エントリ

「慰謝料は通常交通事故より高額」確定 最高裁(毎日新聞 2008年1月24日 20時29分 ウェブ魚拓

 医療崩壊について考え、語るエントリ(その4)のコメント欄No.238以下である程度議論がなされている問題です。
 同エントリはコメント数が多くなっていますので、こちらに場所を移しました。

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コメント(146)

YUNYUNさま

とりあえず、詳しい説明をありがとうございました。でも難しくて私の単純な頭では理解不能です・・・・

>No.247 ぼつでおk(医)さん
>この論法でいくと判決や警察・検察捜査の免責もひいては行政のすべての「裁量」行為の免責さえも認められなくなりますが?
論理的に自家撞着の誤りが含まれていませんか?

「「裁量」行為の免責」というのが、具体的になにをさしているのかがよくわかりませんが、そもそも、該当条文の適用が法律で制限されていれば(国賠法によって公務員の個々人への損害賠償請求権が制限されている等)、その条文が適用されませんので、損害賠償請求権(法律効果)は発生しません(逆に言えば、適用されれば同じいわゆる「期待権」の論理が適用されうることになります−国倍でも慰謝料は認められます)、また、「過失」がなければ、そもそも要件が満たされませんので、損害賠償請求権(法律効果)は発生しません。

>No.246 ぼつでおk(医)さん

>この「悪質であることを立証」するには具体的にどういう「事実」を材料として(あるいは証言であるならば証言者本人の信憑性についてどういう保証を必要とするか)、被告が業として行う行為の「悪質性や妥当性」を論理的に「立証」するのでしょうか?

上記は、私のコメントではありませんが、立証対象は、具体的事実ですし、それが、主観的事実の場合は、客観的事実を積み上げてということになるかと思います。

 交通事故の場合であれば、たとえば、前にあったかと思いますが、トラックの運転手が高速道路で酔っぱらい運転で、交通事故を起こし、被害者の内、子供が2人車の中で焼き殺された事故では、事故後、救出活動をしなかったことも、慰謝料を増額させる事由になったように、問題となっている事故後の行為も評価対象となります。

 医療事故の場合であれば、過失があったとすれば、問題となっている行為後の対応もやはり、対象となると思います(たとえば暴言、説明不足等)。これらの行為があったかなかったかは、通常の訴訟における立証の問題と同じです。

 お答えになっているかどうかわかりませんが、とりあえず。

モトケン先生期待権エントリーをたてていただきましてありがとうございます。
前のエントリーでやや唐突に始まった議論ですが、期待権につきましては私が先生のここのブログにお邪魔しようと決める最大の動機付けになったテーマです(動機は2つあってもうひとつは大野病院事件です)。
時間の許す限り期待権という言葉が登場して以来抱いている疑問点について質問を発していきたいと思います。

別エントリーからの引継ぎの応答コメントになりますので、習熟するまで最初はちょっと工夫が足りないコメントが続くかもしれませんが、皆様何卒ご容赦のほどお願い申し上げます。

>>No.2 L.A.LAWさん
お返事ありがとうございます。

>「「裁量」行為の免責」というのが、具体的になにをさしているのかがよくわかりません

自分でも自分の文才に対しては恨みを抱いております、自分に対して(笑)。文才に関してはちょっと急いで書くとすぐ意味不明文が発生するという、バグ含みのプログラムしか自分の脳内に構築できてないです(笑)。
ご指摘いただいた点をなんとか直して行きたいと思ってます(笑)。
とりあえずアップ致します。

あ、早速エラー発生です(笑)。
>>No.3の
>(動機は2つあってもうひとつは大野病院事件です)。
を大野病院「事故」と訂正いたします。すみません。

いちいち参照が面倒なので、医療崩壊4エントリでの期待権論関係のコメントを勝手にコピペします。

No.242 YUNYUN(弁護士)さん | 2008年2月 5日 12:10 | CID 116022  (Top)
ついでに申しますと、
長野の事件では、いわゆる期待権は問題となっておりません。

医療訴訟における「期待権」理論とは、
・過失は立証できた
・因果関係の立証はできなかった
・もし妥当な治療を施していれば、救命or重篤な後遺症が生じなかった可能性が相当程度あることは立証できた
という場合に、見舞金程度(200〜300万円が多い)支払えという理論です。

医療関係で因果関係の立証が困難であることの、救済を図ったものと解されています。
医療に過失がある(不適切な医療であった)ことは必要。
実際には、そうそう認められるものではないと考えます。

No.243 ぼつでおk(医)さん | 2008年2月 5日 14:00 | CID 116042
>>No.242期待権のご解説文の起承転結を拝見いたしますと、「転」の部分で

>医療に過失がある(不適切な医療であった)ことは必要。

としておられますが、起承転結の「承」部分では

>・過失は立証できた
>・因果関係の立証はできなかった

としておられますね。

行為と結果の間に因果関係が立証できないのに「過失」が立証できたとする論証法を、藤山期待権理論以外にはいかなる学問においても聞いた経験がないのです。
文系理系の区別なく、学問はすべて論理で構築されております。

(少し唐突ですが時間が無いので)
この期待権論証への疑問が私の勉強不足が原因か藤山裁判官の勉強不足が原因かのいずれであるのかが最も知りたいところなのです。

No.244 L.A.LAWさん | 2008年2月 5日 17:37 | CID 116072  (Top)

>No.243 ぼつでおk(医)さん
>この期待権論証への疑問が私の勉強不足が原因か藤山裁判官の勉強不足が原因かのいずれであるのかが最も知りたいところなのです。

申し訳ありませんが、この二者の選択だと ぼつでおk(医)さんの勉強不足ということにならざるをえません。

 民法の不法行為、刑法の総論等の基本書をお読みいただければ、過失と因果関係は、明確に別の要件です。

>文系理系の区別なく、学問はすべて論理で構築されております。

 この部分はどういうことを言われようとしているかわかりませんが、法律の構造としては、特定条文(あるいは解釈で)で定められた法律要件を満たすと、同じく定められた法律効果が発生するという構造で、たとえば要件に、過失・因果関係・損害等がある場合、そのうち、因果関係という法律要件がないから、法律効果が発生しないという構造ですから、論理的におかしいことはないと思いますが。

 たとえば、交通事故の事例でも、過失による生じた交通事故で、被害者に損害(事故がなくても生じた損害、PTSD等の精神的損害等)が発生した場合で、過失はあるし、損害もある。しかし、因果関係がないという場合もありますし、当該過失があってもなくても、事故が生じ損害が生じたとされる場合は、因果関係はないことになります。

No.245 うらぶれ内科さん | 2008年2月 5日 17:59 | CID 116075  (Top)

No.242 YUNYUN様
>・もし妥当な治療を施していれば、救命or重篤な後遺症が生じなかった可能性が相当程度あることは立証できた
という場合に、見舞金程度(200〜300万円が多い)支払えという理論です。

つまり見舞金程度というのは、「可能性が相当程度はある」といえども、その程度は低い。だから200-300万円程度の小額を支払えと理解してもよろしいのでしょうか。そうだとするとこのような判断、つまり可能性の程度に応じて賠償を支払えという判断は、医療訴訟以外でもされていることなのでしょうか。

No.246 ぼつでおk(医)さん | 2008年2月 5日 18:10 | CID 116076  (Top)

>No.244 L.A.LAWさん
レスありがとうございます。
ではお答えいただいた「過失」の立証に関する疑義を別の点について質問いたします(笑)。

>>No.241
>被告が悪質であることを主張・立証できれば慰謝料がアップされる

この「悪質であることを立証」するには具体的にどういう「事実」を材料として(あるいは証言であるならば証言者本人の信憑性についてどういう保証を必要とするか)、被告が業として行う行為の「悪質性や妥当性」を論理的に「立証」するのでしょうか?

時間が無いので今時点ではこの質問だけです(笑)。

---------------
No.247 ぼつでおk(医)さん | 2008年2月 5日 18:26 | CID 116080  (Top)

>>No.245 うらぶれ内科さん
助っ人ありがとうございます、頼もしす(笑)。
その点も>No.244 L.A.LAWさんに質問しようと思ってました(笑)。

> たとえば、交通事故の事例でも、過失による生じた交通事故で、被害者に損害(事故がなくても生じた損害、PTSD等の精神的損害等)が発生した場合で、過失はあるし、損害もある。しかし、因果関係がないという場合もありますし、当該過失があってもなくても、事故が生じ損害が生じたとされる場合は、因果関係はないことになります。>

この論法でいくと判決や警察・検察捜査の免責もひいては行政のすべての「裁量」行為の免責さえも認められなくなりますが?
論理的に自家撞着の誤りが含まれていませんか?

No.248 fuka_fukaさん | 2008年2月 5日 18:39 | CID 116082  (Top)

期待権(wikipedia)
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9F%E5%BE%85%E6%A8%A9

生存していた相当程度の可能性について 弁護士 永島賢也 2006年8月15日
ttp://www.yonekawa-lo.com/iryoseizon1.htm

2007. 5. 15 連載第57回 因果関係の考え方は時代とともに変化(日経Medical)
ttp://medical.nikkeibp.co.jp/leaf/mem/pub/series/hdla/200705/503194.html

過去頻回既出論点故解説略

No.249 ぼつでおk(医)さん | 2008年2月 5日 18:46 | CID 116083  (Top)

もうぎりぎり(笑)
>>No.248 fuka_fukaさんに質問(場外で書いたけどお答えいただいてない笑)

因果関係なき過失
過失なき因果関係

正解はどっちですか?(笑)。

No.250 fuka_fukaさん | 2008年2月 5日 18:59 | CID 116086  (Top)

ぼつでおk(医)さま

こちら(本館)か場外乱闘掲示板のどちらかで書いた記憶がありますが。。。

L.A.LAWさまが書かれたとおりです。「因果関係なき過失」 は概念上成立し得ますし、割り箸事件でも裁判所が現に採用した立論です。

「過失なき因果関係」 は、概念として成立し得ない、とまでいえないかもしれませんが、語義的にしっくりきません。
「因果関係」 という概念は、その起点となる行為が認められてはじめて、「結果」 との間をつなぐものなので。
「ミスは一切なかったが患者が死亡した場合における実際の死因」 なんかを指すことになるのだろうと思いますが、「過失なき因果関係」 とそれをわざわざ呼ぶと、混乱するばかりではなかろうかと思います。

No.251 うらぶれ内科さん | 2008年2月 5日 20:14 | CID 116095  (Top)

結局期待権というのは囲碁のコミダシの変更、つまり、コミ五目半では黒の勝率が高すぎるから6目半にルールを(医療訴訟に限って)変更しようてなもんですな。

No.252 しまさん | 2008年2月 5日 21:06 | CID 116099  (Top)

マスコミが被告の訴訟に関しても期待権という言葉が使われているようですので、特に医療訴訟に限定した概念ではないと思います。

No.253 YUNYUN(弁護士)さん | 2008年2月 5日 21:11 | CID 116101  (Top)

No.245 うらぶれ内科さま

> 見舞金程度というのは、「可能性が相当程度はある」といえども、その程度は低い。だから200-300万円程度の小額を支払え

ん〜ちょっとニュアンス違うような・・・説明が難しいのですが。

期待権論で賠償される損害の内容は精神的苦痛であり、慰謝料の一種とされています。
原則として、過失あっても因果関係がなければ、損害賠償責任は負わない。だから、生きていたら稼いだはずの収入などの逸失利益は賠償されない。
しかし、因果関係がイイ線行っているときは、「過失のない医療を受ける期待」を保護し、慰謝料ちょこっと払おう。

医療以外の他の訴訟で同様の考え方がありうるかという点では、
一般的に因果関係の立証が難しい訴訟類型、例えば公害被害などについて、
立証責任を緩和することができないかという議論がなされています。
原告と被告の衡平性・バランスがあるので、どういう手法で立証緩和すべきか諸説あります。
公害の場合は、「疫学的因果関係論」とか。

> 可能性の程度に応じて賠償を支払えという判断

確率的心証説、つまり原告が立証できた程度に応じて払えという学説のことかと思いますが、
今の判例理論はそういう考え方は取っていないと考えます。
期待権論で、「過失がなければ助かった相当程度の可能性」すらも立証できなかった場合は、賠償額はゼロとされていますので(裁判官の心証では立証度10%とか20%とか、ゼロではないことが想定される)。

最高裁平成17年12月08日判決 平成17(受)715
拘置所に勾留中の者が脳こうそくを発症し重大な後遺症が残った場合について,速やかに外部の医療機関へ転送されていたならば重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたとはいえないとして,国家賠償責任が認められなかった事例
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=24968&hanreiKbn=01

なお、「因果関係の寄与度」という考え方がありますが、私的には、これは確率的心証説とは別の問題と理解しております。
・結果発生に至る原因が複数ある場合に、どの要因がどの程度寄与したかによって、責任を分担させる
こちらは、判例が取る考え方です。
例えば、交通事故で、被害者の身体の元々の病的素因が後遺症発症に影響した場合。
これを、医療訴訟に応用できるのではないかと思います。医師の治療の不手際と、患者の元々の傷病疾病が競合して死亡に至り、医師の寄与度は50%だから、賠償金額は発生した損害額の半額とせよ、というように。
ただし、この手法は過失や損害が有ることを前提とした医療者側の抗弁となるので、
過失の有無を争っている場合には主張しにくいことと、寄与度の立証が難しそうです。

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No.254 YUNYUN(弁護士)さん | 2008年2月 5日 21:26 | CID 116105  (Top)

> マスコミが被告の訴訟に関しても期待権という言葉が使われているようです(No.252 しま様)

確かに、俗な言葉では色々な場面で「期待権」と言われますが、
その意味するところは多種多様で、法的に認められた権利であったりそうでなかったり。
どの場面で使われるかによって、全く別のものを指すと考えたほうがよい。

少なくとも、医療訴訟で使われる、法的権利としての「期待権」とは、No.242で述べた意味のものです。
従って、他の意味で「期待権」という用語を使うことは、議論を混乱させますから、止めていただくほうがよいと思います。

No.255 しまさん | 2008年2月 5日 21:46 | CID 116110  (Top)

>YUNYUNさん
平成19年01月29日 東京高裁判決では以下のように述べられています。

番組制作者の編集の自由と,取材対象者の自己決定権の関係については,取材の経過等を検討し,取材者と取材対象者の関係を全体的に考慮して,取材者の言動等により取材対象者がそのような期待を抱くのもやむを得ない特段の事情が認められるときは,番組制作者の編集の自由もそれに応じて一定の制約を受け,取材対象者の番組内容に対する期待と信頼が法的に保護されるべきものと評価すべきである。そうすると,このような期待と信頼を故意又は過失により侵害する行為は,法的利益の違法な侵害として不法行為となると解するのが相当である。

上記から、私は以下のように考えました

1.期待を抱くのもやむを得ない特段の事情が認められ、
2.期待と信頼が故意又は過失により侵害された場合
3.期待権が侵害されたとして、裁判所は慰謝料を原告から請求する場合がある

そして、これらの条件を満たせば、医療訴訟にかかわらず期待権が認められる事があると。

勘違いしていたり、的を外していた考えであれば、遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。

No.257 psq法曹さん | 2008年2月 5日 23:58 | CID 116133  (Top)

では顰蹙買いそうですが一言(物議をかもすかな?)。
1 「因果関係」、「結果」、「損害」とか同じ用語を使っていますが、それぞれが生きている分野との関係で、意味や使い方に違いがあるような気がします(直感ですが)。

 「一人の死(又は重症)」という「結果」を意識する場合と、結果は一度に色々な人に複数起きる(一人に色々な種類の結果が起きる)ことをイメージしている場合とでは、話がすれ違うと思います。

 あと自然的因果関係とか法的因果関係とか・・・既出ですかね?

2 私自身は、(相当)因果関係のない過失というのは腑に落ちず、そこでいう「過失」は結果へのラインから外れるのだから過失と呼ぶべきものではない(せいぜい過失らしきもの)かと。
 割り箸事件の一審判決も、因果関係がないと言うなら、その過失(らしきもの)の有無にかかわらず結果が発生したわけで、単なる不運な事故(不可抗力)となってよさそうなもの。

 あるいは「結果」を変容させたものを観念し(結果A→結果B)、その結果B(ex.相当程度の可能性とかいうやつ?)に対して、過失(らしかったもの)との因果関係があるとしているのではないかと考えたりしています。(未整理ですが)

3 もちろん、次のようなことはあります。
 甲が過失で自動車衝突事故を起こし、乙の自動車破損と身体的傷害を与え、そこを偶々通りがかった歩行者丙が事故を見てPTSDになった。
 甲の過失はあるが、丙のPTSDという結果・損害に対しては、相当因果関係の範囲外ということで因果関係がなく、責任を負わない。
 これとても、因果関係の範囲外にあるものまで「結果」と言って良いのかどうかという問題はありますが。

 法曹だけど変かしらん?
 いつでも撤回する用意はあります(笑)

No.5〜17、移植終わり。

うちの事務所のナローなバンドではえらい時間がかかりました。
では皆様、議論をお続けください。

医療訴訟で期待権を理由として損害賠償を認めた判決は、そう多くないと思います。

ちなみに、一審で期待権慰謝料を認めたが、
控訴審では本来の因果関係が認められて、医療側が敗訴した事件
(最高裁は上告棄却)。
◆八戸市立市民病院医療過誤訴訟(期待権侵害)
http://www.yabelab.net/blog/2006/10/03-153011.php

>No.18 YUNYUN(弁護士)さま

ご苦労さまです。

私なんぞは、いくら熟読しても、とうてい理解できない議論なんですが、ある程度、話の筋がわかりやすく読めるように(?)なったような気がします。

YUNYUN(弁護士)様

これまでの期待権の解説を、医療、法律とも半人前の私なりに整理してみました。
医療訴訟での立証の成否と、損害賠償や慰謝料の関係は、概ね次のA,B,C,の3パターンと理解して宜しいのでしょうか?

