、鑑定の対象となりうる。
 しかし、同判事は、
・証拠調を実施した結果、医療機関側有責の心証をとった場合には、医療機関側からの鑑定申請があっても、裁判所としては採用しない、という。被告医師自身が専門家証人的性格を帯びた証拠方法であることを重視し、その尋問を経てもなお被告有責の心証が固まった以上、責任論に関してはもはや判決に熟している、と見るのである。
 このような見解に端的に表れているとおり、集中部においては、充実した争点整理と集中証拠調により心証を形成し、安易な鑑定はしない、という審理方式が定着しつつあるように思われる。
http://www3.ocn.ne.jp/~mmic/041kinkyutokusyu.htm#04

こういう考えの判事もいるということで、正直これはショックでした。
「被告医師自身が専門家証人的性格を帯びた証拠方法であることを重視し」というからには、専門的内容についても公的鑑定によらず、裁判官が判断する事もあるというわけですから。自分としては、時間がかかっても全例カンファレンス鑑定をしていただきたいと思うのです。

が、つまり医療側の私的鑑定による意見書では、全体として正当である事を主張するだけではダメであって、争点整理によって分断されたポイントを的確について説得力のあるものを作らないと、その時点でゲームオーバーになりやすいというわけです。
大前提として「カルテ、育児日誌、他の病院での診察記録など」で過失が明らかでない事が必要なわけですが。

さらに言うと、裁判所任命の個々の鑑定人のクオリティをいかに保つかというのも問題です。(学会の鑑定人推薦委員会での選考過程に関して)

No.22 an_accused さん。判りやすい解説有難う御座います。

事実関係の認定が争点の場合、職業裁判官の判断で全然問題ない。
認定事実に争い無くなった時点で、当該医療行為の妥当性について争う場合、鑑定を行う余地が出てくる。という理解でよろしいのでしょうか。

Med_Law さんや、guriさんの意見では、後者の場合、全件、協力医の意見書だけでなく、裁判所からの(カンファレス)鑑定をしたほうが良いということになりますね。

民事裁判の場合、公判前整理手続きがなかったと思いますので、基本的に裁判が進行して、ある程度事実の争いが無くなってから、鑑定を依頼するのが妥当なのでしょう。裁判の当初から、鑑定を依頼すると、鑑定医が争いのある事実認定の部分に踏み込んで判断することになるので、ますます鑑定医の引き受けてが無くなる様な気はします。

場合によっては、原告、被告両者とも気が付かなかった、(争点にしていない)医療過誤が指摘される事態も起こりうると思います。

前のコメントから考えていくと、ADRによる、医事紛争の解決には、事実関係に争いが無いという前提が必要ですね。こりゃー難しそう。

あと、カンファレンス鑑定が多くのケースに採用されれば、より真実の解明に近づくとは思いますが、現時点で、医療集中部で、鑑定がなされた裁判例は、医療者側から見て、妥当な判決が多いのでしょうか?どなたかご存知ではありませんか?

No.24 田舎の消化器外科医さま

手続きの流れについて。

> 民事裁判の場合、公判前整理手続きがなかったと思いますので

民事訴訟にも事実関係の整理を行う段階はあります。
といいますか、むしろ民事訴訟には昔からそれがあるのに、刑事訴訟にはなかったために、最近になって「公判前整理」という方式がつくられたのです。

民事訴訟において、事実関係の整理を行う方法はいくつかありますが、主に使われるのは「弁論準備」です。弁論準備手続きは当事者双方が出席して(たいていは代理人弁護士のみが出頭)、非公開で行われます。

 第1回:口頭弁論 公開法廷で行う。訴状・答弁書陳述
   ↓
★弁論準備  非公開で行う。事実の主張、書証提出、争点整理
   ↓
 証人調べ 弁論手続きとして、公開法廷で行う
   ↓
 弁論(証拠調べの結果を踏まえた最終準備書面)、和解勧奨など
   ↓
 結審
   ↓
 判決

--------
> 基本的に裁判が進行して、ある程度事実の争いが無くなってから、鑑定を依頼するのが妥当なのでしょう

鑑定を依頼するとすれば、上記の「弁論準備」手続きにおいて、診療経過に関する事実関係の主張がなされ、人証以外の紙に書かれた客観的証拠(カルテ、看護記録、検査結果、解剖所見等)が調べられた段階、ということになるでしょう。
裁判所としては、その段階で診療経過の事実関係はおおむね把握できるし、その点については当事者間に争いがないことも多い。
しかし、もし当事者間に争いがある場合は、
1.事実関係の争点を後の証人調べの結果により判断すべき場合(専門性がない争点)は、差し当たり前提事実の場合分けをして、鑑定を依頼する
2.医学的な知見に基づく評価がなければ事実関係を認定しがたい場合は、裁判所は何を知りたいかを明示して鑑定を求める

------
> ・証拠調を実施した結果、医療機関側有責の心証をとった場合には、医療機関側からの鑑定申請があっても、裁判所としては採用しない、という。被告医師自身が専門家証人的性格を帯びた証拠方法であることを重視し、その尋問を経てもなお被告有責の心証が固まった以上、責任論に関してはもはや判決に熟している、と見るのである。

このような裁判所の考え方は、法曹の一般的な感覚としては、頷けるものがあります。
双方がそれぞれの協力医による私的鑑定意見を出すのはよいとして、
本人尋問において、素人の原告と、医師専門家の被告の話とを聞き比べたら、医学的な説明について被告が説得的であって当たり前。そこで負けているようなら、もはやお話しにならない。

>本人尋問において、素人の原告と、医師専門家の被告の話とを聞き比べたら、医学的な説明について被告が説得的であって当たり前。そこで負けているようなら、もはやお話しにならない。

だからこそ、裁判官は被告医師の証言にそれこそ圧倒的な説得力がないと、原告に「肩入れ」しがちな気がするんですが気のせいでしょうか?なんせ裁判官は「弱者の味方」ですからね。

No.26 YUNYUN さん

早朝から簡潔明瞭なレクチャー有難う御座います。

an_accusedさん、の御回答と併せ、自分の司法リテラシーレベルが1上がったかなと思います。(峰村先生の質問の真意が、理解できたように思います。)

で、そこで今後どのように変革していくかが問題な訳ですが。

No.26 YUNYUN さんのコメント
>本人尋問において、素人の原告と、医師専門家の被告の話とを聞き比べたら、医学的な説明について被告が説得的であって当たり前。そこで負けているようなら、もはやお話しにならない。

非医療の者として納得できます。医療裁判の被告側が「当方の医療行為には問題(過失)が無い」ことを法廷で主張し、裁判官をその主張に沿って説得できなければ敗訴なのですから当然といえば当然と思うのですが…

このブログの医療者の発言をROMしていると、医局の中での「症例研究会」のように専門用語や略語(テクニカルターム)満載の書き込みに時折出会います。私のような非医療者にはその書き込みの正当性を判断するどころか、医療の専門用語や検査結果の数字が何を意味するのかも理解できず、付いていけません。

不幸にして医療裁判の被告となった医師が、こうした「症例研究会的発言」と同じように専門用語満載での主張を法廷でなさったら、多分その被告医師の側が敗訴すると思います。

原告と被告の食い違う主張を聞き比べ、どちらの主張がよりスジが通っているかををジャッジ(判定)するのが裁判官の役割の筈です。そして裁判官は医療の専門家ではなく、医療については素人です。また原告本人も普通は素人でしょうし、双方の代理人として法廷で対峙する弁護士もまた同じく医療の素人です。つまり医療裁判の法廷の中では被告の医師以外は医療の素人であることが一般的でしょう。

その医療の素人相手に「症例研究会」を法廷で展開してみても、多分その主張は誰もが正確には理解(発言する被告医師が意図する通りの正確さで)できないでしょう。(出廷した鑑定医に対する反対尋問での討論は別ですが) 裁判官が理解できなければどちらが正当かをジャッジする以前の問題となります。

この場合、被告側医師の主張を解りやすく解説する役割の者(被告側の私的鑑定医?)が必要になりますし、その解説者を捜し出してくるのも含めて被告側の立証責任なのかと思います。ただし、被告側医師が「解るヤツには解る、素人には解らなくもショーガナイ」というスタンスであれば、一番苦労するのは被告側の弁護士でしょう。

被告側の医師が素人にも理解し易いように専門用語を噛み砕き、数値の示す意味を説明し、できるだけテクニカルタームを使わないで主張し解説する努力と能力。これが素人相手の「説得」には欠かせない要素ではないでしょうか。

YUNYUN様、もし私の理解が違っていたらお手数ですが訂正をお願いします。

自己レスです。

>素人にも理解し易いように専門用語を噛み砕き、数値の示す意味を説明し、
>できるだけテクニカルタームを使わないで主張し解説する努力と能力

この努力と能力を兼ね備えた医師ならば、そもそも医療訴訟の被告となるリスクは低いと思いますが…

>No.29 法務業の末席さん
 
 横レスですいませんが、

>この場合、被告側医師の主張を解りやすく解説する役割の者(被告側の私的鑑定医?)が必要になりますし、

 これは通常、弁護士の役割です。つまり、弁護士は、医療者のしゃべる医療の言葉を、裁判官の理解できる言葉(必ずしも法律面だけではなく)、通訳をする役割をしています。

 ただ、通訳とは違う点も当然あります。弁護士以外の方が誤解されるのは、たとえば、医療事件の裁判であれば、医療の知識があれば、あるほど、(たとえば医師とのダブルライセンス)弁護士としては、有利あるいは有能と考えられるようですが、必ずしもそういう話になりません。

 というのは、自分が理解している人間は、往々にして、わからない人間がどこがわからないか、どうやったらわかりやすいかがわからなくなってしまうからです。

 弁護士でも、自分が熟達している分野ほど、その事について素人の裁判官(今後は、裁判員もありますが)がどこがわからないかがわからなくなり、ときどき、説明の手順をとばしてしまったり、説明しわすれたり、あるいは、わかりやすく説明できなくなったりする死角が生じます。このことは常に注意していなくてはなりません。

 この点では、むしろ初めてやる事件は楽なので、自分がわかったプロセスをそのまま伝えれば裁判官が大体理解できるからです。

 むろん、ここで私が言っているのは、医療事件でいれば、その事件で問題となっている医療知識等のことであり、そこに該当する法律のことではありません。

 

>No.31 L.A.LAW さん

ありがとうございます。

そうですね、それこそ弁護士の一番の仕事ですね。でも、被告の医師に説明能力が欠けていたときには弁護士は大変ですね。

>guri先生(23)
 はて、某所では先生となにかございましたでしょうか?(と、別HNをご使用になった意図を尊重してとぼけてみます)。あらためてよろしくお願いいたします。

 さて、「全件カンファレンス鑑定を」とおっしゃるお気持ちは理解できるのですが、実際にはそうはならないように思います。
 まず、原告の主張立証が箸にも棒にもかからないものであった場合、患者原告が鑑定を望んだからといって、裁判所はいつもいつも鑑定を認めるわけではないということです。引用なさった文献を拝見すれば、あたかも「患者原告側が鑑定を申請すれば全て採用、被告医師側が鑑定を申請しても歯牙にもかけてもらえない」といった印象を受けますが、実際には、
「患者側が申請をすれば、全て鑑定を採用するというわけではなく、患者側で裁判所にその必要性を感じさせることを、きちんと主張しておかなければならないと思います。」(「座談会・医療訴訟と専門情報」判例タイムズ1121号37頁)ということのようです。
 また、実は医賠責などで「医師側有責」の結論がでているが賠償額で折り合いがつかない場合とか、医賠責が判断を保留していたために示談交渉が不調に終わり訴訟に発展したものの、裁判が進行して(たとえば法廷で後医の証言が明らかになるなどして)、新たに判明した事情を踏まえて「医師側有責」の結論が出、その結果、鑑定を待たずして和解交渉が一気に進んだりするような場合などもあったりするようです。
 そのような事案についてまでカンファレンス鑑定を実施する意義はあまりないのではないかと思います。
 ただ、やはり裁判は「公正さ」とともに「公正らしさ」をいかに保つかが常に問われているわけで、「一方からの鑑定申請はホイホイ受け付けるがもう一方からの鑑定申請は受け付けない」と受け取られかねない、偏頗な訴訟指揮とも受け止められかねない言動は、裁判所としては慎むべきです。どちらからの申請であれ、中立的な立場の専門家から意見を徴する必要性が認められるのであればきちんと鑑定を採用しますよ、と言うべきであり、また実際にそうすべきであろうと思います。

