エントリ

 このエントリは、Pediatrician さんのコメントに触発されて書いたものです。

 Pediatrician さんのコメントは、

 医療関係者は300倍のインシデントを日常的に体験しているので、いつ自分が重大な事故を起こすか分からないという不安を持つ一方、非医療関係者は報道される重大な事故を目にする機会しかないでしょうから感覚のズレが生じるのは仕方ないかもしれません......

 という言葉で結ばれています。

 別の例で言えば、戦場にいる兵士の心理と行動(ex. 少し前ならベトナム、今ならイラク)は、本国にいる一般市民にはわからない、ということでしょうか。
 しかし、そう言いきってしまうとそこで終わりになっちゃいますので、日本の一般市民が日常的に経験している戦場を例に取ります。
 そうです、交通戦争、つまり自動車事故です。
 「交通戦争」という言葉は若い人にはなじみがないかも知れませんが、深刻な響きをもって使われていた時代があります(ウィキペディア)。 

 自動車の運転は本来的に事故発生の危険が伴っていますので、自動車運転者には事故防止のための義務が課せられています。
 義務については、いろいろな分類方法がありますが、ここでは以下の二つに分類してみます。

 (1) ただでさえ危険な運転について、さらに危険を増加させない義務
 (2) 不可避的に発生する具体的危険を予見して回避する義務

 (1)の義務の違反の典型例は、飲酒運転とかスピードの出しすぎなどです。
 しかし、多くの善良な運転者の皆さんはそんなことはしないと思いますので(「異議あり」の声はとりあえず無視)、(2)にいきます。

 (2)の義務の例としては、前方注視、左折時の後方確認など、要するに運転者としての基本的義務と言われているものです。
 今まで、無事故できた運転者の皆さんはこの(2)の義務を守ってきたから無事故なのだろうと思います。
 しばらくそういう運転者の皆さんを対象に話をします。

 無事故の運転者には、胸に手を当てて(当てなくてもいいですが)思い起こして自問自答してほしいのですが、今までにハンドルを握っていた全ての時間において、100%完璧に(2)の義務を果たしていたかどうか?
 分かりやすく言うと、今まで車を運転していて、ヒヤリとしたこととか、ゾッとしたことはなかったかどうかということです。

 私はあります。
 自白しますと、一旦停止の標識に気づかずに停止しないで交差点を通過したことは何度かありますし、信号のある交差点を通り過ぎてから「今の交差点の信号は何色だったっけ?」と思ったこともあります。
 そのような場合を想定しなくても、完璧な安全運転は不可能です。
 危険は車の前後左右から接近してきます。
 しかし、前を見ているときに同時に後ろを見ることはできません。
 右サイドミラーを見ているときには左サイドミラーに何が映っているかわかりません。 

 しかし、例え赤信号を見落として交差点に入ってしまったとしても、横から来る車や横断する歩行者はなければ事故は起きません。
 歩道を歩く美人に見とれて2〜3秒脇見をしたとしても、進路前方に誰もいなければ事故になりません。
 つまり、どんな重大な過失(義務違反の意味)があったとしても、運がよければ事故は起きないのです。
 逆に、運が悪ければ、つまり1秒未満の脇見であっても、たまたま前方を歩行者が横断すれば事故になります。

 このように見ると、交通事故の発生の有無は、運不運に依存していると見ることも可能です。

 ここまで読んだ方で、そういう見方もあるな、と思える人はそれなりの自動車運転の経験がある人だろうと思います。ちなみに私の運転経歴は走行距離約10万キロ程度です。

 つまり、車を運転したことのない人には理解できないところが多い話だろうと思います。
 実は、日本で車が走り始めたときから日本の業務上過失致死傷事件の歴史が本格化したと思われますが、当初は、業務上過失致死傷事件を起訴していた検察官やその事件を裁判していた裁判官の中には、車の運転経験がまったくない者が多かったのです。
 それで、「事故が起こったということは運転者にミスがあったからだ。」というような結果責任主義に近い処理や判断がなされていたようです。
 しかし、運転免許所持者と車の増加に伴い交通事故が激増し、それらをそれまでの基準で処罰することについての反省が生まれ、処罰範囲を妥当な範囲に限定するための過失犯理論や起訴基準の見直しが行われてきたという経緯があります。

