エントリ

 産科医無罪 医療の透明性高めたい(8月22日)

 これは、北海道新聞の社説です。


 臓器を取り違えて摘出したり、医療器具を体内に置き忘れたりといった医師の明白なミスで、刑事責任を追及するのは当然だ。

 だが、通常の医療における医師の裁量権にまで踏み込むのは捜査権の乱用と戒めたと言える。医療現場の実態を尊重した判決だ。

 この感覚は常識的なものだろうと思います。
 判決は、理論的にも「医療現場の実態を尊重した判決」と言っていいと思います。
 ここまでなら、特に紹介するほどの社説ではないのですが、私の目を引いたのは最後の2行です。

 医療にはリスクが伴う。だれもが納得できる結果を得られるとは限らない。だからこそ、医療の透明性と医療従事者の誠実な対応が必要なことを、今回の事件は示している。

 この社説の筆者が、どういう場面における「誠実な対応」を問題にしたのかは明瞭ではありませんが、社説を離れて私が思いますに、判決が加藤医師を無罪とした判断プロセスの中に、加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないかと想像しているのです。

 裁判所から見た誠実さという観点で言えば、本件と対置される事件が、慈恵医大青戸病院事件の判決です。
 慈恵・青戸病院事件 手術ミス死3医師有罪…東京地裁判決(2006年6月15日 読売新聞)

 大野病院事件の判決に示された論理が定着していくためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います。
 しかし、多くの医師が長い時間をかけて積み重ねた医療の誠実さへの信頼も、一人の医師・病院の不誠実な医療行為、その後の隠蔽工作などによって、すべて瓦解しかねません。
 その意味でも、患者の不信に応える医療の透明性は不可欠だと思います。
 
 どれだけ透明にしても「患者の不信」を払拭できないという意見があろうかと思いますが、それも積み重ねで解決していかざるを得ない問題だろうと思います。

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コメント(262)

>一人の医師・病院の不誠実な医療行為、その後の隠蔽工作などによって、すべて瓦解しかねません。

 これは医師や医療行為に限らず、専門職による専門行為に等しく及ぶものだと思います。信用を得る努力を1とすると、失った信用を同程度に回復するには3〜5の努力が必要だと言われています。何気ない普段の行為が実は大事な信用の積み重ねに資するものなのです(当り前か…)。

確かに誠実な医療を提供するのは必要です(実は医療現場はここ10年間、透明性の確保にかなり努力していますけどね)。そしてそれが医療不信を招き、(遺族はともかく)検察や警察が動いたという面もあるかもしれませんが、これらを結びつけ、逮捕・起訴する必要性が果たしてあったでしょうか?
今回の事件と医療の誠実さと無理に結びつけようとする人たちがいますが、私は論理的に考えても結びつかないと思います。もう少し警察や検察に慎重に対応する心がけがあれば逮捕・起訴する必要が無かったと理解するでしょう。警察が逮捕した理由は論理的に不明ですが、もし、警察なり検察が医療不信と結びつけたが故に逮捕・起訴に踏み切ったとなれば、それこそ感情論的なことではないですか?もしそうだとしたら私はそういう行為を断じて許しません。意味があったとも思いません。

>これらを結びつけ、逮捕・起訴する必要性が果たしてあったでしょうか?

 これはトピずれです。

>今回の事件と医療の誠実さと無理に結びつけようとする人たちがいますが、私は論理的に考えても結びつかないと思います。

 論理的には結びつきません。

>警察が逮捕した理由は論理的に不明ですが、

 このエントリは、警察・検察の論理を問題にしたものではありません。

 加藤医師が裁判所に信頼されたことが無罪判決の根拠の一つになった可能性がある。
 そしてそう考えることがそう考えないよりいい、ということを言いたいわけです。

不信と同じく、誠実さも定量的にするのか難しい概念ですね。

「誠意を見せんかい」というのは特定の業界での決まり台詞ですが。

 一般的な定量化は難しいですが、マーケティングをすれば一応の結論は出る模様です。携帯電話機の売れ筋とか、大型TVの販売競争とか。
 同じように床屋や個人医院(診療所)も地域に根ざしていると、浮き沈みが理容師や医師の先生次第と感じることがあります。2代目になって御近所さんが押し掛けるようになったり、代替わりで寂れたりと。
 実家最寄りの歯医者さんは2代目になっても予約がとるのが大変で、床屋さんなんかついに3代目が登場してました。内科医の先生は2代目が医師以外の道に行ったので、他人に継がせたくないと惜しまれながら廃院されました。外科の個人医院は、2代目のときに例の規制で入院業務を止めて、診療に専念されてます。
 いずれも評判の良い床屋や個人医院(診療所)に恵まれた地域で育ち幸せだったと思います。

 トピずれに対する審査基準が辛くなっているようですね。

 yama先生が既に言及なさっておられるとおり、「インフォームド・コンセント概念の普及」や「本人情報の開示に関する制度の整備」などにより、透明性の確保について、医療分野の従事者は相当な努力を払ってこられてきたのでしょう。
 未だに社説で「透明性確保の必要」云々と書かれるのは、社説を書くクラスの記者が、それこそ「白い巨塔」が書かれた時期の医療現場での取材経験を有し、そのときの印象が固着してしまっているからではないか、とさえ思ってしまいます。

 さて、エントリー本文で引き合いに出された慈恵会医大青戸病院事件ですが、たまたま読んでいた雑誌(「病院」64巻12号(2005年12月))に、慈恵会医大の講師を勤めておられる浦島充佳医師が「病院改革・患者さんの期待を超越せよ!(9)−多職種からなる医療チーム」という記事を寄せておられました。

 同記事は、青戸病院事件を受けて同大学が「医療安全と倫理のワークショップ」を複数回にわたって開催したことを紹介し、そのワークショップの概要について解説したものですが、浦島医師は同記事の中で、「このワークショップを継続していることだけが理由ではありませんが、事故報道当時を比較して、大学も少しづつ変化を遂げていることを何かにつけ感じます」としつつ、「本ワークショップが自分の職場周囲を巻き込んで多数の勉強会への発展することを期待していませんでしたが、そうはいきませんでした」「医師の欠席、レポート未提出が目立ちました」とも述べておられます。
 臨床医の皆さんが大変に忙しく、また、限られた研究時間を知識や技術の習得ではなく医療安全や倫理の問題に振り分けるのは困難であろうとは思いますが、医療安全や倫理に関するワークショップへの欠席というのは、やはり、あのような事件を引き起こした組織に属し、その組織の中核をなしている医師がみせるべき姿勢ではないように思いました。

>どれだけ透明にしても「患者の不信」を払拭できないという意見があろうかと思いますが、それも積み重ねで解決していかざるを得ない問題だろうと思います。

全く同感です。
確かに、医師の目から見れば、話の通じない一部患者や家族に対し、あるいはマスコミなどに対し、言いたいことの一つもあると思いますが、信じてもらえないと困るのは医療者です。
いや、困らないと言うむきもあるかもしれませんが、私は困ります。
普段の精神療法、病状説明一つとっても、不信感の払拭からスタートすると無駄に時間がかかるし、いつ訴えられるかと怯えながら働くのもうんざりだからです。

精神科では、ルールを破って制限が厳しくなった患者が、色々と理屈を並べて制限を緩めてもらおうとすることがあります。
そういう時に私が言うのはこうです。
「○○の許可が欲しいのはわかる。あなたにとっては、もう過ぎたことかもしれないし、反省もしていると言いたいのでしょう。でも、この場合に大事なのは、あなたがもう同じ違反を繰り返さないと私に信じさせることです。あなたがそう思ってるだけじゃ駄目なんです。本当に許可が欲しいと思うなら、どう行動すれば信じてもらえるか、よく考えて下さい」

これと同じことだと思います。
私とて患者やマスコミに言いたいことは色々ありますが、それでもなお、どういう態度が最も合目的的か、そろそろ医療者も考えていい頃合いだと思っています。
正論を押しつけるだけじゃ、自分を嫌っている相手に好いてもらうことはできないんですから。

誤解を招く文章かもしれないので補足です。
私の言う「今回の事件と医療の誠実さと無理に結びつけようとする人たちがいますが」という部分に於いて人たちは毎日新聞の記事を書いた人も指します。そしてそういう人たちが警察、検察と同じように考えていると言うことを言いたかったのです。
そういう観点で個人的にはトピずれとは思わないのですが、いかがでしょう。
誤解を生む文章で済みません。

さらに追加です。何度も済みません。

先のコメントで私が一番言いたかったのは、毎日新聞も警察や検察と似た思考回路であるならばそれはあることがおかしいと言うことです。
つまり、警察や検察は医療不信があるから医師を逮捕・起訴した可能性がある。一方、毎日新聞は医療不信と今回の警察の起訴とを完全に結びつけています。
従って、警察検察へは可能性があれば反省を、毎日新聞は完全に間違っているので即反省を、ということが言いたかったのですが、いろいろ書いているうちにその部分を書くのを忘れてしまいました。

国語力が無くて済みません。絶対小説家にはなれないなあ・・・。

 多くの医療者は誠実です。おそらく、加藤先生も誠実であったはずです。問題は、できないことや、危険性のあることを、誠実に相手に伝えて、しないことが求められている誠実さであるのか、それでも危険に対してできるだけの対処法を準備して敢えて危険を冒すことが求められている誠実さなのかということではないでしょうか?
 千に一つの危険があるから、引き受けないのが誠実なのか、99%の成功の可能性があるから引き受けるのが誠実なのかということです。で、加藤先生が失ったものを考える時、それが、誠実さにふさわしい対価であったのでしょうか?
 今回の件で、マスコミなどの論調をみれば、危険があれば引き受けないことが、誠実な医療であるというように受けとめたくなります。期待にできるだけそうべく努力をしても、成功しなければ、人殺し扱いですから。

 繰り返しますが、このエントリは、警察・検察やマスコミが加藤医師の過失責任を主張したことを問題にしているのではなく、裁判所が、その主張は間違いだとして無罪判決を言い渡しことをテーマにしているのです。

>人殺し扱いですから。

 この表現は感情的にすぎます。

 無罪判決が出た今こそ、冷静に理性的に議論することができるのではありませんか?
 医療側としても。
 そして、理性的な議論こそが必要なのではありませんか?

さらみの裁判書類のスレ知らない?
それと橋下知事と語ろう!は???

 この判決は、通常の医療を誠実に行っていれば、たとえ結果が悪くても過失として刑事責任を問うべきではないと言うことなので、多くの医療人の常識にマッチしてると思います。では不誠実な医療はどうなのかという問題は残っていますがこの判決は触れていないですよね。
 判決が確定しても、先進的な医療にチャレンジすべき施設はどうなのと言う議論は残ります。しかし、多くの医療機関では、通常の仕事は刑事事件化を心配しないで出来るようになるでしょう。

このエントリをみて、
医療従事者の誠実な対応が必要なことは同意。
医療の透明性とは何か?と自問していました。

 しかし、No.10 タカ派の麻酔科医 さんが指摘しているように加藤医師は誠実な医療をなさっていたようです。公判で近医産科医が患者さんの評判を証言しています。
 誠実でなかったのは病院及び県の対応だったようです。術後の患者家族への対応の遅れは病院組織の不備です。それ以外は行政の対応の問題です。社説の論説委員はそこまで考えていたのだろうか?ありきたりの結論を持ってきただけでは?
 ま、そうだとしても医療従事者の誠実な対応が必要なことは同意。思いやりをもって接するのは人間社会の基本です。

さて、医療の透明性とは何か?
説明責任? 情報開示? 自浄作用? 医療安全委員会?
前二者は個々の医療機関で対応可能ですが、後二者は個別対応はできません。
自浄作用は必要ですが展望が開けません。医師を束ねる組織がないからです。
医療安全委員会は透明性を確保するか? みなさんどうお考えでしょう?

モトケン様
 理性的な議論として、誠実さについて、私のNo10の前半で疑問として挙げております。できること、できないことの基準をどこにおくのが誠実なのでしょうか?現実を認識して、相手の意見を聞く相手に対して誠実であることは容易なことです。しかし、医療現場では、認めたくない現実を、その場で医師さえ説得できればないことにできると勘違いする患者も多く、限られた時間に多くの患者さんの診療をすることの支障になることも少なくないのです。
 危険性を説明して、その回避方法としてどのような方法があるかを説明し、それでも100%を保証できませんと説明しても、絶対大丈夫なようにしてくださいと返事をする相手に対して、どうすることが誠実なことなのでしょうか?
 人殺し扱いというのが、感情的とおっしゃいますが、この事件について、判決が出された後ですら、ネガティブな印象操作をマスコミが行っている状況は、どうお考えでしょうか。裁判の際には挙げられていないにせよ、産科的DICによる死亡の可能性や、その後、子宮摘出を早期に行っても死亡した例などがあり、しつこくネガティブな印象操作を続けられなければいけない理由はないはずです。しかも、隠蔽を含めた不誠実な行為がなかったが故に無罪とされたにも関わらず、遺族の言葉がどれほどしつこく報道され、取り上げられたでしょうか。この状況を簡潔に書くために、この様に表現したのであり、私は、感情的に書いたわけではありません。判決文や警察庁長官のコメントを読んで、捨てたものではないと信じ始めているのです。でも、モトケン様、判決後には、人一人死んだのにというコメントをみたことがないとでもおっしゃいますか?
 
 

医療従事者の誠実な対応が必要なことは同意。思いやりをもって接するのは人間社会の基本です。
「誠実な対応=思いやりをもって接する」という意味でしたら、本件からの教訓ではないような気がします。何に対する誠実さが必要かと言えば、「職務に対する誠実さ」なんじゃないでしょうか。

No.16 元ライダー さん

了解しました。青戸病院事件との対比ならその通りです。

 訴訟リスクにおける最も大きな影響力が生じる局面は判決だと思います。
 マスコミより警察より検察より裁判所です。
 今回の判決で有罪判決が出た場合のことを想像していただければ説明の必要はないでしょう。

 このエントリは、わかりやすく極論すれば、マスコミや警察や検察はとりあえず横において、福島地裁の裁判官のような裁判官のものの見方を考えてみませんかということです。
 裁判所の顔色を最も窺っているのは検察です。
 そして検察の顔色を気にするのが警察です。

 であるならば、医療側としても裁判所のものの見方考え方にそった対策を立てるのが最も有効だとはお考えになりませんかということです。
 私、少々イラついてます。

 こういう判決が出てそれが確定すれば、少なくとも検察は判決の論理に従うのです。
 マスコミがどう印象操作しようがそんなものは関係ありません。
 (だから、この判決が確定するかどうか、つまり検察が控訴するかどうかが当面とっても重要な問題です。)

大野病院の加藤氏が誠実で慈恵医大青戸病院事件の医師たちが誠実でなかったという線引きは、少し首をかしげます。

慈恵医大青戸病院事件に関しては疑問に感じる点が多いのですが、あまり詳細に調べていないので断言できない部分があることはご了承ください。

慈恵医大青戸病院で腹腔鏡手術を行った際、腹腔鏡に経験のある医師はいませんでしたが、執刀した数人の医師は経験のある泌尿器科医で、開腹手術なら問題なく手術はこなせていた先生だと聞いています。それがあったから指導医なしで腹腔鏡手術の施行が許されたわけですが、それなのに術中出血があったとき開腹手術に切り替えませんでした。どうして切り替えなかったかは不明ですが、切り替えるように提案されたとき「まだ大丈夫」と答えたらしいのです。

さて、青戸病院の医師たちは患者を殺すつもりで手術をしていたのではなく、手術を成功させたかったはずです。安全に手術を完了させる技量は持ち合わせており、今までも多くの(開腹)手術を成功させていました。彼らの失敗は「まだ大丈夫」と判断した点です。これは癒着胎盤の可能性のある女性を他院に移送するように提案されて、転送しないと判断した加藤氏と同様、医師の診療上の判断です。あるいは、癒着胎盤が出血したときに、子宮摘出に切り替えるか、胎盤剥離を続行するか、が診療上の判断であるのと同様、開腹に切り替えるか、そのまま腹腔鏡手術を続行するかは診療上の判断です。加藤氏は癒着胎盤の経験がなく、青戸病院では腹腔鏡手術の経験がありませんでした。これでどうして加藤氏は無罪で、青戸病院は有罪なのでしょう?誠意で片づけるのは単純すぎると思います。

大野病院と青戸病院の相違点を見ると次のようになります。

大野病院の場合:
背景に地域全体に渡る医師不足があり、絶対的な医療資源の不足の中で厳しい判断を迫られていた。
青戸病院の場合:
首都圏であり同じ手技手法に経験のある病院が近くにあった。

大野病院の場合:
出産という時間的制約のある事象を扱っており、限られた時間で判断をしなければならなかった。
青戸病院の場合:
elective surgeryであり、充分な準備期間をとることが出来た。

大野病院の場合:
他院に搬送するという選択肢もあったが、地域全体が産婦人科不足であり、搬送した場合、受け入れ可能であったか不明で、仮に受け入れ可能でも他の症例がそのため受け入れられなくなる可能性もあり、搬送しない方向への判断理由があった。
青戸病院の場合:
他院に手術を依頼するという選択肢もあり、とくにそうしない理由はなかった。

大野病院の場合:
胎盤剥離から子宮全摘に切り替えた場合、妊婦の子宮機能は奪われていた。
青戸病院の場合:
腹腔鏡手術から開腹手術に切り替えた場合、手術侵襲は大きくなるが、特に患者に大きな障害を与える確率は増大しない。

大野病院の場合:
子宮摘出に切り替えた場合でも、必ずしも救命できたか不明。
青戸病院の場合:
開腹手術に切り替えた場合、止血は大幅に容易になり、救命の可能性は高くなったと思われる。

私が思うに、大野病院の場合、限られた時間と限られた医療資源と限られた情報を元に、どっちに進んでも極めてリスクの高い選択を迫られ、その判断の結果が悪かった、しかし、青戸病院の場合、考える時間があり、無理に腹腔鏡手術を選ぶ理由も、自院で腹腔鏡手術を行う理由もなく、開腹手術に切り替えない理由もない中で判断を誤って結果が悪かったのだと思います。

