エントリ

 検察審査会との関係については最近、どなたかがコメント欄でも指摘されていたところであり、ここで私の思うところをまとめてみたいと思います。
 但し、最初にお断りしておきますが、このエントリは憶測に近い推測まじりのエントリです。

 福島地検が大野病院事件をなぜ起訴したのかについて考えてみたのですが、いくつかの要因があるにせよ、被害者側の処罰感情の厳しさから見て、不起訴処分にした場合は検察審査会への申立がほぼ確実なものとして予想され、検察審査会が本件を見た場合、不起訴処分に異議があると判断する可能性があると福島地検が考えたことが、本件起訴の大きな要因になっていると想像されます。

 検察審査会というのは、検察官が不起訴処分にした事件について、その処分の当否について
審査する組織です。
 簡単な説明として「検察審査会 - Wikipedia」を紹介しておきます。
 その構成メンバーは、「選挙権を有する国民の中から無作為に選ばれた11人の検察審査員」です。つまり、一般市民です。
 検察審査会が、不起訴処分で問題ないと認めれば「不起訴相当」という議決をしますが、捜査が十分じゃないんじゃないか、もっと捜査を尽くさないと不起訴と言えないんじゃないか、というような場合は「不起訴不相当」という議決をします。
 そして、(検察審査員から見れば)証拠が十分あるじゃないか、なんで起訴しないんだ、というような場合は、「起訴相当」つまり起訴しろという議決をします。

 現在、検察審査会の「起訴相当」の議決に法的拘束力はありません。
 つまり、検察官は、検察審査会が「起訴相当」の議決をしたとしても、起訴しなければならない義務は生じませんので、再度、不起訴処分にすることができます。
 しかし、検察庁では、事件が検察審査会に対して不服申立手続をされることを嫌います。
 最大の理由は、単純に面倒くさいからですが(検察審査会が「不起訴不相当」や「起訴相当」の議決をした場合は、それなりの再捜査をしてかなり詳細な報告書を作成しなければなりませんし、上級庁の決裁もいるはずです。)、それとともに、「不起訴不相当」や「起訴相当」の議決が出ればメンツにかかわりますし、マスコミからの批判も受けることが予想されます。

 検察庁としては、事件を受理した以上、起訴するか不起訴にするかしかないのですが、
 誰が見ても起訴できない、またはすべきでない事案であれば、毅然として不起訴にすればいいのですが、業務上過失致死傷罪は、素人感覚的にはプロがやっているのに死傷の結果が出たということはどこかにミスがあったのではないか、という感覚的判断が生じやすい、と検察庁でも考えますので、検察審査会に不服申立された場合の検察審査員の素人感覚を考えますと、検察としてはなかなか不起訴にしにくいのです。

 大野病院事件は、病院側と被害者側とで示談が成立していれば、絶対と言っていいほど起訴はなかった事案だと思います。
 示談が成立したということは、被害者側からの検察審査会への不服申立の可能性がなくなったということを意味しますので、安心して不起訴にできるからです。

 しかし、示談の見込みがない以上、検察としては、不起訴にして検察審査会で「不起訴不当」や「起訴相当」の議決が出るリスクを負うか、積極証拠を集めて起訴してしまうか、という二者択一を迫られることになります。
 起訴したとしても、公判で否認されれば検察としてはそれなりに手間がかかるのですが、当時の福島地検が、「検察審査会から文句をつけられるより、起訴してしまったほうが面倒くさくなくていい、と思ったのではなかろうか、というのが私の憶測の中に一つの可能性としてあります。
 あくまでも憶測ですが。

 その憶測が正しいと仮定すれば、当時の福島地検は、被害者の顔色を窺い、検察審査会のプレッシャーに怯えて自分たちの保身を考えていただけで、起訴の社会的影響などというものは微塵も考えていなかったのだろうと想像できます。

 ところで、大野病院事件の捜査の過程で、一点だけほぼ断定的に批判できるところがあります。
 それは、被告人の医師を逮捕・勾留したことです。
 明らかに、逮捕はもちろん、勾留請求の必要性もなかった事案だと思います。
 逮捕したのは警察ですが、このような事件では事前に警察と検察との間で協議があるのが普通ですから、検察は警察の逮捕を了承するかあるいは指示した可能性が高いです。
 勾留請求は、福島地検の判断です。勾留自体は裁判官の判断ですが、ほとんど検察官の請求通りに認めます。
 では、なぜ、福島地検は医師を勾留したのか。
 さらに憶測をたくましくしますと、福島地検は、公判における面倒くささを少しでも減らすために医師を勾留した疑いが払拭できません。
 つまり、検察官の医師に対する、「どうせ執行猶予なんだから早く自分の過失を認めろ、認めれば保釈に同意してやる、」という恫喝を感じるのです。
 典型的な人質司法です。
 このように考えると、検察が医師を逮捕したことと、さきほどの私の憶測はよく整合することになります。