>田舎の消化器外科医先生(25)
 事実関係に争いのない紛争のほうが珍しいわけでして、医療ADRも当然に事実関係をどのようにして確定するか、ということが一つの大きな課題となります(弁論主義ではなく職権探知主義を採用する場合なおさらです)。

 なお、カンファレンス鑑定につきましては、判例時報1963号(6月11日号)・1964号(6月21日号)に「東京地方裁判所医療集中部における鑑定の実情とその検証(上・下)」という記事があり、そこでカンファレンス鑑定(東京地裁医療集中部で行われる鑑定は、今では(もし行われるなら)原則としてカンファレンス鑑定なのだそうです)の運用状況や、その中の実施例(たったの一例ですが)につき、事案の概要、鑑定事項、各鑑定人の意見書、鑑定調書(鑑定人質問の速記録のようなもの)が紹介されています。医師の皆様がイメージなさる(おそらく症例検討会を念頭に置かれた)「カンファレンス」と、裁判所が実施している鑑定の一手法としての「カンファレンス」とどこが同じでどこが違うのか、といったことがお分かりになるのではないかと思い、紹介させていただきます。
残念ながらあまり町の本屋さんにおいていない雑誌なので、あくまでもご参考までに、ということで(必要があればまた適宜引用・紹介させていただきます)。

an_accusedさん、引用、解説、私の用語誤用訂正などして頂きありがとうございます。本来ならそれに対してのレスをすべきところですが、7月11日に近隣の眼科の先生の勉強会で、眼科の医療訴訟判決の紹介をすることになっており、もう一つ私が強く疑問に思った判決文を、皆様に向けて発信したいと思います。

角膜移植術後に散瞳症(瞳孔が開きっぱなしになること)が発症したことをめぐる争い。争点はたくさん挙げられているのだが、判決では、ミドリンPという散瞳薬を過剰投与した過失を認めて、原告勝訴としている。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070508163032.pdf

まず、この症例において角膜移植術後の散瞳症の原因として、判決では

1. 手術後に眼圧があがったことと、
2. ミドリンPという散瞳薬を日中1日6回の過剰投与を10日間継続したこと、
の二つがあげられるとした。これらはいずれも、医学的に因果関係が証明されたものではない。しかし判決では、訴訟上の因果関係の立証手法(高度の蓋然性があると確信できれば良い)に基づいて因果関係を認めた。

なお、散瞳薬は、手術後の炎症によって引き起こされうる「虹彩後癒着」を予防するために点眼するものである。(虹彩後癒着=虹彩がその後ろの水晶体と癒着してしまうこと)

ミドリンPの1日6回投与が散瞳症の原因であると判断した手法は概ね次のとおり。

1. 作用持続時間が7〜12時間であるアトロピンというを散瞳薬の使用すると、散瞳症を起こす可能性が示唆されている。(ただし、これに関しては賛否両論であり、それは判決文でも言及されている)
2. 作用持続時間が3〜6時間であるミドリンPでも、日中1日6回も点眼して概ね8時〜24時に持続的に作用させれば、アトロピンと同様に散瞳症を起こす可能性が予見される。

次に、ミドリンPを過剰投与が過失とした判断は次の通り。
1. 本件のミドリンPの使用法は能書に無い。すなわち目的外使用である。
2. しかし虹彩後癒着を予防する観点から点眼自体には合理性はある。
3. しかし虹彩後癒着を予防するには、普通は1日3回の点眼で十分である(F鑑定人)
4. よって能書の使用法を超えて、必要以上の過剰投与をしたことは過失である。

疑問、

1. いくら訴訟上の因果関係の立証手法を取ると言っても、因果関係に医師の間で賛否両論があるものに「高度の蓋然性」を確信できるのか?

2. 専門家の間で賛否両論である、アトロピンと散瞳症の因果関係を、さらにまた別の薬剤で持続時間も異なるミドリンPに援用して、それで「高度の蓋然性」を確信できるのか?(アトロピンは7〜12日間効きっぱなし、ミドリンPを1日6回なら、夜間には効果が切れているし夜間は生理的に縮瞳が強くなる。したがって両者で状況は全然違う)
ちなみにアトロピンの添付文書には、不可逆的散瞳のことは書いてありません。

3. 別の鑑定人は、「1時間おきに投与する場合がある」(E鑑定人)、「1日6回の使用も考えられる」(G鑑定人)と意見している。それを判決文で(恐らく裁判官の判断で)『それは炎症が非常に強くて虹彩後癒着生ずる危険が強い場合に許される』と一蹴しているが、このような判断を裁判官が下すことは妥当なのか?
ちなみに「普通は1日3回の点眼で十分」との鑑定意見は判決文に見られますが、「6回投与は過失」等の意見は見られません。

上記中、大変な誤記をしてしまいました。ごめんなさい。

誤: 作用持続時間が7〜12時間であるアトロピン

正: 作用持続時間が7〜12日間であるアトロピン

>峰村様

角膜専門ではありませんが
Fixed dilated pupil after penetrating keratoplasty for macular corneal dystrophy and keratoconus. : Am J Ophthalmol. 2005 Sep;140(3):484-9.

によれば、麻痺性散瞳の原因は高眼圧による虹彩虚血、散瞳剤だけでは説明つかない部分もあるようです。仰せのように「高度の蓋然性」はとても私には確信できません。

また、この判例要旨はきわめて論理的に書かれているのですがすべてのことが既知として組み立てられ、何か不知の要因(臨床医学ではよくあることですが)がこの麻痺性散瞳に影響している可能性を無視していると思います。
某裁判長はAJO(米国眼科臨床でもっとも権威がある雑誌)をも否定するのでしょうか???

ただ、20年前の駆け出しの頃、円錐角膜に対するミドリンPは眼底検査でも気をつけるよう言われたことを付け加えておきます。(多分その頃そのような患者さんいたのでしょう)

>某裁判長はAJO(米国眼科臨床でもっとも権威がある雑誌)をも否定するのでしょうか???

証拠提出されてないから知らないのだと思います(当事者主義というやつです)
控訴してし補強証拠として提出すれば無視はしないとおもいます
ただし、英語は読めないので全文和訳をつけろというはずです

話は飛びますが、日本裁判官ネットワークブログで、医者が書類送検されたとのことでエントリが立てられまして、どうにも釈然としないので書き込みをしてきました。皆さんから見て如何ですか?

本筋のほうですが、an_accusedさんが紹介された判例時報の該当記事を、大学図書館で入手しました。まだ全部は読んでいませんが、カンファレンス鑑定でも医療側から見た問題点は改善されていないという印象です。特に私は眼科医なので、先に提示したミドリンPによる散瞳症訴訟に関しては、カンファレンスまでやってどうしてああいう判決になるのかが全く理解できておらず、一度は東京地裁で見れるだけの資料を見て、改めて検証すべきだという気持ちを持ちました。

該当エントリのアドレスを記入し忘れました。すみません。
http://blog.goo.ne.jp/j-j-n/e/8c020ca5b7a1c8c1fe442735272b3d04

>峰村先生
携帯からなので手短に2点のみ申し上げます。
1 「カンファレンス鑑定でも医療側からみた問題点は改善されていない」というご見解については、私も似た印象を抱いています。
2 「書類送検云々」についてですが、確かに本ブログでは「(書類送検=有罪視)は誤りである」ということが主張されていたようですが、書類送検が刑事手続のひとつであることまでは否定されていなかったように思います。
警察が捜査を遂げ、検察に事件を送致し、現時点において検察が起訴する可能性がある以上、「刑事事件化するかも」などと書くことは別に誤ったことではないように思ったのですが。

No38〜No40
「福島事件に続き」と書いてあるので、「刑事事件化するかも」というのは、「起訴されるかも」という示唆になるので、やはり不適切な気がします。

この事件で分からないのは、次の点。
1. 5年前の事件だが、当時直ちに被害届け=警察捜査がなされていたのか(司法解剖があったのかどうかが不明)。
2. 時効完成数か月前の送致だが、起訴できる証拠が集まるまで時間がかかったのか、それとも過失は認定に苦しんだゆえか?(あるいは単なる放置?)
3. 民事訴訟の提起は、3年経過後になされているが、不法行為が理由ではないということか、それとも「過失があること」が分かったのがかなり後(ということは違う説明をされていた?)で、その時点からは3年経過していないということか?
4. 報道のような内容なら門外漢には「明らかな過失」に見えるが、医療関係者からはどうなのか。
5. 明らかな過失に見えるから「刑事事件化するかも」と書いたのでは?
6. しかし、ならば時効直前の送致になったのはなぜ?という疑問に立ち返り、堂々巡りになります。
情報不足ですから仕方ないので、ここらあたりでやめます。

拙コメントを補足します。
当該エントリの表題には「物議を釀すかも」とあり、本文中には「福島の事件に続き」とあります。「福島の事件(福島産婦人科医逮捕事件)」で釀した「物議」とは、主として「このようなケースが刑事事件になったのでは医療は成り立たない」といったものでした。でありますから、当該エントリの「刑事事件になるかも」は、起訴の可能性を示唆するとともに「(福島の事件に続き)萎縮医療を加速させてしまうかもしれない」といった危惧を表明したものと読むこと“も”できます。
結局、当該エントリについては「筆者が本件についてどのようなスタンスでいるのかわからない」とは思いますが、「(医師を非難する方向で)あおるもの」と断定するのはやや早計ではないかと感じる次第です。

No.40 an_accusedさん
 日本裁判官ネットワークブログでの記述に、事実として誤りがないことは承知していて、その点についてan_accusedさんのご指摘には返す言葉もありません。
私としては、福島事件ののちにも医療過誤事件としての書類送検はいくらもあったのに、判事さんが今なぜこの事件だけを取り上げて「福島事件に続き」と書いたのか訝しく思い、判事さんがたまたま医療事故の書類送検の記事を見つけて、パッと飛びついたという雰囲気を私は感じたため、つい文句を言いたくなったという次第です。本質的な問題ではないかも知れず、また言葉足らずだったかも知れず失礼しました。