こうしてみると、青戸病院の事件も誠意の問題ではなくシステムの問題だったのだと分かると思います。どこかでストップが掛かって当然の連鎖が、そのままチーズの穴を抜けて通ってしまった典型的な事件だと思います。

これを「責任感がない」とか「誠意がない」とか「医師の資質に欠ける」という抽象的な言葉で片づけておいては今後の事故防止につながらないと思います。

うーん、医療における透明性の確保自身は格段に進んでいると思うのですが、それをどう裁判所や世間にアピールするかですか? 例によってタトしているかもしれませんが…

ある特定の専門家が職務に誠実かどうかを最も良く判断できるのは他の専門家です。例えばヴァイオリン協奏曲の独奏者なんて怖いでしょうね。観客だけじゃなく、十何人の同業の専門家が後ろでリアルタイムに聞いている。

さて、患者から見たミニマルな「他の専門家」はセカンドオピニオンだったり、かかりつけ医以外を受診する機会だったり、雑誌やマスコミの「先生」だったりするのでしょう。ですから、マスコミ対策は後で考えるとして、日常の診療でも他院を受診することを積極的に勧めると同時に、「かばいあいだ」と思われないように、自分が他院のパフォーマンスを<よくない>と思ったら、正直にそう伝えていくことなんでしょうね。逆に、加藤先生を救ったのは「良い先生だ」という現場や地域の声だったんじゃないかと思います。調査委員会を作るとしたら、少なくとも一部のメンバーは公選制にできないものでしょうか。

別の方針だと、子供たちに医療のバックヤードというのを見学してもらうのもいいかなと思います。原子力発電所などの(必ずしもイメージの良くない)事業所が見学コースを設けたり、大学が高校生を呼んだりアウトリーチ活動をしたりしていますが、あの感覚です。

さら脱線すると、医療従事者が特権階級ではないのだということをわかってもらうことも大事かなと。<○○はずるい、あいつらはいい加減に遊んで金をもらっている>(○○には目的に応じて「公務員」「医者」「教師」「弁護士」など、叩きたいものを適宜代入します)というのは、分断支配の戦略で、医者はさんざんこれで叩かれたわけですよ。実際には3K労働だとしても。その点まだ日本は上流階級ではない、「普通の家庭の子供」が医者になれているので希望があります。医療関係者の家族は少なくとも医療関係者の実態を知っていますから。まあこのまま国立大学法人の授業料が単調増加していき、世帯収入が単調減少していくとどうなるかわかりませんが。

マスコミ向けには、医者の言葉を一般人の言葉に「翻訳」する、メディカルライター・コメンテーターが必要なのかなと思います。現在のところ、こういったブログがその役割を担ってしまっているのですが、視聴率1%の打ち切り寸前な番組でも120万人が見ているというテレビの世界から比べると効率が悪すぎます。業界での評判はともかく、養老さんや中村さん、最近では茂木さんのような立場の人たちですね。

>誠意で片づけるのは単純すぎると思います。

 揚げ足取りですか?
 私のエントリは、判決の受け止め方についての一つの考え方に過ぎません。
 判例自体は、誠意で片付けてなんかいません。

 医療側の視点からしかものごとを見ることができない、考えることができないというのであれば、法律家が開設しているこのブログで議論の余地はありません。

私も青戸の事件については、医師は功名心だけでやったのではないと思います。つまり、侵襲が少なく、患者の負担も少ないため内視鏡手術は有用だったのでしょう。患者のためも思ってやったことは明らかです。
また、逮捕は明らかにやりすぎでしょう。逮捕する理由がありませんから。
しかし、新たな医療を挑戦する際には手術法のみならずリスクも勉強しなければなりません。それくらいの慎重さは医師として必要です。命を扱う仕事ですからそれくらいのことは当たり前です。
私個人は刑事事件として扱うのは微妙だなと思いますが(どちらかというと反対)、少なくとも免許停止等の行政処分は必要だと思っています。

いつもはROMだけでしたが、どうしても、患者側の意見をお伝えしたくて書きます。
内分泌科医先生の大野病院と青戸病院の比較分析は、私でも大変判りやすかったです。それだけに、

>考える時間があり、無理に腹腔鏡手術を選ぶ理由も、自院で腹腔鏡手術を行う理由もなく、開腹手術に切り替えない理由もない

ということがかえって恐ろしいです。
たとえ判断ミスがなく手術が成功していたとしても「このような状況の中でなされていた手術」と判っただけで、医師の不誠実を感じるのが患者だと思います。なぜなら(たとえそれが医療のために実は必要なことと理解していたとしても)「自分は実験台になりたくない」というのが、普通の患者の思考だと思うからです。

たとえ
>患者を殺すつもりで手術をしていたのではなく、手術を成功させたかったはず
だったとしても、それを誠実さと理解することは、患者には無理があります。

一方、裁判所の判断が示され、先生の分析にある

>限られた時間と限られた医療資源と限られた情報を元に、どっちに進んでも極めてリスクの高い選択を迫られた

という状況が、多くの医療系ブログを通して理解できるようになってきているので、私はこのような状況での選択を、不誠実とは感じません。

おそらく、過去の報道のみから印象操作を受けていた非医療者でも「医師が誠実に対応しても、結果として不幸が起こりえる」ということを改めて認識した人は多いと思います。

No.19 内分泌内科医さんへ

    慈恵医大青戸病院の問題は、「外科的に新しい手技を試したいと考えたときの手続きの不透明性(インフォームド・コンセントの不公正さ)」にあると考えます。
    
    内科的な薬物治療では、欧米日の三枢軸においての治験ガイドライン(GCP:Good Clinical Practice )のおかげで、ニュルンベルグ宣言以来のインフォームド・コンセントの概念ががようやく浸透し、実地医療に移されています。患者は、治験参加に際しては、そのプロトコールを客観的に熟知している治験専門家(主治医以外)からの説明を受け、治験薬でないプラセーボ(対照とする無害無効な物質(小麦粉など);偽薬)が割り当てられる可能性が50%あることを承知したうえで二重盲検試験に参加します。このようにして、新薬の有効無効がバイアスなく評価されるわけです。有効と証明されたもののみが認可され市場に出回ることになります(副作用の監視は続けられます)。

    外科では、それに対応するものがないのです。

    世界初の手術を行おうとしたら、外科医はどうするか?

    おそらく、まずは動物(犬など)で練習をつんで成功の実績を示し、病院の倫理委員会にかけて、患者から徹底的なインフォームド・コンセントを得て、ということになるのでしょうが、成文化されたガイドラインは私の知る限りではないように思います(あるのでしたらご教示ください)。外科では二重盲検試験の実施は難しいこともあります(偽薬のかわりに、偽手術をすることになるので完全に無害ではないからです)。

    慈恵医大青戸病院の医師たちは、すでに充分に訓練をつんだ中堅医師でした。だからこそ、「大学病院に籍を置く中堅でありながら、最新技術である腹腔鏡手術もマスターできていない」ことに焦りがあったというふうに報じられています。彼らは、腹腔鏡手術をやりたかった。で、非常に不十分な準備で(他施設に研修に行って経験数を積み上げることもせず、3人全員がそのような研修をするでもなく、手術室のスタッフ(麻酔科医や看護師ら)と事前の打ち合わせもなく)、内規を破って(慈恵医大では新しい手技の導入時には届け出るという規則ができていたが知らなかったとのこと)、実行に移したのです。

    この態度が「不誠実」かどうか、というのがこのエントリの趣旨と理解しております。

   手術は非常に長時間にわたり、出血をコントロールできなくなって、結局、開腹手術に切り替えざるを得ないと判断するわけですが、切り替えるタイミングが遅すぎたのではないかという疑いが持たれています。そうして、一部の声は、「自分たちの手技の上達を優先し、患者の安全をないがしろにした」ことが判断を狂わせたのではないか、と疑義を発しているわけです。しかし、当事者が正直に本当のことを語る心境になってくれない限り、切り替えの遅れの原因は永遠にわからないままかもしれません。(他施設で充分な研修を受けていれば、あるいは、当日、経験豊富な外科医を招いて指導してもらっていれば、腹腔鏡手術から開腹手術への切り替え時期がもう少し早まっていたのかもしれません。これらはすべて後から言えることに過ぎませんので、充分な手を打っていても救えなかったケースだったのかもしれません。)

  で、大出血で輸血が間に合わず、患者さんは不幸にも亡くなってしまった。

  輸血の血液を注文する時期が遅れたという麻酔科医の判断の誤りが死亡原因であり、手術そのものではない、と指摘する人もいます。

  結果回避義務の立証は、外科医と麻酔科医のそれぞれについてされなければならないと思われる事例です。 

  大野病院事件の判決要旨では、「医師に義務を負わせ、刑罰を科す基準になる医学的準則は、臨床に携わる医師のほとんどがその基準に従っているといえる程度の一般性がなければならない。現場で行われている措置と、一部医学書の内容に食い違いがある場合、容易かつ迅速な治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらし、刑罰が科せられる基準が不明確になるからだ。」と述べられています。

  慈恵医大青戸病院事件では、「術前の準備」と「術中」の二つの段階でこの判断がなされなければならない事例だと思います。

  そうして、私の個人的判断は、「術中のことはわからないが、術前の準備は、ほとんどの医師が考えている基準を逸脱しているのではないか?すなわち、自分たちの経験のない手術を行うにあたっての患者へのインフォームド・コンセントのとり方が不誠実ではなかったのか?新しい手術をするにしては、外科医と麻酔科医の打ち合わせも不十分だったのではないか?」というものです。

  反論をお待ちしております。


     


モトケン様のこのエントリーについての考え方は、
 つまるところ、医師が、患者を治療するために、最善と思われる方法をとる限りは、司法は、刑事犯とはしないだろう、あるいは、したくないのだから、萎縮することなく、仕事に専念してくださいというメッセージのこもった判決であると受け止めて、どう考えるのかということでしょうか?
 私は、この判決は、大岡さばきといってよいようないい判決だと受け止めております。また、警察庁長官のコメントもそのようなメッセージを込めたものであろうと受け止めております。
 私は、誠実でありたいと思いながら、これまで、悩みながら仕事をしてきています。
 例をあげれば、救急搬入を受け入れる時、許可病床を越えるから受け入れないという選択をすれば、制度に対しては、誠実でも、患者に対しては誠実でないと受け止められる。また、同時に2台は最善の治療ができないが、どちらを選ぶか難しければ、両方を受け入れるしかない。助からない患者について、延命すればよいのか、苦痛を減らすことがよいのか、家族の立場で考えるか、本人の意思を優先するのか。
 モトケン様の受けとめかたであれば、悩む必要などなく、その時最善と思われる方法をとればいいのだということになるのでしょうか?
 

 システムによる医療安全対策の最大の敵は、規則違反です。有効かつ違反されないような制度設計が大前提ですが、定められた規則を知らない、守らないという人が相手では、システムズアプローチによる再発防止はできません。

 その意味で、無私と誠意は規則違反があったときに罰せられるべきか否かの重要な試金石になるだろうと思います。

 患者を自分のために道具であると考えているか、共に戦うべきパートナーと考えているのかを、他に推し量る方法はないからです。

>私は、この判決は、大岡さばきといってよいようないい判決だと受け止めております。

 大岡裁きのイメージは人それぞれかも知れませんが、私はこの判決に情緒的なイメージは感じません。
 医療の実態と本件の社会的影響つまり今後の医療に対する影響を冷徹に見定めて、最も適切な論理を追求した判決だと思っています。

>モトケン様の受けとめかたであれば、悩む必要などなく、その時最善と思われる方法をとればいいのだということになるのでしょうか?

 患者(予備軍)の私としては、困難な判断に直面したときには、それなりに悩んで欲しいとは思いますが、そのときに最善と思われる方法を決断した以上は、自分に自信をもってやっていただければよいのではないかと思います。

 判決は、医療行為としての適法性は医療行為としての観点で見るべきだと言っています。
 医療のど素人のマスコミや警察の目を気にするよりは同業者の目を気にするべきではないでしょうか?
 別の言い方をすれば、判決は、同業者による庇いあいではなく、同業者からの厳しい批判を信頼したのではないかと思われます。
 つまり、ボールは裁判所から医療側に投げられたと見ることができます。
 医療側はそのボールをしっかり受け止めるべきでしょう。

 あと余談ですが、「様」は勘弁してください。
 それほど偉くありません(^^;

「誠実」「不誠実」はあくまでも感想であり、印象を表現する言葉に過ぎません。青戸病院の医師たちが「不誠実であった」と言えば、これに異を唱える人はほとんどいないと思いますが、だからといってこれを判決や量刑の根拠にするという考えには賛成しかねます。

私も青戸病院の医師たちは「職務に対して不誠実であった」と思います。しかし、「大野病院の医師は誠実だった。青戸病院の医師は不誠実だった。よって大野病院は無罪、青戸病院は有罪」というのではあまりにも抽象的で短絡的であると思います。

「誠実」「不誠実」は、いわゆるsound byteであり、問題の本質ではないと思うのです。

一部の声は、「自分たちの手技の上達を優先し、患者の安全をないがしろにした」ことが判断を狂わせたのではないか、と疑義を発しているわけです。

実は私も大筋その意見と同意しています。で、それが「不誠実」に該当するかと言えば、該当すると思います。しかし、新聞の見出しなら「不誠実」がキーワードであってもいいのですが、判決のキーワードであっては困るし、再発防止のキーワードとしては無意味です。「不誠実有罪、誠実無罪」では法治国家の名に値しません。

「内規違反をして手術を決行した」とか、「研修を受けずに手術をした」とか、「はじめて行う手技であることを患者に説明していなかった」とかは、判決の根拠にしていいと思います。しかし、「不誠実」というのは、それらの行為に関する感想を総括する言葉でしかなく、客観性を要求される裁判で使うべき言葉ではないと思います。

西洋においては司法の女神は目隠しをして天秤を手に持つ姿をしています。言葉は悪いですが、「嫌なヤツでも無罪は無罪」と判決できないようでは司法が司法として機能していないと言えます。

>No.26 rijin さん

無私と誠意は規則違反があったときに罰せられるべきか否かの重要な試金石になるだろうと思います。

反対意見です。規則違反があって有害事象に至ったのであれば罰せられるべきです。「無私と誠意」は関係ありません。争点とするべきものは、「無私と誠意」があったかではなく、破られた規則が現実に即しているものであったかどうかです。

裁判は人気投票であってはいけません。特に刑事裁判に於いては「不誠実であっても無罪」「誠実であっても有罪」が正しく判決されなければならないのです。

> 規則違反があって有害事象に至ったのであれば罰せられるべきです。

 首肯できません。

 ただし、それは客観的な法的判断であると主張するつもりはありません。医療従事者の端くれとしての自分の価値判断です。

 好ましくない結果があれば規則違反の有無の検討がまず必要で、次いで規則違反に原因する好ましくない結果が明らかであれば、罰せられるべきか否かの検討を行う必要があると考えます。

 その上で、無私と誠実による規則違反であれば罰せられるべきでなく、私心や不誠・怠慢によるものであれば罰せられるべきと思います。

 これが法文に反映されることが理想だと思いますが、残念ながら自分自身で書き上げる能力はありません。

誠実さが定量できればいいんですけれどね。年間のべ5千人、下手すれば1万人超える患者さんと接しますし、医師全員99.99%の誠実さで診察をしても年間一人には誠実じゃないと感じる患者さんが出るわけです。医師は26万人いるわけですので99.99%誠実でも少なく見積もっても1年間で、10万人ぐらいの患者さんが、あの医師は誠実じゃないと思うわけです。


結局、誠実であれというのは、医師にその倫理観を捨てちゃダメと言っているのと同じわけで、医師の倫理観をまた利用する気か?とかひねくれた私としては思ってしまったりなんかして・・・


誠実な医療が必要であるということに関しては疑問の余地はありませんが、それは医療に限らない。誠実な建築も、誠実な政治も、誠実な捜査も、等価として必要で、それが得られるかどうかはこの国の人間たちの心の形によるものでしょう。


もっと、極論を言ってしまうと、病気が治れば誠実さなんか必要ないんです。万病を治すマリア様の像には誠実さのひとかけらもありません。だって喋らないし。でも医者よりももっと多くの病人がコインを投げるでしょうし、マリア像を相手取った訴訟もおこらないでしょう。


結局、医療に誠実さが必要なのは、病は治らず、人はみな死ぬからで、そのときに患者や遺族の心を慰めるためなんでしょうね。とすると、患者の不信というのは突き詰めると死の恐怖に集約されるんじゃないでしょうか。


とすると結論が出ます。医師の誠実さにすべての患者が満足することは決してない。

内分泌科医さんへ


  判決には感情的判断が混じっては困る、ということでしょうか。

  判決が誠実か不誠実かで決められてはかなわない、とのことですが、確かにどんなに不誠実な態度でも罪そのものを犯していなければ無罪ですが、この事件では、「患者に対する誠実さ」があれば術前準備も違っていたであろう、インフォームド・コンセントの内容も違っていたであろう、術中判断も違っていたであろう、患者の死を未然に防げたかもしれない、と推定するに充分な状況証拠があります。

  また、有罪の場合、「情状酌量の余地があるかどうか」は、量刑を決める大きな目安となるのが普通ではないでしょうか。或る程度の感情的判断は判決にはつきものだと思うのですが。