 もっとも、被告医師がその恫喝に屈しなかったので今の公判状況があります。

 話が、若干横道にそれた感もありますが、このエントリの趣旨は、検察審査会の影響です。
 本件当時は、検察審査会の議決に法的拘束力がなかったのに、事実上の大きな影響を検察庁が受けた可能性があります。
 しかし、改正検察審査会法が2009年5月に施行された後は、検察審査会が2回起訴相当議決をした場合は、被疑者が起訴されるという法的拘束力が生じます。
 つまり、検察審査会が検察庁に与えるプレッシャーはいまよりはるかに高くなるということです。


 医療側としては、刑事免責を主張するのは悪いとは言いませんが、他にも考えなければいけないことがいろいろあると思われます。


追記
 補足説明として以下のコメントをお読みください。
 No.29 モトケンのコメント

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コメント(51)

一般国民が刑事司法に参加できる唯一の機関が検察審査会という現状ですが、司法制度改革で裁判そのものへの国民参加の道が開かれた暁には、検察より上位で国民が司法判断に参加することになりますから、その時には検察審査会のほうは廃絶して検察に対する縛りを解き、検察機能に自由裁量性を回復させるようにしないと、今度は国民が刑事司法制度に過干渉することになって公正さのバランスが崩れてしまうと思います。

No.1早速訂正です。3行目の
>その時には検察審査会のほうは廃絶して検察に対する縛りを解き>

を以下のように訂正します。
>その時には検察審査会への国民参加のほうは廃絶して国民の検察に対する縛りを解き

非法曹一般国民の検察審査会への委員参加を廃絶すれば十分だと気付きましたもので、お詫びして訂正申し上げます。

でも裁判員制度って一部の重大事件しか扱わない制度ですよね。

つまり起訴、不起訴を最終的に判断されるのは、国民であり私のような
一市民ということですね。
そうすると、不起訴不当とした国民に対し、インターネット
医師からの攻撃が行われるわけですね。
現在のマスコミや検察から、国民への攻撃に攻撃目標が変わる。適切な判断のできない国民を愚弄し、罵倒する。

全面戦争ですか・・・

私は、医師の意見を耳を傾け、刑事免責賛成派ですが、
私と同じように理解する市民国民を増やすよう、
医師側は残された時間、必死の啓蒙が必要ですね。
医療をやっていたから、それでよし、という甘い時代は
とうに去ったようです。

いやいや、必死の啓蒙などしません。刑事裁判のリスクを認識した医師はハイリスク現場から次々辞めています(笑)

No.1,2は
モトケン先生のエントリーコメント
> しかし、改正検察審査会法が2009年5月に施行された後は、>
における改正検察審査会法の立法趣旨と法設計が最初から誤っていると思いましたので書き込みました。
ちょうど射程を身損じたまま作られた個人情報保護法や危険運転致死傷罪と同じ誤りが、検察審査会法の改正(笑)内容に含まれていると思いましたもので。

今は市役所職員でしょうか?
8年後の復活期待してます。

全くの素人がふと思ったんですが、
医療事故に関しては「検察審査会」ではなく、「(仮称)医療事故専門検察審査会」を設けるよう働きかけるとかは無理なんですか?

 医者が裁判員をやってもいいですよ。

検察審査会は当面この状態が維持されるでしょうね。
大野事件が実際どうだったかは分かりませんが、おそらく検察審査会に審査される事態になった場合、わたしも不起訴不相当と判断された可能性はかなり高いと思います。特に「あの報告書」があった状況では・・・
とすると結局「鑑定」の信頼性を高める必要があるわけで、信頼できる第三者機関の報告書を起訴・不起訴の判断に利用できるようにすることが必要なのだと思います。そうすれば検察審査会の判断をある程度コントロールできるのだと思います

モトケン先生
>逮捕したのは警察ですが、このような事件では事前に警察と検察との間で協議があるのが普通ですから、検察は警察の逮捕を了承するかあるいは指示した可能性が高いです。

先生の憶測ということですので、先生のお考えにあまり絡むのもあれなんですが、(しかも素人が)
逮捕・勾留した富岡署が「県警本部長賞」を受賞していたと思うのですが、そこら辺を考えると、福島県の捜査側は(検察・警察)単に検察審査会を面倒だと思っただけではない、全く逆に確信的に、「起訴相当であるんだ」という強い考えもかなり有ったが為に、係争中であるにも係わらず表彰したという経緯は考えられないのでしょうか。
このあたりにも私が憤りを感じている一つですし、下手をすれば、世論への間違えたミスリードをしている(これみよがしに)可能性もあるんではないでしょうか。