A:医療側の敗訴
立証は
・過失は立証→成功
・因果関係の立証→成功
・期待権(無過失なら助った相当程度の可能性)立証→成功
判決は
・過失&因果関係による損害賠償→○
・過失&因果関係による慰謝料→○
・過失のない医療への期待権での慰謝料→×?、○?

B:損害賠償は無いが、期待権の慰謝料あり(和解勧告?)
立証は
・過失は立証→成功
・因果関係の立証→失敗(惜しかった、もうチョット)
・期待権(無過失なら助った相当程度の可能性)立証→成功
判決は
・過失&因果関係による損害賠償→×
・過失&因果関係による慰謝料→×
・過失のない医療への期待権での慰謝料→○

C:医療側の勝訴
立証は
・過失は立証→失敗
・因果関係の立証→失敗
・期待権(無過失なら助った相当程度の可能性)立証→失敗
判決は
・過失&因果関係による損害賠償→×
・過失&因果関係による慰謝料→×
・過失のない医療への期待権での慰謝料→×

 アクセス状況報告
 このエントリ、訪問者の関心がとても高いです。

>>YUNYUN(弁護士) byYUNYUN移植鏝さん
コテコテに貼ってくださってえらいすんません(笑)。この旺盛な行動力、さすがは勇名全国に馳せわたる大阪のおry)ゲホゲホ、うぅ咳が(笑)。
なんとも大事業でおられたようですが、おかげさまでずいぶん続けやすくなりました、大変ありがとうございます。

ここまできたらどうせならNo.1からNo.4までのコメントもいったん削除してYUNYUN(弁護士) byYUNYUN移植鏝さんの力作の続きに移植したくなりましたが、そちらは仕様上モトケン先生にお願いするしかない(笑)ようです。
私如きヤッコはそんな大それたお願い恐れ多くてとっても口にできないで心に思うだけの棚ボタ爺なんでつが、どなたかおねがいしてくれないかなー、ってネタばれのベタなカキコで皆様まことに失礼致しました。

「因果関係」という言葉を使う際に、「何との因果関係か?」という点を確定させていないせいで、議論が混乱しているように見えますが。

過失ある医療行為と「患者の死亡」との間に因果関係が認められれば、「死亡に対する慰謝料」が認められる。これが通常のパターン。

過失ある医療行為と「患者の死亡」との間に因果関係が認められなければ、当然、「死亡に対する慰謝料」は認められない。

しかし、過失ある医療行為と、「適切な医療を受けられるとの期待に対する侵害」との間に因果関係が認められれば、「期待を裏切ったことに対する慰謝料」が認められる場合がある。


イメージ的には、1本の請求が因果関係立証の成否等により枝分かれするというよりは、「死亡に対する慰謝料」の支払いを求める請求Aと、「期待権侵害に対する慰謝料」の支払いを求める請求Bが並立している、と理解した方が分かりやすいように思います(証拠の殆どは事実上共通するものの、要件事実的には別ルートのはず。)。

No.8 うらぶれ内科さんは、期待権侵害を認めた裁判例を「請求Aが部分的に認容された」と捉えておられるようですが、そうではなくて、「請求Aとは全然別物である請求Bが認容された」と見るのが正しいかと。

そこでは、「過失ある医療行為と、期待権侵害との間の因果関係」が認められているわけでして、これを「因果関係がないのに責任を認めた」と捉えるのは不正確でしょう。


期待権侵害論の背景にあるのは、「悪しき結果と行為との因果関係が認められないからといって、一切責任なしでいいのか?」という問題意識です。

簡略化すれば、「医師に治療を依頼したが、まともにやってもらえないまま死亡した。ただし、適切な治療がなされても助からなかったかも」というケースをどうみるべきか。

「医師→弁護士」、「治療→訴訟活動」などと置き換えても可です。「弁護士に訴訟提起を依頼したのに放置され、債権が時効にかかった。ただし、すぐ訴訟を起こしていても勝訴できたとは限らない」場合、「勝訴判決により得られたであろう金額」の賠償は無理としても、幾らかは慰謝料として払わせるべきではないか、みたいな議論。

要するに、「ちゃんとやってくれると思ったのに!」という期待に対する慰謝料を一定の条件下で認めるべきだ、というのが期待権侵害論なので、その基本的な考え方自体は医療訴訟特有のものではないと思われます。ただし、「期待権」という語が色々な場面で多義的に使われているのも事実なので、その点で注意が必要とも思います。

>>No.24 (ただいま謹慎中)さん

>しかし、過失ある医療行為と、「適切な医療を受けられるとの
>期待に対する侵害」との間に因果関係が認められれば、「期待を
>裏切ったことに対する慰謝料」が認められる場合がある。

の文中「適切な医療を受けられる期待」こそが「期待権」と呼ばれているものだと認識しておりますが、法理上それで良いですか?>>to all

>>No.12 fuka_fukaさん
>>No.11 にお返事ありがとうございます。
No.11 で私は法理論上「過失」という認定には民事なり刑事なりの「責任」が生じ、賠償なり懲役なりが「過失」行為を働いた主体責任者(個人格だけでなく法人格も含む)に対して強制執行される、と認識したうえで「過失」という言葉を用いております。(ただし「いずれが正解か」という設問は不適切で私のほうのエラーでした、後ほど修整を試みるつもりです)

そのうえで再度>>No.24 (ただいま謹慎中)さんのコメントに戻って、

>過失ある医療行為と「患者の死亡」との間に因果関係が認めら
>れれば、「死亡に対する慰謝料」が認められる。

文頭の「過失ある医療行為」の「過失ある」認定問題を少し論じてみます。ここからは「新過失論」への質問になります。

先述のように重い罰を加えることを意味する「過失」を、誰もが犯しうるヒューマンエラーとは本質的に異なる罪深い「過失」であると間違いなく認定するために、いかなる論証法を「新過失論」は我々法治国家国民に対して提示しているのでしょうか。

新過失論を理解することなく裁判員が判決に参加することは不可能事であると考えますが、新過失論が日本の裁判官が等しく採用する法理論であるという論証もあわせて、「新過失論」を概説できる方がご講義してくださることを願っております。

No.24 (ただいま謹慎中)さん
No.10 でfuka_fukaさんの紹介された永島賢也弁護士の解説を読む限りは、医療訴訟における期待権の侵害はエアポケットの救済であり、ただいま謹慎中さんのおっしゃる意味ではないと思いますよ。

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80-90%程度の可能性を持って過失と結果の因果関係を推認できれば原告勝訴といっても、その80-90%が正しいかどうかなんてことは誰にも分からないわけで、したがってこれでは原告側の勝訴率が低すぎるので多少緩めようといのは分からないわけでもありません。その結果、濫訴を招いたり、医療者側の不利益が顕著になれば、またもとにもどすということなんでしょう。そうやって帰納法的に適正な判断を決めていくというのは、ありうる考え方かもしれませんね。判断が落ち着くまで犠牲者も出ますが。

(まずYUNYUNさま、転載作業大変お疲れさまでしたorz orz)

No.26 うらぶれ内科さま

永島賢也弁護士の論考に再度リンク 

 *いわゆるエアーポケットの問題。
  稲垣喬氏は、「過失は認められるが因果関係が認められないというような場合に備え、診療をめぐる悪い結果があるのに救済されないといういわばエアーポケットについて、なんらかの法益の侵害を理由とした請求権を考えて、賠償を確保するという理論構成も考えられています。」と述べています(医事訴訟入門第2版160ページ)。

こちらの説明は、「そういう理論構成もある」 という紹介であり、永島弁護士ご自身は

 期待権侵害論は、簡潔 (に) いえば、患者の診療に関してもっている期待が医師の不十分な診療によって裏切られたという構成になります。期待権が侵害されたという精神的苦痛を理由として慰謝料を得ようとするものです。

と要約されており、むしろ No.24 (ただいま謹慎中)さまの説明と親和的だと思います。

なお、No.24 (ただいま謹慎中)さまの説明は的確だと思います。
私も同趣旨の指摘 (死亡による損害 と 精神的苦痛 それぞれの因果関係のルートの区別) をした記憶があるのですが、ブログ内検索で見つかりませんでしたので、妄想かもしれません。

# ↑は余談っちゃ余談なのですが、別エントリでの「弁護士叩きバイアス」についての意見は惰眠さまやぷりさま等とそれほど変わらないものの、評価は「発言者」ではなく「発言」ごとにされるべきだと思いますので、あえて。(僭越であることは重々承知ですがm(_ _)m)


*****
オフトピ。

別エントリでも話題になっていましたが、今の設定だと、ハイパーリンク部分が色が濃くて見づらいですね。
アンダーラインもカーソルを合わせないと表示されないですし。

私の場合、意図的に太字にして見やすい工夫をしたりしてまして(^^;、できれば以前のスタイルのような鮮やかなブルーとかだといいのになあ、とは思っております>モトケン先生

No.26 うらぶれ内科さん

・その「エアポケット」を何とかしようという問題意識と、

・「過失ある行為と結果との因果関係がある場合にのみ責任を負う」という民法の原則との整合性を維持すること

 この両者が相俟って生まれたのが、「期待権侵害」に関する一連の理論と裁判例だと理解しております。

・発想の出発点として「エアポケットの救済」があることは事実だが、

・構築された理屈としては、民法の原則に沿うように、「ちゃんと治療してもらえるという期待」なるものを観念した上で、その侵害との因果関係を認める、という体裁をとっている(つまり、「因果関係がないのに賠償責任を認める」のではなく、全く別ルートの損害・因果関係を観念した上で、それを肯定するという形をとっている)。


立論の目的がそうである以上、ある意味結論ありきの理屈ではあります。なので、その理屈の当否自体に強い疑問が呈されたり、その適用範囲が無限定に広がらないようあれこれ条件を付して調整を図ったり、という現象が起こっているのではないでしょうか。その辺りの模索をして「帰納法的」というのは、かなり本質を突いた御認識だと思います。

>・発想の出発点として「エアポケットの救済」があることは事実だが、

このエアポケットを「救済」する目的で期待権が公害被害救済に続いて医療訴訟に用いられることになったようですが、因果関係の追及をおろそかにして医療事故「被害」と公害「被害」を同質のものと規定した前提事項自体に認識の誤りがあり、それが「過失」認定の論証過程における自家撞着を生んでいると考えています。

>>No.29に関連して一点付記します。
公害被害認定の場合公害を受ける前の個体は公害毒に対して健常者すなわち健康であることが前提となります。ここに期待権の生じる余地があるといえましょう。
一方医療事故による健康被害の場合、当該医療を受ける前から健康体ではありえません。健康体なら医療を受ける必要がそもそも認められないです。病的状態の非健康個体であるからこそ医療の介入を自ら望んで受診するわけで、当該医療のミスによる毒作用がなくても健康体に復帰したいという罹病者の願いが果たせる確率は、本人にとっては常に五分五分であります。この点公害被害者における「期待権」の自然発生とは根本的に違っており、もともと罹病者=患者である個体のほうには、医療を受けた結果の健康状態については論理的に期待権の生じる余地はないと考えます。

レスがつかないうちにNo.30にコメント追加(連投失礼、です)。

公害被害者と医療事故被害者の被害の性質の違いについて、加害者が存在する事実の観点から考えますと、

公害を悪意なく発生させて住民に健康被害を与えたとすればそれは他者の健康体を現実に害した業務上過失致死傷の刑事事件です。犯罪被害者救済法とおなじ理念での被害者救済がはかられるべきで、公害の法的性質を判断せず、安易に民事事件での慰謝料の概念と同じといわれる「期待権」なる用語を新造するべきではない。

そして公害が刑事の案件である一方、医療における患者死亡は本来近代国家においては歴史的に民事の案件であった。刑事事件は故意が証明されたものに限られていた。「期待権」なる一方的な「権利」など存在しなかったし、「エアポケット」の存在を論証できる論理も「期待権」の存在無しには現実に存在することができなかった。と私は考えます。

公害と医療にのみ「期待権」による「金銭救済」の概念を導入することを妥当であるとする「藤山理論」の、論理的正しさを論証してくださる反論をお待ちしております。

No.29〜31 ぼつでおk(医)さま
公害と医療を比較対照しておられますが、法律家からみれば違和感ありまくりな議論の仕方です。
公害訴訟と医療訴訟とで、共通の要素として、「両当事者間に知識や資料の偏在があり、原告にとって立証が困難な訴訟類型」ということが指摘されるとしても、
だからといって、公害と医療とに、同じ理論が適用されるわけではありません。

> 公害が刑事の案件である

公害が刑事、という決まりはありません。公害被害の賠償を求める民事訴訟は、昔からいくつも起こっています。
むしろ刑事責任追及は困難です。それこそ、因果関係の立証が難しいですから。

> 公害と医療にのみ「期待権」

公害訴訟で「期待権」て言うかなあ?(私は見たことがありません。)

公害訴訟で難しいのは、公害を出した行為者(原因者)を確定することであり、そのためによく使われる概念が「疫学的因果関係」というものです。
例えば、工場が前を流れる河川に毒液をタレ流していることの厳密な立証は、工場の排水口から流れ落ちる液体を分析しなければなりません。
しかし、原告公害病患者の手にはそんな資料は手に入らない。どこに排水口があるかさえも、分からないのですから。
そこで、原告の立証責任を緩和し、
統計的に次のような現象が見られれば、工場排水と病気発生との関連性が疫学的に一応立証されているものとみて、
今度は被告工場側に反証を求めます。
・川の流域で同様の症状の患者が多数発生
・工場に近い場所で、患者数がより多くor症状がより重い事例が多い
・工場より上流では患者は発生していない
・工場建設より以前には患者は発生しなていかった
・他に病気の原因となり得るものが周囲に存在しない

判例のデーターベースで、「期待権」を検索したところ、近時、医療事故以外で、期待権侵害で、損害賠償請求を認められた判決としては以下のものがありました(全部挙げるのは、面倒くさいので、とりあえず、3つあげました)。

 弁護過誤事件                埼玉地裁 平成19年3月28日判決
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=34626&hanreiKbn=03

 NHK                   東京高裁 平成19年1月29日判決
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=34161&hanreiKbn=03

 県警察官の救護義務違反 横浜地裁 平成18年4月25日判決
判例時報1935号113頁

fuka_fukaさん、(ただいま謹慎中)さん

ご教示ありがとうございます。わたしも少しは分かったつもりになっております。

ただ、こういう期待権が主張されるようになると、われわれ医師としては初対面の患者さんにいきなり「あなたの病気は良なることはありません」といわざるを得なくなるかと思います。

 No.33 についての自己レスですが、公表されている判決は、重要と考えられるもの、珍しいものですので、公表されていからといって、実際の事件で多数の結論というわけではありません。ただ、見ていると意外と警察官に対する請求でもあるなという感じです。

 有名な桶川ストーカー事件の
「遺族は埼玉県(埼玉県警)を相手に「国家賠償請求訴訟」を起こしたが、2006年8月30日最高裁にて、捜査怠慢と殺人の因果関係は否定し慰謝料550万円の支払いのみを命じた1・2審の判決が確定した。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E5%B7%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 も期待権という言葉は使っていないと思いますが、同様の構成によるものではないかと思います。

No.34 うらぶれ内科さん

ただ、こういう期待権が主張されるようになると、われわれ医師としては初対面の患者さんにいきなり「あなたの病気は良なることはありません」といわざるを得なくなるかと思います。

医療訴訟での期待権は「病気が良くなる」ことへの期待ではなく、「適切な治療行為を行う」ことへの期待を保護するものであるかと・・・
だからこそ医療者の過失が要求されるわけですし、医療者の義務は結果(快癒)実現ではなく最善を尽くす点に求められますから・・・

なのでお医者さんが患者さんに言うべきは「最善を尽くします(最善を尽くした結果にまでは責任負えないけど)」ということになるはずです

ろくろくびさん

裁判で問題になるのは、過失と結果とその因果関係です。最善の医療であったかどうかではありません。因果関係の認定がゆるくなったとするならば、防衛のためには結果を否定しておくしかないわけです。
そもそも最善の治療とはどのような治療なのか。最善であったかどうかは結果から判断されるのが世の常です。