No.41 psq法曹さん
 1〜3については、民法第415条の債務不履行による賠償請求の場合は、時効が10年だという話なので、こちらでの提訴ではないでしょうか。そして、民事の進行が思わしくない等の理由で、当たりをつける意味で刑事事件化を狙ったというストーリーは如何でしょうか?
 4.については、これは既に沢山議論されてきたことですが、全く困った問題です。特に手術においては「誤って傷つけた」はつきものであり、どんな名手であっても100%起こさないで済むはずはなく、医者から見れば想定の範囲内のことです。そして「誤って傷つけた」のあとのリカバリーがまたうまく行かないことについても、100%回避できるものではなく、医者から見れば想定の範囲内のことです。これらのよ うな想定の範囲内の思わしくない結果のことは、医者の間では「ミス」とは言わずに「合併症」と呼んでいます。そして「合併症」の危険性を、手術を受ける患者さんにも甘受してもらえなければ、手術をすることは出来ません。想定内の結果を、甘受してもらえないのであれば、そんな行為は出来るはずがありません。極論すれば、医療行為は「何が起こるかわからない」ものですから、何が起ころうが甘受してもらえないのであれば、そもそも出来ないものなのです。
 しかし、そういう私も医者になりたての頃に、「合併症」という言葉を聞くと「それってミスも含まれているよなぁ」と思ったものだし、今でもそう思う気持ちがあります。例えば手術における「誤って傷つけた」は「合併症」だとは言ってみても、やっぱり「ミス」だと言えばミスとも言えるし、「過失」の意味を広く捉えれば「過失」だと言えないことはないと思います。ただし合併症が起こるかも知れないという事実は、手術をする以上想定内であることは間違いなく、そのような業務に対して刑事の「業過罪」や民事の「不法行為」を適用される以上、「手術という通常業務をこなすこと」=「合併症が起こることは想定内」=「業過罪で有罪になったり、不法行為で賠償を命じられることは想定内」ということになります。そうなれば、医療行為は、通常業務自体に、業過罪や不法行為の賠償を織り込まないとならないことになります。他にこんな職業はないと思われ、異常事態といえるでしょう。
 業過罪のほうは、福島事件以降の検察の態度から、私はあまり心配はしていないのですが、そうは言っても業過罪が存在する限り、実際には薄氷の上の安心とも言えます。民事の方も解決の道は全く見えません。ここからは空想になりますが、こんなことならいっそのこと、応召義務を廃止して、過失不問補償保険に加入している患者だけを診療すれば良いような状況にならないものかとも思います。過失不問補償保険は、民事で賠償が認められたときの賠償額と同等の補償があり、かつもし患者さんが提訴する場合には補償額を全額返還する義務が生ずるような保険です。保険料は莫大なものになるでしょう。しかし、通常業務自体に業過罪や不法行為の賠償を織り込ませしめるような思想を持つ一般の人々に対抗するには、やむを得ないものと思います。
 一方、「誤って傷つけた」は、誰がやっても100%起こさないとは言えずとも、名手がやれば確率は低いし、不器用な医者の場合は起こしやすいことではあるわけで、余りにも合併症が多い医者を制限するような方策は、あった方が良いと思います。名手がごくまれに起こす合併症を甘受し、頻繁に合併症を起こすリピーター医師を咎めるには、運転免許の点数制のような制度しかないだろうと考えています。それでもそのような制度は、刑事や民事と連携させるべきではなく、あくまで行政処分のみの制度であるべきでしょう。

No.41 psqさま

毎日では

主治医は心臓の傷を遺族に伝えず「人工心肺で送血したら血管が乖離した」と説明。約4カ月後に病院関係者の内部告発で、心臓に傷をつけていたことが発覚した。

と報道されているので、司法解剖は行われていないと思います。

「明らかな過失」かあるいは「不幸な合併症」であるかは、心臓手術を日常的に行っている医師のみ評価可能と思います。

「明らかな過失」でないのであれば、遺族にそのように伝えるべきだったと思います。

それにしても、検察や警察に取っても困った事態ですね。遺体がない以上、検証が難航するのは必至ですが。

 お久しぶりです.

>No.44,No.45
 特定しきれないのですが,この事件に該当しそうな司法解剖の記録があります.
解剖結果を警察は直ぐには家族にいわないでしょうし,法医も警察の捜査がある程度進まないと,家族に詳細は話せませんし…….このあたりは,司法解剖のシステムの問題点のひとつではあるのですが.

 この種の医療事故で送検まで5年近くかかるのは実は珍しくありません.
 県警は,検察が起訴するか否か判断する時間を少し残しながらも,時効ぎりぎりまで捜査しているようです.……まぁ,もちろん1事件にかかりきりというわけではなく,他にも多数の案件を平行して捜査しているはずですが.
 きわめて大雑把な観察としては,起訴の難しそうな事例では送検まで時間がかかり,過失の明らかな事件では(例えば,10%キシロカインをワンショットしてしまった),送検が比較的早く,裁判も略式起訴罰金となることが多いです.
 あるいは,過失が明らかで病院が早期に患者側と示談している場合,県警は示談の成立を待って,患者側の「寛大な処分を期待する」旨の調書や嘆願書をつけて送検したりもします.どこかのブログで示談したのになぜ送検するんだと文句を書いているお医者さんがいましたが,警察も検察も捜査を終了するにはこれは一番楽な方法です.
が,そういうことはマスコミは決して報道しません.

 で,これは,警察庁と最高検,マスコミの責任ですが,医療事故として届け出のあった件数,捜査した件数,送検した件数,起訴した件数,判決数を正しく統計をとって公表しなければいけません.
 以前警視庁・警察庁に電話して,医療事故の届け出数を訊ねたのですが,「統計はない」とあっさりいわれました.

 マスコミは,事故発生を報じたら,事件の帰結を報道することを義務とするべきです.
 送検を報じたら,起訴したのか,不起訴なのか起訴猶予なのかも,報じないと,報じられた側の名誉・公平が保たれません.
 このことは医療事故に限らず,事件・事故報道をしたらすべて同じです.
 交通死亡事故で運転手がしばしば逮捕されていますが,そのすべてが交通刑務所ではないはずで,時には被害者側の過失の割合が大きくて,運転手にはほとんど処分がないという場合だってあるわけで.

 これは,医療事故の場合,民事も同じで,新聞報道での民事事件の勝訴率は90%以上ですが,統計上は認容率約35%です.
 いろいろ調べていると,一審患者勝訴だけが大きく報じられていて,二審は一審判決を厳しく非難して患者敗訴,最高裁確定という経過はマスコミや判例時報社・判例タイムズ社は黙殺している裁判もあります.

 とりあえず,はっきりいえることは,情報源をマスコミにしている限り,知識・知性は方向違いに導かれ,事実は消失し,国民は遭難します.っていうか既に遭難しているようですが…….

「専門訴訟大系1 医療訴訟」なる本を買ってきました。(an_accusedさんがNo.16で示された本とは別ですが、こちらのほうが新しいようなので)

まだ少ししか読んでいないのですが、めまいがしそうです。特に、安原幸彦さんが書いた「医師・医療機関の証人に対する証人尋問」の項では、医療者とのバトルのテクニックが詳細(?)に書かれていてゲンナリします。やたらと医療者同士の「かばい合い」を強調するのもどうかと思います。

『被告側が、かかわった医師や医療従事者を片っ端から申請しているような場合は、証人を絞らせることが必要である。…「事故は不可避だった」「救命の可能性はなかった」の大合唱をされることは、勢い裁判所を無責方向に向かわせるからである。』(197ページ)
大合唱になるのは、かばい合いで起こる場合よりも、それが真実だからみんな同じことを言う、というだけのことのほうが多いように思いますけどね。上記引用のような記述を見ていると、原告側は「真実を知りたい」とか口では言っておきながら、腹の中では「真実を曲げてでも勝ちたい」と思っているのではないかと勘繰りたくなります。

それとは別なことですが、医療訴訟の請求認容率(原告勝訴率)に、これまでに大きな波があったことを知り驚きました。昭和61年には認容率が17.6%だったというのです。そしてそれ以前には認容率が40%近かったというのです。つまり、40%弱→17.6%→40%前後と変動してきたというわけです。
こんなに認容率が上下する訴訟分野が、他にあるものなのか気になりました。

↑小山稔、西口元「専門訴訟大系1 医療訴訟」、青林書院、2007年です

安原幸彦は、医療「過誤」訴訟の誤りを科学的かつ真摯に指摘する医師の声を「特権意識を振りかざした恫喝」としかとらえられない、哀れな人間です。

www.iryo-bengo.com/general/essay/no01.php

このように見識も能力もない人間が「弁護人」という特権階級に位置づけられるのは、本人にとっても社会にとっても不利益なことだと思うのだが。

懲役囚を治療するのは当然のことだが、法律屋、特に弁護屋の治療をするのは果たして社会にとって有益なことなのか、最近やや疑問を感じないではない。内心の話だけどね。拒否して何億円もの賠償を訴えられたら大変だし。クリーニング失敗で数十億の請求という法律屋の恫喝にお付き合いする気はない。

医療関係のスレも落ち着き気味だけど、これまでの医療「過誤」訴訟という愚行を恥じて悔いる裁判官、検察官、弁護人が全く出てこないのが、いやはや何とも言えません。彼らに対し、最初は憤慨し、次いで呆れ、今では哀れと感じるようになってきた。皆さんその段階なのかね。もはやただ消え去るのみ・・・・。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070724-00000007-yom-soci

教師に関してはこういうニュースが頻繁に出るのに、はるか以前からより深刻な脅威に直面している医師については黙殺なんだよね。政治力の差なのか、報道のバイアスなのか。

モンスター患者、モンスター遺族、モンスター自称医療「過誤」被害者、そしてモンスター弁護人、モンスター検察官、モンスター裁判官の悪行を世間に知らしめる方法が必要だ。

法律屋、特に弁護屋の治療をするのは果たして社会にとって有益なことなのか、最近やや疑問を感じないではない。

その「弁護屋」が患者側か医療機関側かはどうやって見分けるんでしょうか。
一緒くたに治療拒否、というのであればそれはそれでひとつの判断かとは思いますがw


これまでの医療「過誤」訴訟という愚行を恥じて悔いる裁判官、検察官、弁護人が全く出てこないのが

「出てこない」ことをどのように「科学的かつ真摯に」確認なさったのか興味があります。
「科学的且つ真摯に」は確認されていないということでしたらそれはまたそれでアリですがw


モンスター弁護人、モンスター検察官、モンスター裁判官

モンスターペアレント と モンスターペイシェント・モンスターファミリー との類似性と同等の類似性があるとお考えでしょうか。
それはそれで(ry

#47 峰村健司 さん
> 医療者とのバトルのテクニックが詳細(?)に書かれていてゲンナリします。

それは原告側の訴訟技術として基本的なことではないでしょうか。原告側弁護士のプロとして求められる態度だと思います。

裁判(特に民事)は、けっして医学的な真実を探求する場ではありませんので、被告・原告がいかに自分の都合の良い事実を裁判長の前で主張し、自分よりの心証を作らせるかが、キモだとおもいます。

被告(医療者サイド)からみて理不尽な(げんなりするような)主張であったとしても、原告(患者サイド)からは、信頼できる弁護士に見えて頼もしく思えることでしょう。

医療サイドは、しばしば「医療に素人の裁判官がトンデモ判決を下す」などと批判しますが、これは裁判官が悪いのではなくて、医療サイドの作戦ミスだとおもいます。医療側は知識も豊富ですし、カルテなどの資料や(表に出せない)内部資料なども手元にあるわけですから、素人の裁判官を抱き込むのは、患者側よりも圧倒的に有利のはずです。裁判で負けつづけるときには、担当弁護士の力が不足しているのではないでしょうか。

私は医療訴訟にからんで、八戸市が公金4500万円を差し押さえられた(仮執行宣言)を担当した小野寺信一弁護士に注目しています。仙台市長選に出馬しているかたで、なかなか活動的ですね。

> http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070721-00000008-mailo-l02

いまは患者サイドで弁護活動をなさることが多いようですが、いちど医療サイドの弁護士として戦わせてみたら、面白そうです。

安原幸彦ってどこかで聞いたなぁと思って調べてみたら、ハンセン病国賠訴訟の弁護団で中心的役割を果たした一人だったんですね。立派な方じゃないですか。

 それと、引用された部分にははっきりとかかわった医師や医療従事者を片っ端から申請しているような場合はと書いてありますよ。これは「身内のかばいあい」と見られたって仕方ないんじゃないですかねえ。

まだ、話題にはなっていないようなので。
ちと、変わった裁判の判決が出ておりました。

http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/chiba/news/20070724ddlk12040162000c.html

今後はこんなのも増えるのかもしれませんね。

No.52 某救急医さん

医療サイドは、しばしば「医療に素人の裁判官がトンデモ判決を下す」などと批判しますが、これは裁判官が悪いのではなくて、医療サイドの作戦ミスだとおもいます。医療側は知識も豊富ですし、カルテなどの資料や(表に出せない)内部資料なども手元にあるわけですから、素人の裁判官を抱き込むのは、患者側よりも圧倒的に有利のはずです。裁判で負けつづけるときには、担当弁護士の力が不足しているのではないでしょうか。
事情はもっと深刻だと思います。先の私の書き込みで記したように、医療裁判の認容率は乱高下をしています。個々の判決だけを見れば、そのように担当弁護士の能力の問題から来る例も見出せるでしょうが、全体の認容率の大幅な変化は担当弁護士の能力云々だけでは説明が付かないと考えます。全体の認容率の大幅な変化の原因は、裁判官の自由良心が、その時代の空気に流されることだと考えますが如何でしょうか。

もう一つこの認容率が乱高下してきたという事実から言えることは、今後いくら医療訴訟の裁判例を積み重ねたところで、医療裁判における落としどころは見つからず、今後も判断がブレまくる可能性が高いということです。

No.53 惰眠さん

私は、安原幸彦さんについてはなんらコメントしてませんので念のため。

それはさておき、 それと、引用された部分にははっきりとかかわった医師や医療従事者を片っ端から申請しているような場合はと書いてありますよ。これは「身内のかばいあい」と見られたって仕方ないんじゃないですかねえ。私は裁判を経験したことがないのでよくわからないですが、自分が正当なことを行っていたとなれば、証言してくれるような人をみんな証人申請したくなると思うんですが、違いますかね?というか、証人申請の数を見て、かばい合い推定とかしちゃうものなんですかね?