 しかし、どれだけ理論を精緻にしたとしても、過失犯の成否が行為者の意図しない結果の発生に依存していることから、過失犯における運不運の要素は、少なくとも故意犯の領域よりははるかに大きいと言わざるを得ないと思われます。

 ということは、過失犯処罰のあり方は、政策的判断に影響されるところが大きいとも言えると考えられます。

 非情に舌足らずのエントリではありますが、議論の叩き台的にアップします。  
 

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コメント(24)

私も運転をしますので、運不運という話はよく頷けます。
医師や医療関係者の仕事は、体験がない以上、どうして
ミスが起こるのか、理解しにくいわけですが、
インシデント例をすべて閲覧できれば、結構イージーミスを
犯しているんだ、怖いな、でも人間だしな、システム改善で
改善できるだろう、そのための医療費アップ、人員増は
理解できる、とかって、

医療側の情報公開で相互理解は深まると思います。

「運のいい奴が生き残る」
この言葉だけで今までのコメントの半分以上はいらなかったかもしれない。

「事故が起こったということは運転者にミスがあったからだ。」というような結果責任主義に近い処理や判断がなされていたようです。
今だって結果責任で処理や判断が為されていると認識している人は少なくないんじゃないかと思います。マスコミ報道からはどうしたってそう思えます。だから「オレ達だって結果責任を問われることもあるんだから医者だけに甘いのは納得できない」と考える人も多いのではないかと思っています。

最も身近な過失犯罪は交通事故ですから、「それがどう処理されているか」の認識が基準になって「他の過失をどう処理べきか」の考え方に大きな影響を与えているのではないかと思います。もっとも、自分も交通事故処理について正しく認識している自信はありませんが。

「一般市民の運転に課せられる注意義務と医師に課せられる注意義務は同じでよいのか」
とか
「過失犯処罰のあり方は、政策的判断に影響されるという御都合主義でよいのか」
とかいう新エントリがどこかのブログで上げられるかも。

とか言いつつ張った予防線。期待している皆様スミマセン。

「運のいい奴が生き残る」のではなく、「生き残った奴が運がいい」に過ぎないのでは?

したがって理性があれば、「運のいい奴が生き残る」という運を信じず、取れるリスクだけを取って生き残りを懸けることでしょう

運転の例で言えば、運転しない人は被害者にはなっても、加害者にはなれません。
運転する人は加害者にも被害者にもなりえるでしょう。
前者の意見だけを取り入れて、安全を重視すると、結果として、運転に依存するコストの増大、効率の低下による負担増は受け入れないといけません。
それも社会の価値観と言えるでしょうが、それで運転しない人が本当に幸福かどうかは別に考える必要があるでしょう

医療でいえば、医療提供者になりえない一方的受益者と、それを提供する医療者との大きな溝の原因となります

行動経済学的な考察をすれば、WTP(Willingness To Pay;ある価値を手に入れるために支払っても良い額)と、WTA(Willingness To Accept:ある価値を失うことを受け入れる代わりに、受け取りたい金額)とは大きな乖離があり、通常WTAとWTPは7倍程度違うといわれます

ある病気の治療をすることで100日、更に生きるためにするA治療に幾ら支払うか?(WTP)
ある病気のA治療をしないことで100日、寿命が縮まるとしたら、幾らもらうべきか?(WTA)
医療問題だったら、7倍どころか、数百倍違うかもしれない

自分たちを一方的被害者(WTAのみの選択)とする限り、患者の要求は際限なく続くことになるでしょう
そんなに大事な命、健康だったら、どうしてWTPがこんなに低く抑えつけられているのか?