あれ、すいません。
自己レス訂正です。

>世論への間違えたミスリード(誤)

(正)→世論へのミスリード
    

>福島県の捜査側は(検察・警察)

 検察と警察を同じように考えないほうがいいですよ。

 「県警本部長賞」も逮捕・勾留とどれだけ関係があるのかわかりません。

 この種の事件で、しかも事故後1年以上経過した時点での被疑者(医師)を逮捕・勾留することによる捜査上のメリット(証拠収集上のメリット)はほとんどないはずです。

モトケン先生、ありがとう御座います。

>検察と警察を同じように考えないほうがいいですよ。

解りました。

>事故後1年以上経過した時点での被疑者(医師)を逮捕・勾留することによる捜査上のメリット(証拠収集上のメリット)はほとんどないはずです。

全く同感です。
逮捕された先生が、ご家庭の事も考えるとお気の毒です。
横道にそれて、すいませんでした。

大野事件と検察審査会を関連付けて考える時注意しなければならないのは時制の問題です。
そもそも起訴されたのは2年半も昔のことでその時点で検察の頭に改正検察審査会法のことがあったとは考えにくいですね。起訴事由は検察が新聞発表した内容でほぼすべてであろうと思います。
またもし改正検察審査会法が影響を及ぼしているとすれば、公判が維持できるよしもない内容空疎な捜査に基づく起訴であったことが審理で明らかになった後も、検察が自ら取り下げもせず有罪判決を求め続けているいま現在の理由の一つとしてなら可能性としては考えられるかもしれませんが、いかんせん憶測です。
それにもし改正検察審査会法という未施行の法を論告の根拠としているのなら刑訴法の禁則を犯すことになりますから、検察がそういうことを考えて起訴していると自ら明かすことは未来永劫起こらないことと思われます。
ゆえにこの事件(検察が起訴したからには刑事事件です)で何故あの時検察がこんな起訴をしたのかについて究明したい立場にとっては、改正検察審査会法の存在というものの起訴の時点での影響力は小さいのではないかと思えてきます。

公判記録を見ると、加藤先生は土下座させられたことはあっても、話し合いらしきことが行われたという供述はないようです。実際この事件は民事においては提訴されてなかったと思います。つまり、患者家族は初めから厳罰あり気であったと思います。

検察の当初の威勢のいい啖呵を思い出すと、仕方なく起訴したという説は疑問に思います。「はさみを使ってとんでもないことをしたやつは懲らしめてやる」という雰囲気がありありでした。

「県警本部長賞」も逮捕・勾留とどれだけ関係があるのかわかりません。

というのはきっとそうなのでしょう。でも、県警本部長賞が医師の反発、抗議声明の後にされたことにより、起訴自体を警察、検察にとって当然の事と評価したという風にとれました。それが、司法への(警察、検察と司法が同じでないといわないでください)敵対心を当時一層燃え上がらせたことを思い出しました。

加藤医師不当逮捕事件について詳しい方にちょっとお尋ねしたいのですが、福島県警が本件の捜査に着手するにあたり、遺族からの告訴はあったのでしょうか?
 少しググって当時の新聞報道を見たところ、「県の公表で事故を知った県警が捜査を開始」という記述はあったのですが、「遺族の訴えにより県警が捜査に着手し」といった記述が見当たらなかったもので。

大野病院事件に関しては、家族が告訴したという記載は見ておりません。
ソースはすぐ出てこないのですが、「家族が警察に相談した」ということと記憶しております。

>田舎の消化器外科医さま
 ご教示いただき、ありがとうございます。
 そうすると、モトケン先生が本エントリーをアップすることで、一体何がおっしゃりたいのか、私にはわからなくなりました。

 遺族感情については、これまでのネットの情報で極めて厳しいものと認識しています。
 確認のため「大野病院事件 遺族感情」でググったところ、ロハス・メディカルの以下の記事が見つかりました。

 福島県立大野病院事件第12回公判(速報)

 告訴の有無という形式面の有無にかかわらず、非常に強い処罰感情が認められます。

 そして、検察審査会への不服申立の可能性は、告訴の有無ではなく、処罰感情の強弱に影響されます。

 