  このエントリが「誠実さ」というお題なので、慈恵医大青戸病院事件における「誠実さ」について推論したのです。彼らの術前の準備において、規則違反や事前研修の不足や不十分なインフォームド・コンセントがあったという「事実」は、「ほとんどの医師の水準を満たさない」といえます。規則の無知、練習不足、ニュルンベルグ宣言の無知は、言い訳が困難に思えます。そのように準備不足の状態で臨んだ手術の術中に、開腹手術への切り替えの遅れにより大量出血を許し、患者が死亡した。術前準備不足という悪質な怠慢と、術中の稚拙な手技と判断の誤りが出血多量による死の原因であり、有罪。
   背景には、患者の「知る権利」の軽視、術前の周到な研修など「最善の努力」を怠ったこと、術中患者を危険にさらしつつ腹腔鏡手術の完遂にこだわったこと、すなわち「不誠実さ」があったと推測しているのです。被告にやむにやまれぬ事情があったり、深く悔いている場合は、それなりに量刑でも情状酌量されると思うのですが、青戸病院の医師たちは裁判官にそのような心証を与えることができなかったようです。それが彼らの「不誠実さ」ではないのでしょうか。

  青戸病院事件は、患者の権利(知る権利・選択する権利・拒否する権利)を無視し、医療的侵襲を軽々しく考えており、単なる過失ではないため、刑事事件もやむをえないと思います。

  私は法律の素人ですので、間違っておりましたらご訂正ください。

(なお、腹腔鏡手術の先駆となった胆嚢摘出術は海外で始まり日本にも普及してきたのですが、日本で普及するにあたり青戸病院事件のようないい加減なインフォームドコンセントで患者が実験台になっていた事例はないのかどうか、過去にさかのぼって検証する必要さえ感じます。そのように疑われてしまう文化が外科にはあるのではないでしょうか。ちょっと手厳しすぎるでしょうか、同業者なのに?でも自浄作用は必要ですよね。ちなみに、海外では(日本国内でも青戸病院以外ではそうであったことを祈りますが)、腹腔鏡式胆嚢摘出術を初期に受けた患者は、「新しい試みであり、傷も小さく侵襲が少なく術後の回復が早いという長所はあるが、未知の合併症も起こり得る。困難なときは無理せず開腹手術に切り替えるが、開腹術に切り替えても死亡する場合もあるかもしれない」という、メリットだけでなく危険性も充分に説明したインフォームド・コンセントに署名をしています。そうでないと倫理委員会を通りませんし、手術成績を論文にして発表することも当然できません。医学の進歩のために、という信頼と犠牲的ボランティア精神があるのでしょう。実際、始めたばかりのころは一時的に手術成績は下がったという報告があります。やがて技術の向上により、成績は開腹術をしのぐようになり、普及していったのですが、初期には犠牲もあったのです。患者さんが事前に嘘のない誠実な説明を充分に受け、それに納得しているかどうかが重要なのです。)

私はこの青戸事件についても刑事事件はなじまないと思います。というのは、逮捕というのは明らかにその理由がないのに見せしめのようにやっているからです。また、医師は功名心だけでやったのではないでしょう。おそらく患者の為も思ってやったのだと思います。また、医療教育そのものに問題が最もあると思います。つまり、従来の医学部は医療倫理観について教育してきませんでした。ヒポクラテスの誓いなんて、私はつい8年前に初めて知りました。倫理委員会なんてものも存在することは知っていましたが、具体的に何をするところか知ったのは5年前です。今の医学的水準から見るととても医師としてふさわしくないと考えますが、不眠不休で十何年も医師をやっていて自ら現代の医療倫理的価値を勉強することなんて出来るか、という問題です。病院としてのアドバイスも出来なかった。医学教育水準事態がは低かった(現在は知りません)。そのような状況で果たして今回の過ちを医師一人に押しつけて良いのか?ということが言いたいわけです。
ただ、これがリピータとなると刑事事件化も私は否定しません。

しかし、行政処分は必要だと思っています。医師に大いに反省してもらう必要があります。また、過失(どんな医師でもやんなきゃやばいだろう的な処置を怠った)が認定されれば民事賠償は必要です(過失については情報も十分ではなく、私は専門外なのでコメントは控えさせていただきます)。
従って半年から1年程度の免許停止処分は必要だろうと考えます。

いずれにしても青戸についての結果はお粗末だったということはほとんどの若手の医師は思うでしょう。しかし年寄りの医師はどうでしょう。そもそもそんな概念がなかったわけですから今から勉強する必要があります。

民事、刑事いずれにしても過失の認定については遺族の感情を廃する必要があります。科学的に物事をとらえ、客観的に見なければなりません。故意なら感情を組むべきですが。

「患者に対する誠実さ」があれば術前準備も違っていたであろう、インフォームド・コンセントの内容も違っていたであろう、術中判断も違っていたであろう、患者の死を未然に防げたかもしれない
それはタラレバ論です。
有罪の場合、「情状酌量の余地があるかどうか」は、量刑を決める大きな目安となるのが普通ではないでしょうか。
それは有罪と決まった後の話しです。
慈恵医大青戸病院事件・・・、有罪。
有罪に関して異議はありません。 「不誠実だから有罪」に反対しているのです。

医師によるルール違反は厳しく追及するべきです。
青戸病院を弁護しているのではありません。
「不誠実でも無罪は無罪」「誠実でも有罪は有罪」が成立しなければ法治国家ではないと言っているのです。

 私は、青戸病院事件は被告人医師が不誠実だから有罪になった、とは言っていませんよ。
 「不誠実」というのは、認定可能な全ての事実を認定した後の全体的評価の問題です。
 そして、裁判は、裁判所が認定した事実に基づいて全てが判断されるのです。
 そして過失の有無の判断論理は、回避可能性と回避義務です。

 誠実とか不誠実という言葉を独り歩きさせてはだめです。

法律論における「誠実さ」と医療に投げかけられる奔放な「誠実さ」を混同しちゃいかんということですね。

 いや、私のエントリで指摘した「誠実」はそもそも「法律論」ですらないのです。
 強いて言えば、個々の事実ではなく事件全体についての事実認定や社会的影響についての判断の際のベーシックな心証とも言うべきものです。
 
 ここで社会的影響についての判断というのは、「こういう医療行為を処罰したらどういうことになるか。」という問題意識にほかなりません。

ご返信ありがとうございます。

過失の有無の判断論理は、回避可能性と回避義務です。

その基準から行けば、青戸事件の過失は回避可能であったと判断されるべきでしょう。回避義務は当然あると思います。

しかし、「誠実」とか「不誠実」とかいう言葉を使い始めると、誤解を生み魔女狩りを助長すると思います。

社会に医療バッシングがはびこっている状況と、検察が立件したり裁判所が判決を出したりすることは、完全に独立していなければなりません。「嫌われ者は有罪」では困るのです。

世間でどんなに医者が嫌われていても、どんなに医療不信が蔓延していても、検察や裁判所は公正でなければなりません。そうでなければ「黒人なら有罪」「ユダヤ人なら有罪」とちっとも変わりません。

誠実な医療の実践は非常に重要です。一度失った信用を取り戻すのは大変な苦労を要します。しかし、話しがいざ刑事裁判になれば、

「大野病院事件の判決に示された論理が定着していくためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います。」

これは少し飛躍だと思います。


仮に今から医療が急速に崩壊し(非常に可能性の高いシナリオです)医療へのアクセスが極めて悪くなり、救急車の「たらい回し」は恒常化し、医療不信は今まで以上に激しくなって、医師がかつての黒人やユダヤ人のような立場になっても、「誠実な医療の積み重ね」が現実的に不可能になっても、裁判は公正でなければならないのです。

「医療が社会の信頼を取り戻すためには、医療が信頼を取り戻すためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います」
というのなら、理解できます。 定型文的でご挨拶のようなコメントでしかありませんが。

ご返信ありがとうございます。

過失の有無の判断論理は、回避可能性と回避義務です。

その基準から行けば、青戸事件の過失は回避可能であったと判断されるべきでしょう。回避義務は当然あると思います。

しかし、「誠実」とか「不誠実」とかいう言葉を使い始めると、誤解を生み魔女狩りを助長すると思います。

社会に医療バッシングがはびこっている状況と、検察が立件したり裁判所が判決を出したりすることは、完全に独立していなければなりません。「嫌われ者は有罪」では困るのです。

世間でどんなに医者が嫌われていても、どんなに医療不信が蔓延していても、検察や裁判所は公正でなければなりません。そうでなければ「黒人なら有罪」「ユダヤ人なら有罪」とちっとも変わりません。

誠実な医療の実践は非常に重要です。一度失った信用を取り戻すのは大変な苦労を要します。しかし、話しがいざ刑事裁判になれば、

「大野病院事件の判決に示された論理が定着していくためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います。」

これは少し飛躍だと思います。


仮に今から医療が急速に崩壊し(非常に可能性の高いシナリオです)医療へのアクセスが極めて悪くなり、救急車の「たらい回し」は恒常化し、医療不信は今まで以上に激しくなって、医師がかつての黒人やユダヤ人のような立場になっても、「誠実な医療の積み重ね」が現実的に不可能になっても、裁判は公正でなければならないのです。

「医療が社会の信頼を取り戻すためには、医療が信頼を取り戻すためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います」
というのなら、理解できます。 定型文的でご挨拶のようなコメントでしかありませんが。

横レス失礼(外すかもしれませんが)
今回の福島地裁の無罪判決は法学のロジックだけで当然のように導き出せる無罪だと思いますか?
法学のロジックでは有罪になりようがない事例だと思いますか?と言い換えても同じですが。

法学のロジックの専門家ではないので、個人的な意見しかお答えできないのですが…。

「過失の有無の判断論理は、回避可能性と回避義務」ということを考えれば、回避義務は当然あったとしても、回避可能性は「ひょっとしたら助かったかも知れない」の域を出ませんので「疑わしきは罰せず」を原則とする刑事裁判では当然無罪になるべきだと思います。

>内分泌科医 さん

 法曹の視点で見れば、大野病院事件は論理的には誤りとは言えない論理によって有罪判決を書こうと思えば書けますよ。
 論理的には紙一重と言っても過言ではないと思ってます。

>これは少し飛躍だと思います。

 論理の問題じゃないですよ。
 事実としての積み重ねの問題です。
 極端な例を示します。
 裁判官は、暴力団に対しては一般市民に対するよりははるかに厳しい目を向けますよ。
 その逆が大事だと言っているだけなのですが。

>No.39 元ライダー さん

 さすがに蓄積が違いますね。

医療も同じじゃないですか、治療法A,Bがあり、医学的ロジックではどちらも正解。少なくとも間違いじゃない時に純医学的ロジック以外の価値観で治療法を選択することは稀ではありませんよね。裁判も同じだと思うのですよ。法学ロジックでは有罪も無罪も可能。そんなときは法学ロジック以外の価値観も加味して最終判断するんじゃないでしょうか。

「誠実」という単語がアレなので納得できないのかもしれませんが、「有罪、無罪、迷うなぁ。論理的にはどちらも正解だし、じゃあ、態度悪いから有罪 (`×´)」ということではないと思います。「誠実な(あたりまえの)医療を罰したときに社会システムがどうなるか」を考慮するということだと思います。福島地裁は判決は、まさに「正当な(誠実な)医療が罰せられては医療ができない」という医師側の(誠実な)主張を考慮した判決と考えれば良いのではないでしょうか。

>モトケン先生
ハズサナクテヨカッタ、ホッ

福島地裁は判決は、まさに「正当な(誠実な)医療が罰せられては医療ができない」という医師側の(誠実な)主張を考慮した判決と考えれば良いのではないでしょうか。
いや、そこまではオーケーなのですが、「大野病院事件の判決に示された論理が定着していくためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います。」というのは…

何がカチンと来たのかを詳述しますと…

たとえば、先日、うちに勉強に来ていた後期研修医から聞いた話:

「ある病院で緊急の透析をしなければならなかった。透析用のカテーテルを頸静脈に挿入しなければならなかったのだが、大腿静脈用のカテーテルしかなかった。指導医の指示で刺したが、ズブズブズブっと刺しているうちに静脈がめくれ上がっていく感触が手に伝わり、「ここで静脈が破れたら身の破滅だ」と思った。

静脈が破れていたら「不誠実な医療」の典型例になってましたよね。でも、限られた時間と、限られた人員と、限られた医療資源のなかでは仕方がないことです。患者が死んでいたらそういう言い訳が通るはずありませんが。

医療の現場を知っている人ならこんな例はいくらでも見てきていると思います。医療側は精一杯誠実な医療をずっと積み重ね続けています。ただし、限られた資源の中で。それを「おまえらも心を入れ替えてマジメにやってねぇと、大野病院事件の判決は定着しないぜ」と言われても、「どこをどう心入れ替えろってんだよ、この状況で?」と聞き返したくなるわけですよ。「それより裁判側の公正さはどうなってんだ?」ってね。

先生方は「医療崩壊」の未来像を私よりずっと甘く考えてらっしゃるようにお見受けします。私は、今後の医療はますます余裕を失い、ますます「不誠実」な印象を与えるようになると思っているのです。説明する時間的余裕もなく、必要な物品もなく、あり合わせのもので危険を承知の上で緊急に治療をする場面がますます増えます。そんな中で裁判官も弁護士も大野病院事件よりはるかに難しい判断を迫られるようになるでしょう。法律家の方々には自分の問題として考えて欲しいのです。

大野病院事件は無罪判決、これで事故調が設立されてめでたしめでたし、で終わると考えるのはあまりにも甘すぎます。事故調が設立されても医療裁判はなくなりません。医療崩壊も続きます。法律関係者は今までにない厳しい判断をますます迫られるようになるのです。

>No.41 モトケン先生

裁判官は、暴力団に対しては一般市民に対するよりははるかに厳しい目を向けますよ。

詭弁です。
医師が窃盗をしても有罪は有罪。ヤクザが窃盗をしても有罪は有罪。片方が執行猶予で、他方が実刑になったとしても、それは有罪判決が出た後のはなし。Justice is blind.

極端な例ですが、以前ビートたけしさんが、非芸能人の女性を巻き込んだ悪質な中傷記事を書いた週刊誌の編集長を殴りに行きました。その行動は常識的に見て「誠実」でした。「正義」と言ってもいいでしょう。しかし、殴ることを意図して出向き、殴ったのですから、当然判決は有罪でした。ただし、刑罰は執行猶予です。「誠実でも有罪」です。

 言葉というものは本来的に多義的なものです。
 相手(この場合は私)が使った言葉(この場合は「誠実」)の意味はどういう意味なのだろうか、ということを考えなければ、まともなコミュニケーションは成立しません。
 
 私自身の文章の拙さを棚に上げてのコメントです m(_ _)m

モトケンさん、確認させて下さい。

先の大野事件の裁判は極めて微妙な事例で、有罪か無罪かボーダーラインスレスレの事案であった。裁判の経過を追ってきた私も、以前から判決はギリギリだろう、どっちに転んでも不思議はないぞ、と思っていたのでこの解説は理解できます。

では8月20日の無罪判決は、次のいずれと見れば良いのでしょうか?

(1) 加藤医師の医療行為には、刑法の上では一片の過失も無く、無罪

(2) 加藤医師の医療行為には、僅かな過失があるかも知れないが、刑事罰を科すほどの過失は認められないので、無罪

 理論上の問題として
 少なくとも(1)とは思えません。

 但し、繰り返しますが、理論上の問題としてはです。
 裁判官が、結論を出すのにどの程度迷ったかは分かりません。
 全く迷わなかったかも知れませんし、最後まで迷った可能性もあります。

 私の憶測では、それほど迷わなかったのではないかなと思います。

今更ながらですが・・・。

だからこそ、医療の透明性と医療従事者の誠実な対応が必要なことを、今回の事件は示している。

この部分がいまいち理解できないのですが、何度も言うように今回の(県や病院はともかく)加藤医師は誠実に対応していると思います。医学的にやるべきことはやっているし、患者の家族への説明も合間を縫ってやっている・・・。聞くところに依るとその後お墓参りに土下座・・・。

誠実って一体なんでしょうね?業務に対して誠実なのか、患者の対応に対して誠実なのか、患者の無理難題を聞けば(その結果不幸な結果に終わったとしても)誠実なのか?
誠実という言葉一つとってみてもいろいろなことがことが言えると思います。
モトケンさんは「加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないか」と非常にポジティブな視点から見られておりますが、逆にネガティブな視点から見ると「誠実な対応が出来ていなかったからこそ訴えられるんだぞ」という見方も出来ると思います。

そういう観点から見ると誠実云々と今回の事件と結びつかないのですが、筆者は何を言いたいのですかね?論理的に誠実にやっていた→刑事訴訟は関係が無いように思います。
透明性については当事者では無いので詳しくは解りませんが、少なくとも公判で明らかになったことについてのみ言えば十分だと思います。ちゃんと経過を説明しているし、遺族から反論がないと言うことは嘘は言っていないでしょう。従って、透明性については加藤医師の責任ではなく、むしろ県と病院の責任です。病院や県に対して透明性を高める必要があるというのであれば話はごもっともだと思います。

もし、国語力がある方が要らしたら解説をお願いいたします(想像でも良いです)。いまいち国語的にこの解説員が言っていることが理解できません。

今回の事件で、あらためて必要性が浮き彫りになったのは、医療事故の原因を究明する第三者機関の創設だ。政府が秋の臨時国会に、医療安全委員会(仮称)の設置法案提出を目指している。

第三機関は個人的には必須だと思いますし、どんな場面においても誠実な医療はプロなら大事だと思います。この機関は今でこそ多くの医師が準備不足と言っているわけですが、少なくとも必要性は医療従事者を中心にもう10年近く前から言われてきました。現場の声を聞かない厚生省の対応が遅すぎたのです。

誠実という言葉を私はひとつに「職務に内在する最大の目的を失わない」ことと理解してました。
医療行為は「患者」に対して傷病の治療・診断又は予防のために、医学に基づいて行われる行為ですよね。

勿論今後の医学発展や医師の経験を積む等他の目的もありえますが、「患者」のためという最大の目的を凌駕するものではない。
それが客観的にみえないと心象悪いというのは当然です。
逆に、その意識を持っていれば結果悪くとも、その経過に客観的な行動として現れるのではないかと思う。

嫌われ者とかそういう話ではないと思います。

今更ながらですが・・・。

だからこそ、医療の透明性と医療従事者の誠実な対応が必要なことを、今回の事件は示している。

この部分がいまいち理解できないのですが、何度も言うように今回の(県や病院はともかく)加藤医師は誠実に対応していると思います。医学的にやるべきことはやっているし、患者の家族への説明も合間を縫ってやっている・・・。聞くところに依るとその後お墓参りに土下座・・・。