第三者的法曹の方から見たらどうなんでしょ?

No.55 峰村健司 さん

たしかに「判決のブレ」「認容率の変化」がその時代の医療に対する考え方を反映するでしょうね。

裁判官も人の子ですから、テレビも見るでしょうし新聞も読むでしょう。そのなかで、無意識のうちに医療問題(裁判)にたいする深在性の「心証」が形成される可能性はあるでしょうね。と、書くと「そんなことはない。裁判官は裁判のなかで提出された証拠資料をもとに判断する。けっして世間の雰囲気にながされることはないのだ」という反論が返ってきそうですが(すみません)。

私は、裁判がどんどん増えていけば良いなと思っています。裁判所は、日本国民なら誰でも利用できる共同利用施設ですから、疑問があったら気軽に相談(訴訟)に利用して良いのではないでしょうか。今は「裁判沙汰」などという言葉もあるように、やむを得ず・仕方なく・無理強いされて(?)不快な経験をする場所と言うマイナスイメージが強すぎます。これが、コンビニにたちよるような感覚で訴訟したらどうでしょう。裁判所を忌み嫌う必要はないと思います。

漠然としたイメージですが、数が増えれば「落とし所」「平均値」なども分かりやすくなると思います。ある一定の事案に関する認容率なども、おそらく正規分布してくると思いますので、ブレもすくなくなるのではないでしょうか。

事故の率、認容率などが予想できるようになると、要する費用(裁判や賠償金)などは、あらかじめ予算措置しておくことも可能ですし、院内に内科や外科、手術部や救急部があるのと同じように、臨床部門として訴訟科とか訴訟対応部などもできると思います。ここまで来れば、医師の負担もすごく減るでしょう。

内科医が外科的処置を外科に、外科医が内科的処置を内科に依頼するように、法律的処置が必要な患者は、訴訟科に紹介すればよいのですから。患者も医者や病院を訴えたいと思った場合には、医師や病院事務を訪れるのではなく、訴訟科を受診します。また、逆に支払いが遅れたり、医師の指導に従わないことによって病院に損害を与えた患者に対しては、(気軽に)患者を訴えるのです。

そんなに変なアイディアではないと思うのですがねぇ。

>No.56 峰村健司 さん
安原弁護士の件については、別の方のコメントに対するリアクションです、紛らわしくてすみません。

それはともかくとしまして、アンダーラインと太字で強調した部分を私なりの読み解きで補足させていただきますと、

1.「かかわった医師や医療従事者」と言うことは、被告または被告人の利害関係者たる「身内」である可能性がある。⇒証言の客観性・中立性への疑問。酷い言い方をすれば、共謀共犯関係にある者が証言に立っているようなもの。

2.「片っ端から申請しているような場合」と言うことは、裁判所で為された証言の多数派が、被告または被告人有利の内容で占められ、あたかもそれが医療業界の多数意見や主流意見であるかのように裁判官に錯覚させかねない。

と、言うことです。

医療訴訟を離れた例を想定してみれば納得しやすいのではないかと思うのですが、例えば自動車メーカーの品質管理責任者が「リコール逃れをした」として被告になっているケースで
1.同じ会社の品質管理部門関係者や現場ライン責任者などが証言に立ち、
2.片っ端から口々に、訴えられている品質管理責任者がリコールをしなかったのは常識的なものでなんら問題がない
と、自動車製造の世界に明るくない裁判官の前で「大合唱」したら、実際に正当な業務だったかどうかに関わらず身内の庇いあいに見えるんじゃないでしょうか。

つまり逆を言えば、訴訟に至った当該医療行為に直接・間接を問わず係わり合いをもっていない医療従事者を証人申請すればいいってことだと思います。

専門訴訟大系1 医療訴訟 名言集

165ページ

医療過誤訴訟における専門委員の活用については、平成15年の民事訴訟法改正の際、医師に対する不信感もあって、消極的な意見が多かった。

「医師に対する不信感もあって」

orz...

そりゃあ対抗措置で司法に対する不信感がつのるのは、規定路線ということかなぁ。

No.58 惰眠さま

少しだけ誤解があるようなので。

つまり逆を言えば、訴訟に至った当該医療行為に直接・間接を問わず係わり合いをもっていない医療従事者を証人申請すればいいってことだと思います。

証人: 争点に関する 「事実関係」 について供述できる人 (つまり「目撃者」のこと)

鑑定人: 専門知識・経験則について供述できる人

当該医療行為に関わっていない医療従事者は、鑑定人にはなれるかもしれませんが、証人になることは無理です。

元々の No.47 峰村さまの引用部分の背景にある問題意識は、 「証拠の偏在」 です。
病院内での事故は、交通事故とは違って、「目撃者」 は原則として病院側の人間ということになります。関与した人数も多数に上ることもあるでしょう。
患者側の 「目撃者」 は、まったくいないか、仮にいても(病室内での処置中のミス等)、人数は限られています。

印象操作のおそれという点はご指摘のとおりと思います。
だから、(中立の者を呼べ、ではなく) 目撃者に偏りがあるのだから、本質的かつ重要な事実関係に接している少人数の関係者だけを 「証人」 として採用するようにしましょう、という話だと思います。


# あと、あまり本質的ではないですが、 「片っ端から申請しているような場合」 というのは患者側の視点からのバイアスがかかりまくりの表現なので、それを検討の前提とすることには少し違和感がありますです

ああ、そうか。そうですね。
自分でも書きながら「あれ?俺、なんか変なこと書いてるな?」って気はしてたんです。
鑑定書を提出した鑑定人が、後から証人申請されて主尋問/反対尋問を受けるケースや情状証言者と一緒くたになってました。
失礼しました。

鑑定人: 専門知識・経験則について供述できる人

福島事件第6回公判のT教授:鑑定人にふさわしいかったかどうか誰が決めたんでしょうかね。ロハスメディカルの川口さんなんか検察がポイントを上げたようなことをお書きになってましたが、小生は弁護側の反対尋問でこの証人めろめろにされたと感じますが。。。

それにしても福島事件このブログからどっかいっちゃったよー。

>No.62 うらぶれ内科さんのコメント
>それにしても福島事件このブログからどっかいっちゃったよー。

そのお言葉を首を長くしてお待ちしておりました(笑)。
続きをばぜひこちらにおながいしまつ。
http://www.yabelab.net/blog/2006/10/13-230902.php#c61838

だって私が書くと誰も相手にしてくれないですから(笑)場外要員だからかな(笑)

> 福島事件第6回公判のT教授:鑑定人ふさわしいかったかどうか誰が決めたんでしょうかね(No.62 うらぶれ内科さま)

そりゃ、頼んだ検察官が相応しいと判断したのです。
この場合、「相応しい」とは、検察側に有利な意見を言ってくれて、なおかつ、その意見が裁判所に信用されるだろうという意味です。
民事訴訟で原告が意見を聞きに行く「協力医」は、原告が自分の気に入った人を選ぶだけで、医師免許以外に特に資格は問われないことと、同じです。

なお、T教授は検察側が医学的見解を聞いた医師というだけですので、
「鑑定人」という呼び方は、裁判所が選任する鑑定人と紛らわしいので、やめたほうがよいと思います。
「検察側協力医」とでも。

No.63 ぼつでおk(医)さま

私も場外乱闘要員です(大笑い)。

No.64 YUNYUN(弁護士)さま

分かりました。ちょっと違ったようですね。以後気をつけマース。

先に挙げた「専門訴訟大系1 医療訴訟」の安原幸彦氏による「医師・医療機関の証人に対する証人尋問」の項は、読み物として結構面白いと思いますので、お時間のある方は是非読んでみてください。193〜202ページで、すぐ読めます。ちなみに本全体を通して、「医療問題弁護団」http://www.iryo-bengo.com/index.phpの方々が多く執筆されているように見えます。鈴木利廣氏、石井麦生氏、安東宏三氏、長谷川史美氏、大森夏織氏、五十嵐裕美氏、松井菜採氏、安原幸彦氏…って、大半がそうじゃん!

で、こういう法廷テクニックを使われると、だいぶ前の他所の書き込みですが、こういう風につらい思いをする医者が量産されるのかなぁ、と思いました。
http://tyama7.blog.ocn.ne.jp/obgyn/2006/05/post_4b17.html#comment-4955734

 ミスを繰り返す医師は確かにいるんだろうと思いますし、そういう方は医療の現場からご退場願いたいものだとも思います。

 ただ、>>66で峰村さんがご紹介くださった事例などを拝見しますと、「リピーター医師」などと一方的にレッテル張りされるのもたまったもんじゃないわけで、ならば医療サイドからも対抗的に「クレーマー患者」とか「医事訴訟ゴロ弁護士」とレッテル張りし返すくらいのカウンター・アクションが必要なのかなぁなんて思ったりします。
 全く生産的じゃないと思いますけど、マスコミ向け(もしくはマスコミから情報を得ている国民一般向け)プロパガンダとしては、このくらいせんとアカンのちゃうか、とも思います。

http://www.asahi.com/health/medicalasahi/TKY200707230096.html
こういう記事を読むと、もう何と言うか・・・

No.66 峰村健司(眼)さま

ご紹介のページを拝見しました。訴えられた産婦人科の先生の悲鳴を読み、大変お気の毒に思いました。しかし、この攻撃的な原告側弁護士の言動は、依頼者の利益を最大に引き出すための訴訟テクニックとして基本的なことだと思います。

> 不必要に大声を上げて怒鳴りちらし被告医師を威嚇しようとしたり、被告医師が主張を
> 始めると即発言を打ち切り不利な発言をさせまいとしたり、

当然です。原告にとって不利な発言は、抑え込む必要がありますから。

> 真理を追究し患者と医療の発展のために裁判を行っているとは、全く考えられません。

裁判は医学的真理を探究する場ではありません。(法律的)理屈で相手をねじ伏せる格闘の場です。失礼ですが、書き込まれた産婦人科の先生はかなり勘違いをされておられるのではないでしょうか。

たしかにちょっと攻撃的すぎる弁護士さんのようではありますが、力のある方と思いますので、ぜひウチの病院の顧問をやって欲しいものです。

「基本的」 ではないと思います。

私は、
「勝てばいい」 という価値観
尋問での侮辱的・恫喝的言動
等を是とする弁護士を軽蔑します。

性格が合わないという理由ではなく、中長期的視点では、依頼者自身の利益にならないと考えるからです。

法律家の仕事は、紛争の解決です。受任した一個の案件の処理というのは、直接的なターゲットでしかなく、「紛争解決」 という究極目的に資するよう位置づけられるべきです。