被害者が加害者の更正を祈り厳罰を望まない場合と、復讐心に燃えて厳罰を望んだ場合で、同じ行為に対する刑罰が左右されるのは、法の平等からどうなんだろうと、時々思います。
殺人とかの意図的な悪質な違法行為ではない、医療行為においてはなおさら割り切れません。挿管していて、麻酔薬の効き方が悪く、自己抜管された患者さんは再挿管できず亡くなりました。申し訳ない気持ちで、なんと言われるかと思って家族に会うと、「ありがとうございました。よくやっていただきました。自分で抜いたんだから仕方ありません。」とおっしゃいました。今のようなご時世では、医療ミスとして家族が思うのでしょうか。ミスという言葉は自分に向けては使います。人から言われれば、反発もあります。その上で、反省もあります。謝罪もします。
しかし、いかに、家族に厳罰感情があろうと、刑事犯とされる可能性があるのなら、医者になったこと自体を後悔するでしょう。

被害者感情によって刑罰の重みが左右されるというのは、正義ではないと僕には思えます。

法律も医療も素人です。
Wikipediaより一部修正。
・検察審査員は11名で構成され、任期は6か月、そのうち半数が3か月ごとに改選される。
・検察審査会は、不服申立手続きに応じて審査を行い、
 「不起訴相当(検察官の判断に誤りはない)」
 「不起訴不当(検察官の判断には疑いがある。過半数の票で成立。11人中6人の票が必要)」
 「起訴相当(検察官の不起訴は不当である。起訴すべき事件である。11人中8人の票が必要)」
のいずれかの議決を行い、検察に通知する。
・今後は「同一の事件について検察審査会が再度起訴を相当と判断した場合には、地方裁判所が指定した検察官の職務を行う弁護士が起訴する必ず起訴されることとなり、法的拘束力を持つことになった(2009年5月21日に施行)。
事実上、全く独立の構成員による8/11以上の「起訴相当」の議決を2回行なう必要があるので、かなりハードルが高いと思うのですがどうなのでしょうか?
(不起訴不当では拘束力がない)

明石花火大会歩道橋事故の印象が強かったので調べまたところ、当時の明石署署長、副署長に対する不起訴決定に対して、2004/4/23と2005/12/22に「起訴相当」の議決がされています。

印象が強かったので、改正検察審査会法のきっかけがこの事件かと思っていたのですが、2回目の「起訴相当」は改正後(法律改正は2004年5月28日に公布)ですので、違うようです。

業務上過失致死傷罪は、素人感覚的にはプロがやっているのに死傷の結果が出たということはどこかにミスがあったのではないか、という感覚的判断が生じやすい、と検察庁でも考えますので、検察審査会に不服申立された場合の検察審査員の素人感覚を考えますと、検察としてはなかなか不起訴にしにくいのです。

この辺り、少々わかりにくいものを感じます。つまり、プロの感覚と素人感覚は違っていて良いと思います。不起訴不当や、起訴相当の決議がされたところで、検察がメンツを気にする必要は無いと思うのですが……。

検察審査会と検察の判断が一致しなかったところで、それは「感覚の違い」と言うだけの話であり、「感覚の違い」を明確にする事が検察審査会の存在価値の一つだと思いますので、検察が検察審査会の判断を気にされる必要はないと思います。

>プロの感覚と素人感覚は違っていて良いと思います。

世間の空気は,全ての分野において,玄人が素人感覚に怯えざるを得ないものになっているように思います。

元凶はどこにあるんでしょうかね…?