誠実って一体なんでしょうね?業務に対して誠実なのか、患者の対応に対して誠実なのか、患者の無理難題を聞けば(その結果不幸な結果に終わったとしても)誠実なのか?
誠実という言葉一つとってみてもいろいろなことがことが言えると思います。
モトケンさんは「加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないか」と非常にポジティブな視点から見られておりますが、逆にネガティブな視点から見ると「誠実な対応が出来ていなかったからこそ訴えられるんだぞ」という見方も出来ると思います。

そういう観点から見ると誠実云々と今回の事件と結びつかないのですが、筆者は何を言いたいのですかね?論理的に誠実にやっていた→刑事訴訟は関係が無いように思います。
透明性については当事者では無いので詳しくは解りませんが、少なくとも公判で明らかになったことについてのみ言えば十分だと思います。ちゃんと経過を説明しているし、遺族から反論がないと言うことは嘘は言っていないでしょう。従って、透明性については加藤医師の責任ではなく、むしろ県と病院の責任です。病院や県に対して透明性を高める必要があるというのであれば話はごもっともだと思います。

もし、国語力がある方が要らしたら解説をお願いいたします(想像でも良いです)。いまいち国語的にこの解説員が言っていることが理解できません。

今回の事件で、あらためて必要性が浮き彫りになったのは、医療事故の原因を究明する第三者機関の創設だ。政府が秋の臨時国会に、医療安全委員会(仮称)の設置法案提出を目指している。

第三機関は個人的には必須だと思いますし、どんな場面においても誠実な医療はプロなら大事だと思います。この機関は今でこそ多くの医師が準備不足と言っているわけですが、少なくとも必要性は医療従事者を中心にもう10年近く前から言われてきました。現場の声を聞かない厚生省の対応が遅すぎたのです。

誠実という言葉を私はひとつに「職務に内在する最大の目的を失わない」ことと理解してました。
医療行為は「患者」に対して傷病の治療・診断又は予防のために、医学に基づいて行われる行為ですよね。

勿論今後の医学発展や医師の経験を積む等他の目的もありえますが、「患者」のためという最大の目的を凌駕するものではない。
それが客観的にみえないと心象悪いというのは当然です。
逆に、その意識を持っていれば結果悪くとも、その経過に客観的な行動として現れるのではないかと思う。

嫌われ者とかそういう話ではないと思います。

いまブログ詳細ボタンを押すとモトケン先生が非公開処理されたエントリーが挙がっています。たぶん私が8月20日以前に立てられたエントリーをWebsight(工事中)で探していた時にあれ?ここにあるけど非公開なのかなと思って開いてしまったことが原因かもしれません。寄せられたコメントがいいものばかりに思えましたのでどこかのエントリーに移植されてから非公開になされたらよろしいように思いました。業務連絡みたいですが(笑)。

私が探していたのはモトケン先生が検察審査会の存在をご指摘になったエントリーです。大野病院帝切手術業過致死裁判第1審判決は全面無罪でしたが、検察側控訴の場合とともに検察側控訴断念しても検察審査会で起訴相当判定となった場合が考えられると思います。モトケン先生はいかがお考えでしょうか。

もうひとつ過去ログの医療裁判(刑事裁判)のなかの青戸病院腹腔鏡手術業過致死裁判エントリーを探していました。というのは判決文を読んだあと私はあの手術を業過致死ではなく詐欺事件として裁くべきだと思って書き込んだ覚えがあるからです。
この考えは今も変わりませんが、おかしいでしょうか?

福島基準を私なりに解釈しますと、
医師の過失を問う基準の参考となる医学的な「それに反したらダメだよ」というガイドライン等は同じ診療科の臨床医が同じような場面に遭遇した場合に、(例えばこんな場面に)

説明する時間的余裕もなく、必要な物品もなく、あり合わせのもので危険を承知の上で緊急に治療をする場面
ほとんどの医師がそのガイドライン等に沿った医療を行っているといえる程のものでなければならない。そうでなければ罰せられない。
ということなので、ほとんどの医師が
説明する時間的余裕もなく、必要な物品もなく、あり合わせのもので危険を承知の上で緊急に治療をする場面
でもそんなことはしないよ、というような行為は罰せられても仕方がないと思います。

「おまえらも心を入れ替えてマジメにやってねぇと、大野病院事件の判決は定着しないぜ」と言われても
そういう風には言われていないと思いますよ。「今まで通りまじめにやってください」と言われているように私は受け取りましたが。

>先生方は「医療崩壊」の未来像を私よりずっと甘く考えてらっしゃるようにお見受けします。

私個人的には「なるようにしかならない」と思っています。今から預言者のような対策を立てられるわけでもないし医療崩壊の波に逆らわないで、うまく泳いでいこうと思っています。溺れるかもしれませんが、そのときはあきらめます。それでもここでブツクサ言うのは何かの足しになるかも?とほんの少しだけ思っているからなんでしょう。何の足しにもならないかもしれませんが。

>No.49 yama さま
引用部分はマスコミさんの言い分ですから、正面から受け取らなくても・・・

 以前に比べて医療界は情報公開と説明責任を全うすることに努めてきていると思います。新聞が今更誠実な医療の重要性を強調する理由がわかりません。不誠実な対応で刑事事件となった広尾病院事件の時代とは変わっています。

ついでですが

だからこそ、司法の透明性と司法関係者の誠実な対応が必要なことを、今回の事件は示している。
だからこそ、報道の透明性と報道関係者の誠実な対応が必要なことを、今回の事件は示している。

などと書き換えても全く違和感がありません(笑)

新聞が今更誠実な医療の重要性を強調する理由がわかりません。
おっしゃるとおりだと思います。特に今回の事件においてはそうです。誠実さと今回の事件は関係ないと思います。

誠実というのをどう考えるかというのは、私はすごく簡単に考えています。
もし患者さんがK先生の奥様であったとして、胎盤の癒着に気づいた時にはやはり先生は剥離を続けたと思います。
今回と同じことをなさったでしょう。
だから私にとってはこれは誠実な医療。

簡単すぎ??

モトケンさん、ご回答ありがとうございます。

>理論上の問題として
>少なくとも(1)とは思えません。

どうもこの「理論上の問題として」の理解が、今一つピタッと私の頭にハマらないもどかしさを感じています。

まあ取り敢えず、
「一片の曇りも無く完全に過失が存在しないとされた完璧な無罪ではないが、無罪判決には違いない」
私にはこのように頭に入れておくしかないようです。

差し出がましいかもしれませんが、思う所を書いてみたいと思います。

こちらにおいでの大勢の医療者は、みな誠実にやっているし、昔に比べればはるかに厳しい環境の中でありながら、一生懸命説明したりもしている、という思いがあるのではないかと思います。切羽詰まった、ギリギリの中で最善の努力をし、誠実に医療を行っているのだ、という自負のようなものではないかと思います。そのことについては、国民として有り難いことだと思いますし、頭の下がる思いです。
モトケン先生は、そのことを高く評価しよく判った上で、この記事をお書きになられたと思います。みなさんが懸命に頑張っておられるのだ、誠実な方々なのだ、ということは、これまでのこの場の経緯を見れば、十分判るものであったからであろうと思うのです。そういうみなさんに共感されたからこそ、こうしてご自身には何の益にもならないにも関わらず、医療側の為にご尽力されてこられたのではないでしょうか。

そうであるからこそ、モトケン先生をはじめ法曹の方々に甘えてはいけないのではないかと思うのです。医療側は司法サイドに自らが受けたのと同じような共感をもって、「相手の身になって意見を出してみよう」というふうになっているでありましょうか?医療者が厳しい環境の中で誠実に医療を行っていることに疑問を抱いているわけではないのです。そうではありません。

誠実に云々というは、向けるべき矛先に対する「共感」のようなものをもって、相手側を説得してみるといいのではないか、というようなことであろうと思います。相手側が、裁判所であるとか、マスメディアや一般国民かもしれませんが、医療と同じで「あなたの為を思ってこうしているのです」という姿勢が相手側に伝わるのであれば、そのことが大きな力になるのではありませんか、ということです。それは、医療者自らが個々の事例から教訓を得るということでもあり、何かの犯人探しとか糾弾先を見つけてくるということではない、ということではないでしょうか。

医療側は判決後に何かの「犯人探し」を行ったりしてないでしょうか?
それは、「〜で過失を犯した医者がいたんじゃないか、医療ミスを隠蔽しているんじゃないか」みたいに報じるマスコミとかと何が違うのでしょう?仕返しをしなければ、溜飲が下がらないということですか?それで遺族の処罰感情を非難できますでしょうか?

これまで医療者たちが困った状況にあって、非難する対象があったろうと思いますが、その非難していたことと同じようなことをしてしまってはいませんでしょうか?

モトケン先生は、ここ暫くのエントリで、そうしたことへの戒めというか、もう一度振り返ってみましょう、客観的に見つめ直してみる機会でしょう、というメッセージを出しておられたものと思います。医療側が誠実に行っていたということが、司法側にも通じた部分があったからこそ、その誠実を守っていくのが問題解決につながるということだろうとお考えの上でのことだろうと思うのです。

一地方紙の社説について、これが妥当であるか、全てよく理解してこういう文言を書いているのか、みたいな枝葉末節の検討をすることに意義があるのではなく、受け手側(非医療のマスコミや国民)がどういった感覚で受け止めているのか、ということをよく考えて欲しい、ということではないかな、と思います。モトケン先生のお立場もある中で、こういう場を維持していくということがどれほど負担になるのか、ということをお考え頂ければと思います。

「こっちは間違ってなんかないんだ、正しいんだ」ということだけでは、相手側には伝わり難いか説得が難しいかもしれない、更にはその他大勢には通じない部分があるかも、ということに配慮して、コメントしていくのが望ましいのではないでしょうか。

余計なことを長々と失礼しました。

刑事裁判なのですから、裁判官の責務は「一片の曇りも無く完全に過失が存在しないとされた完璧な無罪」の心証を得ることではありません。

検察の証明により「一片の曇りもなく過失あり」という心証を得られなければ、有罪にできないというのが”推定無罪の原則”です

これを外野が、「一片の曇りもなく完全な無罪ではない」と雄叫びをあげるのは、刑事裁判に対する無理解、無知の証明とも言えます。


************************
************************
今日は大野事件の遺族側が、医療過誤被害者団体に加わって、厚労大臣を訪れたというニュースを見ました。

医師も団体で、不当な刑事捜査、不適当な民事訴訟の存在を訴えるべきと思います。
誠実な医療をしているのだから、実態を見せるデモンストレーションも重要です。
そして不当な報道、不当要求には、厳とした対応を見せるべきです。

 横レス失礼します。m(_ _)m
 刑事裁判は、検察官が立証責任を負い、「合理的な疑念を超えた」高度の証明に成功しないと、「疑わしきは被告人の利益」で無罪となります。
 つまり、「刑事裁判は『黒か否か』が命題でしかなく、『黒か白か』を決めるものではない」という手続き法の制約があります(某元最高裁判所判事のお言葉)。
 例外的に「白」が証明されて青天白日無罪となるのは、真犯人が現れて真犯人が有罪となるような場合に限られます。

ハスカップ様、お手を煩わせて申し訳ない。

純度100%の完璧な純金が存在し得ないように、純粋な完璧無罪が理論上有り得ないのは、私も法律職の端くれですから理解しています。

ただモトケンさんという刑事司法に長けたベテラン法曹の口から、純度99.99%の純金なのか、97%の実質的純金なのか、それとも24分の21のほぼ純金に見える21金なのか、無罪の純度の鑑定結果を聞きたかったのです。

そうしたプロの評価を、このブログに集まる法律や裁判に馴染みがない医療側の人に提示できれば、今回の福島地検判決がどれほど検察側の主張を斥けて、被告弁護側が代弁した日本の医療界30万人の「これが犯罪であるはずがない」という主張を採用したのか、理解しやすいのではないかなぁ〜と考えたのですが…。
No.56 はチョット文章表現が良くなかったたですね、反省してます。

そういうもんなんですかね?普通の犯罪の「灰色」とは違うような気がするんですが。99%の証拠はあるんだけど1%足りないから黒にならず灰色というのが一般の理解での「灰色」。
今回の場合は100%の証拠はそろっているんだけど、それを元に黒にもできるし白にもできるという解釈の問題のように思えるのですが。そういう意味では「黒の結論が出たとしても灰色」と言える様に思います。

 割り箸事件を思い出してみてください。
 あの事件も過失の認定については紙一重です。
 

>そういう意味では「黒の結論が出たとしても灰色」と言える様に思います。

 一般論ですが、地裁の裁判官は重大事件ならどんな判決を書いても検察側か弁護側のどちらかが控訴して高裁裁判官の審理が必至ということを熟知しています。
 つまりテストに回答すれば、法曹の大先輩の怖い高裁裁判官wしかも3名の審査にさらされるわけです。町病院の診断結果が大学病院の医療チームにあれこれ精査されるようなものです。
 そのため、黒の心証をとったのに無理に白や灰色にしたりしたら、それは証拠から遊離した判断なので、高裁で確実に破棄されます。証拠を読み間違えて無罪を書いたら、しっかりそのことを指摘して、無罪破棄・被告人3名全員実刑自判という判決も札幌でありましたよ。

かみ合っていないような気がするんですが、ちょっとうまく言えません。

 失礼しました。ご趣旨が
>黒にもできるし白にもできるという解釈の問題のように思えるのですが。
という部分であれば、それはまさに「合理的疑念を超えた確信段階の有罪の証明」に至っていないわけで「疑わしきは被告人の利益」で無罪でしょう。

そこなんですが、「合理的疑念を超えた確信段階の有罪の証明」というのは証拠評価に適用されるのもであって、条文解釈と言いますか、過失犯の構成要件を理論的にどう解釈するかで裁判官の心証が揺れ動いたときには適用されないんじゃないかと今回の一連の議論で思っている訳です。

>No.61 元ライダー(開業医) 様

>今回の場合は100%の証拠はそろっているんだけど

私は100%の証拠が法廷に出されて審理されたとは思わないのです。その根拠は判決要旨の第5の4のオ判断、(イ)のbにある次の文章です。

検察官は、一部の医学書及びC鑑定による立証を行うのみで、その主張を根拠づける臨床症例は何ら提示していないし

この判決要旨では、法廷には99%の証拠は提出されたけど1%足りないが、出された証拠の範囲内で判断すると過失罪の構成要件である注意義務違反が無いという結論に至っている。私はこのように読みます。

もし控訴審があるとすれば、裁判所が指摘した検察側が提示できなかった臨床症例の証拠を、検察官が捜し出せるのか? これが重要なファクターになると思います。

ただこの臨床症例の証拠を提示するには、検察側に刑事訴追に対する真摯で誠実な姿勢が感じ取れないと判断している医療界が、鑑定書や証人として検察側に協力するとは思えない。ところが医師になって十数年間、産科医療の現場で真摯にひたむきに働いてきた、加藤医師の医療に対する誠意は多くの人の支援を呼び集め、オールジャパンのような医療界挙げての支援体制が出来上がった。こうした両者の誠意の違いの結果、法廷に出された99%の証拠の範囲内では完璧な無罪が言い渡された。

私が思いますに、判決が加藤医師を無罪とした判断プロセスの中に、加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないかと想像しているのです。
エントリ本文のこのモトケンさんの文章を、私はこのように受止めました。

もちろん残り1%の証拠、すなわち判決要旨で裁判所が指摘した臨床症例を検察が提示して、注意義務違反の立証の主張に役立てていたら、8月20日の判決文は違った内容になったとも思います。

横からです(^^)
元ライダー(開業医) さん の

今回の場合は100%の証拠はそろっているんだけど、それを元に黒にもできるし白にもできるという解釈の問題のように思えるのですが。

これは、
裁判での事実認定に関わる証拠が100%揃っていて、それに対する法的な(主に過失への)評価の問題。

と読んでみましたが?

またタイポ。睡魔のようです。ねます。すみません。
>No.68 MultiSyncさま
そんな意味です。

>失犯の構成要件を理論的にどう解釈するかで裁判官の心証が揺れ動いたときには適用されないんじゃないかと今回の一連の議論で思っている訳です。

 判決要旨をよく読んでください。回避義務の注意義務を認める立証が尽くされていない、その義務を裏付ける臨床例が一つも立証されていないから回避義務の定立を認める証拠がない、という趣旨で無罪になっていますよ。

>裁判での事実認定に関わる証拠が100%揃っていて、それに対する法的な(主に過失への)評価の問題。と読んでみましたが?

>No.69 元ライダー(開業医) さん

 御両人とも、No.70の拙コメントを読んでください。m(_ _)m

はいまさしく、その提出されていない「義務を裏付ける臨床例」が過失を認定する基準値(スタンダード)

で、「それが無しで過失など測れない(だろうがゴラァ)」との判決に思える訳で。

元ライダー(開業医) さん も意識はたぶんそこかと。

>「それが無しで過失など測れない(だろうがゴラァ)」との判決

 いままでで一番判決の本質を突いたコメントだと思います。禿同で脱帽です。

法律家の方に聞いてみたいのですが、若手医師(これから熟練していかなくてはいけない医師)による手術を誠実に行なうためにはどうしたら良いのでしょうか?


インフォームドコンセントによる患者の同意が必要というのが模範的回答なんでしょうが、自分の命がかかった手術を熟練していない医師に行なってもらうことにどのくらいの人が同意してくれるのか非常に疑問です。
例えば、ある病院に熟練医師Aと若手医師Bがいた場合、ほとんどの人は熟練医師Aによる手術を希望するのではないでしょうか?
一方で、若手医師Bが手術経験を蓄積しなければ、後世に対して技術を伝えていくことができません。ある意味世代間のリソースの奪い合いと見ることも出来ます。
もし、患者の意向に沿わず若手医師Bによる手術がなされた場合、事故が起きれば当然民事賠償となるでしょうし、刑事においても、予見可能、回避可能ですからかなり危ないのではないですか?