目の前の紛争を自分に有利に終わらせるために、余計な紛争のタネをまくような行動は、依頼者の見かけの利益を最大化しているにすぎないと思います。


裁判は (略) (法律的)理屈で相手をねじ伏せる格闘の場です。

私の理解とは異なります。

某救急医さまは、冷静な現状判断として、あえて偽悪的におっしゃっているのだとは思いますが、逆ブレしすぎても正当な判断からは遠ざかってしまうと思います。


書き込まれた産婦人科の先生はかなり勘違いをされておられるのではないでしょうか。

あのような経験をされた非法曹の方としてはごく自然な感想と思います。
「勘違い」 の前提である 「裁判制度についての正確な理解」 をする義務、必要などないと思います。

「ごっつええ」 で頭に熱々の中華あんを掛けられて 「どっきり!どっきりやで!」 とイジられた東野と同様(古っ)、「どっきり」 とはそういうものであるとしても(違うけど)、熱いものは熱いし、不快なものは不快だというだけでしょう。

No.69 fuka_fuka(イソ弁) さん

コメントどうもありがとうございました。たしかに脅し・すかしは邪道であるとは思いますし、長い目で見れば決して+になるものでないとはおもいます。しかし、弁護士さんのなかにもいろんな考え方をする方がいるでしょう。こちらとしては常に「最悪値」を想定した対応が求められますから、大げさな表現になってしまったかも知れません。ご気分を害されたら、謝ります。

あのような経験をされた非法曹の方としてはごく自然な感想と思います。
「勘違い」 の前提である 「裁判制度についての正確な理解」 をする義務、必要などないと思います。

少なくとも医師は裁判制度や司法制度を正しく理解する必要があるとおもいます。患者に訴えられるというのは常に意識しています。私は、以前は「訴えられないような医療」を目指していましたが、最近は「訴えられても負けない」医療を目指しています。今後、訴訟の増加は明らかですから、今のうちに(法的に)武装を準備しています。このためには制度の理解が不可欠ですよね。

本当はもっと身近に弁護士さんがいて、24時間いつでも相談できる体制があると、安心して医療に集中できるのですが。今の医師は忙しすぎて、臨床と言う法的地雷原を、なにもしらず素足で走り回っているのと同然です。脇から見ていて「そこに近づいたらアブナイ」とアドバイスしてくれる弁護士さんがいれば、どれほど心強いでしょうか。

No.45 しまさん

「明らかな過失」でないのであれば、遺族にそのように伝えるべきだったと思います。
僕はこの点が問題になるとは思っていなかったのですが、某所で問題にされたので書いておきます。

医療訴訟に関するパネルディスカッション
http://www.yabelab.net/blog/medical/2007/07/01-134136.php
で明らかなように、医者が過失なしと思っていても、最後の最後には五分五分のガリレオ裁判が待っていることがわかっている状況では、黙秘権(?)の行使は責められないのと違いますかね? そのような医者からみて不当な判断を用意しておいて、真実をしゃべれというほうが、むしろどうかしていると思います。

非医療者(の中の一部の先鋭的な人々)は、結局なにを求めているんでしょうかね?

さて、独協越谷心臓手術事件の注目点で、もう一つ私と法曹で視点がずれている点を指摘しておきましょう。

法曹の方は恐らく、司法解剖の記録などの証拠が不十分で捜査が難しい点が問題だと思っているでしょう。

私は逆に、司法解剖の記録や手術ビデオなどの証拠も十分で、執刀医(教授)も主治医も捜査に協力しており、容疑を認めたとまでは書いてありませんが、「「もっと慎重にやるべきだった」などと話したという。」というように自らの問題点を明らかにしている、このような状況で検察が不起訴にできるのかどうかが問題だと思っています。

手術で「誤って傷つけた」の状況を非医療者の方には理解しにくいと思いますが、例えばこんな感じで伝わるでしょうか?

「あなたの目の前に生きた大ダコがいます。鼻から一番遠くの足の、胴体の付け根から数えて10番目と11番目の吸盤を過不足なくえぐり取ってください。生ダコでうねうね動いていて大変ですが、他の部分は絶対に傷つけないで下さい。」
さて、あなたはこの難題に、どれくらいの修練を積めば100%の自信を持って臨めますかね?何らかの理由でどうしてもこの難題に挑まないとならないとして、他の部分に傷をつけたら過失を認定すると言われたら、無茶だと思いませんかね? 自分は無理だとしたら、誰か絶対の腕を誇る人を探せますかね? さらに言えば、「そうは言われても他の部分に傷をつけてしまうかも知れない。でも誰がやっても100%大丈夫と言えるものでもないし、仕方がない、自分で挑戦しよう。」と考えたところ、「それは未必の故意だ」などと言われたら、理不尽だと思いませんかね?
「外科医は結果がすべてであり、その重責を痛感している」
書類送検された主治医の言葉です。モトケンさんをはじめ良心的な法曹の方々、彼の腐った思想を叩き直してやってください。そして、彼にそのような誤認をさせた狂った圧力が何であるのかを良く考えて、それに対しても是非鉄槌を食らわしてやってください。

スレッドストッパーの峰村です。東京地裁に行ってきました。生まれて初めて裁判所に足を踏み入れて来ましたよ。隣の法務省かっこいいですね。

さて、例のミドリンP訴訟の記録を見てきたわけですが、この事件では原告側協力医はいないらしく、甲証の記録には、医師が書いた意見書の類は見当たりませんでした。この事件に関しては医師対医師の構図はないように思います。訴訟も終盤に入ってから、どこぞの薬学の教授が意見書だかを書いていますが、科学者が書いたものはそれだけで、内容も見るべきものはありませんでした。

時間が限られていたので、とりあえずカンファレンス鑑定の議事録を読みましたが、かなり普通に眼科医としての意見を述べていましたね。「ミドリンPの回数をもう少し早く減らしても良かったかもしれないが、それは後知恵だから言える」ということで概ね意見は一致していたように読めたんですが、これで過失にされるようではかなわないですね。

ひどいと思ったのはカンファレンス鑑定に先立って出されていた鑑定項目の質問書の質問。

原告の散瞳症発症機序について、次の通り考えることはできますか。1回目の手術後の高眼圧状態の継続により、瞳孔括約筋が麻痺するなどして機能が低下していた状態のもとで、ミドPの継続投与によって散瞳状態を継続させたために瞳孔括約筋に不可逆的な障害が生じ、不可逆的な散瞳症が発症した
鑑定人はそれぞれ「可能性あり」「考えることができる」「『上記の通り』だとは考えることはできない」といった趣旨を答えています。散瞳症の機序が医学的に解明されていない以上、そうかも知れないということは常にある。そういう質問を用意しておいて、Yes or Noで答えさせるのはフェアではない。誘導尋問とも取れるような質問です。この点も含めてこのカンファレンス鑑定では、かなり通常の医療カンファレンスに近い自由な発想で、後知恵だと断りつつもあと出しじゃんけん的にいろいろ意見したことが、過失認定につながった可能性があると感じました。まあ裁判長が藤山雅行氏だからかなという気もします。

まだ考えがまとまっていませんが、とりあえず、一体何のためのカンファレンス鑑定なのか、という疑問が浮かびます。カンファレンス鑑定への臨み方も含めて、医療側の対応(防御策)を練る必要がありそうです。

スレッド私物化犯の峰村です。このスレッドのだいぶ上の方で、裁判官の事実認定に関するやり取りがありましたが、それに関連して。
昨日だかおとといに、裁判所サイトに掲載された2つの判決文は、医学的な事実関係はさておき、言った言わないといった面ではとても合理的に考えていることがわかる良い例だと思いました。特に1つ目は判決文も比較的短いので、お時間があれば是非お読み下さい。

1. 喘息の既往がある原告に対し造影剤を使用して、喘息様症状を来たしたことをめぐる争い。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=04&hanreiNo=35017&hanreiKbn=03

2. 困難糖尿病患者の死に関する医療行為をめぐる争い。
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=04&hanreiNo=35016&hanreiKbn=03

ちなみにこれらの判決は、医学的事実関係についても妥当に判断していると思われました。ただ、最近私は判決文を読むときに、裁判官の思考過程が論理的か否かに関心が行き過ぎて、医学的なことは二の次になっているのが実情です(笑)

>峰村健司(眼) さん

最後の最後には五分五分のガリレオ裁判が待っていることがわかっている状況では、黙秘権(?)の行使は責められないのと違いますかね?

別に責めているわけではありませんが、後で発覚した場合、遺族側と話がこじれるだろうなと言うだけの話です。私としては、真実を話した方が医師側に有利になると思いますが、医師の方がそうは思っていないのであれば、それはそれで構わないと思います。

医療問題の書き込みが少し寂しくなっていますね。

No.75 しまさん
No.71の私の書き込みは、しまさんあてというより、広く皆さんあてへの発信でした。
で、

真実を話した方が医師側に有利になると思いますが、医師の方がそうは思っていないのであれば、それはそれで構わないと思います。
ということですが、私としては、この状況が構わないわけはなくて、非常に問題があると思ってるわけです。
繰り返しますが、明らかな過失がないと思ってそのようにお話したとしても、いざ裁判にかけられたら五分五分の過失認定が待っているわけです。こんな無茶苦茶なことないですよ。僕は法学を一つも学んでいないので見当違いなことを考えているかもしれませんが、以上のような状況下で「自白」を強要することは、そもそも法の倫理にもとるのではないかとすら思うのですが、如何でしょうか。

No.72に記した蛸の吸盤えぐりの例でわかると思いますが、医療行為に厳密に過失を当てはめたら、それこそ本当に過失だらけになってしまうわけで。それを「医療水準」のものさしで免責にしているわけですが、その「医療水準」の基準がなんだか良くわからくて、裁判所が如意棒の如く使っているので、勝訴率も乱高下するし、医者も患者も不満だらけになるわけで。

医療行為の過失については、ある程度法的な線引きをひかない限り、医者も患者も落ち着いて医療にかかわれないでしょう。

立法は立法府の問題であって、法曹に愚痴を垂れる問題ではないでしょうが、しかし、医療者と法曹とで過失に対する考えの差に大きな隔たりがあること自体が大変な問題である、ということは共通認識にならないのかな、と思います。

an_accusedさんが提示された話で思いついたのですが、裁判官が心証を示すことが可能なら、「判決の下書き」を示すことも可能でないかと思うのです。

鑑定医に、あなたの鑑定からこんな判決を導いたのでそれについての意見をください、という形で意見を求めて、それを必ず証拠採用すれば、鑑定から都合の良いところのみをつまみ食いしていい加減な判決を書いている、という疑惑は晴れます。

そこで鑑定医にNoといわれても、裁判官は自分の意見を押し通すことも可能なので、司法権を侵害することにもならないと思います。更に言えば、裁判官の判断と専門家の判断をきちんと並べて国民に提示することになるのは、良いことだと思うのです。

鑑定医としても、多少仕事が増えますが、既に鑑定を行っているので、ものすごく負担が増えるというわけでもないと思います。

素人考えですが。

今日山口県光市の事件について調べているうちにこのブログにたどりつきました。
医師の方の近時の医療訴訟に対する認識についてあらためて実感しました。平成10年前後から最高裁が,医師に有利な内容の高裁判決を次々と破棄し,医師に不利な判決が積み重なってきました。今後もこの流れは続くでしょう。
医師の方にとっては,訴訟リスクがより高まってきています。私は,これまで医学薬学関係の訴訟に相当程度かかわってきましたが,経験上,医師側に日頃からの十分な訴訟対策ができていない事案がみられます。
裁判というのは,事後的に過去に起こった事実を検証しますので,当時作成した記録(診療録・看護記録等)が最も重要な証拠になります。こういった書類は,訴訟でほぼ間違いなく裁判官の目に触れますので,日頃から訴訟に強い記録を残すのが一番の訴訟対策です。上場企業であれば,訴訟に強い文書を残すのは,基本中の基本ですが,医師側にはこういった認識がそれほど浸透していないのかもしれません。
医師の訴訟リスクが高まっている以上,医学部で訴訟に強い記録の残し方に関する教育があってもいいと思います(病院内で行うのは当然の前提として)。
医師側は,訴訟に強い記録を残し,訴訟に対しては,自信をもって,横綱相撲で堂々と受けて立ってほしいですね。
医療訴訟では,素人の裁判官に対し,弁護士を通じていかに事案を理解してもらうかが重要です。医師側と弁護士がどれだけ多くの時間と労力を注ぎ込むかが事件の帰趨を左右することになります。

>裁判というのは,事後的に過去に起こった事実を検証します
>ので,当時作成した記録(診療録・看護記録等)が最も重要
>な証拠になります。こういった書類は,訴訟でほぼ間違いな
>く裁判官の目に触れますので,日頃から訴訟に強い記録を残
>すのが一番の訴訟対策です。上場企業であれば,訴訟に強い
>文書を残すのは,基本中の基本ですが,医師側にはこういっ
>た認識がそれほど浸透していないのかもしれません。

弁護士06さん,

すみませんが,できればこのブログの過去ログに目を通して頂いてからコメント願えないでしょうか?
事後的に過去に起こった事実をレトロスペクティブに考える限り,医療の適切性は判断できません.医療はプロスペクティブに行うものであり,レトロスペクティブにみた場合に完全無欠であることはありえません.いちゃもんの付けようはいくらでもあるということです.「後だしジャンケン」を行う限り,医療側が納得できるような判決が出ることはないでしょうね.
そしてモチベーションのある医者はいなくなり,イギリス型医療崩壊は完成するのでしょう.