>モトケン先生

 私の胸中を的確にご推察いただけたようで、なんか申し訳ありません。

 さて、“被害者遺族”(便宜上こう書きます)の公判廷における証言抄録をご紹介いただきありがとうございます。
 まず、証言抄録を読む限り、たしかに“被害者遺族”が強い被害感情を抱いていることがわかりますが(といっても、私には公判廷でよく用いられる程度の表現ぶりであるように感じられました。法廷という公の場で、対立当事者としての役割を与えられた上で、思うところを述べよと言われ、そのための準備期間を与えられたら、たいていの人はそれなりに強い表現で被害感情を語ることで「被害者という役割」を全うしようとするものだと思いますが、どうでしょうか。)、“被害者遺族”の被害感情が強かったとして、それは警察・検察にどの程度伝わっていたのでしょうか?
 モトケン先生は、「告訴の有無という形式面の有無にかかわらず、非常に強い処罰感情が認められます。/そして、検察審査会への不服申立の可能性は、告訴の有無ではなく、処罰感情の強弱に影響されます。」とコメントなさいましたが、本当に処罰感情が強ければ告訴するでしょう。ましてや、警察が“被害者遺族”の抱く被害感情の強さを知り、さらに起訴・有罪に持ち込めるという見通しが立った上で(よくそんな見通しを立てたな、というツッコミはさておき)、“被害者遺族”に告訴を勧めるという対応をしない、というのはずいぶん不自然です。
 なお余談ですが、本件遺族(めんどくさいので以下こう表現します)が民事訴訟を提起していなかったことなどをもって「遺族の目的は専ら加藤医師への処罰だった」といった推測をなさる方もおられますが、そもそも県は民事面での責任を認めていたので、賠償額の多寡などの対立点が顕在化してきたり、時効が迫ってきたりしない限り、本件遺族はあえて民事訴訟を起こす必要がなかったわけですから、本件遺族が民事訴訟の提起をしていなかったことを、「民事での解決ではなく刑事処分による決着を願っていたから」という推測の根拠とするには薄弱であるように思われます。
 次に、「検察審査会のプレッシャー」ですが、過去のコメントで申し述べたとおり、検察というところは、二度にわたって「起訴相当」の議決を受け、さらに民事・刑事の裁判所が揃って、検察が起訴しなかった事件関係者の責任の大きさを指摘し、さらには事件遺族が真夜中まで心情を訴えても「決めたことは決めたこと。総合的判断で決めた。決定は覆らない。」と木で鼻をくくったような応対を繰り返し、更に更に、時効を目前に控えての再捜査の要請を、玄関ホールで事務官に立ったまま応対させるような組織なわけですが、なんで本件に限って、遺族が告訴もしておらず、検察審査会に選ばれる一般市民が明らかに起訴相当の議決をしそうだと思われるほど、本件事故について反加藤医師キャンペーンがマスコミによって繰り広げられていたわけでもないのに、あるのかないのかわからない「起訴相当」の議決に検察がプレッシャーを感じた、というような推測をなさるのか、私にはさっぱりわかりません。

 最後に、もし、モトケン先生がご推察なさったように、検察が検察審査会のプレッシャー(端的に言えば面倒くささ)を嫌って本件起訴に踏み切ったというのであれば、検察は、自分たちが「面倒くさい」ことを引き受けずに済むなら、平気でひとりの人間を勾留し、起訴し、犯罪者として公に非難することを選ぶ、ということになるわけですが、そういう理解でよろしいでしょうか?

私立病院の医師ならともかく、県立病院の現職医師を逮捕するのに県の役人である警察が上層部に無断で逮捕拘留すると言うことは考えにくいのです。当時の知事さんはご存じだったのでしょう。

 記録を見ていないので憶測ですが、地方自治体で有りがちなのは、組織維持のためのトカゲの尻尾切りの生贄という可能性が否定できないでしょう。地方自治体職員でトラブルに巻き込まれた方ならおおむね共感いただける「推測」じゃないかと思います。

>an_accused さん

 最初にお断りしたように、このエントリは憶測に近い推測まじりのエントリです。
 そしてこのエントリで私が指摘したいことは、実際の大野病院事件が私がこのエントリで述べたような事件でないとしても、将来、私がこのエントリで述べた大野病院事件のような起訴が起こる可能性があるということです。
 そして、私の言いたいところは、医療側が刑事司法リスクを減らそうとするのであれば、司法界を説得するだけでなく一般市民の理解を得ることも大事ですよ、ということです。

 なお、大野病院事件のような起訴が再び起こる可能性の根拠は、検察の組織の問題よりは、個々の検察官(主任検事というよりは上司の次席検事や検事正)の資質の問題が大きいと思っています。
 福島地検の起訴について批判的な検事を何人も知っているからです。

 ということを踏まえてご質問に答えてみますが

>たいていの人はそれなりに強い表現で被害感情を語ることで「被害者という役割」を全うしようとするものだと思いますが、どうでしょうか。

 私の経験によれば、取調室における被害感情の吐露に比べて、法廷における供述のほうがトーンダウンする場合が珍しくありません。
 公の場ということで抑制が働くのかも知れません。

>“被害者遺族”の被害感情が強かったとして、それは警察・検察にどの程度伝わっていたのでしょうか?

 捜査段階において警察官及び検察官による事情聴取が必ず行われますので、かなりストレートに伝わっているはずです。
 上で述べたように、法廷での証言より赤裸々な供述がなされる場合が多いです。

>本当に処罰感情が強ければ告訴するでしょう。
>“被害者遺族”に告訴を勧めるという対応をしない、というのはずいぶん不自然です。

 既に捜査が開始されている場合においては、あえて告訴を勧めるということはしません。
 交通事故業過致死の場合にはほとんど告訴がなされませんが、被害感情がとても厳しい事件が少なくありませんし、その中から検察審査会に不服申立される事件も珍しくないです。
 「本当に処罰感情が強ければ告訴するでしょう。」というのは一般論として否定はしませんが、それほど必然性があるとは思えません。