その我儘を調整する方法を、社会政策を作る側が考えないと、この国の医療は間もなく壊滅することでしょう

エントリのタイトルのみでふと思ったことなのですが、
被害者の方から見た運不運と過失を無理矢理こじつけてみま
した。


交通事故の場合、被害者は「青信号を渡る歩行者」である場合、過失は0だと思いますので大変不運と言えます。
だから、信号無視の加害者は過失100%ですから処罰が
あっても文句は言えないし、その加害者の所属の業界の人
、一般の人も文句は言わないと思う。

一方、医療事故の被害者の場合、

被害者(患者)はすでに怪我、もしくは疾患を患うという
事故前からすでに不運な立場でありますが、「医療側から見て、
患者には病気(怪我)になるという「不運な過失」があるのだから、
医者の「不運な過失」とある程度相殺されてもしょうがない」という
患者にとって大変不運な見方が、医療、非医療にかかわらずありそうな気がしますが
どうでしょう?


まったくの余談ですが、
昔、看護士をしていたGFがいたのですが、彼女が「最近、
私が当直の時に限って大きな怪我をした患者さんが救急車で
やってくる。みんなから運が悪いねと言われてるの」と
話していたのを思い出しました。

 運不運は避けられません。小生も自動車で通勤しますが、書き換えのため講習を受けないと(^^;)

 裁判官の方は免許有っても運転しない人がほとんどだと聞きました。やはり事故を起こすリスクは低くても起こしてしまえば職に差し障りがあるからなのでしょう。それは当然の選択だと思います。

  医師が医療を行っていて、今のままの仕事を続けると、過失により人を死なせてしまうリスクが高いと感じるようだったら、当然人を死なせるリスクの少ない領域を選ぶでしょうね。

 運不運、仕事上のリスク、をどう考えるかは人それぞれなので、医療ももう少し(たくさん)お金をつぎ込んで、診療上のリスクを低下させるような制度を作れば勤務医不足は自ずから解消すると思っています。

モトケンさんのエントリ本文の

当初は、業務上過失致死傷事件を起訴していた検察官やその事件を裁判していた裁判官の中には、車の運転経験がまったくない者が多かったのです。
これは昭和30年代迄は、ある意味止むを得なかったでしょうね。私の親は商店の親父でしたが、昭和35年に前年に新型がでたばかりのトヨペットマスターラインのライトバンを買いました。

親父も店の者も誰も免許を持っていませんでしたので、トヨペット店に紹介された運転手も同時に雇ったのですが、この運転手が特殊技能者ということで凄く威張っていて、社長の親父より高い給料を要求されたそうです。仕方なく雇いましたが、半年ほどで親父と若い男性店員が免許を取ったので辞めて貰いました。その頃は車の運転免許を持っているといいうことは、今の自家用飛行機の操縦免許所持者より少なかったかも知れません。それほど車の運転手というのは当時は「特殊技能者」でした。


それで、「事故が起こったということは運転者にミスがあったからだ。」というような結果責任主義に近い処理や判断がなされていたようです。

その当時は、車の運転ができる者が特殊技能者で、その技能を活かして報酬を得るプロ運転手しか「自動車事故を起こす者」が居なかった為に、自動車運転は業務であるとされたと想像したくなります。その結果事故で死傷者が出たときは、業務上過失致死障害罪が適用が当然とされ、その判例が積み重なっていった可能性はないでしょうか。

また悪いことに、昭和40年代〜50年代の「交通戦争の激化」「交通事故死1万6765人(S45)」の時代に、交通事故撲滅対策として罰則強化に動いた結果、
 交通人身事故で死傷者=業務上過失致死傷罪=逮捕・起訴・有罪判決の3点セット
この流れが定着してしまったのではないでしょうか。