No34で言いたかったのは、この医療訴訟における期待権というのは医療に対する相当の破壊力を有しているということです。

>>No.32 YUNYUN(弁護士)さん
コメントありがとうございます。

ご説明くださった>No.32についての質問ですが、
>公害が刑事、という決まりはありません。
>公害被害の賠償を求める民事訴訟は、昔からいくつも起こっています。
>むしろ刑事責任追及は困難です。
>それこそ、因果関係の立証が難しいですから。

この文中の「因果関係」は、
1.期待権理論において登場する「因果関係無き過失」の「因果関係」と同じものでしょうか。
2.期待権は民事限定の概念と承って参りましたが、「因果関係の立証」において刑事の「相当因果関係の立証(すなわち刑事過失認定法です)」と比較して、なにか論証法(用語定義や論理の用い方)の違いはあるのでしょうか。

質問ばかりするアホな素人ですが、歳に免じておゆるしください(笑)。どなたでもお答えいただければ耳福なことでうれしいです。

No.36ろくろくびさんの御説明(「期待」の対象について)は適切だと考えますが、「最善を尽くす」という表現には、No.37のようなセンシティブな反応を招くおそれがあると思っていました。

「期待権侵害」の枠組みにおける審理でも、争点となるのは、その医療が「最善かどうか」ではなく「及第点かどうか」です。

「最善とまでは言えないが、通常期待されるレベルの医療行為は提供されていた」という場合には、死亡に対する賠償はもちろん、期待権侵害に対する賠償も認められないのではないかと思います。少なくとも、議論の前提、枠組みとしてはそうなっているはずです(具体的事案における個別の判断の当否はともかく)。

No.35 L.A.LAWさんの指摘された、「警察の職務怠慢によって犯罪被害に遭った」という類型の訴訟で、期待権的な枠組みに基づく判断が示された事例として、兵庫県太子町のストーカー殺人事件に関する裁判例(職務怠慢を認定、被害者死亡との因果関係は否定、期待権侵害?により少額の賠償義務を肯定)があるようです。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/118133A0A66338CE49256EB0001BA349.pdf

 ドラマとかでよく「最善を尽くします!」みたいな台詞をお医者さんが言っていたので使ってみたんですが確かに適切ではないですね。すいません。

>うらぶれ内科さん
 たしかに裁判で主に問題になるのは、過失と結果とその因果関係です。しかし(ただいま謹慎中)さんがおっしゃるように請求は二本立てなんです。すなわち、患者が死亡した場合

_畆差坩戞楷擬垰猖(結果)+因果関係

がまず問題となり、ここで因果関係は否定されたが、「相当程度の可能性」が認められる場合には

過失行為+期待権(過失行為が行われないこと=及第点といえる程度の医療行為が行われることへの期待)侵害(結果)+因果関係

が問題となるわけです。

 「期待権」という言葉がひっかかるかもしれませんが、「期待権」なんてものはいってみれば単なるツールにしか過ぎないのではないか、と思います。
 つまり、エアーポケットの問題がある→でも過失行為がある、というだけでは責任は問えない(結果と因果関係が必要)→患者死亡という結果との関係で責任は問えないから期待権とかいうものを使って責任を認めよう!みたいな・・・
 △寮禅瓩鬚茲見ていただければ分かると思いますが過失行為があればほぼ自動的に結果と因果関係が認められる関係になっています。
 したがって「期待権」という概念は過失行為があるだけで責任を問えるようにするためのツールに過ぎないのではないかと思うのです(前提として「結果回避の可能性が相当程度ある」ことが必要ですが)。

 結局のところ、医療裁判で問題となるのは「過失」の認定になるのではないでしょうか。

・・・というのが私の理解ですが間違ってたら何方かご指摘いただけるとありがたいです。

反応しやすいレスから。

No.41 ろくろくび@明日があるさ様
> 期待権」なんてものはいってみれば単なるツールにしか過ぎないのではないか

そこは賛成。
でも、このツールの使い方は、それほど安直じゃないですよ。

ご自身で△料阿砲書きになっているように、「相当程度の可能性」という要件の縛りがかぶっていますから、
「過失行為があれば、ほぼ自動的に」とはなっていません。

最高裁が、「相当程度の可能性が無かった」として、期待権慰謝料を認めなかった事案を、No.15に挙げておきました。

>>No.39 (ただいま謹慎中)さん
横から失礼します。

>「期待権侵害」の枠組みにおける審理でも、争点となるのは、その医療が「最善かどうか」ではなく「及第点かどうか」です。>

すでに行われた医療行為を「結果」だけから「及第点かどうか」を判断するには、いわゆる「後知恵バイアス」を慎重に排除しながら評価を決めていかねばならず、医療の世界では最高の専門家をもってしても「及第点」の線引きをたった一人でただしく引ける者など存在しないでしょう。
つまり一人の権威ある鑑定医の意見で過失か事故かを分けるとすると、その過失認定の正当性は根本的に疑われる、ということです。

専門家でさえ判断に苦慮する「及第点」を、裁判官を含む非専門家がいったいどういう論理で決定してよいということになるのでしょうか。

No.43 ぼつでおk(医)さん

御指摘の点が、個別の事件における証拠収集・主張・立証・鑑定・認定等の精度を如何にして上げられるか、「及第点の判断」を如何に妥当なものにできるか、という工夫や問題意識につながるのならよいのですが。

「そもそも及第点の判断なんて無理」として判断を放棄することを求めておられるのであれば、それは、法律家の受け入れるところとはなり得ないでしょう。

「一人の権威ある鑑定医の意見」で決めるのが不当ということなら、それに代わる適切な判断材料・判断手法を提案されては如何でしょうか。

>>No.44 (ただいま謹慎中)さん
>「一人の権威ある鑑定医の意見」で決めるのが不当ということなら、それに代わる適切な判断材料・判断手法を提案されては如何でしょうか。

私個人へのご提案ですね(笑)。ありがとうございます。

現に福島大野病院の医療事故で医療界が「過失がなかった」判定を多数決的に表明するという判断手法が示されていると思います(笑)。ここであえて私一人の意見を提示すれば示されたこの多数決鑑定という方法に対して自家撞着することになりますので(笑)、ご提案へのお答えとしてこの「過失無き業過致死裁判」をご紹介申し上げるにとどめさせていただきます。

レス連投(笑)失礼。
>>No.44 (ただいま謹慎中)さん
>「そもそも及第点の判断なんて無理」として判断を放棄することを
>求めておられるのであれば、それは、法律家の受け入れるところとはなり得ないでしょう。

私は判断を放棄したある法律家が期待権というツールを導入したが、それこそがロジックの世界に情動を混入させた不良品のツールであったと思っています(笑)。

No.45 ぼつでおk(医)さん

多くの専門家が意見を表明するということ自体は有益としても、裁判の根拠とするのであれば、やはり、証拠を見た上での意見でないとまずいのではないでしょーか。

今回は無罪方向の意見でしたけど、事案の内容や提出された証拠も確認しないまま、何となく「多数決的に表明された」声によって有罪にされたらかなわんと思いますが。

>>No.47 (ただいま謹慎中)さん

うーん、大野病院医療事故ではまず逮捕ありきであったため、証拠となる医療記録が全て警察に押収され、同時に被告人にされたため執刀医本人と手術スタッフ医師の医学的証言も司直によって封殺されて、多くの医師が実際に医療記録を詳細に検討する機会は、第11回(12回?遺族意見表明の前です)公判終了まで全く得られなかったですね。

この奇体な刑事裁判(笑)の奇体な進行上で、「多数の医師による詳細な医学的検討」を可能にしてくれたのは、超人的な筆記力で公判内容を詳細に書き取った医師たちとその親方佐藤教授のホームページ掲載です。すべて医師側の自助努力(笑)の賜物でしょう。

こういう事実経過から、この大野病院医療事故での「証拠を見たうえでの意見」は現在はすでに実在していると私は考えています。

No.48 ぼつでおk(医)さん

そのホームページ?は、証拠の全てを正確に再現したものではないと思いますが。

証人尋問や被告人質問は抜粋でしょうし、甲・乙・弁の書証や双方の冒頭陳述の全てを掲載しているわけでもないでしょう、たぶん。

あと、今後、医療訴訟の度に誰かが口述筆記してネットに上げて、とやるわけにもいかないだろうと(笑)。

>>No.49 (ただいま謹慎中)さん
>あと、今後、医療訴訟の度に誰かが口述筆記してネットに上げて、と
>やるわけにもいかないだろうと(笑)。

この文中の「医療訴訟」は民事ですね(笑)。
民事なら当然医師側もここまでやるわけありませんですね(笑)。

面白いことになってますね。

>No.41 ろくろくび@明日があるさ様

> 期待権」なんてものはいってみれば単なるツールにしか過ぎないのではないか

禿同

>No.42 YUNYUN(弁護士)さん | 2008年2月 7日 17:32
>でも、このツールの使い方は、それほど安直じゃないですよ。
>
>ご自身で△料阿砲書きになっているように、「相当程度の可能性」という要件の縛りがかぶっていますから、
>「過失行為があれば、ほぼ自動的に」とはなっていません。

そうなんですけど、「相当程度の可能性」を判断する根拠は、わずかな数の鑑定医や協力医の意見に拠るところ大でしょうから、実際のところはその要件の縛りとやらは、意見を出す医者の胸先三寸ってことになって、実態として縛りの機能をなしてないと思われます。

ともあれ、もはや事態は法的に・法手続き的に正当か否かという議論で収集する段階ではないと思います。法の枠組みが曲がらなければ医療がなくなるというくらいのダイナミックな自由競争が起きていると考えてますが如何でしょうか。どこまで崩壊すれば世の中が動くかが見ものだと思います。

まあ現代の人々にとっては、医療はその期待に応えられるほどの内容を持っていないと思いますし、現代の人々はその程度の医療ならいらないと考えるでしょうから、医療なんてヤクザな行為自体が過去の遺物になりつつあるのかも知れないなー、なんて漠然と考えています。

> 意見を出す 医者 の胸先三寸ってことになって(No.51 峰村健司(眼)さま)

判決を出す裁判官の、とはおっしゃいませんでしたね。
医療訴訟の勝負を決するのは、実は医師であること。医師vs医師の戦いであること。

だから、その医師の判断がおかしい(相応しい能力を持った医師に依頼していない)というのなら、
医療者側で適当な医師を取り揃えて、裁判に寄越してくだされば、
裁判が正しくなり、原告も被告も幸せになると思います。

>>No.52 YUNYUN(弁護士)さん
>判決を出す裁判官の、とはおっしゃいませんでしたね。
>医療訴訟の勝負を決するのは、実は医師であること。医師vs医師の戦いであること。

勝負を決するのは裁判官の鑑定書の「読み方」ひとつにかかっている、というのがより正しいように私は考えます(笑)。

No.51 峰村健司(眼)さん

諸手を挙げて賛成。医療は昔のように宗教家がやれば一番いいんではないでしょうか。昔も今も信じ込ませることが一番大切らしい。墓に入るまで面倒を見てもらえそうです。結果がうまくいかなくても「信心が足りなかったからだ」でおしまいにできそう。そういえば御利益がなくても宗教家が訴えられたことはあまり聞きません。

>No.52 YUNYUN(弁護士)さん

蒸し返すようですが、

>医療訴訟の勝負を決するのは、実は医師であること。医師vs医師の戦いであること。

「中東の笛」ではどうも・・・

>>No.53に追記いたします。

すなわち、本来鑑定意見は医学的ロジックを正しく保つことを念頭に書かれています。そういう時鑑定医が医学に対して真摯で追究的な正しい医師であればあるほど、期待権の存在など全く念頭から排除して純粋に医学的ロジックのみを意見の基準に置きます。「期待権」の所在を鑑定する目的で書かれるべきではありません。なんとなれば、医学の教科書にも憲法にも「期待権」が存在するなどとは決して書いてないからです。

いっぽう裁判官は鑑定書のロジックが正しいかどうかを読解してして判決します。このとき鑑定書著者が期待権を念頭におかず書いた鑑定文を、期待権を判断のツールとして一方的に判定項目に導入した裁判官が読めば、鑑定書に書かれた鑑定結果が著者の意図どおりに裁判官が読解できる可能性は、針の穴にらくだを通せる程度となるでしょう。

そして判決はそういう読解力を有した裁判官によってくだされるのです。

ということは、医療訴訟の判決勝負の真実は医者対医者ではなく、医学対期待権のロジック対ロジックの争いであり、医学のロジックと期待権のロジックのいずれが正しいかが勝負を決する決め手となるべきでしょう。

そして私は「期待権」「新過失論」の新参の概念の出自におおいに疑念を抱いているのです。
純粋ロジックの数学でいえば定理となるには証明が必要であるというだけのことなんですが(笑)。

最近の期待権的な判決には以下のようなものがあります。

また,Cは,食事や水分の摂取が極めて不十分で,そのことに問題があったため,看護師としては,Cの生命の保持などから点滴などを通した栄養状況の確保とともに脱水防止を第一義に考えなければならなかったことはいうまでもないが,Cに対する経口服薬の際,それが口の中に薬が残っていないか確認することは容易であるのにそのようなこともなされず,そして,Cの口の周りや体を清潔に保ったりすることも口の周りを拭いてやったり,体を拭いてやったりすることも容易であるのにそのようなことも余りなされていないし,バルーンカテーテルの導入により血尿が生じたのに,それに対してその原因解明や改善のための処置がなされていないなど病人である前に人間としてのCの人格への配慮に問題を残している。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20071218171245.pdf

1.口の中に薬が残っているか確認すること
2.身体を拭くこと
3.血尿が生じたら原因解明や改善のための処置を行うこと


と言うのは、私に取っても医療機関に期待するところであると思いますし、医療機関側が怠ったのであれば、精神的苦痛を受けたと思っても不思議ではありませんが、医師の方々はいかがお考えでしょうか。

No.57 しまさん

給料や労働時間、労働環境とのバランスの問題でしょう。期待するのはいいですが、期待が過度になれば今度は医療従事者の精神的苦痛が大きくなり、現場を去るわけで。

>>No.57 しまさん
>医療機関側が怠ったのであれば、精神的苦痛を受けたと思っても
>不思議ではありません

しまさんご自身はこの案件の患者であられたら、ご自分も「期待権」を行使して訴訟に持ち込む判断をなさいますか?

以下、期待権論を外れますがご容赦を。

No.52 YUNYUN(弁護士)さん

医師の仕事は、自分の持つ能力を発揮して、患者の診療に当たることです。「医療水準」の判断をすることは、本来の医師の仕事ではありません。そんなものを判断する訓練もされていませんし、本来そんな訓練は医療の遂行には必要がないものです。にもかかわらず一人の医師の鑑定で勝負を決しかねない医療裁判のあり方自体がどうしようもないのです。

さらに、場外乱闘で書いたように、
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3910/1187877351/365-368n
どんなに厳しいあるいは奇妙な鑑定であっても、医療界内部限りで活用されるのであれば、むしろ今後の医療向上に役立つような内容を含む場合があり、それ自体を糾弾することは慎むべきだと考えます。なので医療側に厳しい鑑定を書く医者がいるから問題なのだというのは、医療の進歩の歴史を否定することに他なりません。

根本的には、「医療行為にもある程度統一した基準が作れるはずだろう」という、法曹や一般の方々の幻想があるように思います。医療行為の是非判断をどうしてもやるとなれば、だいぶ以前に議論されたように、多くの医師による意見を集計して判断するしかないでしょう。東京地裁医療集中部ではカンファレンス鑑定をやっていますが、3人では全然お話になりません。千葉地裁の亀田テオフィリン中毒事件でも複数鑑定と称して3人の鑑定を仰いでいましたが、放射線科、腎臓内科、血液内科の医師が各1名で、それぞれがそれぞれの担当分野の鑑定をしただけと考えられ、およそ複数鑑定の名に値しないものでした。

>No.57 しまさん

その訴訟の主文を読んでください。
『訴訟費用は50分し,その1を被告の,その余を原告らの各負担とする。』
とあります。

責任分配から判断すると、裁判所は原告の主張の95%を否定しています。ほとんど言い掛かりということです。
但し、元の請求額が大きいため容認額は110万円+金利分15%です。

普通の期待権での論争は、『相当程度の可能性(約20%)』(ジュリスト No.1344、「医療と法の最先端を考える」)と言われるけれど、これまたビックリの相当可能性5%で賠償一部容認です。

相当可能性を追求して頂くのも結構ですが、それではそれに見合う医療費をお支払い頂きたい、そうでなければ御辞退、ご遠慮申し上げたい。というのが医療機関・医師の偽らざる気持ちではないでしょうか?

訴える側だけでなく、訴えられる側のことも考慮に入れなければ、公正・中立とは言えないでしょう

>No.57 しまさん
リンク先の判決文(ですか?)を読んでみました。

1.と2.については事実であれば自分も強く抗議すると思います。
3.については、最近の考え方ではむしろ転院先のK病院の処置(洗浄・消毒)の方が否定的でもありますので何とも言えませんが。

ところで、判決文だけから判断すると「原告の精神的苦痛」への被告病院側の反論は、身体拘束の必要性とバイタル測定を行わなかったことの理由に大部分が費やされており、1−3に関しての反論が見当たらず・・。反論はしたけど反映されていないのか、そこまで気が回らなかったのか、反論できなかったのか・・ちょっと気になりました。
あと、100万円が妥当なのかも気になります(笑)。

死亡とは直接関係のないことへの精神的苦痛でありますが、最初から家族と、かなりこじれていたんだなぁ という感想も持ちました。

>No.57 しまさん

追記ですが、この訴訟の訴物は、
1) 死亡
2) 不適切看護
3) 説明義務違反
となっています。

2)にしても、精神病で興奮状態で、看護指示にも従わない状態の患者に、口腔ケアが十分出来るなんていうのは、期待可能性がないものです。
『容易である』とは、何をもって言い切っているか常識を疑います
その行為ができないことが100万円に相当することでしょうか?