>「起訴相当」の議決に検察がプレッシャーを感じた、というような推測をなさるのか、私にはさっぱりわかりません。

 私が横浜地検交通部にいた当時、遺族が告訴もしておらず、マスコミにも全く取り上げられていないけれども、遺族感情がとても厳しい業務上過失致死事件において、私はプレッシャーを受けつつ仕事をしていたのです。
 そして私がプレッシャーを受けていたのは、私が接した先輩検事の多くから同様のプレッシャーを受けていることを聞いていたからです。
 検察としては、法的拘束力がないとしても、検察審査会の議決にはそれなりの重みを感じているのです。

>検察が検察審査会のプレッシャー(端的に言えば面倒くささ)を嫌って本件起訴に踏み切ったというのであれば、・・・

 このコメントの冒頭において「資質の問題が大きい」と申し上げたように、大野病院事件においては当時の福島地検の構成メンバーの資質の問題が大きいと考えております。
 エントリ本文でも「当時の福島地検は、」と名指ししたのはその意味です。

>検察は、自分たちが「面倒くさい」ことを引き受けずに済むなら、平気でひとりの人間を勾留し、起訴し、犯罪者として公に非難することを選ぶ、ということになるわけですが、そういう理解でよろしいでしょうか?

 多くの検事は検察審査会で不起訴不当や起訴相当の議決を受けると面倒くさいことになると考えていると思いますが、だからといって多くの検事が「自分たちが「面倒くさい」ことを引き受けずに済むなら、平気でひとりの人間を勾留し、起訴し、犯罪者として公に非難することを選ぶ」というわけではないと思っています。
 「面倒くさくてもだめなものはだめ。」という検事のほうがはるかに多いと信じています。
 ですから「そういう理解でよろしいでしょうか?」という質問に対して、一般論として「そうです。」という回答はできません。

検察庁の意向等に沿って,あるいは時間の経過に伴って,ご遺族が被害者の役割をするに至ったという考えは,完全な誤りだと思います。

少なくとも警察や検察が,遺族に何も言われない状態であれば,起訴に向けた捜査に着手するような事件ではありません。何のメリットもないだけでなく,紛糾するのは目に見えていますから。

大野病院事件でも,過失の有無は別として,不可逆的な事態が生じたことは間違いありませんから,そこで「医師は一生懸命やってくれた。」と一応の納得をすることだけが,人間のあり方ではありません。その死をどこかに転嫁しなければ,耐え切れないというのもまた人間だろうと思います。

大野病院事件が不当起訴事件であるとするならば,なぜ検察は過ちを犯したのか,という理由を考えるときに,この遺族感情を無視することはできません。

遺族感情に左右されるのはおかしいというご意見は,私もそのとおりだと思いますが,ただ検察が誤ったのであれば,なぜ誤ったかという原因を冷静に考えることは必要だと思います。

その意味で,モトケンさんが,「憶測」という前提のもとではありますが,「検察の検察審査会に対する懸念」をその理由に挙げたというのは,ひとつの見識だと理解します。

 私の大学同期の検事さんは、某業務上過失致死事件の処理で、「遺族の実刑を求める上申書」や「検察審査会の起訴相当議決」に決然と抵抗して、遺族感情を重視する某高検検事と長期大激論の末(検察審査会の起訴相当議決を再度不起訴処理するには高検決済が必要らしいです)、1年近くも再捜査に奮闘した結果、最終的に再度の嫌疑不十分不起訴を押し通しました。そのため体重が10キロも落ちて体を壊して入院しました。
 どうもそれくらい遺族の峻烈な処罰感情と検察審査会の素朴な民意議決に抵抗するのは大変なことのようです。

検察審査会の素朴な民意議決に抵抗するのは大変なことのようです。

起訴相当議決の数を観る限り、検察審査会の方々も真剣に議決されているのではないでしょうか。なまなかの事では起訴相当なんて決議されないように思いますが。

 伝聞ですから私の口から言うのもなんですが、東京なら最初から不起訴相当、旭川だと不起訴不当が2回目が不起訴不当。どちらも遺族了解のもとで人工呼吸器をXXした事案らしいです。

>モトケン先生
 再度の応答をいただき、ありがとうございます。
 エントリーの趣旨をようやく理解しました。お手を煩わせて申し訳ありませんでした。

 なお、検察審査会による起訴相当の議決に従って検察が起訴した事件の有罪率は確か94%ほどだったと記憶しています。これにつき、かつてモトケン先生は「検察の起訴事件の有罪率に比べて明らかに低いですね」とおっしゃっておられたように思いますが、そもそも検察審査会の扱う事件は一旦検察が起訴を見送った事件であり、さらにその後の捜査・訴訟追行を担当するのは、もともとは起訴に消極的だった検察なのですから、低くなって当然であるといえます。それでも94%もの事件において裁判所が有罪判決を出している、即ち司法が起訴価値・処罰価値ありと判断しているということを考えれば、(検察審査会=素朴な処罰感情に流され間違った判断)といったようなイメージがもしあるとするならば、それは、やや違うように思われます。