車の運転が下駄代わりの買い物の足として「日常家事」とみなせる現代になると、車の運転行為を刑法上は業務とみなすのが難しいのではないかと思います。社会一般の車の運転に対する日常性が大きく変化したにも関わらず、昭和30年代までに確定した判例が踏襲され続け、結果として「車の運転=刑法上の業務」という司法上の扱いに違和感を感じさせます。そもそも成人の9割が車の免許持ちという現実は、車の運転は歩くという行動に近くなり、業務とする感覚と乖離してしまったと感じます。

このような交通事故への業過罪適用定着の司法の流れが、業務上過失の概念が拡大を招き、医療過誤や避けようもない天災に近い山岳遭難事故にまで、業過罪を適用して直接当事者を厳しく処罰するのが当然という、過度の処罰概念を社会全体に定着させてしまったのではなかろうか。

刑法に関しては門外漢の私見ですが、モトケンさんの言われる(1)での過失の刑罰については、自動車運転に限定した刑事処罰規定を設け、(2)に分類される過失事故には業過罪を適用するべきでないと以前より考えています。

また業過罪の適用範囲というについて、漫然と前例(判例)を踏襲してきた司法の責任を論ずる余地は、私個人は大いにあると考えます。

No.1 一市民 さん
>インシデント例をすべて閲覧できれば、

参考までに、財団法人日本医療機能評価機構行っている
・医療事故情報収集等事業
・ヒヤリ・ハット事例情報データベース
があります。

あくまで報告されたものだけ。として御覧頂いた方が良いと思います。
*報告対象は規定があり、軽微なインシデントは除外されている考えて良いと思います。

え〜と、ちょいとお邪魔致します(笑)。
他所で話題のトラック運転手と医者(笑)のお仕事比較論についてなんですが、医師免許と大型特殊免許をプロフェッションとして同等に考えることに異論があります。わたしゃ異論ばっかりですけど(笑)。

医師免許は譬えるなら一般ドライバーよりはるかに車の構造と性能に詳しく様々な走行環境において高い運転技術を修得したプロレーサーやテストドライバーのライセンシーに譬えるべきかと。
そのうえで運転業務と医療行為業務の業務(法規)環境としては、一時医療機関での医療は一般道路、高次医療機関での医療は高速道路での運転業務を相当させれば議論が今よりかなりしやすくなる。ような希ガスです。まあ、もっといい譬えがあると思うけどいまのとこ思いつきませぬ。

とアレなぼつでおkが言ってみるてすつ(笑)

NO5の昼寝さん。

あなたに本当にナースのガールフレンドがいるのですか?

妄想ではありませんか?

それとも、バービー人形に看護婦の衣装を着せて、ガールフレンドと呼んでいるのですか?

(イエローカードです 管理人)

でも救急医療とかやってる先生は、たしかにバクチ打ちの気質がありますな。

また悪いことに、昭和40年代〜50年代の「交通戦争の激化」「交通事故死1万6765人(S45)」の時代に、交通事故撲滅対策として罰則強化に動いた結果、  交通人身事故で死傷者=業務上過失致死傷罪=逮捕・起訴・有罪判決の3点セット

1987年を境に、起訴率は下がっているみたいですね。

交通三悪に対する方針が確立した頃、国が「厳罰化は止めます。刑を軽くします」としたのです。国家刑罰が朝令暮改であってはならず、筋の通らない話ですが、交通検察はあまりに忙しく、多くの事件が積み残されたため、簡単な基準で事件を減らそうとしたのです。
http://www.higaishasien.com/present/present05.html

自動車事故の場合、行政処分や被害者への補償制度が整備されたため、刑事処分に頼る必要がないと言う考え方が出来るかも知れません。件数が多くなりすぎたため、検察がいちいち処理しきれないというのもあるかとは思いますが。