死亡・説明義務違反は既に否定されてます。

しまさんが挙げておられる事例では、請求棄却すべきものです。一部容認なんてトンデモナイ。病院に感謝こそすれ、恨まれるような筋合いではありません。

もう一点、期待権が「慰謝料」の根拠とされていることについて、その論理の正当性に根本的に疑義があります。
特に患者死亡の案件の場合に問題が尖鋭化するように思います。

医療事故死亡例については「慰謝料」を受け取るべき「被害者」の認定要件に、厳密さが求められるべきだと私は考えます。民事の金銭問題ですから「期待権」がもっとも法律ツールとしての力を発揮する場面です。いわば期待権さん出番ですよ、てなとこですかね(笑)。
でも、本当に真打としての出番があるのでしょうか?或いは本当に真打なのでしょうか?

で、今夜はもう眠いので(歳の割には寝るのが遅いw)ちょこっと問題提起だけで力尽きてしまいました。詳細は後刻ということで皆様なにとぞお許しください。

うーん・・・
しまさんの紹介された判決は期待権論は使っていないようですが面白い判決ですね。

個人的な感想は、「ちゃんとしたケアをしてもらえなければそりゃあ、腹は立つけどわずか半月程度の入院期間中にちゃんとしたケアがされなかっただけで100万円はたっけーなー」ってかんじ

だから、裁判官は最初に賠償額を決めてから、判決文を書いただけなんじゃないかな。何で100万円かというと弁護士費用か?
以上、単なる邪推です。

損害賠償100万円はヤクザの迷惑料か?

本当にそう思います。
上告しようと思っても、上告する方が100万円を超える費用が掛かるし、敗訴の危険もあるから被告も受け入れる余地があるし、原告も一部容認でそれなりの慰撫を受けた結果となります

但し、こんなことしていると正義は腐ります

昔じゃあるまいし、現在では患者看護・医療に使える医療費が限られています。病院レベルで現実の赤字が出ます。
一定レベル以上の要求をする方にはお引取り頂くしかありません。
善意も余力がなければ継続できません。
日本国民の多くが貧乏になってきて、精神的余裕も失いがちですが、その憤懣を医療にぶつければ自分たちの生活基盤が更に壊れることを自覚すべきでしょう

(医療事故訴訟の実態エントリーからコピペ)
http://www.yabelab.net/blog/2007/06/25-110718.php#c119984

藤山判事の医療実施側のみに100点満点の実現を「期待権」として義務付け、減点部分を全て施療者の「過失」と認定する判決は、まっこと不公正を絵に描いた如しであります。
本来の公正な司法判決を純正の慶長大判とすると、期待権判決は金の含有量を大きく減らし混ぜ物を増やした悪貨といえるでしょう。
そして藤山判事が期待権判決を出すたびに高裁で逆転され続けても依細構わず量産し続けたことで、何が起こったでしょう。
マスゴミがこの判事の判決のものめずらしさに目をつけました。

マスゴミにジャーナリズムは存在しません。あるのはコマーシャリズムすなわち視聴率だけです。注目を集めさえすれば彼らの活動は大成功なので、報道番組に全く勉学と無縁の白痴的三流お笑いタレントを起用しても全く恥じるところがありません。起用する基準にその人物の学識など全く不要で、ただそのタレントのもつばかげた人気の大きさ(視聴率で測定していますw)だけがすべてなのですから。そしてつねに大衆に媚びて人気を維持しようとする三流視聴率芸人にニュースを語らせれば、自分の芸(といえるほどのものでもない、幼児のお遊戯)のネタにすることしか考えず、大衆の低級な情動である「期待」を煽るだけの報道文をひねり出してしゃべるのです。そこにニュースの裏に必ず存在する真実を冷徹に追究しようとする姿勢など微塵も存在し得ず、ジャーナリズムは捨てられ、第4権力として三権を監視するマスコミの大切な役割も同時に弊履の如く捨てて知らぬ顔をしているのです。
マスゴミが流すのはニュースではなくゴシップネタで、視聴者の低劣な情動を煽りたてる効果しか目的意識はないのです。

そして日本全国でマスゴミ報道が作り出したTV界内部だけで通用する「期待権に幼稚に期待する英雄待望妄想世論」に影響を受けた期待権裁判官が続出し、現在司法界は典型的な「悪貨は良貨を駆逐する」状態です。唾棄すべきマスゴミ第4権力に白痴化された裁判官による期待権判決例が拡大再生産されていますから、これはあたかも「塵も積もれば(富士)山となる」状態といえるでしょう。こうなればもう国家の品格もゴミの山に埋もれてどこへいったかわからなくなってしまいます。

そしてマスゴミは今日も能天気に「そんなのカンケーねー!」とばかりにゴシップ垂れ流し報道(笑)し、裁判所では今日もどこかで期待権ゴミ判決で司法全体を悪貨で埋め尽くそうとセッセとやってますけど(笑)

>No.68 ぼつでおk(医)@コピペさん

ほぼ賛同なのですが、2点だけ…。

“「そんなのカンケーねー!」とばかりに”
と言うより、
“「空気読め(KY)!」とばかりに”
と言った方がしっくり来る気がします。
「卵が先か、ニワトリが先か」という議論じゃありませんが、「マスコミのゴシップ垂れ流しが先か、世間の空気が先か」がよく分からないのですよね。

どちらが先かはともかく、「世間の空気」等という曖昧なものを「民意」として近似的に捉えて、マスコミが「世間の空気」を後ろ盾にして過剰に処罰を求めるような報道を流すとき、民意も「権威」の一つになってしまっているのかもしれないと危惧します。
(マスコミは権威を叩いているつもりなのかもしれませんが、いつしか、「マスコミ=世間の空気≒民意」という権威を盾にして弱者を攻撃してしまっているのかもしれません。)

以下は、「人間行動に潜むジレンマ」(化学同人 大浦宏邦著)からの受け売りですが、自分勝手な行動に罰(サンクション)を与えると、脳内に快感物質であるドーパミンが分泌されるという報告もあるそうで、これはコストを伴うサンクション行動をスムースに実施させるメカニズムとして進化したものと考えられるが、こういうシステムが存在すると、ドーパミンの分泌を求めて必要以上に道徳的攻撃を行う人が現れてきても不思議ではありません。

このような「オーバー・サンクション」により、かえって全員の利得を下げてしまうことがあります。
医師の行為に違法性がなく、仮にあっても加罰性の低いものであった場合にも有罪とみなされ処罰された事により、医療崩壊という形の「全員の利得を下げてしまうような事態」を招いたのだとすれば、まさにこれはオーバーサンクションの問題でしょう。

このような「オーバーサンクション」を避けるメカニズムについては、権力の抑制という観点からも重要なテーマであると考えられますが、残念ながら、まだ進化ゲーム理論の中でも研究が進んでいないお題だと言われています。

あと、報道番組に起用する基準として、「学識」が必要かどうかは疑問です。
非専門家がコメンテーターとして起用される時には、「マスコミの視聴率」や「世間の空気」を気にかけてこれらに迎合的なコメントをするのではなく、「現象を観察する力」を持っていてそれを的確にコメントで伝えられることが大事なのではないかと思っているからです。
「観察眼の鋭さ」との「学識の高さ」にどの程度相関関係があるのかよく分らないので。

上記2点以外については、特に異論はありません。

>>No.69 死刑囚さん
コメントありがとうございます(笑)。ええっと、

>報道番組に起用する基準として、「学識」が必要かどうかは疑問です。
>非専門家がコメンテーターとして起用される時

についてですが、私の存念と致しましてはコメンテーターとしてではなく、キャスターやアンカーマン的に起用されている場合(近年多く見られると思います。昔は「ありえねー!」だったでつけどw)について論じたつもりでございます(笑)。アナウンサーには我々が聞き易いようになるべく叙事的な正しい日本語を話して欲しいなと思いますので、そうするにはそれなりの学識と訓練が必要かなと考えてあのように書いたものです(笑)。

いずれにせよ、ニュース番組にコメンテーターの存在も昔から(人間歴ふっる〜いでつからw)、いわゆるヒョーロン家の一方向放送特有の押し付けがマシさwが鼻につく場合が多くて、ほとんど時間と電波の無駄の場合が多いと感じておりましたキッキモイ年寄りの所詮繰言(笑)に過ぎないでございます。

ご賢察の上ちょっとアレ?なところは笑って読み捨ててくださればしあわせです。

>No.70 ぼつでおk(医)さん

なるほど、そういうことであれば諒解であります(^^)
(余計な誤解を生まなければと思ったので書きましたが、重箱つつくようなコメントになってしまってスミマセン。)

マスコミにも「真実を冷徹に追究しようとする姿勢」を持った方も、きっといらっしゃるだろうとは思いますけどね、多分どこかに。
あまり見かけないような気がする(?)だけでw

* * *

ところで、以下は特に、ぼつでおk様宛てではありませんが、期待権論について、改めて確認しました。
特に紹介されていたこちらのページを拝見したところ、私は期待権論に関して、きちんと認識していなかっただろう事が判りました。

なぜならば、まず、期待権侵害論と治療機機会喪失論を混同していました。
それから、

過失と結果との間の因果関係につき、高度の蓋然性までは証明されていなくとも、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときには、不法行為の責任の負わなければならない(引用元:上掲ページ)

という考え方と、「期待権侵害論及び治療機会喪失論」とを混同してもおりました。

それぞれ分けて考えるべきだったようです。失礼致しましたm(_ _)m

* * *


※ 以下引用枠内の部分は、すべて上掲ページが引用元になります。

 期待権侵害論は、簡潔いえば、患者の診療に関してもっている期待が医師の不十分な診療によって裏切られたという構成になります。期待権が侵害されたという精神的苦痛を理由として慰謝料を得ようとするものです。

 治療機会喪失論(延命利益侵害論)は、簡潔にいえば、不十分な診療によって、適切な治療を受ける機会(延命の利益)が奪われたという構成になります。この治療機会が奪われたという精神的苦痛を理由として慰謝料を得ようとするものです。


上記最高裁平成12年9月22日判決は、原審(東京高裁)での治療機会喪失論等に基づく請求を是認し、ただ、これを生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときに認めるという基準を立てたといえます。

もし上記の「治療機会喪失論等」というのを、「治療機会喪失論や期待権侵害論」と読み替えても良いならば、下記の通りの基準ということになりそうですね。

A:「過失」…医療水準にかなった医療(診断/検査/治療など)が行われないこと。
B:「悪い結果」…患者が死亡した/患者に後遺症が残ったこと。
C:「『¬A ⊃ ¬B』相当程度の可能性の証明」:『過失がないならば、悪い結果も無い』相当程度の可能性の証明、エアーポケット対策用の非論理的妥協案、医療側に落ち度があるのに、その責任が最終的には否定されることに対する割り切れなさを救おうとするための基準

最高裁平成12年9月22日判決では、
上記A、B、Cの要件全てを満たした時に、期待権侵害論や治療機会喪失論に基づく賠償請求を認めるという事のように見えます。
(A∧B∧C)⊃「期待権侵害論や治療機会喪失論に基づく損害賠償請求を認める」
(A∧B∧¬C)⊃「期待権侵害論や治療機会喪失論に基づく損害賠償請求を認めない」

このCの証明基準は、【期待権侵害論や治療機会喪失論に基づく慰謝料】の請求を認めるか認めないかを判断する時に適用されるが、刑事上の【過失致死傷罪】や民事上の【死亡による逸失利益】の判断の際には適用されないという事なのでしょうかね…?
Cの証明基準の適用範囲が、今ひとつよく分かりませんでした。

* * *

最高裁の判決の是非はともかく、期待権侵害論や治療機会喪失論が、下記のように医療関連訴訟にだけ限定的に適用される妥当な根拠はあるのでしょうかね?

医療関係訴訟の特殊性と言ってもいいかもしれません。簡潔に述べれば、医師の過失と患者の死亡結果との間に、因果関係が否定される場合でも、医師に過失が認められる以上、何らかの賠償を認める余地を残そうという発想なのです。

たとえば、妥当でない(中立公平でない)、偏った報道の影響により当該報道対象の人が仕事を続けられなくなったり自殺したり、その家族までがいじめに遭ったりした場合、Cの証明基準が適用され、報道者側への慰謝料の請求が認められるようになったりしないものでしょうか?

疑問ばかりになってしまいました。

>>No.71 死刑囚さん
コメントありがとうございます。

>疑問ばかりになってしまいました。

わたしもそうなんです。
ここに書き込むようになったきっかけがそもそも同様の疑問だらけになったためであります。(笑)

連投失礼。
私の疑問について>>No.71 死刑囚さんのコメントを失礼とは存じますが部分的にお借りして(すみません)、もう少し具体的に書いてみようと思います。うまく書けないかもしれませんが。

こんどの割り箸事故民事判決をご覧になればお分かりと思いますが、期待権導入の論拠となった「エアポケット」の存在はこの判決文の中には指摘できないと思います。
つまり、きちんとていねいに検討すれば医療事故といえどもエアポケットに陥ることなく責任の所在と程度を現実的に妥当に勘案できるのであり、そしてそのことは因果関係なき過失というエアポケットが論理的に実在しない空集合的概念であるという疑いを強く抱かせる根拠になる実例だと思います。

(以下の論では念頭に>>No.71 死刑囚さんのABC集合の証明の論理学をそのままお借りしております。)

臨床医療において「因果関係なき過失」の実在を論証するには、医療水準というものが万人に共通に認識できるものであるという前提が必要となります。その万人が一律に認める医療水準を、期待権においては100点満点の100点と基準に定め、実際の医療行為を医療記録や証言をもとに減点法で採点していき、この医療行為にマイナス20点の「過失」が認められるというふうに過失認定していくわけであります。
そしてこの判定法を用いる以上全ての医療行為は減点から逃れることはできないので、医療行為であるが故賠償に中っては交通事故加害者よりも高額を賠償する責務を負う、という期待権賠責が日本医療に出現する事になるわけです。
いずれにせよ、このような認識の流れを持つ判定法以外の方法で「因果関係なき過失」を論証することはできないと思います。

ではこの判定法は果たして論理的に正しく構築された論証法なのでありましょうか。
前提となる医療水準は万人が共通認識できる唯一の基準となりえるものでしょうか。

私はまずその前提条件の設定において基本的に誤った認識が用いられていると思っています。医療水準というものは本館の過去エントリーにおいて厖大な議論がなされましたが、一つの結論に至ったとは程遠い結果だったことをみても、「医療水準」が共通認識困難な概念の代表的な用語の一つであると実証されたと思います。

その「医療水準という共通認識」前提という最初の躓きのため、それに続く認識の流れのアルゴリズム全体が影響を受け、偶然の一致以外には正しい答えに達することができない誤った計算式のごとき論理構成の判定法=認識ツールとなっていると考えています。

No.73 ぼつでおk(医)さん のご意見がとても興味深かったので少しコメント

エアポケットは存在しないという考えには少し理由は異なるかもしれませんが私は賛成です。過失行為があったとしても因果関係が認められなければ過失責任は存在しないとしてよいのではないでしょうか。相当程度の可能性があっても、原告が立証に失敗した以上は責任を負わせるべきではありません。過失行為があれば責任を負うべきという価値判断からエアポケットの問題が生じるとされているようですがそもそもその価値判断がおかしいように思います。したがってエアポケットは存在しないと思います。
確かに医療訴訟は専門的で立証が難しかったり、証拠が偏在していたりという特殊性はあるのでしょうが、実体法の部分でその問題を解決するのはちょっと筋としておかしいのではないかと。こうした問題はむしろ手続法の部分で解決すべきことだと思います。

平成17年12月8日の最高裁判決才口千晴判事補足意見が

「医師について患者が適時に適切な医療機関へ転送され、同医療機関において適切な検査、治療等の医療行為を受ける利益を侵害されたこと」を理由として損害賠償を認めることは、医療全般のみならず、専門的かつ独占的な職種である教師、捜査官、弁護士などについても、適切な教育、捜査、弁護を受ける利益の侵害などを理由として損害賠償責任を認めることにつながり、責任が認められる範囲が限りなく広がるおそれがある。

と言っていますがまさにその通りだと思います。

その「医療水準という共通認識」前提という最初の躓きのため、それに続く認識の流れのアルゴリズム全体が影響を受け、偶然の一致以外には正しい答えに達することができない誤った計算式のごとき論理構成の判定法=認識ツールとなっていると考えています。

まさに原点は結局のところ、過失の認定にあるのだと思います。期待権に限らず、医療訴訟全般にいえることですが。
ただ、「医療水準という共通認識」については私には専門外なので(そもそもお前の専門内の事項なんてあんのかい?という突っ込みはなしの方向でお願いします(´Д`;))なんともいえないのですが、いずれにしろ、過失と無過失の線引きをどこかでしなければならないと思います。

まあ、医療の現場も医療訴訟の現場も知らない机上の空論(by橋下知事)かもしれませんが

>No.73 ぼつでおk(医)さん

些細な点かもしれませんが、混乱を招き易い点のように思いましたので、少し書かせて下さい。

文中の「因果関係なき過失」とは、厳密には「因果関係なき過失」のことですよね? (念の為)

そして、「エアーポケット」は「因果関係なき過失」そのものを指すのではなく、「『過失』と『悪い結果』の間の因果関係(論理的関連性)が認められない場合の、両者間の空洞(論理的関連性の無さ)」を指すものという事でよろしいですよね?