裁判所は、内心では起訴猶予が相当だと思っていても、罪体の立証が十分であれば有罪判決を出すわけで。

有罪率と、「司法(裁判所)が起訴価値・処罰価値ありと判断していること」を結びつけるのは、ちょっと違和感アリです。

言い換えると、当初は起訴猶予になった事案について、起訴すれば有罪になるのはある意味当然なのでは。

有罪率との関係で論じるなら、「当初は嫌疑不十分で不起訴になった事案」について限定する必要があるように思われます。

検察審査会 についてのコメントを書いたものです。
これは民事では感情的な告訴もしかたないけど、刑事まで「患者さんがかわいそうだから立件」というようなことにならないかとの心配からでした。
医療側に責任が無くても患者さんやご遺族はかわいそうなんですが、それが一般人の判断だとごっちゃになりそうで。

モトケンさんのご意見はそれと合わせて、ssd 先生の
「そもそも、ついこの間まで、事実上、運用の上で、刑事罰など、ほとんど科していなかったのだ。
それに少し、一歩ステップバックするだけの話です。」
にそって、法律を変えるのは反撥が出るから、刑事事件になる前に未然に防ぐ方法が無いか考えてはとの提案でしょうか?

ただし例として大野事件を出されたのは違ってると思います。
あれは患者家族の希望するところでは無く、福島地検のミス、ただの勇み足がメンツのために引き返せなくなったということに思えます。

福島では検察は好きで騒ぎを起こした部分が多いと思いますが、一般には好きでやってるんじゃない、本当は医療関係は面倒くさいので扱いたくないと思っている法律関係者は多いと想像します。
「紫色の顔の友達を助けたい」先生の取り調べ中に、「取り調べてる側」が泣き出したなんていうのを読むとこれも難儀なことでって思いますし。

民事はADRや保証 がしっかりすれば減らせるかもしれないけど、刑事はそれでは無理だからやっかいというのが私の認識でしたが、モトケンさんのご意見をうかがうとこれも同じ方法で未然に防げる部分もありそうなのですね?

たぶん医療側と検察側の希望するところは大きくは違わないのかも。
「面倒だから刑事では処理したくない。」


ただしここでもやっぱり引っかかってくるのが福島。
異常死の届け出がなされていなかったことが問題にされたことです。(異常死と思われてなかったんですから当たり前ですが。
あの一件で医療機関が疑われては大変とばかりに、死亡との因果関係を調べる前に異常死を届け出るようになったような気がします。
そのため届けられたら業務上過失致死の疑いで捜査せざるをえない、しかもその段階でマスコミは医療ミスと書きたれるという困った事態になってる気がします。
誤った方向に一歩進んじゃうと一歩だけステップバックするだけでも大変ですね。

No.26 an_accused さん

曲解はしないでください。エントリーでモトケンさんが

>大野病院事件は、病院側と被害者側とで示談が成立していれば、絶対と言っていいほど起訴はなかった事案だと思います。

とおっしゃったことに対して言ったまで。

 某私大病院の示談交渉では、示談を有利に進めるため、遺族側代理人弁護士が担当医と病院を告訴しておいて、賠償金の積み上げを図る(和解案には告訴取消と宥恕条項あり)という事例を垣間見たことがあります。
 未だ示談交渉を有利に進めるテクとして、告訴や告訴取消しが便法として使われているなら、民事で対応したからといって刑事問題は解消しないかも知れまっせん。

#18ハスカップさん、

私も同じような事例を聴いたことがあります。民事での和解を有利に進めるために、刑事訴訟をちらつかせるというテクニックですね。

冒頭でモトケンさんが、

> 大野病院事件は、病院側と被害者側とで示談が成立してい
> れば、絶対と言っていいほど起訴はなかった事案だと思い
> ます。

とお書きになっているように、刑事と民事を切り離して考えることはできないことが良くわかります。

刑事をちらつかせて民事で優位に立つというのは、心情的には汚いやり方と軽蔑しますが、弁護士さん的には常套手段なんでしょうね。で、高額な和解金額をゲットすれば、自分の取り分も増える、と。