インフォームドコンセントが重視されている現在において、現場ではそのような法的リスクをどう回避しているのでしょうか?
法にも医療現場にも疎い素人の素朴な疑問です。

※もし、過去に同じような問いがありましたら、あったよと一言お教えいただければ幸いです。

MultiSync様,ハスカップ様

全く禿同で,それが本旨だと思いますので,誠実な医療を問題にする以前に,誠実な検察活動を問題にした判決かと。

その脇役者として,誠実な医療が佇んでいたことが挙げられるのは違和感がありませんが,あくまで脇役に見えます。

 医師の訓練課程の実情がよくわからないので抽象的な言い方になりますが、先輩医師の指導・助言がきちんと機能していることだと思います。

 青戸病院事件では、そのあたりが問題になったものと理解しています。

沼地さん はじめまして。

日ごろ接する患者や患者の家族の知識レベル 理解力はマチマチです。
それを診察で認識し 間違った認識のある患者なら 一旦 その知識をゼロにし修正してから説明。

患者に説明するだけでも大変なのに 大野病院の件は 先生方の不安 疑問が出て当然だと思います。

言論の自由があるから、個人がどのようなブログを立ち上げても、何を書こうが自由だけど、法律の専門家のブログなのに 素人の私ですら参考になるどころか、不安を持つことばかり。

ただ、今回の件でいかに子宮が大切なものなのかが分からない人には、法のプロでさえあの判決要旨を読み取れないということが、よ〜く分かりました。

子宮を一般臓器と同列にして考えてるのが苦笑。

女性の気持ちの分からない男性が多いってことなんでしょうか?

沼地さんが言うように この件では誠実な医療って単純なことだと思います。

もし私でも こういう場合には K医師のようにしてもらいたいです。

女性の気持ちを思いやってくれる産科の先生なら、K医師のような行動を取っていただけると思います。

もし、命が助かっても、検察が言うような方法の術式で子宮が無くなっていたのが、後で分かれば、私なら間違いなく訴えます。

だって、子宮は 女性にとって宝くらい大切な場所ですから・・・

K医師は、産科の先生として、患者に対して誠実な行動をとられたと私も思いました。

 横レス失礼します。m(_ _)m

 子宮をとるか命をとるかの究極の選択を迫られたら、百人百様で正解は分かれるでしょう。
 刑法の緊急避難で出される講壇事例の「カルアデニィスの船板」と同じように。それくらい子宮と出産機能は女性にとって命に等しいと思う方も多いと思います。m(_ _)m

事故レス自己レス訂正ですm(_ _)m

 「カルアデニィスの船板」は誤記で「カルネアデス(Carneades)の舟板」が正しいです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%9D%BF

産婦人科医(女)です。

もし、事前に子宮を摘出する可能性があるとお話しして、患者さんが「命を失ってもかまわないから子宮をとらないで」とおっしゃったら、まず、子宮と命だったら命を選択するよう説得し、それでも患者さんが命よりも子宮をと選択した場合は、私はその患者さんの手術を拒否すると思います。他の病院に行っていただく。

子宮を取らなければこのまま死亡する可能性が非常に高く、子宮を摘出すれば命が助かる確率が上がると考えられるとき(例えば産科DICによる弛緩出血が止まらないとき)、子宮を摘出しないままその患者さんを死なせるということに医師として人間として耐えられるとは思いません。
例え患者さんが命以上に子宮を大切に思っていたとしても。

最大限子宮を残すよう努力をしますが、もし、子宮を摘出しなければ救命できないと判断した場合は子宮を摘出し、その後の患者さんの精神的ケアに努めます。

それが私が医師として人間として最大限に出来ることです。

MultiSync様,ハスカップ様 全く禿同で,それが本旨だと思いますので,誠実な医療を問題にする以前に,誠実な検察活動を問題にした判決かと。
「激しく同感」とまでは言えませんが、真摯にそういう判決であって欲しいです。 「義務を裏付ける臨床例が過失を認定する基準値で、それが無しで過失など測れない」というのが「誠実に」この判決の本旨であって欲しいです。

 判決の本旨をどう読むかは、読み手次第です。
 裁判官は、判決書に書いた以上のことは語りません。

 私は、前向きに読んだだけです。

 どうしても後ろ向きに読みたい人はご自由に。

ちょっと遅れたコメントですが、おっしゃるとおりだと思います。
言い放つのではなく、共感を持って理解を得るよう努力した発言こそが、ここを見ているsilent majorityに受け入れられると思います。

判決の本旨をどう読むかは、読み手次第です。 私は、前向きに読んだだけです。
願わくば、この判決を判例として読むすべての弁護士・検察官・裁判官に「前向き」に読んで欲しいです。 私のような一介の医者がどう読んでも無力・無意味ですから。
私のような一介の医者がどう読んでも無力・無意味ですから。

そう言う後ろ向きのコメントが有害なんじゃないの?

昨日は途中で失礼しました。そこまでいくとちょっと違いますが、

「それが無しで過失など測れない(だろうがゴラァ)」
そのフレーズを使わなくても判決は書けたんだと思います(その場合は有罪方向になりますが)。で、そのフレーズを使うのかどうかの判断は、用意された証拠をみて「黒か白か灰色か」という判断を下すのとは別の価値観を基にしたんじゃないかな、と思うのです。
ハッキリ言えば「無罪にする論理を導き出すためにそのフレーズを使ったんじゃないか」ということです。証拠が足りなくて無罪になったんじゃなくて、「証拠不足だよ」と言うためにそのフレーズが出てきたんじゃないか、とも言えます。
ですから汚職事件なんかの時にマスコミさんが使う「黒に近い灰色か、白に近い灰色か」ということを考えてみても意味は無いんじゃないかな、と思うのです。

こちらも>No.83 hamaさんに続いて、遅れてコメントです。
まさくにさん、御説ごもっともです。
できるだけ共感をもって意見を書くべきだと思います。

しかし、議会にも右翼・左翼、タカ派・ハト派がいるように、どんな議論にも両翼があります。そして、議論が進むためには違う意見の両翼の存在が不可欠です。

私は決してアンチ法曹ではありません。ただ、今後の医療崩壊を「軽く」見ているか、「重く」見ているか、で分類すれば、もっとも「重く」見ている部類に属すると思います。医療崩壊によってもたらされる被害は原爆の一つや二つとは比べものにならないぐらい大きいと考えています。その立場から、医療者・法律家・マスコミ・一般人を問わず、医療崩壊を「軽く」見ていると思われる対立翼の方々に対して厳しい意見を発しています。

あしからず。

No.87 内分泌科医 さん

あなたは、以前に医療崩壊について、なげやりなコメントしてましたよね?


私は決してアンチ法曹ではありません。ただ、今後の医療崩壊を「軽く」見ているか、「重く」見ているか、で分類すれば、もっとも「重く」見ている部類に属すると思います。

へぇ〜 そうなんだぁ〜


笑わせてくれるよ。

>判決の本旨をどう読むかは、読み手次第です。
>どうしても後ろ向きに読みたい人はご自由に。


まさに、そのとおりなのです。同様に医療を誠実と感じるかどうかは医療の受け手次第。もちろん不誠実と受け取る方にも誠実であろうと努力するのは当然です。


しかしマクロでみれば誠実さというあいまいな尺度はお題目以上にしないのも大事だと思います。マスコミの結語程度にしとけと。


わずか一件の逮捕が産科医療におおきな打撃を与えたわけですので、確率論的に必ず不誠実と感じる人が出る尺度を判断基準に加えると、医療の将来は崩壊以外の選択肢がなくなるからです。産婦人科なんか、福島県に100ぐらいしかないんですよ。


総論賛成各論反対です。

自分の家内を任せられるお医者さんが一人はいてくれた、という思いです。
警察検察マスコミ批判で大団結のお医者さんにはもううんざりです。
通りすがりの私としては、今でも、件の先生には何かが足りなかったんではないのかなと思っています。

多くの医療者は、くろすけさんのように考えて医療に携わっています。そして、これまでこのような批判などしてこなかったハズです。

それが、ここ10数年で医療を取り巻く環境が大きく変わり、警察・検察・マスコミ、そして患者さんにも医療の現状を訴えなければならない程の状況に追い込まれたのです。ここで黙っていては医療が崩壊し、一番不利益を被るのは患者さんだからです。
今は、少し感情的になっている部分もあるかもしれませんが、やはり現状の問題点については訴え続ける必要があると思っています。

No90 通りすがりさんのコメントの、最後の文が出てくる状況であるからこそ、少なくともマスコミ批判はせざるを得ないのです。
 大きな病院に紹介するべきだったとか、応援を呼ぶべきだったとか。それに、ご本人にどのように説明していたのかは、家族にもわからないかもしれません。本当に件の先生がどうであったかということがわかっていない状況で、軽々に批判することがまかりとおっているではないですか。
 医師の多くが、この事件についてはおかしいと感じているのは、それなりの理由があるわけですが、それを、大団結という風に受け止められるのは、報道の仕方に問題があるからだと思います。子宮を摘出しても助からなかった事例も報道されてはいますし、調べれば、おかしな医療行為の結果でなかったことはわかるはずですが、ご遺族の意見を都合よく切り抜いたような報道が多すぎます。
 医師が、ネットで何かを言えば誹謗中傷とされてしまうけれども、マスコミが根拠のないことやあやふやな情報で報道することも、誹謗中傷です。キャスターが、不十分な勉強や情報で批判しても、受け手は信じてしまいますが、影響を収拾できなくても、ちょっと謝れば謝罪済みということで終わりですし、多くのクレームは黙殺されてしまいます。大声で言えば嘘でも真実になるというのであれば、この国は遠からず、ファシストの手に落ちることになるでしょう。医療崩壊よりも、もっと破滅的な状況です。

またS/N比が低くなりつつあるようです。

通りすがりさんの最後の1行は無理にでも「釣り認定」したほうが良いと思います。この種のコメントに反応するのは、私はもう飽きました。

世の中、真剣まじめに仕事やってても結果次第では業務上過失罪で挙げられる事案は多いんじゃないでしょうか。20何万人かのお医者さんの一人がたまたま挙げられただけのような気がしてました。このくらいで通り過ぎます。

世の中、真剣まじめに仕事やってても結果次第では業務上過失罪で挙げられる事案は多いんじゃないでしょうか。

印象でお話しされているのようなので、根拠を求めたりはしません。でも、そういった人たちは泣き寝入りしているんでしょうか?何故反論しないんでしょうか?
不当なことに対して、正々堂々と声を挙げるべきです。

私もタカ派の麻酔科医さんも真面目に答えているのに、捨てゼリフを残して通り過ぎるぐらいなら、最初から参加しないでください。

例えばHIV事件の元厚生省課長さんとか気の毒な気がしますが、どうなんでしょうか。紙一重のところで罪に問われるのは職業医師だけということはないのじゃないかと。電車やバスの運転手さんだってそうかもしれない。
とにかく、お医者さんが例えばくろすけさんのような姿勢でいてくれたら、患者サイドとしては何も言うことはありません、というのが私の本意です。
これにて本当に通り過ぎます。

まあまあ、そういわずに。
一般の人の感覚では、「医療中に人が死んだ以上何らかの責任はあるんだろ」という感覚ですから。


 これに対し医師は「100%死ぬ人間を生きながらえさせてるんだから、一部の人は亡くなっても仕方がない」という感覚なので、なかなか分かり合うのは大変だと。ここの常連さんであればこの辺のギャップは表面上は埋まっていると思いますが。

内分泌科医さんのような人がのさばってるようじゃ、一般の人に聞く耳を持ってもらうのは、難しいでしょうね。

ROM専、被医療者です。

通りすがり(通りすがりついで)さんの

>警察検察マスコミ批判で大団結のお医者さんにはもううんざりです。

なんてコメントは、まるで闘ったことのないお気楽な方の言であって、まじめにとりあうだけ無駄と思います。

内分泌科医さんのような人がのさばってるようじゃ、一般の人に聞く耳を持ってもらうのは、難しいでしょうね。

私の言っていることは必ず通じますよ。ただし、医療崩壊の被害が現在の数百倍に膨れ上がったときにね。

内心その日が来ないことを望んでいるのですが、必ずくると思いますよ。今の調子では。

禿同です。

>警察検察マスコミ批判で大団結のお医者さんにはもううんざりです。
>通りすがりの私としては、今でも、件の先生には何かが足りなかったんではないのかなと思っています。

無罪判決を受けた人間を犯罪者扱いするなら、少なくとも合理的な根拠くらい示したらどうかな?

「何かが足りなかったんでは」って・・・。自分の妄想だけで理由なく他人を貶めるのは止めた方がいいよ。

>これにて本当に通り過ぎます。

ぜひそうしてください。

上記、90以下の通りすがりさんあてです。

あなたのおっしゃっていることは過去スレで、
さんざん、さんざん、さんざん・・・さんざん言われてきたことです。もちろん私も言いました。お気持ちよーくわかりますが、ここの被医療者の皆さんはROMさんを含めてウンザリしていると思います。どうかお願いですから過去ログを読んでみて下さい。
(昔の僻地外科医さんのようになっている自分)

「命を失ってもかまわないから子宮をとらないで」って・・・

大事な臓器だから この世に居られなくても とらない を 選択する??

臓器だけ 残して どーするんでしょう?

死亡したら 当然ですけど子宮だって機能しなくなりますよね?

そういう人がもし存在するなら 
その方の思考回路 私には到底理解できません。


「命より子宮が大事」なんて主張する患者の存在をも想定するお医者さんも居られるんですね。

大変なお仕事だなぁ。

この場合、命が亡くなったら・・・なんて所から 患者に教える事が誠実な医療って事になるんでしょうか?

実際に居たらですが、私も当然 拒否でよその病院に移って頂いていいと思いますが(苦笑)

もっぱらROM専でしたが、参考までに感想を書きます。いきなり長文ですみません。

No.101 内分泌科医 さんは以下のようにおっしゃいました。

私の言っていることは必ず通じますよ。ただし、医療崩壊の被害が現在の数百倍に膨れ上がったときにね。

 被害が実態化したときに気づくのは、言葉の力でではなく現実の力でですよね。でも、それだと遅いから、手遅れだから、今、気づいている医療者などが声を上げているんだ、と思われて発言されているのだろうと推察いたします。

 でも、だからこそ、そういうお気持ちの方々(特定の方を指しているわけではありません)に、申し上げたいです。
 常連様も含め色々な方がおっしゃっていますが伝えたいことを相手に伝わりやすいように発言をしないと非常にもったいないです。こんなに大変なんだから回りは配慮すべきという言論方向はいい結果に結びつきづらいです。問題点・改善が望まれる点の指摘は非常に大事ですが、多面的な視点から総合的に検討、提案しませんか?

 こんな話だけでは何なので、「誠実な医療」として自分が期待するところをつらつらと考えて書き連ねてみたのですが、yamaさんのご指摘の案(医療不信の実態とは?(その2)のNo.25)のホームドクターの積極的な活用がまんま現在の自分の患者としての考え方でした。そこまでタイトには実行してきていませんが。
 その他としては、元の病院に挑戦的な感じがして気後れするセカンドオピニオンなんて方法ではなく、積極的に両者(病院とホームドクター)で意見交換をして患者にも説明してもらえるようなことができるといいなあと思ったりするのですが、それは現実味がないこと過ぎますでしょうかね。そういう風に役割分担がはっきりしてくれば、医療者にとっても負担が少しは減るのではないかと愚考するのですが。

横レス失礼します。

「命を失ってもかまわないから子宮をとらないで」 という明確な表現で希望を伝える方は、いないとは限らない(くろすけさまなどはもしかしたら本当にそういう妊婦さんを診たことがあるのかもしれない)のでしょうけど、多くは、

「命に危険が及ぶと判断したら、子宮を摘出することになります(のであらかじめご承知ください)」

と言われているのに、

「でも先生、子宮はとられたくないんです」

と懇願する、という会話の流れのほうが多いのではと想像します。

「命に危険が及ぶ場合」という前提なのに、「それでもとらないで」というのを、論理で判断すると、
「命を失ってもかまわないから子宮をとらないで」
に限りなく近づくのかな、という気がします。

結局は、こういう要望を受けてしまったら(説得しても納得してもらえなかったら)、産科医の先生は、「本当に命を救えるかどうかギリギリの段階」までは、子宮摘出は控えざるを得ないことになるでしょう。
その結果、確率的には、「早期に摘出を決断していれば命までは落とさずに済んだのに」という場合が必然的に増えてしまうことになると思います。

 そして男はつまり夫や父親は、そういう妊婦(女性)の気持ちを真に理解することは難しいのだろうと思います。

「命に危険が及ぶ場合」という前提なのに、「それでもとらないで」というのを、論理で判断すると、 「命を失ってもかまわないから子宮をとらないで」
これはより正確に言うと、子宮をとっていいのは、そのままとらない場合「絶対確実に」命を落とす場合だけにして欲しい、という発言だろうと思います。

1%でも生きられる可能性があるなら子宮を温存して欲しいという。家族全員のコンセンサスがとれていたらまだしも、その危険に対する認識が当人と家族で違うことが大半なんでしょうね。

医者からしたら理不尽な要求だろうとは思いますが、実際にはよくありそうです。理屈じゃないんですよね・・・。

こんばんわ。
はじめてコメントします。
子宮がなくなる=女でなくなる→死んだほうがまし
になっちゃうんだと思います。

極端ですが、かつて知り合いがそのような発言をしていたのを思い出しました。

皆さんが通りすがりさんの誤読に引きずられてはいませんか?
くろすけ先生の
「最大限子宮を残すよう努力をしますが、もし、子宮を摘出しなければ救命できないと判断した場合は子宮を摘出し、その後の患者さんの精神的ケアに努めます。」
というのは加藤先生と一緒ですよね?
加藤先生は子宮を摘出する場合も有ることを事前に説明なさって、それでもできるだけは温存をなさろうとして、それでも出血がコントロール出来なかったので救命するために子宮を摘出したのですから。
ただ,結果は救命できなかったので、その後の患者さんの精神的ケアをする機会がなかっただけで。
通りすがりさんが求めていらっしゃるのは誠実さでは無く結果です。

同じくプッチンさんは
「もし、命が助かっても、検察が言うような方法の術式で子宮が無くなっていたのが、後で分かれば、私なら間違いなく訴えます。」
とおっしゃっていらっしゃるので、子宮を失うなら死んでもいいと言うことでは無く,温存したいという希望を無視して最初から摘出術をされたら納得いかないと読みました。

価値観や常識が異なる人のインフォームドコンセントや承諾書を取ることは難しいです。予め医療者側が準備する答えとは全く違うわけです。論理がかみ合わない。さらに家族とも意見が異なる。事故が起こったときに訴訟を起こすのは家族ですから。
むしろ死亡時1億円保険金がおりるから訴訟は起こさないというタイプの医療保険に入って欲しいです。(混合診療を導入したらという考え方です。)

いつか星になりたい〜君と2つ星♪

横レスですが...男性でも想像できそうな事例を。

そして男はつまり夫や父親は、そういう妊婦(女性)の気持ちを真に理解することは難しいのだろうと思います。
フルニエ壊疽という病気があります。壊死性筋膜炎が男性の陰部で起こり、進展している場合、男性性器一式を含めた周辺組織を切除せず放置するとまず敗血症で100%死にます。以前、泌尿器科の先生からミゼラブルな症例として聞きましたが、実際に「取られるくらいなら死んだ方がましだ!!!」と叫んだそうです。家族と主治医の説得で手術は行われ、命は助かったようですが....