過失と因果関係は、明確に別の要件です。

〔医療崩壊について考え、語るエントリ(その4)No.244 L.A.LAWさんのコメント〕


のように、「過失」の成立/不成立に関しては、「因果関係」ではなく、「結果の予見可能性」が要件になるだろうと思うからです。また、
「因果関係なき過失」 は概念上成立し得ます(略)

〔医療崩壊について考え、語るエントリ(その4)No.250 fuka_fukaさんのコメント〕


のように、行為無価値論に理論的基礎を置く過失論に立てば、「因果関係なき過失」は概念上成立し得るように思うからです。

なお、私は「過失」に関しては(無自覚でしたが)、行為無価値論に理論的な基礎を置く過失論を採用していました。
(過失を、No.71の通り「医療水準にかなった医療(診断/検査/治療など)が行われないこと」と書いていましたので。)
なお、自分自身では概ね結果無価値論(法益侵害説)寄りの考え方をしているように思っていたのですが、過失論については無自覚に行為無価値論を選んでいたようです(^^;

* * *

(以下は、こちらのページ等を参考にしています。)

臨床医療において「因果関係なき過失」の成立には、

1.過失の存在の証明 (当時の医療水準で「結果予見可能性」があったことの証明)
2.エアーポケットが存在すること
(過失と結果の間の因果関係について高度の蓋然性までは証明されていないこと。なお、「高度の蓋然性」とは、通常、「十中八九」(80%以上)のことを指すといわれている。)
3.エアーポケット対策の要件の証明
(当時の医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されること)
4.上記3のような証明基準(エアーポケット対策)が法廷で認められる(採用される)こと

以上4点が、とりあえず必要になりそうですよね。

ということで、「こんどの割り箸事故民事判決」では、過失の存在が認められませんでしたので、「(過失の存在を前提とする)エアーポケット」の存在も認められなかったのでしょう。

それにも関わらず(エアーポケットの存在を認めていないにも関わらず)、あえて判決文の中でエアーポケット対策の要件(生存の相当程度の可能性)についても見解が述べられていたのは、「割りばし事故死」訴訟地裁判決」エントリのNo.21 惰眠さんが仰る通り、『特に、「(原告らの請求に)理由はない」としてそこで終わりにできることに関しても、本件では特に踏み込んで判決理由を示すなど、まさに言葉を尽くして、請求が棄却されることになる原告側の理解と納得を求めようと努力している観があります』ということなのでしょうね、きっと。
それでも、原告の方達は控訴する方針するのですね…。

* * *

ところで、医療訴訟において、期待権侵害論を基にした請求に限らず、過失の有無が問題にされる場合には、たいてい「医療水準」の判断に関する問題が生じるのではないでしょうか?
そして、その判断には、「万人が医療水準に共通認識できること」や「具体的内容に関する万人のコンセンサス」が前提にある必要はないと個人的には思っておりますし、法廷でも求められてはいないように思います。
なぜならば、実際の法廷では、医療水準に関しては、鑑定医の意見を聞いたり、別の医師の証言を許して意見を聞く中で判断しようとしているように見えるからです。
もっとも「原告側鑑定医」は「原告側協力医」と呼んだ方が適切である場合もあるようですが。(医療事故訴訟の実態エントリNo.22 an_accusedさんのコメントを参照しました。)
法廷で、個々に具体的内容に関する医療水準を判断することの問題については、これまでも色々議論されているようですが、なかなかに難しそうですね。

>>No.75 死刑囚さん
コメントありがとうございます。お言葉ですが(笑)、

行為無価値論に基づく過失犯の認定は、公害の被害者に期待権の侵害を認めるときに用いられるのであれば、エアポケットの存在とともに成立しても別に不思議ではありません。公害の場合一企業体(法人格)の企業活動が不特定多数の人の健康を明らかに侵害していますね。この場合は因果関係認定のエアポケットが生じて当然でしょう(笑)。

これに対して医療の結果が期待に反するものであった場合は、公害の場合に生じた権利のエアポケットの原因である複数の人の健康を損なう結果というものがそもそも存在しません。
医療者対患者の場合つねに1対1の関係のなかでしか結果が生じないからです。
このことは医療事故裁判では公害裁判と違ってエアポケットが存在し得ないすなわち因果関係なき過失の論証を行うことが論理的に空集合となる理由のひとつと考えます。

また医療行為は常に対象である一人の患者の病的状態からの回復という個人的利得を目的に行われます。そういう性質の行為における過失判定においては、結果無価値論に基づくことはできても、行為無価値論に基づくことは現実上過失判定そのものを無価値化するのでできないでしょう。行為無価値論による過失判定は明らかな自家撞着だと思います。

さらに医療水準の判断が「できる」とのお説ですが、仮にできたとしましてもそれは「期待される」医療水準という形でしか存在し得ません。
裁判の場においては裁判官個人の知識から判断される彼が「期待する」医療水準しか提示できないのです。
すなわち、期待権を行使できるエアポケットを見つけるために判定者本人である裁判官の個人的「期待」が用いられる、というのもまさに思考論理の自家撞着そのものではないでしょうか?

>No.76 ぼつでおk(医)さん |

さらに医療水準の判断が「できる」とのお説ですが、仮にできたとしましてもそれは「期待される」医療水準という形でしか存在し得ません。

医療水準の判断が「できる」とのお説とは、いかにして私のコメントのどこから導き出されたのでしょうか?(ビックリしました。)
少なくとも、私はそんな事は申し上げておりません。

No.75のコメント全体の趣旨が、ぼつでおkさんに誤った形で伝わってしまったようです。
私の説明力の無さによるものだろうとは思いますけれども…(汗。

* * *

まず、行為無価値論に基づく「過失」の認定では、考察の対象を公害などにおいた「(1)危惧感で足りるとする立場」と、交通事故などを対象にした「(2)具体的な予見可能性を要求する立場」の2つがあると聞きますが、私としては(1)だと無制限に過失の範囲が広がってしまうように思うので、少なくとも医療訴訟においては(2)を採用すべきだろうと考えています

そうすると、結果無価値論での「過失」認定でも要求されるのは、同じ「具体的な予見可能性」ですから、その意味では

行為無価値論に理論的基礎を置く過失論に立てば、「因果関係なき過失」は概念上成立し得るように思うからです。(No.75 死刑囚のコメント)

の箇所において、あえて行為無価値論を出して書いたのが混乱の元だったのかもしれません。

結果無価値論の場合は、法の任務は「法益の保護」であり、違法の実質を「法益侵害またはその危険」に求めることになりますので、この立場においても「因果関係なき過失」が概念上成立し得ると言えるかどうか、微妙に思っていましたので。

一方、行為無価値論に立つと法の任務は「社会倫理の保護」となりますので、違法の実質を「行為の反倫理性」に求めることになり、違法判断の対象は人間の行為に限定されると聞きます。
この立場では、違法は、行為者による結果惹起(法益侵害)につきるものではなく、たまたま法益侵害はあっても、それは違法な行為の中で意味を持つものであることになります。
ゆえに、少なくとも行為無価値論に立てば、「法益侵害(悪い結果)との因果関係がない過失」は成立し得るだろうと考えた訳です。

もっとも、改めてよく考えれば、具体的な結果を予見していても、必ずしも結果を回避できるかどうかは分かりませんので、結果無価値論においても「因果関係なき過失」は概念上成立するかもしれません。(ちょっと、この辺りよく整理できていませんが。)

いずれにせよ、行為無価値論の立場からも、とくに【過失がないならば、悪い結果はない】というエアーポケット対策用の過失犯の証明基準を支持する物ではないことは、明らかではないでしょうか?
そもそも、エアーポケット対策用の証明基準を指示するかどうかという話は、結果無価値論か行為無価値論かという立場の違いとも関係ない話でしょうし。
単に論理の話で、「AならばB」という因果関係の証明を、「¬Aならば¬B」(Aでないならば、Bでない)という証明に代替させようとする事自体が、そもそも非論理的だと思いますから。必ず真となるのは対偶だけで、逆や裏は必ずしも真にならないので。(「AならばB」の裏は「¬Aならば¬B」。)

そしてこのような非論理的な証明基準を認めれば、その対偶である【悪い結果があるならば、過失がある】ことも自動的に認めることになってしまうので、恐ろしい基準だと危惧しておりました。
さらに、「最高裁で上記基準での証明が、医療機会喪論等の成立の要件であるとされた事」により、最高裁が上記証明基準を認めてしまったように思われましたので、ますます危惧を覚えました。
ゆえに、期待権周辺の論理(上記証明基準含む)に疑念を抱いておられるだろうぼつでおkさんのご意見に対して、No.69の通り「ほぼ賛同」と書いておりました次第です。

>>No.77 死刑囚さん

>期待権周辺の論理(上記証明基準含む)に疑念を抱いておられるだろうぼつでおkさんのご意見

1年前に疑念を抱いて書き込みを始めたというのは事実です(笑)。
いま現在はここのエントリーにおいて期待権が法理論ツールとしては根源的に不適格であるという私の仮説を論証しようという立場から書き込みをしております。

期待権が論証法上の禁則を犯したツールであるという仮説を論証するにあたって、No.75の内容を幸便に題材とさせていただきました。(スマソ1つめ)

No.75の内容は巷間おもにこういう議論がなされているという議論のいくつかのご紹介だったので、かねてから期待権の論証論理とされている論理に含まれる自家撞着の証明の誤りを指摘するために使わせていただきました。(スマソ2つめ)

さらに「因果関係無き過失」も予期不能に発生した公害事件以外には成立不能な過失認定であることを論証する材料としてもNo.75を使わせていただきました(スマソ3つめ)。

ここはディベートを行なう場でもございますから、自分の意見を旗幟鮮明に述べる必要がございますゆえ、No.75に期待権正当論や「因果関係無き過失」成立論の部分がありましたことを材料に、幸便に(笑)反証を試みたものでございます。

議論そのものの質を高めるための投稿ではございましたが、その過程において避けがたく働きました3つの失礼について,この場でお詫びいたします。ご賢察の上なにとぞご寛恕ください。

>No.78 ぼつでおk(医)さま

お返事ありがとうございます。

私は期待権侵害論等に懐疑的ですので、私の書いたコメントに、特にこれらを支持する内容はないと思っていますが、「期待権が法理論ツールとしては根源的に不適格であるという仮説の論証」のための材料として使って頂いても構いません…。
ですので、謝って頂くことはございません。かえって恐縮ですm(_ _)m

* * *
以下、繰り返しの質問(確認)になりますけれども、とくにご回答は求めません。
私には、文中の「因果関係無き過失」という用語がどうにもシックリ来ないというか、どのような意味で使われているのかよく分からなかったのでした。
「因果関係無き過失」とは、「因果関係無き過失」のことではないのでしょうか?

念のため、過失が存在するだけで直ちに過失犯が成立する訳ではなかったと思います。
たとえば「こんどの割り箸事故民事判決」で民法709条 「故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。」が成立するためには、
1.加害者に責任能力があること。
2.故意または過失が認められること。
3.現実に損害(他人の権利又は法律上保護される利益の侵害)が発生していること。
4.行為と損害に因果関係があること。
5.行為に違法性があること。(4の成立が前提)
以上5つが満たされなければなりませんでした。

判決では、2は認められませんでした。
仮に「1,2,3は満たすが、4はいい線行っているが満たせない時」に、「4のエアーポケット」対策として、4を4´(生存していた相当程度の可能性の証明)に置き換え、「1,2,3,4´」を満たすならば、慰謝料(精神的侵害に対する損害賠償)の請求を認めようとするのが、「期待権侵害論」や「医療機会喪失論」のようですよね。
この時、5は成立しない(すなわち過失犯にはならない)という考えで良いのでしょうかね?
もし良いならば、「過失犯として成立しておらず、不法行為でもないとされたのに、慰謝料だけは支払わねばならない」という事になります。
それだけではなく、仮にこの訴訟で慰謝料を支払った場合、過失犯というイメージを世間に持たれるかもしれません…。うーん…。
とりあえず、期待権侵害論等の導入の経緯やこれまでの判例等での議論について、時間がある時にでも調べてみようと思います。

連投すみません。
自問自答状態になっていますが、民法709条が成立しても過失犯になる訳ではありませんね(^^;

民法709条で損害賠償(といっても、精神的苦痛に対する分だけなので、慰謝料)の支払いを命じられたとしても、刑法上の業務上過失致死傷罪では4´のような証明基準が適用されなければ、過失犯として成立しないという事ですね。
(両者で同じ判決が下るとも限りませんが、一応。)

そうなると、やはりぼつでおkさんの仰る「因果関係なき過失」は「因果関係なき過失犯」ではないという事ですかね。
いずれにしても、「因果関係なき過失」がどのような意味で使われているのか、分かった訳ではないのですが…orz

とりあえず、自習してきます。失礼いたしました。

医療での正当業務行為が息苦しい位、適応される範囲が狭くなった気がします。

今日は疲れてるのと、仕事が混んでいるので、ここまで

最近の判決ですが、この判決文は期待権が適用されていませんね。百点満点理論が適用されるのであれば、原告側一部勝訴になってもおかしくありませんが、この判決は病院側の完全勝利となっております。

原告らの主張は、大学病院である以上、常に我が国での最高水準の医療を提供すべきであり、現にK医師の所属する施設における医療行為の内容が原告Aに対する診療行為としてより適切であると想定されることから、被告病院でそれと同様の診療行為が行われなかったこと自体がその過失を構成するとの趣旨とも理解できるが、それは大学病院に対する過大な要求といわざるを得ない。すなわち、専門科目ごとに大学病院を超える水準の医療行為を行う施設が存在することもあり得るところであり、大学病院の医療行為がその水準に達 しないとしても、それが直ちに過失であるとは評価できない。
以上によれば、被告病院における呼吸管理については、過失の有無はともかくとしても、より適切な措置が想定されたところであり、そのような呼吸管理がされていれば、原告Aの脳性麻痺の発症が回避できた可能性は否定できないものの、その可能性は法的にみて高度の蓋然性又は相当程度の可能性があると評価し得る ものではないから、仮に過失があったとしても、生じた結果との因果関係が肯定できるものではない。また、被告病院におけるフォローアップ外来受診中に、原告Aの病名が適時に原告B及び原告Cに理解できるように説明されたとは認め難く、このことが本訴提起の一因となったことは否定できないが、この点は少なくとも本訴における請求原因を前提とする以上、本訴請求の結論を左右するものではない。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20070427151335.pdf

過失が認められなかたので、エアーポケットが生じる余地すらなく、それに伴い期待権侵害論や診療機会喪失論が登場する余地もなかったのだろうと思います。
それでも丁寧に、仮に過失が認められた場合に、もし原告らが期待権侵害論等を基にした請求をしても、その請求は認められない旨が下記部分で述べられているように思います↓

「過失の有無はともかくとしても…そのような呼吸管理がされていれば…原告Aの脳性麻痺は回避できた可能性は否定できないものの…その可能性は法的にみて高度の蓋然性又は相当程度の可能性が評価し得るものではないから、仮に過失があったとしても、生じた結果との因果関係が肯定できるものではない。」

※「(脳性麻痺を予見して、これを回避すべく)呼吸管理がされていても、脳性麻痺を回避できた相当程度の可能性は評価し得ないから、仮に過失があったとしても(エアーポケット対策用の証明基準を適用しても)因果関係を肯定できない」という趣旨の箇所。

期待権や期待権侵害論のロジック自体を特に否定している訳ではなく、仮に過失があり期待権侵害論等を適用しても原告らに勝訴の見込みはないことを示したものと思いますが、私の読み間違いでしょうか?