>刑事をちらつかせて民事で優位に立つというのは、心情的には汚いやり方と軽蔑しますが、弁護士さん的には常套手段なんでしょうね。

 警察も弁護士も相手にしない告訴だと、検察庁へ直接告訴する(直告)するらしいです。その処理に追われざるを得ない検事さんも、「軽蔑」と同様の気持ちになるんじゃないかと拝察します。
 理性が支配する法の社会なら結構議論を重ねればいいのでしょうが、こういう怨念や金銭欲がからむ「民事を有利に導く告訴」だと、個人の雑感としてはドロドロしていて嫌悪感すら感じます。

「刑事をちらつかせて民事で優位に立つ」は、当然あり得ると思うし、被害者がそれをする場合に、弁護士は不当でないなら、押さえられないと思います。

刑事告訴において重要なのは、検察であり、検察審査会でも、裁判所でもない。検察審査会の顔色を見るような検事は、辞任すべきであり、自らの良心に従うべきと考えます。

大野病院事件で、検察が正しかったのかは、裁判における主張に正しさがあるのかにより、判断されるべきと思います。医療の刑事責任免責を議論しても原則論であることから収拾しないと思います。しかし、具体的な裁判について検察の起訴が正しかったか、起訴濫用というあってはならないことをしたのかの判断は、することが相当程度には可能であり、その結果を今後に生かすべきと考えます。

高校教員です。本校は医学部を目指す生徒が多く大野病院事件に関する記事を進路指導に役立てています。医師の置かれている立場が厳しいこと、失敗(結果的に死なせてしまうこと)は許されないことであること、等を伝えることで医学部を目指す覚悟を促しています。このような社会情勢を受けて、生徒の中には、裁かれる側から裁く側に、あるいは、それを伝える側に進路変更する生徒も現れています。医療の将来を担う高校生にも医師の仕事に対する不安と意欲の萎縮がうかがえます。この事件は将来に対する大きな禍根を残したと思います。

 ダブハンの二重投稿ですか?
http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/08/20-100016.php#c181585

 同一IPで
  佐藤 隆
  石井 隆
  加藤 愛
 がヒットします。

 このブログでは同時使用的ダブハン禁止です。
 なお、改名は可ですが、その場合も改名したことの明示をお願いしています。 

内容まで同一のコピペのようですね。
そんなものは「文字列の貼り付け」に過ぎず、ただ目を通すだけの値打ちすら見出せません。「記事」とか「投稿」と呼ぶことすら憚られます。

某ブログでもコメントされておられるようです。以下コピペ。

高校の教員です。本校では医学部を目指す生徒が多く大野病院事件に関する記事を進路指導に役立てています。医師の置かれている立場が厳しいこと、失敗(結果的に死なせてしまうこと)は許されないことであること、等を伝えることで医学部を目指す覚悟を促しています。このような社会情勢を受けて、生徒の中には、裁かれる側から裁く側に、あるいは、それを伝える側に進路変更をする生徒も現れています。


投稿: 伊藤 諭 | 2008年9月14日 (日) 09:14

この件って、こういうのを想定されていたんですね。

http://www.shinmai.co.jp/news/20080920/KT080919FTI090024000022.htm

民事で最高裁までやってるのに、ナイスチャレンジだなと思いました。

 さすがに一般国民の素人集団である検察審査会も、「起訴相当」とまでは言えないと認めているわけで。担当検事が医師を調べていないのは、調べる必要もなく、客観証拠から嫌疑不十分だからと推測しました。

軽井沢の件 どうも、家族側は急変時に主治医が、すぐ近くで休憩を取って(テレビゲーム?)いるにもかかわらず、すぐ飛んでこなかったことと、家族の転送希望にすぐ応じなかったことで、個人的な恨みを募らせ、復讐を公的な場所で行ないたいのだと思います。しかし、個人的な復讐を司法が全面的に請け負ってしまうことこそ、司法の危機につながるのではないでしょうか、それこそ裁判員制度で一般国民が、あだ討ちに加担してヒーロー気分になってそれが冤罪にでもなったらどうすんでしょう。

 しかし年齢的にみて事件当時、70歳近い老産婦人科医(この年で老戸行ったら怒る方もいるでしょうが)が一人で、帝王切開をしなければならなかった当時の事情はどんなだったんでしょうか?それとも助手がどこから派遣されてでもいたんでしょうか?
 詳しい話は、医療側から出てないのでしょうか?

まあ、地検は鮮やかに再度不起訴にして欲しいものですな。プロとして。

 少なからぬ検察審査会の委員はあだ討ち、助太刀の気分なんじゃないのでしょうか?
 専門家と、一般国民では考えかたが、論理ではなく感情になると思うんですが、そんなこと考えると、裁判員制度とは論理に感情を導入するための手段なんではないのかと思ってしまいますが。

P R

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