コメントありがとうございます。

確認しますが

医師の訓練課程の実情がよくわからないので抽象的な言い方になりますが、先輩医師の指導・助言がきちんと機能していることだと思います。


患者が熟練医師Aを希望し、若手医師Bを拒否していたとしても、先輩医師の指導・助言のもと適切な手術が行なわれていれば、手術後、後遺症や最悪死亡と言う結果が起き、訴訟になっても負ける確率は低いという理解でよろしいでしょうか?

 刑事だと手術が適切と認定されれば無罪だと思いますが、民事だとどうなんでしょう?
 不法行為の観点では過失なしになりそうですが、債務不履行の観点では患者の意思に反した点が問題になりそうです。
 患者が医者を選ぶ利益というのはどの程度保護されるのかわかりません。
 ご存知tの方いらっしゃいますか?

 手術は一人ですべてを行うものではありません。上席医師が術者として名前を書いてあれば全責任を負いますので、術者の手の上であれば助手の後輩医師に、皮膚切開させたり、縫合させたり、部分的には手術操作をさせることが出来ます。というか、それなくして外科医の教育は不可能ですから。
 術者がやらせて助手が縫合した部分でトラブルになり最終的に人が死んだら、それは術者の責任であり通常は助手は気持ちの上では格別、原則として責任は無い。というのが通常の外科医の感覚です。まあ、術者と助手の卒業年次、経験数、上手下手、その他あらゆる要素で責任分担が決まるので上記は一概には言えないのではありますが(^^;) 徒弟制度と言われればその通りです。原則として後輩である助手は術者の指示には逆らえません。
 書き足りない部分もありますが、ご勘弁を。

モトケンさん、元外科医さん

刑事で無罪となるのであれば、まあ許容範囲なのではと思います。(医療者でないので本当のところはわかりませんが)


術者がやらせて助手が縫合した部分でトラブルになり最終的に人が死んだら


こういった場合に術者に対して「助手に行なわせればトラブルとなることは予見できた、術者自身が縫合すれば回避できた、したがって業務上過失致死罪が成立する」とは単純にならず、手術が適切であることが証明できれば良いということですね。

ありがとうございました。

横レススミマセン。

こういった場合に術者に対して「助手に行なわせればトラブルとなることは予見できた、術者自身が縫合すれば回避できた、したがって業務上過失致死罪が成立する」とは単純にならず、手術が適切であることが証明できれば良いということですね。
ご存じの方も多いかとは思いますが...
先日和解が成立した宮崎大病院の研修医採血に関する民事訴訟でも
本件では患児の症状を考慮して,採血場所,採血方法等につき十分な配慮を行って採血を実施したものといえるため,指導医が研修医に採血をさせたこと自体を過失と捉えることができない
と判断されています。
ただ、実際に患者さんサイドから、「○○先生にお願いします。」と言われれば、無用なトラブルを避けるために、可能な限りは希望に沿っているところが多いのではないでしょうか。

沼地さんの
 「子宮を失うなら死んでもいいと言うことでは無く,温存したいという希望を無視して最初から摘出術をされたら納得いかないと読みました。」は、全くその通りです。

私ごとで恐縮ですが、
「子宮を全摘する方法もありますが、今はとりあえず経過を診ましょう」と医師から言われた経験があります。

正直 それまでは『子宮なんて無ければこんな思いはしなくて済むのに・・・』と思っていたのですが、
イザ失うかもと思うと 自分を辛くさせている子宮でも 私にとっては子供を育んでくれた大事な場所。

たとえ今後 子供は産めないかも・・・であっても、愛おしい存在だった事に気がつきました。

その時の先生は私の立場を想って下さりつつ、慎重に言葉を選んで説明して下さっているのが分かりました。

なので この先生の判断だったら お任せしよう(最悪 全摘出でも受け入れよう)と思いました。


ところが、
人間ドッグで別の先生より
 「筋腫がありますね。全摘したらレイプされても大丈夫だよ(笑)」と言われました。

私にはその言葉が理解できず、「どういう意味でしょうか?」と言うのが精一杯でした。

先生は「イヤイヤ 特に意味はないよ(笑)」と。

隣で聞いていた看護婦さんも その言葉を聞いて固まってました。

 
 色んな事で勉強させてもらいつつ・・・。

失礼しました。

>No.116 Pediatrician さん
フルニエ壊疽…

いやぁ、今回の裁判で有罪判決が出ていたら、ちょっとでも危なければ子宮摘出しなければならないという事実上の「裁判所命令」のような結果になっていたわけですが、フルニエ壊疽の死亡例が裁判になって有罪判決が出たら、事実上の「ちょん切り命令」ですか。(-_-;)

>No.122 プッチンさん
「全摘したらレイプされても大丈夫だよ」はスゴイ台詞ですね。
いままでいろんなトンデモ発言を聞いたことがありますが、これはちょっとひどいですね。

いろいろなご意見ありがとうございます。
すでに話の流れが変わっていて、少々場違いかもしれませんが「誠実な医療」とは何かというテーマには合致しているとも思われるので、もう少し続けさせていただきます。


私が先にエントリーしたときには加藤医師のことは頭にはなく、直前のプッチンさんとハスカップさんのエントリーを受けての意見でした。

プッチンさんの

「もし、命が助かっても、検察が言うような方法の術式で子宮が無くなっていたのが、後で分かれば、私なら間違いなく訴えます。」

というご意見の、「検察が言うような方法の術式」というのが何を想定されているのかがはっきりとは分かりませんが、もし、「剥離をトライせずにはじめから子宮摘出に踏み切ること」ということであるのならば、子宮温存をどんなに強く希望されてもはじめから子宮摘出に踏み切ることはありえます。
癒着胎盤というのは、子宮の筋肉の表面に付着している状態のもの(狭い意味での癒着胎盤)から、子宮の筋肉の中に深く入り込んでいるもの(嵌入胎盤)、子宮の筋肉を完全に貫いているもの(穿通胎盤)まで様々な程度があります。
胎盤を剥離する前に胎盤が子宮の筋肉の中に深く入り込んでいることが明らかに分かる場合、胎盤の剥離はほぼ不可能ですから、はじめから子宮摘出を選択すると思います(胎盤や子宮壁からの出血がほとんど無い場合には、子宮の中に胎盤を残したままの状態で手術を終えるという選択枝もあります)。
また、癒着胎盤の妊娠子宮の摘出はそれ自体が非常にリスクが高いもので、出血も通常の子宮摘出とは比べものにならないくらい多くなるものです。胎盤剥離をトライしてそれでも駄目だから子宮摘出、というのはすでに出血が多い状態からの子宮摘出になるので命の危険が非常に高くなります。
産科出血は少しでも対応が遅れると取り返しのつかないことになりうるので、「本当に命を救えるかどうかギリギリの段階」まで子宮摘出を躊躇していたらかなりの高い確率で命が救えない可能性があります。

そういう現実があるものですから、「軽々しく(ではないかもしれないですが)“訴える“などといわないで欲しい。軽々しく(ではないかもしれないですが)“子宮をとるか命をとるかの究極の選択を迫られたら、百人百様で正解は分かれるでしょう。”などと言わないで欲しい」という気持ちが先に立ってしまいました。

産婦人科医で、女性(特にお子さんのいない女性)にとっての子宮の重要性を考えない人はほとんどいません(私は出会ったことありません)。
出来るだけ子宮温存出来る方法を考えますし、子宮を摘出せざるを得ない状況になったときには敗北感を感じるし、患者さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
それでも命を救うためには(命を危険にさらさないためには)躊躇無く子宮を摘出
せざるを得ないときがあります。
そこらへんを被医療者の方々にももう少し分かっていただけたら嬉しいと思います。

それともう一つ。
私は職業柄様々な女性に出会います。中には先天的に子供を産むことが出来ない人、子供の頃の病気の性で子宮や卵巣を摘出したり卵巣の機能が無くなって子供を生むことが出来ない人もたくさんいます。
「女性にとって子宮は宝物」と思う気持ちはもちろん分かりますが、「子宮がなければ女ではなくなってしまう」などとは、言って欲しくないなと思います(ここに書かれている特定の方に向けての発言ではありません。念のため。そして、ブラックジャックの卵巣癌で子宮と卵巣を摘出した女性のエピソードは大嫌いです^^;。子宮も卵巣もなくても恋をして結婚する人はいます)。

最後に。
患者さんに対する思い入れが深く、患者さんの希望を叶えようと意識することで、返って判断を遅らせ患者さん(や胎児)を危険にさらしてしまうことはあります。
まず無理じゃないかと思っても、強く望む患者さんの希望に添って成功することもあります。

「誠実な医療」と一口に言っても、現実はなかなか難しいです。
患者さんに思い入れを深く持ちすぎず、スタンダードを忘れず、でも患者さんを一人の人間として尊重してその場で出来る最善の選択をしていくしかないのだとは思うのですが。
最近はそこに加えてかならず「訴訟のこと」が頭に浮かんでしまうので、それが医師として非常にストレスフルです(そんなことを考えてしまう自分に対しても、でも考えざるを得ない現実に対しても)。

どのエントリーにしようか迷ったんですが・・・。
このタイトルにリンクするところがあるのではないかと思いました。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080827/trd0808270740001-n1.htm

医療系ブロガーが大手メディアの場を借りて直接しかも継続的に声をあげるのは初めてではないでしょうか。
視聴者の耳目を通り過ぎていくだけの報道番組の単発特集よりも、こういう風に腰を据えて医療の現場から発信する声が被医療者にインパクトを与える可能性に期待したいです。

元外科医 さん

 ご説明ありがとうございました。

私は全摘も先生のご判断なら受け入れようと考えている者だという事は前記した通りです。

女性特有の一つの病気に対してでも、女性への認識が色々で、先生それぞれの思考回路を言葉の端々に見た経験者として、気持ちを素直に書かせて頂きました。

くろすけさん、
『「女性にとって子宮は宝物」と思う気持ちはもちろん分かりますが、「子宮がなければ女ではなくなってしまう」などとは、言って欲しくないなと思います』って・・・;;

特定の人に対してのご返答でないとしても とうとう出てしまった;;という思いです。

私の言葉から この言葉が出てしまう事を 発した私が一番危惧していたんです。(貴方が言っておしまいになったけれど)

それに、私は安易に訴える者でもありません。

くろすけさんが、そこまで危惧しながらお仕事なさっておられるというのは良く分かりましたが、私の言葉は書いた事の以上でも以下でもなく、飛躍して欲しくありません

ただ 患者として言った言葉から 先生がもっと先を見、ズレて受け取られてしまうなら 患者として どうお伝えすればいいんだろう・・・。

誠実な医療の前に 患者と意思疎通がうまくいかなければ どうにもなりませんから。

思いやって 真剣にお話くださっている先生だと分かれば 私は素直に感謝する患者です。

だからこそ 両極端な先生の事を書きました。
でなければ レイプを言った先生の事しか書きません。
そういう患者も居る事を忘れないで欲しいなと思います。


 さて、モトケン先生はじめ どなたか教えて頂けないでしょうか?

法や医学の知識が無い素人質問で申し訳ありませんが、今回の件は検察医の判断から起訴に値するとなり 起訴に至ったのでしょうか?

それとも 医学の知識が少ない検察官が起訴に値すると判断したから起訴になったのでしょうか?

私には 一生懸命 患者の立場を思いやり言葉を選んで説明して下さったお医者さんとK先生が(素人で単純な思考回路なので)重なってしまいました。


どうしてK先生が訴えられなければならないのか?

そもそも起訴する事なのか?

しかも、その病院の産婦人科をストップさせてまで・・・と。

ただ その答えを探しにここに来ていただけの者です。

No.127 匿名 さんは プッチンです。失礼しました。

プッチンさん

>くろすけさんが、そこまで危惧しながらお仕事なさっておられるというのは良く分かりましたが、私の言葉は書いた事の以上でも以下でもなく、飛躍して欲しくありません。

プッチンさんの意図されているものはよく理解しているつもりです(^ ^)。
だから、「特定の誰かに向けた言葉ではない」と書きました。
例えばプッチンさんが私の患者さんで、「子宮は私の宝物だから出来る限り取らないでください」とおっしゃったら、私はそれに対してあのような非難がましいことはいいません。
しかし、こういう公共の場で、「子宮は女性にとって大切なもの。命に等しいもの」という意見"だけ”が出てしまうことによる弊害を危惧して、あえてあのように言及させていただきました。

患者さんと医療者の間に生じてしまったいわれのない不信感が双方の対話によって少しずつでも解消されていくことを願っています。

ご意見ありがとうございました。

この『誠実性』にかかる命題は、例えば輸血拒否など「医療者から見れば適切な選択肢であっても、患者がそれを拒否する場合」一般に敷衍できる事柄のように思います。

医療上は適切な行為であることと、患者の「人生(かくあれかしという「期待」や「希望」「願望」も含めて)」において適切な行為であることとは、必ずしもイコールにはなりえないといった感じで、ではそのギャップをいかにして埋めるのか、埋め得ないまでも緩和していくのか・・・そういう問題も孕んでいるように感じます。

そして、ギャップ(認識のズレ)が「不信」にまで拡大すると、そこで紛争が起こるんじゃないかなぁ・・・

ここ数年、医療系ブログもずいぶん増えました。
割り箸事件から数年たったころはGoogleで検索しても医師を非難する記事ばかりで、割り箸事件を医師側から訴えるサイトを探すのにGoogleを数ページ探し続けなければなりませんでした。

最近は「割り箸事件」で検索しても「で、その医者いつ死刑なんの? 」的コメントはページに一つぐらいしかでなくなりました。(ググったら最初のページの一番上に出てくる2chのスレ)かなりの進歩です。

中にはけっこう中立的な記事や正論が書いてあるサイトも見つかります。でも、国民の意識は相変わらず医療に厳しく、このサイトにも医療不信の固まりみたいな人がたびたび登場しています。

しかし、それより何より、わざわざインターネットを開いて医療に関する記事を読もうとする人が少ないのです。世論が変わるのはまだまだ先の話しです。医療の崩壊はすぐそこの話しです。

>世論が変わるのはまだまだ先の話しです

 何もしなければ、世論が変わるのは、

まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、まだまだ、(指が疲れるのでもうやめ)

先の話になると思います。

 その前にとっくに医療崩壊でしょうか。
 あきらめるのならこのブログの存在意義はありませんし、このブログにコメントする意義もありません。
 ということは、内分泌科医 さんもあきらめてないんですよね(^^)

う〜ん・・・モトケン先生、何かストレスが溜まってませんか?
いろいろとお忙しいとは思いますが、
季節も変わり目の時期ですので、
お体をお大事になさり、頑張ってください。

私のようなど素人が頑張っていても微力にもなりませんが、
せめて身の回りの人達には、医療問題を真剣に語りかけて行きたいと思います。

 えっと、言いたいことは最後の1行だけです。

 「まだまだ、」は二つくらいでもよかったんですが、いきおいで「V」ボタンを押しすぎたということです(^^;