>>No.83 死刑囚さん
>私の読み間違いでしょうか?
そうだと思います。

>過失が認められなかたので、

とのご意見(No.83)ですが、判決文には

>「・・・仮に過失があったとしても、生じた結果との因果関係が肯定できるものではない。」

と明記してあり、過失がないという判断自体なされていないことは明らかです。

よってNo.83のご結論

>期待権や期待権侵害論のロジック自体を特に否定している訳ではなく、
>仮に過失があり期待権侵害論等を適用しても原告らに勝訴の見込み
>はないことを示したもの

も誤りでしょう。

>>No.82 しまさん
藤山判事の最近の判決ですね。ご紹介ありがとうございます。

>この判決文は期待権が適用されていませんね。

pdf読みましたが、私もそう思います。

>と明記してあり、過失がないという判断自体なされていないことは明らかです。

それは、私もそう思っています。冒頭で

過失が認められなかたので、(以下略)

と書いた通りです。

この事件については過失は認められていませんが、

期待権や期待権侵害論のロジック自体を特に否定している訳ではなく、
仮に過失があり期待権侵害論等を適用しても原告らに勝訴の見込みはないことを示したもの

と書いた通りの意味だったのですが…。(太字反映しました。)

言い換えれば、原告側が控訴して再び過失を争い、万一過失が認められたとしても、期待権侵害論等を基にした請求は認められる見込みはないことを示したものだろうという意味です。
また、この判決では、(過失が認められなかったので、期待権侵害論等が登場する余地がなく当然適用されてはいないが)期待権や期待権侵害論のロジック自体を特に否定するようなものではないだろうという意味です。

(「今回の判決では過失が認められていないこと、また、期待権侵害論等が適用されていない」事は明らかなので、No.82で改めて「この判決文は期待権が適用されていません」というコメントが投稿されたことの意味を図りかねましたので、確認のため投稿させて頂いた次第です。)

「また、この判決では、(過失が認められなかったので、期待権侵害論等が登場する余地がなく当然適用されてはいないが)期待権や期待権侵害論のロジック自体を特に否定するようなものではないだろうという意味です。」

↑でも分り難いでしょうか…。

上記を言い換えれば、この事件に限らず、一般的な医療訴訟において「期待権や期待権侵害論等のロジックの適用」が検討される可能性自体を否定するものではないだろう、という意味でした。
これは読み間違ってましたでしょうか…?(念の為確認させて頂きたかった次第です。)

あっ、No.82は、「こんどの割り箸事故民事判決」の件ではない、別の裁判だったのですね。
「こんどの割り箸事故民事判決」のことだと思っていました。
あとで、No.82の判決文を読んでみます。

あのう、死刑囚さん。
>>No.80 >とりあえず、自習してきます。
でおっしゃった自習ですが、お節介ですみませんが本館の医療問題過去エントリーをいくつかご覧になることをお奨めします。
いろいろご疑問が解けると思いますよ(笑)

そうします(汗
とりあえず紹介されていたページの最高裁の判決と二つの判決文においては、

1.「因果関係なき過失」(「過失と認められた行為」と「結果」の間の因果関係に高度な蓋然性が認められていないような「過失」)があっても、直ちに期待権の侵害が認められる訳ではない。

2.期待権の侵害が認められるためには、成立要件として、「過失認定」と「過失がなければ結果が生じなかった(ex.死亡しなかった=生存していた)相当程度の可能性の証明」等が必要となる。

3.期待権や期待権侵害論のロジック自体は否定されていない。(今後新たな医療訴訟が発生した場合、その要件を満たせば、適用される可能性はある。)

以上の私の読みか、間違いだとご指摘頂いたようですので出直します(汗
失礼いたしましたorz

上記コメントに誤りがありましたので訂正させて頂きます。

× 以上の私の読みか、
○ 以上の私の読みが、


何度もエントリ汚し失礼いたしました。平にご容赦ください_(._.)_

やはり法律解釈は難しいです。基礎法学からやり直します(汗。

No.90 死刑囚さま

1,3 については概ね正確なご理解だと思います。

2についても、間違いというほどではないと思いますが、少し補足させていただくと、

・ 「期待権」 という場合には、「死は避けられなかったとしても適切な医療行為を受けられるという期待」 の意味で使われます。医学的観点からあまりに頓珍漢 or 杜撰な治療がなされた場合に(本当にそうなのかどうかがまた論点になりますが)、どうせ死んだんだから、というだけでひどい扱いをされても何の慰謝(病院側にとってはペナルティ)もないのは不当だ、という発想がベースにあると思います。

・ 一方、最高裁が採用した立論は、死は避けられなかったとしても、適切な医療行為を施していれば、現実の死亡時点ではまだ生きていた可能性が 「相当程度の蓋然性」 といえるくらいであれば、慰謝料を認めて良い、というものです。延命可能性、とでもいえるでしょうか。

両者は重なるところも少なくないものの、概念上は少ーし異なっていることがご理解いただけるかと。

>>No.92 fuka_fukaさん
お待ちしておりました(笑)。

私は医療事故において医療側が過失責任を負う「因果関係なき過失」という過失認定を持ち込むことはできないという持論をこれまで展開してきたつもりです。

これに対してfuka_fukaさんは医療事故において「因果関係なき過失」が成立し得て、医療側が過失責任を負うべきというご意見だったと理解しておりますので、それを論証するご意見をひとり勝手に(笑)期待いたしております。

No.93 ぼつでおk(医)さま

これに対してfuka_fukaさんは医療事故において「因果関係なき過失」が成立し得て、医療側が過失責任を負うべきというご意見だったと理解しておりますので

私がどこでそういう意見を書いたか、提示可能でしょうか?

これまでここまでいろいろ説明してきたのがそういう「まとめ」かと思うと正直ゲンナリしていますが、せめてどのコメントをもとにそうお考えになったのか示していただけるとありがたく。

私は医療事故において医療側が過失責任を負う「因果関係なき過失」という過失認定を持ち込むことはできないという持論

趣旨不明です。
「因果関係なき過失」 という表現はともかく、割り箸事件刑事一審判決では、「過失」 があったと認定しつつ、「因果関係」 はないという理由で無罪としたことは今さら紹介するまでもなくご記憶のことと思います。

ぼつでおkさまが否定していらっしゃるのは、「因果関係なき過失」 という概念そのものですか?
「因果関係なき過失」 というものを元に 「医療側に過失責任を負わせること」 ですか?

また、「持ち込むことはできない」 というのは、そのような裁判所の判断に賛成しないという意味ですか?論理的に不可能であるという意味ですか?

裁判所が示す判断基準に従って場合分けをし、一定の条件を措定して 「この場合にはこのような判決が下される可能性が高いと思います」 と弁護士が意見を述べる場合、その意見は、 「そういう場合はその判決のような結論が正しいのだ!」 という 「持論」 が開陳されたものだというお考えでしょうか?

>>No.94 fuka_fukaさん
ご問いかけの順にお答えいたしたいと存じます。

>私がどこでそういう意見を書いたか、
場外乱闘で見つけました。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3910/1182528315/94
ここらのコメントで「因果関係無き過失」という概念が医療事故裁判の中に最高裁でも意見が割れる程度に五分五分の確率で存在し得ると、法律家として語っておられます。

まあ個別の案件で具体的に「因果関係無き過失」認定が存在するかしないかは、最高裁の判決が出てからもしそういう判断があったら最高裁へ直接文句を言えとも書いておられて、「因果関係無き過失」概念の是非自体への判断は避けておられますね(笑)。
しかしあるともいわずないともいわずという態度はないと言うのと同じではありません。
「存在する可能性はないとは言い切れない」という言い方は言外には存在すると言っているのと同じです。
すなわちこの辺りのfukafukaさんの「因果関係無き過失」についての一連のコメントを総合すると、医療事故裁判において「因果関係無き過失」理論にもとづく過失認定がなされることがあり、その場合病院側がその過失責任である慰謝料の高額化をうけいれるべきだというご意見であるとしか解釈できませんが(笑)。
そして文句は最高裁判決が出てから負けた場合のみ最高裁に向かって文句を言えと実に悠長な(笑)。
ここまでがお答の一つめ。

二つめのお答えです。
私が否定しているのは、
>「因果関係なき過失」 という「医療行為に存在し得ない概念」をもとに 「医療側に過失責任を負わせること」
です。
じつに単純明快だと思いますが(笑)。

三つめのお答えは、論理的に不可能であるという意味です。期待権にしろ因果関係無き過失にしろ論理上証明不能でしょ。

残りのお問いかけに対してはここまでのお答えで同時にお答えできたと思いますので、これを代えさせて下さい。

その場合病院側がその過失責任である慰謝料の高額化をうけいれるべきだというご意見であるとしか解釈できませんが(笑)。

太字部分、当然認識された上でお書きになっていることと思いますが。
「その場合」 がどの程度まで認められるべきか、こそが論点ですね。

その条件文を言っただけで、何か意見なり持論を表明したことになるという読解力がベースでは、そこまで根源的な誤解を解くエネルギーもなく、またインセンティブもありませんので、どうぞご自由に。

私の論旨のベクトルが「そちら向き」ではないということを論理的に読み取っていただいている方も多数いらっしゃることは把握しておりますので、あえて一人のためだけに蛇足を重ねる必要はないと考えます。

高額化を肯定?
私が過失相殺に関する裁判所のスタンスに対してどんなことをここ(モトケンブログ本館)や場外乱闘掲示板で書いてきたか、まったく読んでいらっしゃらないようですね。
いや別に今さら過去ログお読みくださいとは申しませんし自分でさがしてくるモチベーションも湧きませんので結構ですが。

三つめのお答えは、論理的に不可能であるという意味です。期待権にしろ因果関係無き過失にしろ論理上証明不能でしょ。

なるほど、論理的に不可能なことを言ってのけていたわけなんですね、裁判所は。
じゃ、こちらもそういうご理解でいいんではないでしょうか。

>>No.96 fuka_fukaさん
私がNo.93 fuka_fukaさんのご問いに対してお答えした「二つめのお答え」についてのご意見が見当たらないようですが(笑)

ああ、失礼いたしました。3つめに包摂される話かと。

> 「医療行為に存在し得ない概念」

であることが前提なんですよね。
じゃ、そのご主張でいいんじゃないでしょうか。
その確信を「誤解だ」と説き伏せようという気にならない、ということです。

「何に対する過失」 なのかという論点 (というより争いがあるわけではなく整理にすぎませんが) もあったような気もしますがなかったかもしれませんね。

>>No.98 fuka_fukaさん
お答えありがとうございます(笑)。

>> 「医療行為に存在し得ない概念」
>であることが前提なんですよね。
>じゃ、そのご主張でいいんじゃないでしょうか。
でよいわけですね(笑)。

現実には医療行為にだけ期待権が問題とされているわけではなく、先日NHKが期待権侵害で訴えられたことがありましたね。才口最高裁判事の危惧するところである、すべての裁量行為に対して裁量性そのものへのアンチテーゼとなり得る概念ですから、ほんとうは「医療行為に存在し得ない概念」ではなく「全ての業務行為に存在し得ない概念」としようと思ったのですが(笑)。

まあ仮説の証明側の私としては一応論証といえる論は書けたと思います。あとは反証の論を立ててくれる人を待ちましょう。そのためにここに書いておりますし、もともと自分自身以外の他人様に対して勝手に「期待」をすることは他人の人権(存在権かなw)を意図的に侵害するに等しい行いだと思っております関係上、期待に反してここですぐに答えを見つけられなくても一向に気になりませんから(笑)。

No.68〜89を読み飛ばし、最近の議論の重要と思われる箇所に補足。

No.92 fuka_fukaさま
> ・ 「期待権」 という場合には、「死は避けられなかったとしても適切な医療行為を受けられるという期待」 の意味で使われます。
> ・ 一方、最高裁が採用した立論は、死は避けられなかったとしても、適切な医療行為を施していれば、現実の死亡時点ではまだ生きていた可能性が 「相当程度の蓋然性」 といえるくらいであれば、慰謝料を認めて良い、というものです。延命可能性、とでもいえるでしょうか。
> 両者は重なるところも少なくないものの、概念上は少ーし異なっていることがご理解いただけるかと。

いわゆる「期待権」概念を、最高裁が主張した最初の例とされる事件。
最高裁平成12年09月22日判決 平成9(オ)42
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=25318&hanreiKbn=01
【要旨】
医師が過失により医療水準にかなった医療を行わなかったことと患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、右医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明される場合には、医師は、患者が右可能性を侵害されたことによって被った損害を賠償すべき不法行為責任を負う。

この事件は、高裁で200万円の損害賠償が認められた(原告の一部勝訴)ことに対し、医療者側がした上告を棄却し、「原審の判断は正当として是認できる」と判示しました。
ところが、原審高裁の理由付けは、
「原審は、右事実関係に基づき、D医師が、医療水準にかなった医療を行うべき義務を怠ったことにより、Aが、適切な医療を受ける機会を不当に奪われ、精神的苦痛を被ったものであり」

これを素直に読めば、高裁の考え方と、最高裁の考え方とは、違うように見える。(No.92 fuka_fukaさま)
しかし、最高裁は「原審は、以上と同旨の法解釈に基づいて」と書いているので、
最高裁の意識としては、高裁と同じであるというつもりか、違うというつもりか、どっちなのだろう?

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もう一つの最高裁のリーディングケースと言われる判例。
最高裁平成17年12月08日判決 平成17(受)715
http://www.courts.go.jp/search/jhsp0030?action_id=dspDetail&hanreiSrchKbn=01&hanreiNo=24968&hanreiKbn=01
【要旨】
拘置所に勾留中の者が脳こうそくを発症し重大な後遺症が残った場合について,速やかに外部の医療機関へ転送されていたならば重大な後遺症が残らなかった相当程度の可能性の存在が証明されたとはいえないとして,国家賠償責任が認められなかった事例

「相当程度の可能性」の証明が要求されていることからして、
前の最高裁判例と同じく、最高裁流の期待権概念かと思わせます。
もっとも、事案の処理自体は、相当程度の可能性すら立証できていないとして、原告の請求を全く認めなかった(被告の完全勝訴)なので、
最高裁は期待権概念を肯定していると見るべきかどうか、これまた、びみょう。

このため、最高裁の考え方の理解のしかたは、現時点においても、論者によって異なります。

◆場外乱闘・医療訴訟においてイニシアチブを握っているのは医師ではないのか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3910/1182528315/96-98
> 「期待権」概念は、一部下級審判例で採用されたものの、評価としては(裁判所の中ですら)賛否両論あり、最高裁レベルではまだ正面から採用されていない (97 :fuka^2 ◆CT.h0ZR/xcさま)

何が損害結果で、どういう期待が法的に保護されるか。

私の最高裁理論の理解はNo.5に書いた通りであり(fuka_fukaさまの命名「延命可能性期待」)、
単純に適切な治療を受けること自体の期待(適正治療期待)は、法的な権利としては保護しない考えであると解します。

つまり、最高裁の考え方では、
 不法行為成立の要素: 違法行為 → 因果関係 → 損害結果
の「損害結果」とは、医療過誤訴訟においては、あくまで「身体が害された」という点に求められる。
だからこそ、本来の因果関係が立証できなかった場合に、次点賞として与えられる「期待」侵害に対する賠償も、「なお生存していた相当程度の可能性」を害したことが要件とされるのだと思います。

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医師の皆さんは、裁判所が期待権を認めるのはケシカランとよく言われますが、
「期待権」として何を認めているのかを、よく理解しないままで批判されているのではないかと危惧します。
基本的に、治療の有効性を問わず単純に適切な治療を受ける期待権というものは、少なくとも最近の最高裁判例が出た平成17年12月08日以降は、認められなくなっている(それ以前も、そんなに認められていなかったのではないかと思いますが)
ことを前提として、考えてください。

その上で、検討すべき問題として、
1) 最高裁が採用した「延命可能性期待権」論は法理論として正当であるか
2) 仮に「延命可能性期待」自体は認めるとしても、その金銭評価(200万〜300万円)が高すぎないか

この点についても、場外乱闘でfuka^2 ◆CT.h0ZR/xcさまが指摘しておられます。

>期待権」 という場合には、「死は避けられなかったとしても適切な医療行為を受けられるという期待」 の意味で使われます。

医療経済学的には排斥されるべき考えです。結果が変わらないなら要するに無駄な治療ですから。

「なお生存していた相当程度の可能性」を認めても、そのためのコストを考えないのは片手落ちと思います。

そもそも期待権は慰謝料を払わせるための法理論ツールであるわけですよね。

医療は患者に対してなされる行為であり、結果が本人の期待に反するものであった場合患者本人が申し立てさえすれば医学の限界などにお構いなく慰謝料をもらえる患者にだけ認められる権利です。この一方的な権利の行使を正当に拒否できる法理論上の権利は何という権利ですか。法の前の人権の平等の観点からすれば期待権が存在するなら当然法理論上存在しなければならない医療側の概念ではないでしょうか。

法理論上にそれが存在しないのであれば期待権も法理論上の存在根拠を失うというのが法の前の人権の平等というものではないでしょうか(笑)。

No.102 うらぶれ内科さま
> >期待権」 という場合には、「死は避けられなかったとしても適切な医療行為を受けられるという期待」 の意味で使われます。
> 医療経済学的には排斥されるべき考えです

その点は議論する意味がありません。
最高裁によって否定された理論ですから、
もし、うらぶれ内科医院にそういう請求が来たら、支払拒否してください。

> コスト

そもそも本当にコスト割れになるかどうか、疑問ですが(事故発生率如何?)
「うちはコスト割れになるから賠償したくない」という言い訳は通用しません。
損害賠償義務があることは、あらかじめ法律で決められているのだから、業者側が賠償責任保険などで危険を回避すべきというのが、民法の価値観です。
賠償額に制限を付けることは、(公序良俗に反しない範囲で)契約により定めるか、法律の特別の規定によらなければできません。

損害賠償キャップ制の制定を求めて、直ちに国会にデモをかけるべきでしょうね。
て、ずいぶん前のエントリにも書きましたが。

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No.104 ぼつでおk(医)さま
過去ログで、損害賠償論のコメントを探してをお読みください。
期待権だから、ということではなく、どんな損害賠償請求も一方的に要求する権利です。
端的に言いますと、
一方的に被害を受けたから、その損害を回復するために、一方的に賠償を求める権利を与えられるのです。
被害者の側にも落ち度がある場合は、一方的ではないので、過失相殺で調整します。

法律上、一方的な権利は他にもいろいろあります。贈与とか相続とか。

念為。
No.103 うらぶれ内科さまがおっしゃる「コスト」とは、
・過失があった
・通常の因果関係は無い
・もし適切な医療が施されていれば、なお生存していた相当程度の可能性があった

場合でも、200〜300万円を払うのは高すぎる、という意味ですね?