偶然にも私も車にたとえて考えてました。

今の医療制度は車検もなーなーの半分ぶっ壊れた車と同じ。

それなら事故ってもしょうがないかな。

ちなみになーなーな車検制度作ったのは元をたどれば国民。

それなら事故られてもそんなに文句は言えないかな。

ちなみに刑事責任問うにしても、交通刑務所みたいなかんじでちょっと易しめの医療刑務所作ってもいいかなとも思います。

自動車事故での業務上過失致死傷罪について、どうしても納得できない点がある。

運転者が不注意で道路のカーブに気づくのが遅れ、慌ててハンドル操作をしたが、車はアウトに大きく膨らんで、道路を飛び出して路外の空き地にはみ出した。幸いにもそこは無人の平らな広場で、盛大に砂塵は巻き上げたけれど、誰も怪我させず、何も壊さず、車にも損傷が無かったので、そのまま道路に戻って走り去った。

このケースでは法定速度を超えていたかどうか、或いは安全運転義務違反の道路交通法に抵触する可能性はある。しかし車は無事に曲がり切って走り去ったので事故ではないし、誰も死傷者が出なかったのであれば、業務上過失致死傷罪には絶対に問われない。

ところが同じ道路を同じ速度で同じように走り、同じ不注意でカーブに気づくのが遅れて、車が路外の空き地にはみ出したとき、その空き地に居た人にぶつかって怪我をさせた。このケースでは業務上過失致死傷罪に問われる余地がある。

私どもが専門とする労災事故において、有名なハインリッヒの法則というものがある。それによれば1件の重大事故の陰に29件の軽微な事故があり、さらに背後には300件の事故にならないヒヤリハットがある。そして重大事故発生を問題視しても事故率は下がらない。重大事故も軽微な事故も、さらにはヒヤリハットも同じように検証を行ない、事故に繋がる過失や誘因を無くすことが大事だと教示する。

ハインリッヒの法則が学術上正しいのであれば、1件の重大事故(傷害又は死亡事故)のみ業務上過失致死傷罪という刑法犯罪として、結果が軽微な場合の道路交通法違反に比べてことさら重く罰するのは、理論的合理性を欠くということにならないか?

これ他のところにも書いたのですが、

車も医療も危険を伴うが、利便性がはるかに勝っているから我々は利用しているという点は同じでしょう。しかし絶対的にちがう部分は恩恵を受けるのが誰かという部分、そして事故の際に誰が犠牲者となるかです。

車利用の個々のケースを見た場合に、第一に利用者が受ける恩恵が絶対的に大きいのでしょう。そして事故を起こした場合に、当事者の車利用に対する恩恵とは全く関係のない第三者を傷つけることになります。

これに対して、医療の個々のケースは患者への恩恵と医師の利益のために施されるということです。医療事故では関係のない第三者を傷つけることはありません。恩恵を受けようとした患者が犠牲者になるのです。だから、そこに存在するリスクに対しても、医師だけでなく患者も責任を負わなくてはならないものです。

ここが車と医療の事故の性質の違いであり、事故責任の所在をどうするかについても両者は分けて考えられるべきだと思います。

ストーカーには話しかけずスルーした方がいいのでしょうか?

医療と自動車は本質的に違うとは思いますが、事故で人が死ぬと言うことが共通していますね。遺族から見ると同様に思われるでしょう。世の中の多くのトラブルが結果責任で、運悪く相手が死亡すると犯罪となり、損害賠償請求が来る、、、、
となるとなにか殺伐とした日本になるようです。応報感情は否定していませんし、イエスキリストのように右のほほを打たれたら左のほほも出せなどとはいいません。しかしながら、人を恨んで生きるより、建設的で未来志向型の解決方法がないものか、思案のしどころでしょう。

運不運を議論するときに前提として必要なのは、spontaneityの度合いです。

たとえば、1秒脇見をしたときの不運、0.1秒脇見したときの不運、全く脇見をしていないが左右確認の間をぬって飛び込まれたときの不運はそれぞれ偶発性の重さが違います。