プッチンさんのご意見はとても大事なことに言及されており、医療側は患者さんのこのような声には謙虚に一歩下がったほうがよいと思います。
   くろすけさんのご意見は、医師としての信条の説明において誠実だと思いますが、父権主義的であるという非難は免れないと思います。プッチンさんは、そこを敏感に感じ取っておられるのではないでしょうか。少なくとも、「患者ひとりひとりの『固有の価値観』のほうが医師の『プロとしての生命第一主義』よりも優先する」ということがよくおわかりになっていないのではないかと危惧いたします。
   医療行為にあたって最も大切なことは「ゴールの明確化と共有」です。
   医療側が、「命のほうが大事」と考えるのはあくまでも常識的一般論です。患者には、その固有の価値観(宗教的信条など)に基づいて治療を拒否する権利がある、というのは「人格権」として最高裁判例で確定していると理解しています(間違っていたらご教示ください)。
   大野病院事件で、事前に、子宮温存についてのインフォームドコンセントをしっかり文書化してあればどうだったかと想像してみることがあります。患者さんは、子宮摘出になるかもしれないという医師の説明に対して、温存を強く希望したとのことです。
  そこで話を打ち切ってしまい、あとのことは出たとこ勝負、となると、現場では医師の裁量権が優先されることがほとんどです。ほとんどの医師があまり立ち入ったインフォームドコンセントを取りたくないと感じる理由は、あいまいなままにしておいた場合は医師の裁量権で解決できると思っているからではないでしょうか。ところが、患者のほうは、事前に十分説明を受けてから選択する権利が患者にはあると思っており(当然です)、「そんな話聞いていなかった、医師が患者の気持ちを踏みにじって勝手なことをした」という恨みを抱くに至るのだと思います。ここのところは、医師が職業的に「誠実さ」を発揮したと一方的に思い込んでいる、危うい勘違いだと思います。
  しかし、ほんとうは、医師がプロなればこそ知り得るいろいろな場合を想定して、それぞれについて「誠実に」説明して、患者とゴールの確認をするべきなのです。
 「もし生命が危うくなったら私は医師として子宮を摘出せざるを得ないのですが、それでもよいですか?」とK医師がもう一押し尋ねたとしたら、患者さんの答は、
,修譴任呂靴たがありません、命には換えられないのでそのときは子宮を摘出してください
∋笋聾朕妖な考えとして子宮を失ってまで生きる価値を認めませんので、絶対に摘出だけはしないでください。その結果、死ぬことになっても受け入れます
2燭何でも子宮も命も救ってください
の三つが考えられます。
どの答も文書化しておく必要があります。
´△両豺臺現餡修靴討く必要があるのは、あとで気が変わった患者家族と言った言わないのトラブルになった場合に証拠を残すためです。△両豺隋医師個人の信念に反するので受け入れられないので実施できないと考えたら他の医療機関に紹介するという医師の選択も不可能ではありません。しかし、患者の人格権を否定したことになり、医師として倫理上問題があります。の場合は、それは医療上約束できないことであり、そのような要求には応じられないので他の医療機関を紹介するしかないことになります。(引き受ける医療機関があればの話ですが。大野病院より大規模な病院に紹介し、そこで改めて話し合ってもらうしかありません。2、3か所で同じことを懇々と諭されたら、患者さんも医療の不確実性を理解し、,△房束するしかないことを納得されるでしょう)
  「子宮より命が大事」というのは常識的であり医師はそれが至上命令と思っていることが多いですが、患者の意思が明確に異なる場合は患者の希望が優先されるべきだと思います。
  (米国ではこのことを「患者の『愚かな』選択の尊重」と呼びます。この呼び方自体に、医療者の傲慢を感じますが)
   くろすけさんが善意の誠実な方だということは疑いのないところです。それが、この問題を複雑にしています。
   でも、医療の主体は患者さんなのです。患者さんが「死んでもいいから守りたい」と思っている価値観(人間として尊厳を保ちながら死にたい、苦痛に顔を歪め醜態をさらしつつ長生きするぐらいなら寿命は縮まって良いから安楽に死にたい、子宮のあるままでお棺に入りたい、輸血を受けることなく清い体のまま死んで天国に行きたい、などなど)を受け入れてそれをゴールとし、それを支援するのが医療者の役割に過ぎません。
   こういうスタンスでインフォームドコンセントを取る過程の話し合いが「誠実に」なされれば、患者さんと医療者の意思疎通はかなり改善すると思うのですが。

(ブログ主の「まだまだまだまだ・・・・」の多さにめげず、「それでも少しずつ」コミュニケーションギャップを狭めてゆくために誠実な医療を続けてゆくことを誓います)

ぺストさんのコメントを読んで考えました。外科の医者をしてます「まるべ」です。


子宮をとるくらいなら死んだほうがまし、という患者さんの意見をそのまま受け入れることが、果たして正しいのだろうか。。。。
これは倫理観との戦いとなると思います。

患者さんが十分納得してサインをしたのだからいい、というのは正論だしそうできれば医療者が悩むことなんかありません。

しかし、多くの医師はそれができないんです。。。

助かるかも知れない人を何もせずにそのまま死なせてしまうというのは、多くの医師にとってつらいことなんです。

末期の患者さんをそのまま見取るのとはわけが違います。

自殺したい人をその人の希望だからと、そのまま見過ごすような感じがするんです。

1)子宮をとらないで命も助ける
2)子宮をとって命を助ける

はありえても、、

3)子宮をとらずに命を助けない という選択肢は。。。私には選べない。。

もちろん加藤先生のように、1)を選ぼうとして3)になってしまうこともありますが、積極的に3)を選ぶというのが果たして社会的、倫理的にに許されることなのか、、、。


それを考えました。。

これは私の考えなので、もしご意見があればよろしくお願いします。

ペストさん

医師としての誠実さについて、あなたのおっしゃることはよく分かります。

>ほとんどの医師があまり立ち入ったインフォームドコンセントを取りたくないと感じる

というのは本当でしょうか?
少なくとも私はそんなことは全く感じませんし、出来る限りのインフォームド・コンセントをしています。少なくとも、するように心がけています。
現在の訴訟社会では、患者さんが出来るならば聞きたくないことまで逐一細かく説明することの方が多い気がします。

私の場合、帝王切開で、「命を失ってもいいから子宮は絶対失いたくない」という患者さんの治療は出来ないと考えるの理由は、子宮を切除すれば命を助けられた可能性があるのに子宮を切除できないために患者さんを死なせてしまった場合に「自分が」耐えられないだろうと想像するからです。
そうおっしゃる患者さんがいる場合、私はまず、「あなたのこれから生まれるのお子さんにお母さんを失わせることよりも、あなた自身の子宮を失うことの方があなたにとって問題なのですか?」と聞くでしょう。
「そうです。私にとってはこれから生まれてくる子供よりも子宮の方が大事です」とおっしゃるのならば、その通りに子宮の温存を第一命題と考えて命を失った場合仕方がないと割り切るのが医療者としてやるべきことだとおっしゃる方もいるでしょう。
患者さんの言うことを第一に考えることが医療者としてのつとめだと。
でも私にはそれは出来ません。
できないから、どうしても命より子宮が大事だと考える方は、別の病院に行っていただきます。
それは、その患者さんの意思を尊重しているからでもあります。

輸血の場合も同様です。
輸血すれば確実に助かるのに、輸血しなかったために患者さんを死なせてしまったとき、私は「もっと自分が出血させないで手術が出来ていれば患者さんを死なせずに済んだかもしれない」という思いをずっと引きずることになるでしょう。
だから、そうなったら自分は耐えられないから、エホバの証人のお産は受け入れられないです。
エホバの証人の問題は、産婦人科にとっては切実です。
輸血をしなければならない事態になることが、しばしば存在するからです。
エホバの証人に関していえば、ぜひ、自分たちの信者で病院を作って欲しいなと思っています。
信仰の自由は結構ですが、自分たちの信仰を他人に押しつけられても困ります。
出来るだけ尊重しますが、譲れない限度というものがあります。

私の考えを卑怯だ、医療者としてあるまじきことだと感じる方もいるでしょう。
でも、万能ではない私としては、「出来る限りの努力はするが、いざとなったら子宮は摘出します(輸血はします)」というのが限界です。
ブラックジャックのように、どんなときでもどんな条件でも命を救うことが出来たらいいのですが、現実はそうはいきません。

私の以前受け持っていた癌患者さんで、エホバの証人の方がいらっしゃいました。36歳で、小学生のお子さんが2人いらっしゃいました。卵巣癌のIII期で、手術をするときに主治医から輸血を強く説得され、最終的にエホバの証人を脱会し輸血を承諾し、手術を受けられました。その後も抗ガン剤治療などでたびたび輸血を受けました。結局癌を克服できず、2年ほどで亡くなられましたが、もう抗ガン剤治療もあまり効かなくなった終末期に外来でお会いしたときも、「先生、また輸血になっちゃった」と笑いながら、にこやかに穏やかに、そして精一杯、癌と闘っていらっしゃいました。

患者さんの意思を尊重することは、とても大切なことだと思います。
でも、それが本当に患者さんの望むことなのか、命を懸けるほどの思いなのか、本当に後悔しないのか、それは、患者さんの言うことを唯々諾々と受けるのではなく、しっかりと話し合って、確認していくことが重要だと思います。

子宮温存も、輸血拒否も、もし私自身がその患者さんがそれを望む理由を納得できたら、万全の体制を取って、手術(お産)をするかもしれません。

どんな理由なら自分が納得できるか分からないですし、怖いですけれど。

私は治療を行うというのは患者さんと医療関係者の共同作業だと考えています。
だからしっかり話し合った上で,双方がある程度は納得の行く方針というのが見つからない場合は、病院を変えていただくというのは有りだと思います。
また、病棟の主治医でも患者さんとの信頼関係を築けなかった場合は、主治医を替わって貰うのは有りだと思っています。(私はそういう現場の人間じゃないので、見ててそう思うと言うことですが。)
ただし、患者さんの多くは病気に対する知識の不足などから治療方針に納得できないという部分が多いと思うので、充分話し合った上でと言うことですが。
充分な時間が取れないために合意点が見つからずにあやしい病院へ行っちゃう患者さんがいたりしないかは心配です。

エホバの証人の場合、手術を緊急に行わなければならない場合でなければ、自己血を定期的に抜いてそれを輸血に使用する方法はアリです。あそこの教義は「輸血拒否」と言うのは正確ではなくて「他人の血拒否」なので。
まあ、それでもストックがなくなったら諦める覚悟が必要ですが。
以上、豆知識

緊急手術では自己輸血は無理と思いますが。(と余計な突込みを)

いえいえ、やっかいなことにエホバでは自己血の輸血もだめなんです。
いったん体外に出た血は不浄なので、自分のでもだめらしいです。(不思議だけど。
成分輸血はものによりOKなのもあるようです。
全血と血球成分のはいったのはアウト。
何でこんなに細かいんだ〜、まさか聖書にそんなことまでは書いてないだろうにと思うんですが、いろいろ解釈してますね〜。
しかも最近はちょっとゆるい解釈も出てきてるみたいで、説得できるケースも有りそう。
臨床の先生がんばれ!(大変だろうけど。

法廷は・・・・・・????????
裁判所ってヒマなの?

ありゃ、そうなんですか。
親戚がエホバの信者で自己血を輸血したんで大丈夫かと思ってました。
やっぱ適当に聞いた知識はダメだな(^^;

いえ、同じエホバの信者でも、教義の解釈はいろいろみたいですよ。
流儀の違いなのか、教会ごとのローカルルールなのか分かりませんが、
例えばアルブミン製剤の使用の可否なんかバラバラみたいです。

ただ、いずれにしても(小生の知る限り)同種の(非医療者の方のため
に解説すれば、これは自己のでは無く他人のと言う意味です)赤血球製
剤がOKと言うのはあり得ないみたいですから、重篤な病態ではどうしよ
うもないことは確かですが。

貧血だけが取りあえずの問題なのに、だから輸血さえすれば大部分の問
題が解決して退院も日常生活も問題なくできたであろう信者さんで、そ
の輸血が出来ず、3ヶ月にわたって、ただただ見ているしか無かった辛
い経験(もちろん最後は真っ白になって息絶えられました)からすると、
血液疾患のエホバの信者さんは金輪際診ないぞっていう決心は絶対揺る
ぎませんし、その後は実際すべてお断りしてます。

ググッて見たところ、以下のものがありました。

「エホバの証人からの
無輸血治療に関するお願い」
ー プレゼン用データの特別公開 ー


http://f23.aaa.livedoor.jp/~jwqa/jwalbum/no-blood/bl22.htm

受け入れられないものとして、
全血、赤血球、白血球、血小板、血漿、があり

信者個人の判断として
アルブミン、グロブリン、凝固因子製剤

が挙げられれています。

この中で、自己血輸血や、「輸血に変わる治療」の中に術中血液回収法が紹介されていますので、自己血輸血の拒否は、教義ではなく、個人の考えに基づくものと思います。


 

エホバ信者の治療に関してはいのげちゃんねるにもスレがありました。参考までに貼っておきます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/8599/1182290296/l50

エホバの輸血、血液製剤は教会や個人の判断であったと記憶しています。
 また全血ですが、自己血輸血及びセルセーバー(術野で血液を吸引して回収、洗滌して赤血球を輸血する方法)はだめ。人工心肺や人工透析など回路がつながっているものは体外に出た血液でも良い。ということでした。
 ただ心臓外科ではサッカーといって心臓内の術野の血液を吸引して回路内に戻す装置があり必ず使用するのです。それは原理的には循環から逸脱した血液なので不可なのですが、彼らもそこまでは言わないようです。実際エホバの開心術症例は結構あるはずです。
 どうしてそうなのかと言っても宗教ですから(^^;)

この宗教の患者さんは究極のインフィームドコンセントが要求されるので小生はこういった方への手術は嫌いでした。(実際やってみると何が起こるか判らないから)

エホバに関しては、少々スレ違いの感も否めないので過去ログも参考にするとして...

No.135 ペスト さん
私の読解力の問題かもしれませんが、確認させて下さい、、
ペストさんの考える誠実なICとは、
感情一切を排し医学的な事実とそこから予測される可能性のあらゆる事を説明した上で、患者さんの希望を選択する。そしてその希望が医学的に好ましい(ベターな)選択ではなくても、十分な説明を行った上での患者の選択だから説得は試みない。と言うことでしょうか?


それから...

K医師がもう一押し尋ねたとしたら
加藤医師の説明が不足していた為に、温存を希望したかのような話しの進め方はよろしくないと思います。実際には十分誰もが納得する説明をし、その上で温存を希望していたのかもしれません。読み手によっては不足していたという事実があると誤解を与えてしまいます。

エホバに関する情報、皆さんいろいろとありがとうございますm( _ _ )m
いやー、宗教の教義ってなかなか難しい(^^;

エホバに関してはトピずれとは思いますが,ちょっとだけコメントします.

>自己血輸血及びセルセーバー(術野で血液を吸引して回
収、洗滌して赤血球を輸血する方法)はだめ。

セルセーバーはOkです.うちの大学にはエホバの教会がCATSという,少量でも血液が回収できる装置を置いておりエホバの証人の患者さんの時にはこれを使うようになっています.体から完全に切り離されてなければOkということだそうです.つまり人工心肺に近い考え方かと.

はあ、最近はエホバも変わったのですね。(^^)
 セルセーバーが使えるとかなり違います。小生が輸血療法委員会の担当をしていた頃(20世紀です)にはダメと聞きました。

これは確かにドピズレですが、エホバの問題は自己決定権と医療人の良心のぶつかり合いですから折に触れて出てくるように思います。

問い。「  」内を適当な言葉で埋めよ。

誠実な「  」の重要性。

答え。

警察
検察
報道
裁判官
弁護士

さ〜て?

はい「借金返済」です(^^)

>>No.153 MultiSync さん

に、一票!(笑)

似たような話をしばらく前に見かけたな、と思って記憶を辿ってみたら、今年のGW明けのYosyan先生のところでお弟子さんが書いてましたね。その事例の場合、保護者には受診させる義務が課されているんじゃないかと警察にも相談されていたみたいですけど。(内容に立ち入るつもりはないので、あえてリンクは張りません)

予想どおり、医師にとってはこの話題は辛すぎるという反応がどっと返ってきました・・・。
「K医師がもう一押し尋ねたとしたら」というのは憶測にすぎません。なぜなら、彼は文書に残していないからです。彼を非難しているわけでは決してありません。ほとんどの医師は文書にしていないでしょうから。現在の日本では「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」のが標準的医療です。誠実な説明をしたことを文書にさえしておけば避けられたトラブルは数多いと思うのですが。(このことは本趣旨とは直接関係ないことです、すみません)
 それから、「K医師が充分説明しなかったために温存を希望した」というのは私の趣旨と全く逆です。私は、この患者さんがK医師の充分な説明を受けたあとでもそれでも温存を希望していた以上、死の危険が大きくなったのは患者の意向に沿うためであったので、K医師は医師として全く正しいことをしたのではなかったか、とK医師を弁護する立場で申し上げているのです。(K医師が文書化していればこんな推量をする必要もなかったわけですが、どうも誤解されてしまったようです。言葉が足りなくて誤解させてしまったとしたら私の責任です。)
    患者のunwise dicision(これを「愚かな」と訳したのは誤訳でした。「賢明とはいえない」という訳が正しいですね。お詫びいたします)に沿うことこそが医師の倫理です。「一切の感情を排し」「説得を試みない」というおっしゃりようには、なんとなく私が申し上げている「患者のunwise dicisionの尊重」に余計なものをくっつけているように感じますが。文字通り、そのままです。医師の(ひょっとしたら複数の、病院中の医師の)説得にも曲げず患者がそう決めた、その内容を尊重するだけです。冷たいとか温かいとか理性とか感情とか、いろいろなご意見がどっと押し寄せてくるのは覚悟しておりましたので、全く驚きませんが・・・。
  やはり、日本の医師は父権主義的なのだなあ、と思うだけです。とても優しくて思いやりのあるお父さんだと思います。でも、子供が成人したら、どんなに正しいと思われる父親の意見にも耳を貸さないで、自分の決めたいように選択していいのです(職業も、結婚相手も、住む場所も)。それがどんなに父親を泣かすことになっても。それを、成人した子供の「人権」というのです。みすみす子供が過つのを見ていなければならない「良心的な」お父さんは辛いですよね。
  (米国での裁判では、老婦人が感染壊死に陥った片足の切断を断固拒否して亡くなった事例があります。その病院の医師団は、その患者からインフォームドコンセントを取れなかったので手術ができず、裁判所命令で手術を許可してもらおうと訴えを起こしたのですが、裁判所の答は「医師はその老婦人の意思を尊重すべき」というものでした。医師団は、手術室万端準備を整えて裁判所の”Go”サインを待ち受けていたそうですが・・・。また、裁判にはなりませんでしたが、元大統領夫人エレノア・ルーズベルトは、結核の抗生物質治療を拒んで亡くなりました。最高の医師団がどんなに説得しても拒否したのです。米国での患者の unwise decision を2例あげましたが、日本でも、エホバの証人輸血事件により人格権が確立されているので、判断力ある成人患者が行った「賢明とはいえない」選択は医師の良心より優先すると思います。間違っていたら御指摘ください。)

判断力ある成人患者が行った「賢明とはいえない」選択は医師の良心より優先すると思います。
 それでいいと思います。医師の立場としてはつらい判断ですが。  判決は出ていませんが、死亡する事態が発生しても、患者の自己決定は医師の考えよりも優先するというのが現代の考え方です。もちろん、十分な説明を行って、双方が納得していることは当然であり、自己決定についても文書として残しておく必要性があります。

>>>現在の日本では「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」のが標準的医療です。

だから医者には何かが足りないって言われるんでしょう。

>死亡する事態が発生しても、患者の自己決定は医師の考えよりも優先するというのが現代の考え方です。

私にはここが非常に引っ掛かっています.私は「自分の管理する患者さんは1人として失いたくない」と考えながら麻酔を引き受けています.医師も一人の人間ですから,この信念も尊重してもらいたいと考えています.
「患者の信念>医師の信念」ではなく「患者の信念=医師の信念」(ここの=は同等の意です)であるべきと思います.
「死亡する確率がある程度以上見込まれている」なら,「どうぞ引き受けてくれる医師を探して下さい」と言ってはいけないのでしょうか?