>弁護士06 さん

 いらっしゃいませ。

 私は、医師と法曹を中心メンバーとするLMnetというSNSを管理しています。
 医療訴訟問題についても活発な議論が行われていますが、法曹の参加者が少ないのが悩みの種です。
 よろしければ参加していただけないでしょうか。
 面白くなければすぐ脱退していただいても結構ですので。

 一度、利用規約をご覧下さい。

 もし、参加を希望される場合は、このブログのメールフォーム(ブログタイトルの下にリンクがあります)からご連絡ください。

No.79 Level3 さん

 弁護士06さんは、単に診療録等は正確に作成すべきとおっしゃっているだけなのではないでしょうか。

 実施した治療行為が記載されていなかったり、検査の日時や結果の記入がなかったり、あるいは検査の時刻が違っていたり(時計の時刻あわせをしていなかったためのこともある)、麻酔チャートがきちんと作成されていなかったりするのは、治療を受ける患者にとっても、(訴訟となった場合には)医療側にとっても不利なことと思います。

 病院によって診療録作成のレベルがかなり違うというのが私の印象です。

>実施した治療行為が記載されていなかったり、検査の日時
>や結果の記入がなかったり、あるいは検査の時刻が違って
>いたり(時計の時刻あわせをしていなかったためのことも
>ある)、麻酔チャートがきちんと作成されていなかったり
>するのは、治療を受ける患者にとっても、(訴訟となった
>場合には)医療側にとっても不利なことと思います。

M.T.さん,

そうですね.私の読み違いのようです.
さて,緊急事態が発生した時の記録をきっちりということですがそのような場合にきっちり記録することがどれだけ困難かお解りでしょうか?
私は麻酔科医ですが,そのような場合には看護師やレジデントに指示を出しながら自らも必要な処置を秒単位で行います.そんな中で記録を一々書いている余裕などありません.
そんなことをしている余裕があるなら救命のために手を動かしているでしょう.
我々が身を守るためにはフライトレコーダのような装置や手術室内を常に記録するビデオが必要になります.また,時計に関しては電波時計やntpが動作するサーバを用いて手術室内のすべてのモニターやコンピュータの時計を自動的にあわせる必要があります.現在ならある程度は実現可能ですが,そのためのコストをどこから捻出するのかという現実的な問題があります.現在普及しつつある自動麻酔記録システムが稼働していればバイタルデータに関しては自動で残すことが可能でしょう.但しアーチファクトの問題は残されます.

現在のところ,手書きの麻酔記録の場合落ちついた段階で後から処置の概要を書き留めることしかできません.時刻にしてもせいぜい手術室の時計かモニターの時計あたりを見た記憶を頼りに書くくらいでしょう.もちろんそれでも我々麻酔科医が麻酔チャートをみればおおよそ何がどのように行われたかを把握することは可能です.非医療者にはなかなか困難でしょうけど.裁判官が鑑定医の意見を素直に取ってくれればまだ救われようもあると思います.

正確な記録を残すことが重要であることは我々も重々承知していますが,それは必ずしも実現可能ではありません.設備のと整った環境で働いていなければ訴訟に勝てないということであれば,それはやはり医療崩壊を促進させる種にしかならないです.今のような赤字病院が増加するような状況下でそういった方面にお金を掛ける余裕などどこにあるのでしょうか?
我々にはどうしようもありません.経済諮問会議のメンバーの総入れ替え,さらに政権交代で社会保障費の削減が止められるような状況にならない限り医療崩壊は不可避ですね.
医療崩壊の要因は多々ありますが...

一日5人しか診察しないようにすれば良いのです。
そうすれば全ての問題は解決します。
後は断ればいいのです。
そうならない限り医師は限界までしゃぶりつくされたあと捨てられます。

医療訴訟を回避するために、いかなる結果になっても「自分はこれだけ必要なことをしたので責任はない」と堂々と主張し、何ら良心の呵責を感ずることなく医業を続行できる時代にしたいものです。米国のように。

はじめまして。
No83の元内科医様に賛成したい気持ちなのですが、今のところ、医師には応召義務なるものがあります。
患者制限は、事実上できないように思います。
ましてや、地域の基幹病院での救急医療に携わっておられる先生方は、今、とんでもない状況かと推察されます。
モトケン先生方は、「君達が当事者なんだから、自分達で努力して改善しなければ誰も助けてくれないよ。」という御意見のように見受けます。
そのとおりだと思うので、正直、辛いです。
法制度に関する自分の無知には、いつも呆れかえります。
自分の身は、自分で守らねばと自覚しているのですが、診断に迷う時、患者さんを診ながら、「もし、訴えられたらどうしよう」と、考える自分が哀れにすらなります。…単なる愚痴ですね。
峰村健司先生のような地道な努力が一番大切か、と思う今日このごろです。
モトケンさんのブログ、いつも楽しく拝見しています。感謝しております。

いまだに内科医 さま

患者制限はしなければなりません。
応召義務も究極的には廃止しなければなりません。
絶対に。

診療拒否の理由として認められないとされている事項、認められている事項は流布していますが
「専門外である・疲労している・患者の経済的理由」
では拒否は出来ないはずです。
しかし、どうしても困ってしまったら
「自信がない」といって泣き叫べばいいのではないでしょうか。他の医療機関に自信がないのでご紹介することにすればよいのではないでしょうか。自己を防衛することが大切です。何より大切なのは自分であることを忘れないでください。

私は長くこちらのブログを拝見していますが、
> 「君達が当事者なんだから、自分達で努力して改善しなければ誰も助けてくれないよ。」という御意見のように見受けます。
というのがモトケン先生方の意見のすべてだとは思いませんし、そんな簡単なものではありません。医療者側の努力不足に全て帰することができるほど単純な話ではありません。

主治医制が諸悪の根源であればそれを習慣としてやってきた医療者にすべて責任があるのでしょうか?よかれと思ってやってきた善意を踏み台にしておいてあまりな言い分ではないのでしょうか?
トンデモ鑑定医が医師の敵だとして医師の敵は医師という議論に矮小化するだけですむような問題でしょうか?鑑定医の考える「過失」と裁判官の感じ取る「過失」に大きな差があるとして、すべて裁判における語学力不足であると鑑定医に責任を負わせるだけで良いのでしょうか?

医師であることを卑下することはやめましょう。
自分の身を守るのは自分であることは当然のことです。カルテにはしつこく陰性所見をもらすことなく記載し、とことん防衛医療に勤しみましょう。
勤務時間は厳守しましょう。
防衛医療もちょっとしたコツがあれば簡単なものです。
自分を哀れに思う必要はありません。
法的知識は必要です。
このブログの過去ログを読みつつ簡単な初学者向けの法律の本を読まれては如何でしょうか。

自分を哀れに思う必要など全くありません。

 私が地道に努力しているのかは、自分ではよくわかりませんが、いくつか注意していることを書きます。
 まず、これまで我々医者が判決や判決文を読むとき、どうしても「これは医学的におかしい」とか「現在の医療水準では仕方がない」というふうに、自分達の世界の常識を土台にして批判・評価したものでした。しかしそんな批判の仕方をしても、法曹や一般人(マスコミを含む)には馬耳東風なこと請け合いです。彼らは「医療のことは素人」と言って憚らない人々なのです。暖簾に腕押し、糠に釘です。
 勿論モトケンさんが言うように、トンデモ判決の中には、原告側協力医がトンデモ医者であるために作られてしまったものもあるようです(私はそういう例を読んだことがないので想像ですが)。しかしそれ以前の段階で、いやしくも裁判所たるものが、公平といえる判断をしていない例があるらしいことがわかりました。我々としては医療裁判の判決文を読むときに、医学的な考え方をめぐらす読み方とは別に、そもそも公平に判断されているかという視点で読む必要があります。注目するべき点としては、例えばNo.11で私が指摘したように、認定された事実をもとに医療行為の是非を判断しているか否か、またNo.34で指摘したように、風桶理論の過失因果関係認定になっていないかなどがあります。
 さらに大きな注目点として、裁判所が、医療水準と口では言っておいて、実際には医学水準で判断するという、医療水準と医学水準の基準のすり替えが挙げられます。「医療水準」とは文字通り医療の水準であるはずで、そこには投資される資本や投入される人と物、費やされる時間などの全てが考慮されるべきであるにもかかわらず、裁判所の判断はそうでない。「医療慣行は必ずしも医療水準ではない」なんていう詭弁を、裁判所が使う時点で司法は終わっていると言っても過言ではない。財務省が医療費削減を指示して実際に削減されている現状では、それが医療水準の低下を来たすことは明らかであるのに、金銭的な事情は全く考慮しない。ヒト・モノ・カネの医療水準の限界を主張をしても、「人命がかかわる重大な…」とか「いやしくも医師たるもの…」とかの決まり文句で裁判官の脳内医療水準を押し付けられる例が続発しているようです。
 勤務時間を守るだとか、記録をきちんと残すだとかいうような、司法に対する防衛的な考え方だけでは、もはや医療はマトモに維持できません。司法の粗忽さを彼らにもわかるように洗い出して追求し、変更を求めることなくして医療破壊は免れません。
 そもそも、法曹や一般人(マスコミを含む)は、私がNo.72の蛸の吸盤えぐりで提示したような、医療に対する過剰な過失追求の無謀さをどう理解しているのでしょうか。No.72の例が納得できないような人は、医療を享受したり医療を語るには値しない人だと思います。
 最近私の書き込みが批判を浴びることが少なくて、自分で言っていることが正しいことなのか気がかりですが、批判がないということは皆さんが是認されているのかな。いずれ意見をまとめて全国の裁判官や医療問題弁護団の面々に郵送したいと思っています。

散瞳事件について。
裁判官は散瞳剤による散瞳症というものは角膜(又はぐう角)との癒着か水晶体との癒着か眼圧上昇によって起こると言ってますね。
本件では角膜・ぐう角との癒着も無かったし、散瞳剤による眼圧上昇も無かったから、持続的な散瞳水晶体との癒着を起こして散瞳症を起こしたと限定しているようなものですね。

さてミドリンPですが効果のピークは確か40分です。被告は2時間おきにミドリンPをさした健常者の瞳孔を写真にとって見せるべきでしょう。絶対動いていると思います。だから不適切では無いと言えると思います

それに角膜移植で散瞳剤を使うのは本来、ぐう角を後退させて水晶体の前進を防ぎ前房を形成するため(悪性緑内障とかね)、虹彩を休めるため(虹彩炎とおなじ)なはずで、虹彩癒着の防止のためではないはずです。本来ならアトロピンさしたっていいはずです。
しかしその目的は達成したかったが、アトロピンでは全く動かないので癒着が怖いからミドリンにしたし、夜間はさせないからやむをえなかったと言えば良かったのです

そもそも何で瞳孔が開いただけで2000万もはらわされるのですかね、失明と同等だなんて。

本当は眼圧上昇とか、虹彩切除が大きかったとか、癒着して、はがす時にも切れちゃったとか複合的なものでしょう

よかったらこれm3の掲示板に転載してください
m3の記事もわからなくなってしまったので

日本裁判官ネットワークブログ
http://blog.goo.ne.jp/j-j-n/e/8c020ca5b7a1c8c1fe442735272b3d04
で話題になったことからNo.38以下で話題にした独協越谷心臓手術事件が、1ヵ月半あまりで不起訴処分(嫌疑不十分)になりました。
No.72で書きましたが、真に証拠不十分での嫌疑不十分なのか、証拠も十分そろっている上での検察の判断が嫌疑不十分だったのかが気になります。

内容によっては検察審査会が動きませんかね?