人為的に安い価格に設定された保険診療においてはコスト割れであっても、
自由診療でなら、採算の合う治療費をもらう代わりに、このような延命可能性期待までも賠償すべき、ということになりますか?

まあ、それこそ自由診療なら、治療費いくらに抑えるから、損害が発生しても延命可能性期待までは賠償しないよ、という契約も可能と思います。

>>No.105 YUNYUN(弁護士)さん
コメントありがとうございます。質問済みませんが(笑)

>期待権だから、ということではなく、どんな損害賠償請求も一方的に要求する権利です。

であれば期待権という特別な用語がなぜ存在するのですか?期待権が法理論上特に必要な理由がわかりません。

>法律上、一方的な権利は他にもいろいろあります。贈与とか相続とか。

医師対患者関係は贈与とか相続とかの一方的な権利を発生させる人間関係のひとつなのですか?

YUNYUN(弁護士)さん,
解説ありがとうございます。

1) 最高裁が採用した「延命可能性期待権」論は法理論として正当であるか 2) 仮に「延命可能性期待」自体は認めるとしても、その金銭評価(200万〜300万円)が高すぎないか

1)についてですが、そもそも「延命可能性期待論」が採用された理由はNo.5でご指摘されていた立証困難性なのでしょうか?
そうだとすると立証困難の問題は手続法的な解決法(たとえば立証責任とか証拠開示など?)によるべきなのではないか?と思うのですが実体法面での解決方法(因果関係の認定を実質的に緩める)を選択することには違和感を感じます。

2)についてはある程度厳格な要件を課せばそれほど高額とはいえないかなー、と。(たとえば末期がん患者に抗がん剤を100倍点滴したような場合、死は避けられなくても延命可能性は相当程度あったと思われますがこのような軽率な行為があった場合にはそれくらいの制裁は致し方ない面もあるかもしれません)

なお、No.101での説明のなかで

「損害結果」とは・・・「なお生存していた相当程度の可能性」を害したこと

という部分がちょっとよく分かりませんでした。「なお生存していた相当程度の可能性」というものが法的に保護されるのでしょうか?

No.108 ろくろくびさま

「なお生存していた相当程度の可能性」というものが法的に保護されるのでしょうか?

最高裁は、法的に保護される利益であると認めています。

死んでしまった以上、100%立証することはできないが、「まず間違いなく死期を延ばすことが出来ていたはずだ」 という場合のことです。
逆側からいえば、 「不適切な医療行為によって死期を確実に早めてしまった場合」 には、何らかの責任を医療機関側に負わせるという価値判断を裁判所は採用した、ということです。

そこでの 「立証困難性」 は、証拠の 「偏在」 (一方が独占している) とは少し違うと思います。
上に書いたとおり、「死んでしまった」 から、「まだその時は生きていた蓋然性」 までしかいえないのだと理解しています。


*****
YUNYUNさま、タイムリーかつ丁寧なフォロー、痛み入ります。

No.109 fuka_fukaさん
迅速な回答ありがとうございます

>No.92 fuka_fukaさま

不勉強者に、ご説明痛み入りますm(_ _)m

No.92の後者の理論(延命可能性に関する理論)は、No.71で引用した「治療機会喪失論(延命利益侵害論)」と似たものでしょうか。

いずれにせよ、(患者が診療に関して持っている)「期待権」は青天井となる可能性(恐れ)もありそうですが、「延命可能性」や「延命利益」や「治療機会」ならば、「期待権」よりは制限はされそうな気がします。

ただ、「延命可能性」の概念やその理論(最高裁が採用した立論)は、No.100 YUNYUN(弁護士)さまが『fuka_fukaさまの命名「延命可能性期待」』『最高裁が採用した「延命可能性期待権」論』と仰っておられるように、「延命可能性」の認定には「期待」が含まれるのでしょうか?
すなわち、「狭義の期待権侵害論」であるという認識で宜しいでしょうか?

上の方で書いておりました通り、「過失がなければ助かった相当程度の可能性」を根拠に(言い換えれば、下記No.71の箇所を成立要件として)、精神的苦痛に対する慰謝料を支払えというロジック自体に問題があるのではないかと思っておりましたので、懐疑やモヤモヤした思いは解消できずにおります…。

『過失がないならば、悪い結果も無い』相当程度の可能性の証明、エアーポケット対策用の非論理的妥協案、医療側に落ち度があるのに、その責任が最終的には否定されることに対する割り切れなさを救おうとするための基準(No.71)

でも、概念上の整理は少し出来たように思います。
本当に、ご説明頂き有り難うございましたm(_ _)m

YUNYUN(弁護士) さまの補足説明も大変参考になりました。
有り難うございました。

「立証困難性」 は、証拠の 「偏在」とは違うというのは理解したのですがそれでもやはり若干の違和感があります。
立証が困難なケースって医療裁判以外にも(個別のケースでは)色々ありそうなんですがなんか対象が無限定に広がりそうな気がします。
もちろん「相当程度の可能性」等が必要となるのでしょうが

裁判員制度が始まると裁判官が用いているツールを裁判員が用いても止めることはできないですね(笑)。
才口判事の心配はそこにありますが、最高裁の裁判官はよく考えて判決する訓練が足りているから判断を誤る可能性について何も心配していないのかな(笑)。

私は期待権や「因果関係なき過失」を是とする判事と同じ仲間になるのは願い下げですから(笑)裁判員は受任できませんね。

陪審員は期待権や「因果関係なき過失」そのものの是非を判断するだけですから陪審員ならこっちから受任したいですけど(笑)。

まあ、それこそ自由診療なら、治療費いくらに抑えるから、損害が発生しても延命可能性期待までは賠償しないよ、という契約も可能と思います。(No.106 YUNYUN(弁護士)さんのコメント)

医師側は「診療契約時に、患者さんの延命可能性期待まで保障したつもりはないよ」と言うことも可能なように思いますので、やはり納得できない医師の方もいらっしゃるだろうと思います。
もっとも、上記コメントは、現状下での苦肉の策として、医師側へご提案されたものだろうと了解しています。

YUNYUN(弁護士)さんも、fuka_fukaさんも、延命可能性期待権論にも、議論の余地があるとお考えのようですから、ぶっちゃけ、延命可能性期待論にも問題があるとお考えである、と受け取っても宜しいでしょうか?

* * *

ところで、「過失がなければ助かった相当程度の可能性」の証明を用いることについて危惧していたのは、
i)【高度な蓋然性の証明】⇒【相当程度の可能性の証明】
と置き換わっている点

だけではなく、

ii)【「過失があるならば、助かっていなかった」(AならばB)という証明】
 ⇒【「過失がないならば、助かった」(AなければBなし)という証明】
と置き換わっている点

についても問題があるのではないかと思っていました。

ところが今、「条件関係における択一的競合について」(吉岡一男著)という「法学上の因果関係論において基本ないし前提をなすとされる条件関係について」論じたペーパーをネット上で拝見したのですが、上記ii)は、刑事学上でも一般的な証明方法だったのですね…!

(法曹関係者や法学に通じていらっしゃる方からは「何を今更」とお叱りを受けそうですが、裁判員制度を前にして慌てている無知な素人だと思って、生暖かく見守って頂ければ幸いです。もし、ご指導ご鞭撻も頂ければ本当に幸いです。)

上掲のペーパーでは、上記ii)をconditio sine qua non(必要条件)と呼んでいらっしゃいます通り、十分条件ではないのですから、「AなければBなし」という条件が満たされても、当然、十分ではない筈なのですがね…。
勿論、裁判で裁く内容は、追試(再現実験)ができないことが多いと思いますので、十分条件が満たされる事を厳密に求められないだろう事は分かりますし、「必要条件が満たされた後は、その他の材料で支持できるかどうかを判断して行くのだろう(※)」とも思います。
しかし、法廷における証明では、特に厳しく論理整合性を重んじると思っていましたので、意外に思いました。

これ(※)が、うらぶれ内科さんが上の方で仰っていた「帰納法的に適正な判断を決めていく」という事なのだろうと、納得した次第です。
もっとも、これまで私も、法廷においても『証拠認定の際』には、帰納法的推論も使われているのだろうとは思っていました。
ただ、『こうして法廷で認定された証拠や事実から結論(判決)を導き出す際』にも機能的推論が使われているとは知らず、真理保存的となるような証明方法(演繹的推論)を適用するものだと思い込んでおりましたので、これが私の勘違いだったことが分かり、意外に思ったという話でした。

なお、上記ii)に関する問題も指摘されているようですね。(「H.L.A.ハートとT.オレノの法的因果関係論」(吉田信一著)

でも、私としては、意外には思いましたが、上記ii)に反対するのは止めようと思います。
法廷での判決は「科学的実在論」より「科学的非実在論」に近いように思いますので、納得しやすい所もありますから…。
そして、ますます、法曹家の方達も、経験科学としての医療行為に親近感を覚えるハズではないでしょうか?
だから、双方に歩み寄りの可能性はあると思います。

そこで、残る上記i)についてですが、下記のような提案があります。
最高裁が「治療可能性期待権」を認めるならば、最高裁は「精神的苦痛に対する慰謝料の判断についても、因果関係に高度な蓋然性を要求する裁判を受けられる可能性を期待する権利」も認めるべきではないでしょうか?
そうすれば、フェアーではないかという気がします。

No.114にて、「H.L.A.ハートとT.オレノの法的因果関係論」(吉田信一著)のリンク先を貼り間違えました。
正しくはこちらです↓
http://library.tuins.ac.jp/kiyou/2005kokusai-PDF/yoshida.pdf

あと、同コメント内で「機能的推論」とありますのは「帰納的推論」の誤りです。

失礼致しました(汗。
自習して出直すと言いつつ、コメントすみません。
これにて、医療訴訟の件については、もう少し勉強するまで、当分の間は口を挟みません。
重ね重ねのエントリ汚しとなり、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

>>No.115 死刑囚さん
>重ね重ねのエントリ汚しとなり、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

いえいえ、ここは期待権をディベートするエントリーです。
すでにNHKが期待権侵害で訴えられたというニュースがありましたし、医療裁判に限った話ではないと思います。
エントリ汚しなどあり得ません(笑)
すでに拝見しました鋭い論理分析力を存分にご発揮なされてどんどんコメントしてくださることを、ディベーターの一人としてご期待申しております。

>No.116 ぼつでおk(医)さま

お気遣い有り難うございます。
以前、「刑事弁護と社会正義」エントリにて、薬屋の企画屋さんにコメントを頂いてから、それまでよく知らなかった医療訴訟の件について、一般シロートの人間も知らないといけないような気がしてROMはしているのですが、追い切れていないのは事実です…(汗。

ところで、こちらのブログで色々な事を教えて下さっている弁護士の方達は、特にディベート(意見対立が前提)に参加されているおつもりはないようにもお見受けするのですが…。

証左の一つとして、たとえば、場外乱闘場でのfuka_fuka先生の下記ご発言は、医師側に攻撃点を示していらっしゃいます。

特に、医療関係者のみなさんが攻撃すべきは、 1) 最高裁が採用した「適切な医療行為がされていれば現実の死亡時においてなお生存していた蓋然性」なるものを責任根拠として認めることの不当性、 2) または、仮にそれ自体は認めるとしても、その金銭評価が現状では高すぎること、 ではないかと思う次第です。

じじい様のコメントのように、「ひょっとして私って、刑事ものの映画撮影の乱闘シーンを、勘違いして止めに入ったようなお間抜けさん? 」だったら、野暮でスイマセンデシタ(^^;ゞ

>>No.117 死刑囚さん

ここのエントリータイトルは期待権「論」です。
言葉の正しい意味においてこのエントリーは期待権を「論じる=ディベートする」場でございます(笑)。
しかるがゆえに私は期待権について論じているのであり、この場合ここに書き込む人はみな論者として対等の関係でしかないわけです。
また、最高裁が認めているとかいないとか判例として使われたことがあるとかないとかは、期待権の法的ツールとしての論理的正当性に法理論上何の根拠も与えるものではないでしょう。
各自が論証を行って、それが正しいか誤っているかのどちらかでしかないというのはロジックの世界の公理ですからね(笑)。

No.118 ぼつでおk(医)さん

新理論を構築するにあたっては、自己論理の矛盾がないことが大前提です。
誰かに議論を吹っ掛ける前に、成書をお読みくださることをお勧めします。

(医)と付いているので、見ちゃいられません。

ここのエントリータイトルは期待権「論」です。 言葉の正しい意味においてこのエントリーは期待権を「論じる=ディベートする」場でございます(笑)。

素朴に認識違いがあったようです。

私は、「期待権論」とは、「期待権侵害論」延命可能性期待権(侵害)論のことだと思ってました。

ですから、これまでの判決で「期待権論」がどのように用いられてきたか、また、これからどのように用いられる可能性があるのかを、まず確認してから、(懐疑を抱く者としては)批判なり、問題点を洗うなり、しようとしていました。
後者の「これからどのように用いられる可能性があるのか」に関しては、最高裁の判決を無視できないでしょうから、確認していました。

いずれにせよ、ぼつでおk(医)さまは、「期待権」という概念自体を否定できれば、「期待権(侵害)論」については論じるまでもないという所なのかもしれませんね。

>>No.119 Med_Lawさん
>新理論を構築
しているのは「期待権」のほうですが?
おもしろいことをおっしゃる方ですね(笑)。
さらにMed_Lawてのも「期待」+「権利」のごとくおよそ合成できる概念とも思えませんが(爆)。

>>No.120 死刑囚さん
>「期待権」という概念自体を否定できれば、

違います(笑)。
期待権というツールを導入する必要がないと言っているだけですよ。
No.107で書いたように。

>>期待権だから、ということではなく、どんな損害賠償請求も一方的に
>要求する権利です。

>であれば期待権という特別な用語がなぜ存在するのですか?
>期待権が法理論上特に必要な理由がわかりません。

>No.122 ぼつでおk(医)さん

あーすみません。
「概念自体を否定できれば」というのは、「概念自体の導入を否定できれば」って意味です。

こんな時、薬屋の企画屋さんがいらっしゃったら良かったのかもしれませんね。(最近お見限りですね…(><))

ぼつでおk(医)センセイ。

もし私が医師だったら、お酒でも飲んだ時などは、内心こう叫んでいるかもしれません↓

「期待権? へん?なんじゃそりゃ?
使い方によっちゃ、青天井な権利じゃねぇか!
期待権論?はぁん? 期待権自体が胡散臭いってぇのに、期待権論も糞もあったもんじゃないだろ!