法律家の方々はこれをすべて同じ「注意義務違反」でくくってしまいますが、リスクマネジメントの観点から見れば0.1秒未満の脇見を注意義務違反とは考えません。そこまでセイフティネットを張るとコストがprohibitiveになるからです。

prohibitiveというのは、単にコストが高いというのではなく、そのコストによってその行為が禁止されてしまうほど高い、という意味です。

さて、アメリカの医療費が訴訟保険の保険料の高さによって釣り上げられています。(アメリカでは医療訴訟の賠償金は100億円が最低ラインだそうです。)そこで、賠償金に上限を設けようという動きがあるのですが、そのたびに弁護士側からでる議論が「人の苦しみや命に値段をつけていいのか?」という論法です。

たしかに人の苦しみに価格設定をするのは不道徳に思われますが、医療費が上昇することによって必然的に医療を受けることが出来ない人が生じ、人の命や苦しみに金額がつけられているのです。

日本のように健康保険制度で全国一律の診療報酬を設定していると、保険料が上がってもコストを転嫁できませんので、一斉にある診療科がまるごと赤字になり、事業として成り立たなくなります。(産婦人科は、すべての周産期死亡患者が賠償金を請求すれば産科の総売上を超えるらしいので、理論的には既に産業になっていないそうです。)よって、訴訟保険料が転嫁された保険外診療のコストが払える人以外は医療を受けることが出来なくなります。

これを踏まえた上で、はたして、医療はロシアンルーレットであってよいのか?という疑問が生じます。

0.1秒未満の脇見、計測感度以下の原因による事故まで処罰や訴訟の対照にしていたら、そのコストが保健医療に「禁止的」に働きます。そして、結局そのコストを払うのは国民なのです。

>内分泌科医 さん

>法律家の方々はこれをすべて同じ「注意義務違反」でくくってしまいますが

 これは、「注意義務違反がある」という意味でお書きですか?

 法律家も0.1秒の脇見を当然に「注意義務違反がある」とは考えませんよ。
 たぶん、通常はないと考えると思います。

まったく同意見です。

チョッと前にも確かnougekaiさん(だったかな?)が同じような見方で「トラック運転手の場合は人身事故ではなくて積荷の損壊に例えたほうが適切」とのコメントをしていたと思いますが、趣旨が伝わらず話題が変わったように思います。

医療事故を交通事故にたとえる話と、それを巡る議論というのは、ずいぶん以前にも、このブログで行われたと記憶しています。

本質的な違いということなら、ひとつには、応召義務ではないでしょうか。医師以外の職業で、必ず応需しなければならない義務がある職業というのは、ちょっと思いつきませんよね。トラックの運転手には、依頼に必ず応じなければならない義務はないですよね。

法律上の応召義務は、単なる努力義務でしかない、ということで、以前の議論は立ち消えになったのでしたか。しかし、事実上の応召義務といいますか、実際上、医師は診療を(簡単には)拒否できないと思うのですよね。

トラックの運転手であれば、例えば、大雨大雪等でコンディションが悪ければ、運送依頼を拒否することができるでしょう。また、トラックの運転手は、自分で運送に伴うリスクを判断して、依頼を選ぶことができます。現実は経済的事情があって、依頼を断れないかもしれませんけど、少なくとも、運送を断って、刑事責任を問われることはないでしょう。

医師はどうかといえば、患者が運ばれてくれば、もはや断るという選択肢は、その時点でなくなりますよね。今日は、調子が悪いので診療しません、というわけにはいかないでしょう。

診療を拒否して、患者が死亡した場合には、どうなるんですかね? 治療を試みて、結果、助けられなければ過失を問われる可能性があるわけですが、逆に治療せず放置して死なせた場合は?

個人的には、こうした選択の余地といいますか、危険の回避可能性という点が、大きく違っているように思います。医師の場合、危険(患者)が向こうからやってきますからね。そして、それを避けていては、そもそも業務にならないでしょう。

法律家も0.1秒の脇見を当然に「注意義務違反がある」とは考えませんよ。  たぶん、通常はないと考えると思います。

交通事故ならそうでしょうけど、医療事故は必ずしもそうではないようです。

 医療事故における「0.1秒の脇見」とは何かを明確にしないと、交通事故と医療事故の対比は無意味です。

P R

ブログタイムズ