#No.87のミドリンP訴訟に関しては、m3で書きました。明日口頭弁論を傍聴しに行くつもりです。

No.88
どうやって知ったか知りませんが、間違いないならそのブログにも不起訴報告コメントをしたらいかがでしょう?

>No.89 psq法曹さん

一番最初にどこで知ったのか、わからなくなってしまいましたが、今では読売、朝日、毎日に出ています。

ただ、その後オープンでないところで読んだソースに、ちょっと面白い一文が付いていたのを見て、現在そのソースがオープンになるのを待っているところです。

以下は読売の例です。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070911i212.htm
------------------------------------------------
独協医大病院の医療事故死、執刀医ら不起訴処分…埼玉
 埼玉県越谷市の独協医科大学越谷病院で2002年、同市の会社役員の男性(当時67歳)が心臓手術を受けた直後に死亡した医療事故で、さいたま地検は11日、業務上過失致死容疑で書類送検された執刀医の同大教授(59)と主治医(42)を嫌疑不十分で不起訴処分にしたと発表した。

 2人は02年10月18日、狭心症の男性のバイパス手術した際、心臓を傷つけ男性を死亡させた疑いが持たれていた。

(2007年9月11日19時45分 読売新聞)

追記
自分がそのニュースを3大新聞で確認したことで、一般的に知られるところとなった気がしてしまいました。No.88にてソースを提示しなかったことをお詫びします。

No.34で紹介した、円錐角膜の角膜移植後散瞳症訴訟の控訴審判決を聴いてきました。

細かい言い回しは違ったかもしれませんが、
「原判決を変更する。
原判決中、控訴人敗訴部分を取り消す。
訴訟費用は、一審、二審を通じて被控訴人の負担とする。」

とのことで、原告逆転敗訴でした。

一審はかの名高い藤山雅行裁判長のもとで、風が吹けば桶屋が儲かるとばかりに針穴を通すような理屈で、被告病院を有責にもって行きましたが、控訴審では覆えされました。控訴審の裁判長は柳田幸三裁判長で、特に医療側に厳しい印象もなく、私としては逆転があるだろうと考えていましたが、実際に逆転になりホッとしました。
(↓柳田裁判長の裁判例)
http://homepage2.nifty.com/MECON/judgment/judgment02.htm

気になるのは、一審判決が認定した、
「ミドリンPを1日6回もの過剰投与をした過失」(過失認定)と、
「不可逆性散瞳の原因は、術後高眼圧とミドリンP過剰投与の両方の作用によるものである」(因果関係認定)との、
どちらが(あるいは両方が)否定されたのかですが、それは後日裁判資料を閲覧してからまた報告しようと思います。

上にご報告した円錐角膜移植手術後散瞳症訴訟の高裁判決を読んできました。

藤山雅行裁判長の一審判決の病院敗訴の部分を完全否定して、完勝でした。要は、

円錐角膜移植後の不可逆的散瞳症の原因は不明である。
アトロピンが不可逆的散瞳症の原因ということはできない。
ミドリンPが不可逆的散瞳症の原因ということもできない。
ミドリンPを1日6回点眼したことにも過失はない。
術前に不可逆的散瞳症について説明する義務があったとはいえない。

ということでした。ごく当然の判決理由だと思うのですが、これが有責とされた一審判決は一体なんだったのかと思います。石原都知事は藤山雅行氏について「野球の打撃率は5 割超すと大変なものだが、あの人の高裁での逆転率はもっとすごいんでしょ。裁判全体に対する信用というか権威の問題になってくると思う」と語りましたが、激しく同感です。

要旨をざっとまとめると、

★不可逆的散瞳症の原因について
文献上その発生原因についていくつかの考え方が指摘されているが,結論としては発生原因は不明とされている。

★アトロピンと不可逆的散瞳症との関係
円錐角膜の角膜移植術後散瞳症にアトロピンの関与が疑われるとする文献もあるが、否定的な文献もある。アトロピンが角膜移植手術後散瞳症の発生原因だというのは、確立した 見解でもないし有力な見解でもないので,角膜移植手術後のアトロピン点眼が不可逆的散瞳症の原因であると認めることはできない。

★ミドリンPと不可逆的散瞳症との関係
さらに、ミドリンPを8時から20時までに5〜6回投与しても、夜間には薬効が切れると考えられるし、インタビューフォームにもミドリンPと不可逆性散瞳症に関する記述が 全くないし、ミドリンPが不可逆的散瞳症の原因であるとの文献もない。よってミドリンPが不可逆的散瞳症の原因と認めることはできない。

★本件におけるミドリンPの投与と過失の有無
ミドリンPのインタビューフォームには、1日当たりの点眼回数等については記載がなく、不可逆的散瞳症に関する記述もないし、事件当時にミドリンPの1日当たりの投与量、 投与回数についての定まった考え方が存在したとする証拠はない。また、手術後に実際に前房炎症があったので、ミドリンPを投与する必要性があったし、鑑定人は皆、ミドリン Pを1日6回投与したことを不適切だとの指摘はしなかった。したがって過失はなかった。

★角膜移植手術前の説明義務違反(不可逆的散瞳症についての説明をしなかったこと)
事件当時の円錐角膜移植手術後の不可逆的散瞳症については、発症率の報告に幅があるが、その後東大、東京医科歯科大、阪大の医師等が公表した成績によれば、不可逆的散瞳症 が発生した旨の記載がなく、本件術者の臨床経験においても、347例中で不可逆的散瞳症が発生した例がないことなどから、当時の医療水準では、円錐角膜移植術後の不可逆的 散瞳症が、患者に対して説明を要するような頻度で発生する合併症であるとの認識はなかったと認められる。海外では不可逆的散瞳症とアトロピンとの関係を示唆する文献があっ たが、本件術者はアトロピン点眼の使用を避ける予定であったし、実際に使用していないことも考えると、不可逆的散瞳症についての説明義務違反があるということはできない。

判決文の主要部分は以下にあげました。
http://www.orcaland.gr.jp/kaleido/iryosaiban/H15wa22464kousaihanketsu.html

>>No.93 峰村健司さん
判決文のご紹介ありがとうございます。

眼科門外漢の私にとってこちらは非常に難解を極めましたが(笑)、以前に藤山判事のレーシック手術医師勝訴判決を読んだ時の、何か実技ができなくて使い物にならない研修医が無理矢理文献をあさっていいとこ取りだけつなぎ合わせて作文したような、奇妙奇天烈畳上水練医学的奇体的無過失判定(笑)とは全く異なる臨床医学的視点からの判定が行われているように思われ、臨床現場を知る者のひとりとして納得できる判決文(特に医学論文の参照の仕方が合理的でしたw)であるように感じたことを、ご紹介のお礼に替えて申し述べたいと存じまつ(笑)。

No.94 ぼつでおkさん

>以前に藤山判事のレーシック手術医師勝訴判決を読んだ時の、何か実技ができなくて使い物にならない研修医が無理矢理文献をあさっていいとこ取りだけつなぎ合わせて作文したような、奇妙奇天烈畳上水練医学的奇体的無過失判定(笑)

おー、すばらしいたとえです! この散瞳症訴訟の一審判決もまさにそれでした! 今回の高裁判決を読むと、これを病院敗訴に書くことはほとんど不可能に近いように見えるでしょう。率直に言って、藤山氏に判事をやらせるのはナントカに刃物と言ってもいいようにも思います。

藤山判事の地裁判決の原本を読んで、唯一癒されるのは味のある直筆の署名を見ることくらいだったのですが、高裁に異動になった今、裁判官の氏名も活字で印刷される高裁判決文では、彼の署名が記されることもなく、それこそ存在意義が(ry

藤山判事の医療実施側のみに100点満点の実現を「期待権」として義務付け、減点部分を全て施療者の「過失」と認定する判決は、まっこと不公正を絵に描いた如しであります。
本来の公正な司法判決を純正の慶長大判とすると、期待権判決は金の含有量を大きく減らし混ぜ物を増やした悪貨といえるでしょう。
そして藤山判事が期待権判決を出すたびに高裁で逆転され続けても依細構わず量産し続けたことで、何が起こったでしょう。
マスゴミがこの判事の判決のものめずらしさに目をつけました。

マスゴミにジャーナリズムは存在しません。あるのはコマーシャリズムすなわち視聴率だけです。注目を集めさえすれば彼らの活動は大成功なので、報道番組に全く勉学と無縁の白痴的三流お笑いタレントを起用しても全く恥じるところがありません。起用する基準にその人物の学識など全く不要で、ただそのタレントのもつばかげた人気の大きさ(視聴率で測定していますw)だけがすべてなのですから。そしてつねに大衆に媚びて人気を維持しようとする三流視聴率芸人にニュースを語らせれば、自分の芸(といえるほどのものでもない、幼児のお遊戯)のネタにすることしか考えず、大衆の低級な情動である「期待」を煽るだけの報道文をひねり出してしゃべるのです。そこにニュースの裏に必ず存在する真実を冷徹に追究しようとする姿勢など微塵も存在し得ず、ジャーナリズムは捨てられ、第4権力として三権を監視するマスコミの大切な役割も同時に弊履の如く捨てて知らぬ顔をしているのです。
マスゴミが流すのはニュースではなくゴシップネタで、視聴者の低劣な情動を煽りたてる効果しか目的意識はないのです。

そして日本全国でマスゴミ報道が作り出したTV界内部だけで通用する「期待権に幼稚に期待する英雄待望妄想世論」に影響を受けた期待権裁判官が続出し、現在司法界は典型的な「悪貨は良貨を駆逐する」状態です。唾棄すべきマスゴミ第4権力に白痴化された裁判官による期待権判決例が拡大再生産されていますから、これはあたかも「塵も積もれば(富士)山となる」状態といえるでしょう。こうなればもう国家の品格もゴミの山に埋もれてどこへいったかわからなくなってしまいます。

そしてマスゴミは今日も能天気に「そんなのカンケーねー!」とばかりにゴシップ垂れ流し報道(笑)し、裁判所では今日もどこかで期待権ゴミ判決で司法全体を悪貨で埋め尽くそうとセッセとやってますけど(笑)

No.96 ぼつでおk(医)さん

いわゆる”期待権”というのは、最高裁で否定されてます(3vs2の僅差ですが。。。。)。判事意見でハッキリと。

モトケンさんがお怒りにならないうちに、指摘しておきます。

但し、原告・原告弁護士が持ち出してくることは当然あります。
そのときの防御として、過剰な期待権などは、ぶっ飛ばして蹴っ飛ばす理論的根拠を提示するのです。

民事裁判は殴りあわない、文書を介した喧嘩かもしれません

>>No.97 Med_Lawさん
>モトケンさんがお怒りにならないうちに、指摘しておきます。

コメントありがとうございます。
ところで、モトケン先生はブログ主でおられますし、ご自分でちゃんとお怒りになるときはなられるでしょう。私もコメントを書くときにはいつでもモトケン先生のご指摘を期待しながら書いておりますので、ご心配にはおよびませんですよ(笑)。