弁護士先生が法学について教えてくれてる?
なに言ってンだ!期待権なんて訳わからんツール持ち出して、損害との因果関係を十分証明できてないのに、どうせ金持ってんだろーって、医者から、金ひねり出そうって判決出して恥ずかしくないのか?
弁護士先生たちの身内がやってんだから、身内の不始末じゃねーか。
それを他人事みたいにレクチャーするんじゃねーや。」

って感じでしょうか。

モトケン先生、弁護士、法曹家の皆様、すみませんm(_ _)m
下卑た言い方もさる事ながら、内容の方もすみません。

あくまで、上記は「仮に当事者側で、お酒を飲んでいるとした時の仮定の話」です。
でも、それぐらい、もし医師だったら追い詰められていても、不思議はないかもしれないという事です。(あくまで私の想像ですが。)

私が仲良かった友人の2人は、女医になりました。
一人は別の中学校でしたが、塾で仲良しになった子です。
もう一人は高校時代の同級生でした。

2人とも、もう中学3年生や、高校2年生の頃には既に医師になることを決意していました。
将来のことなどな〜んにもまだ考えることもできなかった私は、2人の志しに驚くばかりでした。
高校時代の友人の方は、中学生の頃、参加していた部活合宿で、後輩の男の子が合宿所のお風呂で急死したという経験があり、医師を志すことを決意したと言っていました。
医療訴訟のことを思うと、この友人らの事を思い出します。
法律的には、医師が手術などで患者の身体にメスを入れる事が許されるのは、違法性阻却事由によるものだと聞いています。
このことを考えても、医師の仕事は一歩間違えば違法と隣合わせのハイリスクな仕事だと思います。
いくら立証が困難だからといって、その目的は命を救う為であった筈ですから、因果関係の立証を例外的に緩める必要はあるのでしょうか…?
勿論、本当に過誤と言えるものもあるかもしれません。実体としては、本当に過誤といえるものしか不法行為と認められないような運用になって行くのかもしれません。
でも、訴えられるだけでも、ダメージが大きいと思います。
かかる年月も、世間の評判も、精神的ダメージも、身体的束縛も。
期待権というのはあまりに原告側に便利すぎるツールだと思います。

あ〜、もう何かいてるのか、分からなくなりました。

とりあえず、私はぼつでおk(医)さまとやりあう気はありませんので、これで失礼させて頂きまする。

>>No.123 死刑囚さん
>とりあえず、私はぼつでおk(医)さまとやりあう気はありませんので、

私も死刑囚さんとやりあってる(笑)つもりは全然ありません。
期待権という法理論ツールとやりあってるだけですよ、気にしないでご自分の書きたいことをご自分のお言葉でお書きいただければとても勉強になります。

>No.124 ぼつでおk(医)さん

恐れ入りますが、仰らんとする意味が分かりません。

上掲で「やりあう」と言ったのは、「ディベートする」という意味ですが、ディベートでは、やりあう相手は【主題】(ex.「期待権」「法理論ツール」)ではありません。
【主題を巡って対立した意見を持った相手】とやりあうものです。

私のスタンスとしては、批判したい対象(理論等)があれば、まずその手の内をよく知ろうとします。敵をよく知らないと、急所は狙えませんから。
こちらの弁護士さん達は、それを手助けして下さってるように見えます。また、現状下で、その敵からの攻撃を防御する方法を教えて下さろうとしているように見えます。

自分の書きたいことを自分の言葉で書く時も勿論ありますし、これまでもそうして来ています。ただ、批判したい対象(理論等)が法学で定義されたモノならば、その概念・論理等をよく知るためには、法学のロジックや流儀を踏まえておいた方が効率がいいと思ってます。

追記:

医療訴訟関連エントリを全部は追いきれてはいませんが、ざっと拝見する限り、ある程度議論は煮詰められているように思ってましたので、No.125は既に周回遅れのコメントだろうとも思っています。

「新小児科医のつぶやき」ブログの「2007-01-08 モトケンブログへのエール」という記事のご意見の通り、問題点についてかなり論議して洗い出され、現実的な対応策や実行すべき改革案の枠組みはおおよそ出来上がっているのに、実現させる現実的なプロセスが見つから無いという壁に直面しているのだろうと思います。

この机上の論から一歩も出ないという壁の前に立ち往生して、「医療危機が進行し、国民が医療への認識を改めない限り不可能」という最悪の事態を待つしかないのか…!?という状況が少なくとも去年の1月頃から続いていたんですよね。

すでに、国民(法曹家でも医師でもない一般シロートの私)が関心を抱いている位ですし、医療崩壊がマスコミでも少しずつ取り沙汰されるようになっていますので、最悪の事態に近づいているのかもしれません。

ぼつでおk(医)さまは、こちらで議論することで、ナニを望んでおられますか?
議論というより、たとえば、少しでも多くの人に警鐘を鳴らそうとしている、という事であれば、ぼつでおk(医)様のスタンスも理解できると思っています。

期待権が使われるのはエアポケットに対してです。
そして割り箸事件において刑事判決を下した裁判長は「因果関係なき過失」というエアポケットの存在を指摘した。
それを受けて刑事裁判よりも精密に刑法に触れない過失の存在を検証する民事裁判において、エアポケットが本当に存在するのかくわしく検討した結果くだされた最終判断が、今回の原告の請求棄却という判決。
エアポケットなど存在しなかったということです。

ここの「期待権論」においては私の仮説の論証のほうにとってより有利に働く割り箸事件民事判決です。

>>No.126 死刑囚さん
>ぼつでおk(医)さまは、こちらで議論することで、ナニを望んでおられますか?

ここに参加した最初から「期待権」を論じるためと、大野病院裁判における検察の起訴そのものの不当性を明らかにするためのただ2つの目的しかありませんよ。とっくに書いてるしいつも書いてるとおりですが、読んでおられませんか?(笑)

>No.128 ぼつでおk(医)さん

とっくに書いてるしいつも書いてるとおりですが、読んでおられませんか?(笑)

ぼつでおk(医)さんが書かれていらっしゃる「投稿の目的」には目を通しています。
でも、その投稿内容の趣旨が良く分からず、投稿の目的に沿うものであるのかどうかも判断ができなかったので、質問させて頂いていたのでした。

No.128のご回答により、投稿目的は単なる「警鐘を鳴らすための宣伝」ではないとの事は、了解致しました。この点については、不快に感じておられましたら、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

* * *

No.127でも触れられている「エアーポケット」の意味についてですが

エアーポケット:【(過失有りと認められた、もしくは、過失有無が争われはしたものの過失有りと認められなかった)診療行為】と【損害】の間の因果関係に高度の蓋然性が証明されないこと。 このような両者間の空洞(通常証明基準での論理的関連性の無さ)。

補足:【損害】は、具体的には、「死亡」「適切な医療行為を受けられるという期待が裏切られたこと」「適切な医療行為を施していれば、現実の死亡時点ではまだ生きていた可能性が奪われたこと」「適切な医療行為を施していれば、現実の死亡時点ではまだ生きていた可能性に対する期待が裏切られたこと」などを指す可能性があります。

以上のようなものを「エアーポケット」だと私は捉えています。

だから、「エアーポケットが存在しなかった」と書かれているのを見ると、「えっ!?高度の蓋然性の証明はされていなかったんだから、エアーポケットはあったんでしょ?」とまず思ってしまいます。

ただし、仮に、エアーポケットが存在する前提として、診療行為に「過失有り」と認められる事が必須と考える立場を取るならば、「過失が認められなければエアーポケットも存在しない」という論理は分かります(No.83に書いた通り)。
しかし、この立場の場合を取ると、「因果関係なき過失」と「エアポケット」は同時に成立し得ません。

だから、ぼつでおk(医)さんのコメントで、

エアポケットが存在し得ないすなわち因果関係なき過失の論証(No.76)
「因果関係なき過失」というエアポケットの存在(No.127)

等とあるのを拝見すると、混乱してしまう訳です。

以上は、ぼつでおk(医)さんのコメントの内容を理解したいので書いております。念為。

No.129肝心と思っている箇所に、語弊のある表現があったかもしれませんので、下記修正させて頂きます。

×しかし、この立場の場合を取ると、「因果関係なき過失」と「エアポケット」は同時に成立し得ません。


○しかし、この立場を取る場合、過失(「因果関係なき過失」or「因果関係ある過失」)が無ければ、「エアポケット」は存在しません

「エアポケット」は存在しません、というのは、それを「相当程度の可能性の証明」を用いて埋められるかどうか認定・判断すべきような「エアポケット」は存在しません、と補足した方が適切かもしれませんが。

>>No.130 死刑囚さん
ひとつだけ、投稿ボタンを押す前に確認ボタンを押すことをおすすめします。折角のコメントですが読みにくいこと夥しいので(笑)。

>○しかし、この立場を取る場合、過失(「因果関係なき過失」or「因果関係ある過失」)が無ければ、「エアポケット」は存在しません。

その医療行為が過失であるという判断は、いつ誰によって行なわれたのですか?

>その医療行為が過失であるという判断は、いつ誰によって行なわれたのですか?

はい?
過失が認められてないんだから、「過失と死亡の間の因果関係の有無」を認定・判断するまでもなく、原告らの請求には理由がないという事ですよ?

>ぼつでおk(医)さま

簡単にするため、とりあえず、質問させて頂きます。

>No.127

【質問1】ぼつでおk(医)さんの仰る「エアポケット」の意味は、なんでしょうか?

【質問2】どのようにして、No.127の「割り箸事件」の「民事裁判」の判決から、「エアポケットなど存在しなかったということです。」という結論を導いたのでしょうか?

質問は、以上です。

* * *
読みにくいかもしれませんので、以下は特に読まずとも結構です。
当該民事裁判の判決について、詳細省いてポイントをかいつまめば、下記の通りの認識でおります。


1.被告の診療行為に過失は認められない。

事実関係及び当時の医療水準に照らせば、「被告医師が頭蓋内損傷が生じていること」の予見可能性は認められないから、当該注意義務があったとはいえない。
ゆえに、被告の診療行為に過失があったとは認められない。

2.被告病院に過失は認められない。

被告の診察(診療行為)に過失があったとはいえず、そのほかに被告病院の体制に不備があったと認めるに足りる証拠はないから、被告病院に過失があったとは認められない。

ゆえに、

3.「被告らの過失と患者死亡の間の因果関係の有無」という争点は認定・判断するまでもない。

⇒原告らの請求には理由がない。

* * *

でも、直ちに原告らの請求を却下(門前払い)にはせずに、

4.「被告らの診療行為と患者死亡との間の因果関係」の有無についても検討する。

「特に、「理由はない」としてそこで終わりにできることに関しても、本件では特に踏み込んで判決理由を示すなど、まさに言葉を尽くして、請求が棄却されることになる原告側の理解と納得を求めようと努力している観があります。 (「割りばし事故死」訴訟地裁判決エントリのNo.21 惰眠さんのコメント

4−1.患者が死亡するに至った具体的な機序は不明であると言わざるを得ない。

4−2.仮に被告医師が頭蓋内損傷が生じていることを診断した後、患者が死亡した時点以前に手術適応の判断がされたとまでは認めることができない。

4−3.「4−1」&「4−2」より、被告医師が頭蓋内損傷が生じていることを診断し、被告病院において入院・治療を行ったとしても、患者がその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る高度の蓋然性が証明されたとはいえない

⇒診療行為と患者死亡との間に因果関係があると認めることはできない。

4−4.「4−1」&「4−2」より、被告医師が頭蓋内損傷が生じていることを診断し、被告病院において入院・治療を行ったとしても、患者がその死亡の時点においてなお生存していたであろうことを是認し得る相当程度の可能性の存在が証明できたということはできない

⇒原告らの請求はいずれも理由がないので棄却


答え1 エアポケットは因果関係なき過失を誰の責任にするのかという「わからん」判断(笑)。今までみんなそういう意味でしか使われてないでしょうがw

答え2 あの判決文に因果関係なき過失を指摘した部分がまったくないこと。あれば教えて(笑)。

あらら、すごいことになってますね。最近場外乱闘上が寂れてるようなんですが。

>>No.135 うらぶれ内科さん

うえへへへ、モトケン先生が作ってくだすったこの餌場にほいほいと首まではまっとります(爆)

わたしゃ高見の見物っとwww

>>132 死刑囚さん
裁判はある行為にどういう過失が認められるか否かを判断するために行われるでつよ。そして裁判官が詳細に検討した結果責任を取るべき過失が認められなければ原告の求償権の行使が否定される訳です。
最初から過失が必ず存在するという先入観は判断を誤らせます。以上、ご反論あればお待ちしていますが、個人的なご興味でのご質問はかんべんしてください(笑)。

平たく言えば被告の行為と因果関係が認められない結果については過失ではなく事故であり、つうことはすなわち「だれのせいでもありゃしない」、因果関係なき過失など責任追及しても詮無き事つうことですね。

>No.134 ぼつでおk(医)さま

エアポケットは因果関係なき過失を誰の責任にするのかという「わからん」判断(笑)。

問題になっているのは、
「因果関係なき過失を誰の責任にするのか」ではなくて、
「損害に対する責任を誰が取るのか」でしょう。
(ひいては、損害に対する賠償の責任を誰が負うのか。)

あの判決文に因果関係なき過失を指摘した部分がまったくないこと。あれば教えて(笑)。

そもそもぼつでおk(医)さんが、「因果関係なき過失」と仰る時、個人的にどういう意味で使っていらっしゃるのかが明確に分かりません。

No.95のコメントから、「因果関係なき過失」 という「医療行為に存在し得ない概念」と考えていらっしゃる事は分かりましたが、これだけでは材料不足でした。

例え話は却って混乱の元になるかもしれないと思い控えていましたが、例え話をさせて頂きます。

* * *
例え話:

ある朝、医師が、患者に対してある薬の投与を指示したのですが、医療水準だと1日1000ミリグラムを4回に分けて投与しなければならない所、一度に計4000ミリグラムを投与するように誤って、看護師に指示したとします。カルテにもそのように誤って記載してありました。
そして、その日の夕刻、患者が死亡したとします。

医師の当該指示は、「過失」と認められたとします。
ところが、実際には、看護婦は患者に対して、一度に計4000ミリグラムを投与せず、1日1000ミリグラムを4回に分けて投与しており、その証拠も提出され認められたとします。

この場合、医師の当該指示は、患者死亡(損害)との因果関係なき過失が成立する事になるのではないでしょうか。

>No.138 ぼつでおk(医)さん

以上、ご反論あればお待ちしていますが、個人的なご興味でのご質問はかんべんしてください(笑)。

なんでそれに反論があると思うのか、その発想が理解できません(^^;

平たく言えば被告の行為と因果関係が認められない結果については過失ではなく事故であり、

これについては、No.139をどうぞ。

「だれのせいでもありゃしない」、因果関係なき過失など責任追及しても詮無き事つうことですね。

「だれのせいでもありゃしない」、誰の行為とも因果関係なき損害など、責任追及しても栓無き事つう意味なら、諸手を挙げて賛成ですがな(^^)

No.139の例え話でいえば、過失と認めらた行為【医師の誤った投薬指示】があったとしても、その行為と因果関係なき損害(患者死亡)は、「だれのせいでもありゃしない」んですから、責任追及するのは反対です。(前から書いてる通り)

* * *

「因果関係なき過失」「エアポケット」等という言葉を、独自の解釈で用いられるのは自由かもしれませんが、混乱の元と思います。

「理解されなくても結構」というのであれば構いませんが、こちらのコメントの意味まで曲解されるのはご勘弁願いたいです。

ゆえに、これにて退出させて頂きまする。

ではでは。

>>No.139 死刑囚さん
その例え話でのご質問なら場外乱闘場
http://jbbs.livedoor.jp/news/3910/#6
へいってみてください。
あるいは法律家の方へご相談をどうぞ(笑)。
私は医師ですので職業柄そのような新聞記事みたいな大雑把な話については何も診断いたしませんね。

本当にこれで最後にしますw

ぼつでおk(医)さまの「因果関係なき過失」という用語の用い方のように、新聞記事みたいな大雑把な用語の使い方されては叶いません(苦笑)

真面目に対応して無駄な時間を費やしました。
正直、めっさ不愉快であります。ではではっ。

おや、自分の
>「因果関係なき過失」「エアポケット」等という言葉
の解釈も示さないままでいっちゃった(笑)

えー、オチを考えてみましたw

我(裁判官)エアポケットを期待す、ゆえに期待権あり。
我(裁判官)エアポケットを期待せず、ゆえに期待権なし。

うらぶれ内科さんにウケるかな?それだけが心配(笑)

要するに、ちょっとわかりにくい判断のエアポケットに遭遇した時、裁判官が忙しいからといってよく思惟を重ねること(判事の責務そのもの)を放棄するだけじゃなく、「因果関係なき過失」だの「期待権」だのをひねりだして判決文の体裁だけを整え、「法的に考えたらこんなん出ました」とそ知らぬ顔をして提出期限の結審が来たら形だけの判決文を通そうとする。当事者に文句を言われたら裁判は三審制だから次でひっくり返せばいいじゃん、と開き直る。民事裁判は和解をこそ旨とせねばならないのに裁判長が手抜きをしたために余計に紛糾して上級審に送られることになる。

期待権や因果関係なき過失は、そういう論理的思考能力のエアポケット=欠損を自覚できない裁判官が用いるツールそのものに見える。

反論ある人はどうぞ(笑)。
ただし、成書を読めとかエライ人がこう言ったとかいう他人の考えを持ち出さないで、自分の頭で論理を組み立てて論理的にお願いしまっせ(爆)。

ぼつでおKせんせ、死刑囚さんお疲れさんでした。

さて期待権の法的根拠は皆様方に議論を任せるとして、こういうものを認めるとどういうことになるか。過失と結果の因果関係の立証を緩めれば緩めるほど、判断はファジーになっていくはずです。そもそも100%の因果関係が成り立つなら裁判そのものがいらない。証拠を集めて推論という機械にかければことは済みます。100%でなく90%、これも人為的なものでありますが、このように数字が偏っていれば、裁判官の判断もそうはばらつかないはずです。もしこれが50-60%でいいとなると、ばらつきも相当のものになるはずです。何せ最後のよりどころは裁判官の心象に過ぎないわけですから。
そうすると医師は最悪のことを考えて行動しますから、極端な防衛医療にならざるを得ません。それこそ10%もない過失を避けようとするわけです。この「人は最悪の事態を想定して行動する」というのをナントカノ原理というらしいけれど、死刑囚さんあたりはご存知かな。
しかし、結局のところ民事裁判であれば、裁判は弁護士に任せ、賠償金は保険で支払うわけですから医師はそう困ることはないんですが、国民皆保険というのはまもなくなくなることを考えると、結局医療費の高騰という形で皆様方に付けが回っていくことになるんでしょうね。

P R

ブログタイムズ

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