ところで、私のNo.96以降は「期待権論」エントリーに場所を変えたほうがいいと思いますので、いまからNo.96をそちらへ貼り付けます。もしよろしければMed_Lawさんもそうしていただければうれしいのですが。

こちらの流れに戻って(笑)、藤山判事のレーシック手術医師勝訴判決についてもう少し違和感の原因について述べたいと思います。

要は藤山判事が過失の有無の認定において、臨床医学上の合理性についての検討を放棄して、もっぱら患者期待権が成立する余地があるかどうかの検討材料として、全医療記録に記された文言が期待権の文章フォームが当てはめられるかどうかだけについて、文法的修辞学的に検討したにすぎないからだと思います。

その結果参考文献も修辞学的一致点だけを引用したため医学的解釈とかけはなれた解釈だったが、偶然の結果として修辞学的に期待権フォームが見つけられなかったため施療者勝訴判決となっただけであろうと思いました(笑)。

期待権が過失の判断においてエアポケットツールであるとされているようですが、そのエアポケット自体が権利のエアポケットではなく判断材料を思索する行為である思考力のエアポケットそのものであることがわかると思います。

おやまたトピずれ始まっちゃいましたようです(笑)。ここで括っときますw

連投失礼。
藤山判決についてです。
とはいえ、期待権論エントリでしたほうがいいのかどうか、わかりません(><)w

患者期待権だけを詳しく(笑)検討した結果医療側勝訴となるケースがあるということは、必ずしも期待権が事故における過失の発見に有効なツールであるということにはなりません。

物理化学の計算を行う時計算過程の理論が誤っていても答えだけ合うという現象は普通に観察されます。思考過程を記入しないで解答だけを記入するペーパーテストにおける「怪我の功名」みたいなものですね(笑)。
通常の試験官ならマークシートで一次試験をしてスクリーニングし、二次試験として思考能力推理能力を見るために思考過程そのものから記述させる試験を行ってそおゆう偶然の好成績という紛らわしい要素をできるだけ排除して合否判定をすると思います。

期待権判決がよくひっくり返るというのはちょうどこの現象と同じことが起こっているのでありましょう(笑)。

ということは、藤山判決が用いた期待権理論の定理ツールとしての根本的誤謬性が、逆転判決の多発という現象結果として現れている、と私は考えています。

No.100, No.101 ぼつでおk(医)さん

藤山レーシック判決は最高裁HPに2つ掲載されていますが、
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0010;jsessionid=92D05520E03741FA28C6D2CE96E0A8F3
僕はいずれを読んでも特に違和感を感じなかったものです(汗)

これらでは説明義務についてしつこく検討していますが、
1. 医学的に過失を認めることはできない
2. 残るは説明義務違反
3. 最高裁判例に沿って検討(http://homepage2.nifty.com/MECON/trial.htm)
4. 説明義務違反も認めることはできない
5. 無責

となっており、特に「期待権」に特化した検討をしたとは感じられません。どんなもんでしょう?

説明義務違反の検討に例の100点満点理論を導入すればそれがそのまま患者側期待権のみを過失判定の根拠とする期待権判決そのものが出現するのではありませんか(笑)。あの判決文はそういう論理構成で書かれていると思います。

さらに岡山のカテーテル感染症合併死亡症例の病院の説明義務違反認定に関しては、臨床現場の医学的評価を必要とする場面においてそれをせず、患者側期待権の文法のみを医療記録の流れの中に定型フォームとしてはめ込めるかどうかだけで過失認定を行っていると思います。すなわち、現場の作業過程では容認できる範囲のヒューマンエラーの程度のものを、文法的に似ているだけの期待権を認定している、畳上水練医学解釈そのものだと思います(笑)。
期待権を定理として用いる限り、その落とし穴にはいつどこではまってもおかしくないと思います。
レーシック判決では全医療記録を通じてたまたま期待権フォームが見つけられなかっただけの事案であったと考えます。(笑)

えーと、私が頓珍漢なことを語っているのかも知れないので、その節はご容赦を。

>説明義務違反の検討に例の100点満点理論を導入

ということを、最高裁平成13年11月27日判決が要求しており、最高裁判例は下級審を縛るので、下級審においてこの項目を詳細に検討しているのはやむを得ないことだと思いました。100点満点理論か否かは…うーん、なんともいえません。

さっきリンクがうまくいかなかったので、再掲します。
↓当事者関係者のページ
http://homepage2.nifty.com/MECON/trial.htm
↓最高裁判決
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=25268&hanreiKbn=01

>>No.105 峰村健司さん
実際藤山判事以前にも最高裁の判決で医師から見て殆どトンでも判決というものは存在していました。その頃は経済的にも医師と患者は明らかに強者と弱者であるケースが普通でしたので、敗訴になった理屈は承服しかねるけど経済的強者である医師が経済的弱者でもある患者に通常より高額の慰謝料を支払うのもやむを得ない社会的要請はあるだろうと、医師の世界でも受け取られていましたし、そういうケースを他山の石として自らの医療技術を向上させる気概というものが医師の世界に存在していたと思います。

しかし藤山判事は医療裁判の世界に登場以来最初から、本来独立した事案であって個別にオーダーメイドの検討がなされるべき医療事故をひとくくりにして、説明義務違反の中に「患者期待権」を上乗せして持ち込み、個々の事情を無視してなにはともあれ医療事故で施療者に過失があったと認定された際の賠償責任は、実際にかかった医療コストの多寡にかかわりなく一律に交通事故の加害者責任よりも高額となるべきであるという、根拠のない医療事故懲罰的高額賠償の風潮を作り出しました。

本来民事であった医療事故に懲罰的賠償をつねに認めることで刑事事件的性質を付与した行為です。このことによって医師の国家資格で免許されて行う医療行為に必要不可欠な「裁量」の正当性が損なわれました。

医療事故を分析するに当たって期待権など本来必要な概念でしょうか?説明義務違反があったなら説明義務違反を認定するだけで十分であり、そのケースの個別的事情に応じて賠償額の和解点を関係者間だけで検討すればよろしく、それが当事者間だけで話し合う民事訴訟の本来のありようでしょう。

すなわち期待権の概念導入による医療側賠償責任の一律高額化は全く法的根拠がなく、医師の裁量行為であるというだけで懲罰的賠責を認めるというなら、それはもはや司法判断ではなく行政判断であり、憲法に定められた司法の決定権限範囲を逸脱しているという疑いが生じます。

このように、「期待権」という名の権利?が法律の世界に存在してよいという藤山説(期待権の命名者でしょ?)の論拠自体を否定し、期待権は過失認定においてもともと不要な(禁則的)判断ツールであると主張する立場からの論証を、私はここで試みているのであるとご理解ください。

なんか完全にトピずれ気味ですけど(笑)。

No.106 ぼつでおk(医)さん

日本では懲罰的賠償は認められていません(公式には)

医療訴訟では、他の訴訟と比べて争いのある過失なのに懲罰的”慰謝料”が認められていることが問題だろうと私は思ってます。

慰謝料とは精神的損害に対する金銭補償ですが、正当業務行為の一環として行ったことで、過失に争いがあっても慰謝料2000万円だのという、交通事故と同じ”精神的損害”を遺族に認めて良いものだろうか?ということです。
これは、医療行為一切に対する著しい非難・否定に他なりません

藤山判決に対する医師の強い反発は、ここにあると思ってます

>No.106 ぼつでおk(医)さん

>このように、「期待権」という名の権利?が法律の世界に存在してよいという藤山説(期待権の命名者でしょ?)の論拠自体を否定し、

「期待権」という用語を初めて使用した判例は、福岡地判昭和52年3月29日(判時867号90頁)とされているようです(「医療事故の法律相談」100頁)。

 また、この判例が特異なものではなく、この時点から、判例等で議論されてきたものです。

http://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E7%99%82%E4%BA%8B%E6%95%85%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%BE%8B%E7%9B%B8%E8%AB%87-%E5%8C%BB%E7%99%82%E5%95%8F%E9%A1%8C%E5%BC%81%E8%AD%B7%E5%9B%A3/dp/4313511121/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1203900904&sr=8-1

No.107 Med_Lawさん、No.108 L.A.LAWさん

コメントありがとうございます。
仰る内容はよく理解できます。
ただ、私は医療裁判における期待権は法律ツールとしては禁じ手(将棋に例えれば二歩、囲碁に例えれば待った打ち直しや続け打ち)であるとする立場であり、医療行為における「因果関係なき過失」認定は囲碁将棋の試合中人目を盗んでこっそり駒や石の位置をずらすイカサマ目晦ましの小手先技に等しいという印象を受ける者です(笑)。
個別の事情もわからないのに単に提示金額の多寡そのものについて高額というのはおかしいと怒りを覚えるものではまったくございません。
ただ、試合のルールは当事者全員が公明正大に守るべきだと主張しているだけの心算です(笑)。

ここでは期待権の使い手として巷間有名な藤山判事の判決文を題材に、期待権は実際の医療契約の中の医療行為に対してどこにどういうふうに行使される権利なのかを分析して、私が得た結論を述べているに過ぎません。裁判官個人の人格個性についてはまったく検討の目的外です。
純粋に思考過程が論理一貫しているかどうかの、判決の合理性そのものの検証作業です。
その結果藤山判決については私が拝見した判決文のすべてにわたって(せいぜい5,6個くらいですがw)医療裁判にあってはもっとフェアネスを!と叫びたくなるくらい期待権の使える箇所を見つけることだけに注目して医療記録(=証拠)の検討を行っていることが、彼の文章を貫く論理から読み取れると思います。

以上が、おおむね私が論じるとき期待権の論理学上の保証人として結局のところ藤山学説、学派を指定せざるを得ない理由です。

ところで、そろそろあちらのエントリーで続きをやるというのはいかがでしょうか。

>No.95 峰村健司さん
産婦人科領域ですが、藤山判事の以下のような判決があります。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070330121454.pdf

この判決を病院側敗訴に持ち込んだ判事について、いかが思われますか?

No.106 ぼつでおk(医)さん

一律に交通事故の加害者責任よりも高額となるべき

判決文のどこにもそのような事は書いてないと思いますが

No.95 しまさん

しまさんがなにか勘違いしているんだと思うんですが、藤山雅行氏は馬鹿じゃないですから、「これは医師の裁量の範囲内」ということについてはそれなりに判断できていると思っています。

彼の問題は、診療の中で、添付文書の適用外とか、治療方針を左右するような説明義務違反とかいった、「かっちりと決められている義務」から外れた部分を見つけるとエンジンがかかってしまい、風桶理論で有責を作り出してしまうことです。このことを称して私は「ナントカに刃物」と言っているのです。

彼の無責判決を持ってきても全然面白いと思いません。当たり前のことが書いてあるだけだと思います。

>No.112 峰村健司さん
微妙な書き方を致しましたが、問題なのはこの事案が二審では逆転判決を受けている事です。「当たり前」の判決が覆された訳ですから、この二審判決は厳しく問われなければならないのではないでしょうか。


添付文書の適用外とか、治療方針を左右するような説明義務違反とかいった、「かっちりと決められている義務」から外れた部分を見つけるとエンジンがかかってしまい、風桶理論で有責を作り出してしまうことです。

藤山判事が添付文書を問題にした判決は寡聞にして存じ上げませんが、説明義務違反に関しては沢山あると思います。しかし、ある判決に関しては説明義務違反を問い、ある判決に関しては説明義務違反を問わない。この差が非常に大きいことが問題だと思います。

従って、何を持って有責と無責を分けているのか、考えることが重要だと私は思います。

No.110でしまさんが紹介された裁判で脳性まひに関して説明不足を問題にしなかったは、事後の説明についてであって、その説明の有無が患者の治療選択を左右させることがないからじゃないですかね。治療前の説明に関しては厳しいですね。私の中では「藤山理論」はかなり単純化されています。

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