 そのとおりです。小生の経験でも、「うちの病院では受けれませんから他に紹介します。」といって宛先無しの紹介状出した方が一人おりました。
 個人的には「患者の信念>医師の信念」でしたが外科医と麻酔科医の全員の合意が得られませんでしたので。

患者の自己決定は医師の考えよりも優先するというのが現代の考え方です。もちろん、十分な説明を行って、双方が納得していることは当然であり、自己決定についても文書として残しておく必要性があります。

大野事件はこのへんが不十分というか、遺族もよくわからない
ということで、揉めたのかと思います。
大野病院でやることを患者が希望した、もしくは大学病院を
薦めた事実が残っていればよかったのにと思います。
文章化は大事だと思います。

参考
遺族の求める“真相”とは…控訴断念でも残された課題

裁判になることを念頭に入れれば、下の人間はうかつに発言できません。何しろ記憶が曖昧で時間軸に沿って説明することが人間という生き物は出来ません。人間の考えていることは主観的な判断になりますから。そこには口あわせが必要になります。
ところが、口あわせは外部の人間から見ると何か汚いことをやっているというイメージがわきます。従って口合わせもロクに出来ないとなると最後は箝口令を敷くことになります。具体的にはコメディカルの人に話をするな、ということです。

もし、刑事免責が確立していれば、その辺の責任も緩やかになり、話しやすくなりますが、もし曖昧な記憶と事実とが異なっているとやはり信頼を失うことになるでしょう。

人間という動物が如何にいい加減なものかが解っている場合は話し合いに応じられますが、解っていない人を相手にするのは苦労を伴うだけでなく、新たな火種を作ってしまうことになるでしょう。そういう意味で、遺族が「看護師たちにも話を聞きたい」と申し出て病院が断ったことは、現在の法システム・行政システムにおいては賢明なことだと思います。しかし、それ故に誠実さを失うことになります。

しかし、曖昧な記憶で思ったことをとにかく述べてしまうと、事実と異なるときはやはり誠実な医療とは言えなくなってしまいます。

結局は、もしかしたら誠実な医療というのは不可能なことなのかもしれません。

No.156 ペスト さん
お返事ありがとうございます。ペストさんとそれ以外の方のやりとりを見ていてズレと違和感を感じたので確認させていただきました。

医師の(ひょっとしたら複数の、病院中の医師の)説得にも曲げず患者がそう決めた、その内容を尊重するだけです。
十分な説明を行った上で患者さんが十分理解しているのであれば、患者さんの意思を尊重する事は当然のことだと私も思います。
あくまで印象ですが、ペストさんの書き込みに反応された医療関係者の方々はICを得る課程で、知識不足・誤解持った状態での意思を想定しており、ペストさんはしっかりとICを得た後での個人の価値観による意思を想定して書かれているのではないでしょうか。


それから、度々申し訳ないのですが、、、
論告求刑時に「不十分なインフォームドコンセントしか行っておらず」という検察の主張は目にしましたが、加藤医師がICを文書化していなかったという情報を見た覚えがありません、、、きっと私が見落としてしまっているのだと思います。大変お手数をお掛けしますが、ソースを教えていただけないでしょうか?

また

現在の日本では「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」のが標準的医療です。
とのことですが、少なくとも私がここ十数年で働いた複数のどの病院(地方公立病院もあります。)にも、バイトの診療所にもフォームの違いはあれどIC用の複写用紙があり、大きな侵襲を伴う検査や治療、重症の患者さんの説明時には必ず使用していました。他科であるため標準的な日本の産婦人科の現状までは分かりませんが、少なくとも帝王切開の立ち会いを依頼されるようなケースでは必ず母親のカルテにIC内容が書かれた複写用紙の片割れが入っていました。それとカルテ内容を確認して帝王切開の立ち会いをしていました。私の感覚からすると、「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」事が標準だとはとても思えないのですが、本当に標準なのでしょうか?私の働いた病院が特殊で感覚がおかしいのでしょうか?

Pediatrician さんがすでに書かれていますが、”「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」のが標準的医療”だったのは20年以上前のことではないでしょうか?

現在では手術はもちろん外来で行う検査でもその必要性や危険性等を説明して文書に残す病院が大多数だと思います。

> やはり、日本の医師は父権主義的なのだなあ、と思うだけです。

ベストさんってずいぶん思い込みの激しい方のようですね。

「インフォームドコンセントを詳しく文書化しない」のが標準的医療

これは、詳しくの程度問題だと思います。

私は消化器癌の術前には、通常1時間前後のICを行いますが、私が同時にその内容を本人、家族に書いて渡すのはA4で1-2枚程度です。

とても一時間説明したこと全てを(半分も)文書化できるものではありません。

いつも多少力が入りすぎた感じの文章で場を乱してしまって申し訳ありませんm(_ _)m

患者さんの信念と医者の信念が対立する場合ですが、
最終的には患者さんの信念を尊重するのは当然のことだと思います(患者さんの意に反して治療を強行することは出来ません)。
一番の当事者は患者さんですから。

ただ、「○○される(になる)くらいなら死んでもいい」と考える方でも、病院に来るということは、「治りたい。助かりたい」から病院に来るのだと思います。

自分の信念が、その病気に対する必要な治療を妨げるような信念の場合、その信念(あえて言うとわがまま)を貫こうとされる方は、それを貫くことで医療スタッフに通常以上の精神的、身体的、時間的負担を与え、通常以上の医療資源を消費すること(例えに挙げた子宮摘出拒否で言えば子宮を温存するために大量の輸血をする、輸血拒否の方の救命のために輸血以外の膨大な医療資源を投入する、ICUを長期間占拠し、回復が遅くなるため入院期間が非常に長くなるなど)、そのためにその分必要な他の人に資源が回らなくなる可能性があることについては、どのように考えているのかなぁなんて思ってしまうことがあります(意地悪な考え方ですが^^;)。
「それが医者の仕事でしょ」
ってことなのかもしれませんけれども。

もちろん、患者さんの「わがまま」をかなえるために努力することが医療の進歩に繋がる可能性がある(繋がってきた)ということも言えると思いますが。

また、産科の場合は患者さん本人だけでなく胎児の命もかかってくるわけで、患者さんの信念だからといって「はい、そうですか」、とはいかないこともあり、難しいです(それでも患者さんがどうしてもと言い張れば、それに従うしかないわけですが)。


話は変わりまして。
インフォームドコンセント(IC)については、アメリカでは全て録音して選任の人が文字起こしして保存しているというようなことを聞いたことがあります。
私自身は可能であれば他の先生に同席していただき書記をしていただくこともありますが、現実問題として全てのICでそれは出来ていませんし、たとえ書記をしていただいても一言一句正確に全てを書き留めるのは不可能ですから、どうしても要約になってしまいます(そしてしばしば要約外のことが問題になるような気がします)。
そういう意味では、完全な文章化は出来ていないので、不十分なのだと思います。 

一度説明しただけで患者さんが説明の内容の全てを理解するのはほとんど不可能だと思いますし、患者さんの中にはどうしても病気と向き合えず、何度説明しても自分にとって都合のいい、自分の聞きたいことしか耳に入らない方もたくさんいます。
まだレジデントの頃、大学で癌の方のICに立ち会ったときに、患者さんの旦那さんがはじめにテープレコーダーをおもむろに机に出したので驚いたことがありますが、裁判対策としてだけではなく、患者さん自身の理解のためにも、ICは録音して患者医療者双方が保管しておくというやり方が、一番いいのかもしれません(と言いながら実際にはやってはいないわけですが・・・。そして、それを正確に文字起こししてカルテに保存となると、それ専任のスタッフがいないとほとんど不可能だと思います)。

No.166 くろすけ さん

完全な文章化は出来ていないので、不十分なのだと思います。
私自身は必ずしも文章化が十分で、要約が不十分ということは無いと思います。
(確かに訴訟対策としては不十分という考えも否定できませんが、、、)
というのも、ICを得る一連のプロセス本来の目的は訴訟対策ではなく、医学的な基礎知識が無い状態で、患者さん自身が自分の状態を理解し、必要な治療方針の決定のお手伝いだと思っています。
患者さんの基礎知識や理解力もまちまちですから、へたに文章化するよりは、患者さんの反応を確かめながら、患者さんが理解できる言葉で話し、要点をまとめて図示・箇条書きした文書の方が織り込める情報量も多く、理解もしやすいと思います。
私は小児白血病患児にも告知と説明をしますが、少なくとも文章よりは図というか絵の方が、反応がよいように思います。
ここに出入りしている方の被医療者の方々の意見も聞いてみたいですね。

ところで、レコーダーの件が出ましたが、今後、カルテの電子化が一層進めばIC内容もデジタル録音or録画して保存というのがデフォルトになる可能性もありますかね。

今日本では、病状、治療方針治療経過などの説明はほとんど医師が行い、説明の内容を紙カルテや電子カルテに入力するのも医者ですし、そこから体裁よくプリントアウトして患者さんや家族に提示するのも医者です。

詳しく説明するにも、詳しく記録するにも人が労力と時間をかけて行うものですから、どうしても費用が発生します。
誠実さをテーマとするエントリーでお金の話をするのはどうかとも思いますが避けて通れません。

誠意だけでやっていると(つまりは何時間汗を流しても、休日に説明のため出勤しても何もいただけないと)患者さん側のある種の期待をわがままと受け取りかねません。
たとえば家族の一人ひとりが別々にやってきてそのたびに病状説明を求められるなどは、医師なら誰でも経験したことがあり、時にはほかの方に説明したから、そちらから聞いてくださいなどと言うことになります。こんな返事をすると仕事を休んで8時間かけて見舞いに来た御兄弟は当然不満をもたれます。また自ら医学書を購入され、論文をコピーされ、その内容について解説を求められることも10年ぐらい前から増えてまいりました。

たとえばこれらに対する説明に対して30分1万円などの費用を請求できれば、医師の口頭説明を記録する事務員を配置できますし、超過勤務に対して代休や報酬の支払いが可能になります。今後増えていくであろう書類作成や説明のための時間が長いことによる、実診療量の減少による病院収入の減少やそれに引き続く医療スタッフの待遇の更なる悪化に歯止めがかかると思います。

誠実な医療の実現には、適切な費用という予算をつけていただく必要があると思います。

費用の不足分だけ(とは言い切りませんし、これだけが原因ではありませんが)、誠実にもほころびが出てしまい、一人医長がハイリスク妊娠の手術をするという、見る人によっては不誠実なことがやむを得ず続けられてきたのではないでしょうか。

費用の不足分だけ(とは言い切りませんし、これだけが原因ではありませんが)、誠実にもほころびが出てしまい、一人医長がハイリスク妊娠の手術をするという、見る人によっては不誠実なことがやむを得ず続けられてきたのではないでしょうか。

その通りだと思います。
遺族の不満は、ICが十分だったのか?もし、十分なら大きな
病院へ移送を希望したはずだ、という点ではないかと思います。もし、大きな病院で出産ならもしかしたら助かっていたかもしれないという無念があるようです。(父親のコメントから)

大野事件はもっぱら子宮摘出など手術手技の話題になってますが、ICをしっかりやって書面にしていれば、トラブルは防げた
可能性もあると思います。
他の訴訟案件でも同様のケースがあるのではないでしょうか?
大野事件の反省としてICをしっかりやろうとか、改善しようという話はあまり見かけませんが、この改善が必要な気がします。

私も先日診断で、先生が目の前で電子カルテに説明しながら
打ち込んでいました。そのコピーを貰いました。
診断時間の限られた中で、打ち込みながら、説明では、
十分な説明は無理かもしれません。
録音して、あとから医療秘書がテープおこしするなど、
そういう人件費を予算として求めることは賛成です。
もしくは診療報酬の中に、ICとして点数化することも私は
容認します。
私の個人的印象はまだまだICが病院によっては、もしくは
医師によってかなり格差があるのではないか、という気がします。

追加です。

お父さんのコメント 

――どうしていたら娘の手術はいい方向に行っていたのか?   ――リスクの高い手術なのに、なぜ加藤医師は設備の整った病院に送らなかったのか?   ――入院していた25日間、娘と医師、看護師はどんな会話をしていたのか? 医師や看護師はどういうやりとりをしていたのか? そういった、遺族が事故当初から知りたがっている疑問に対する答えと、原因を究明したうえで再発防止につなげようという「前向きなもの」が医療界から感じられないのだという。

結局のところ、医療側の説明不足と言われる原因は、日本の低医療費政策にあると言えるのではないでしょうか。十分人が配置できれば説明は全て録音、文書化して残せますし。

少ししかお金を出さない国民の享受する医療レベルはこの程度でやむを得ないともいえるでしょう。今後も医療需要が増えても良い未来が見えてきませんね。

今の日本を見ていると、「適正コスト」という概念が利用者側に欠落しているように感じてなりません。

「安くて良いのが当たり前」との常識観が蔓延しているために、医療のみならず様々なところで問題を引き起こしていると思っております。

また、マスコミが「安くて良いのが当たり前」を煽っている点も、見逃せません。私が、外国に住む友人(日本人)と話をすると、必ず出てくるのが「なぜ、質の良いサービスを得るには、それなりのコストがかかる」ということを日本人は忘れてしまったのだろう…という話です。

すでに本コメント覧でも多くの方が述べられていますが、医師が説明した内容を正確な記録に残すためには、それ相応のコストがかかります。本来ならば、説明を求める患者側が負担するのが当然なのですが、今の風潮ですと、「それは医者の義務だ」といった論調に流れそうな点が残念でなりまえSん。

>今の日本を見ていると、「適正コスト」という概念が利用者側に欠落しているように感じてなりません。

いや提供者だって、不足してますよ。

コスト積算型の診療報酬を要求する団体(例えばうちの医学放射線学会)もありますが、コスト度外視で働いている医療者の方が多数派「でした」。

いわゆるスレ違いとは思いますが、
 大麻取り締まり法では、使用についての罰則はありません。救急の患者で、意識障害あるために、薬物検査をしたところ大麻が検出されたら、警察や厚生労働省の関連部署に届けることは、患者に対しては、守秘義務を守らないことになりそうだし、社会正義の観点からは、届けを出したい、誠実な医療者としては、どうするべきかどなたかご教示願えませんでしょうか?

そういえば、この前県立病院の前を通ったら、陽子線治療施設の建設が始まっていました。(当県の人口は世田谷区より少ない)

この計画を推進した人達の中には、当然医師も入っていると思われます。その意味では、医療提供者側にも、コスト意識が欠如している人がいることは間違いなく、コストパフォーマンスの点で、県民に誠実でない提案であると思います。

 昭和30年代から言われてきたことは、目に見えないサービスはタダだと日本人は勘違いしているということです。最近は少しは改善されてきましたが、それでも目に見える物の形でしか判断しない人が大杉。
 国外現地調査を駆使して国際マーケティングレポートを提出したときの相手側担当者の言動。
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 たった40ページの報告書を書くのに5000万円もかかるんですか?1ページあたり100万円を超えるなんて暴利でしょう。私の原稿料ならA4が1枚1500円ですよ!
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 後進国ニッポン……未開拓分野大杉(←皮肉です)だから未来は明るいw

ご遺族にとってはかなり厳しめのコメントになるかもしれませんが、事実なので言わせていただきます。

リスクの高い手術なのに、なぜ加藤医師は設備の整った病院に送らなかったのか?

これについては私を含め、いろいろな方がここで答えていると思いますが、リスクのある全ての患者を大学等に送っていたら医療は成り立ちません。自分で出来ると判断したらその病院で行うのが医師の裁量です。
しかし、失敗に対する反省は必要です。リスクのある症例でも、このような経験があるからこういう症例は送る・・・これは必要だと思います。事故の基になるとか言うことだけではなく、医師自身が自分を守るために必要なスキルです。
但し、これは新たな医療崩壊を生むことを覚悟しなければなりません。リスクのある患者を大学に送っていたら、その病院は激務になり、医師の逃散の原因となり得るからです。
医学の発達していない現代(あえてこのように言わせていただきます)ではどの症例を送り、どの症例を送らないべきかと言うことは大変難しい判断です。いちいちそれに口を出していたら医療は成り立たなくなると言うことを患者側にも知ってもらいたいのです。

入院していた25日間、娘と医師、看護師はどんな会話をしていたのか? 医師や看護師はどういうやりとりをしていたのか?
ご家族には申し訳ないのですが、これは医療事故や合併症と言った医学的な解決にとっては意味をなさないことです。また、うっかりの一言が新たな紛争ネタになり得ますから、医療従事者側は慎重にならざるを得ないでしょう。さらに医師には守秘義務が存在します。遺族とてこの縛りは有効です。おまけに時間がありません。お金をもらってでもお話はなかなかしないでしょう。
「前向きなもの」が医療界から感じられない
というのもきわめて主観的な問題ではあります。 しかし、実現できるか否かは別として、紛争ネタにしないという前提の基に解決策を探るというのは大切です。提案はどしどしするべきです。しかし、強制はいけません。 要は話し合いが大切だということです。遺族の言うことが正しいとも限りません。しかし、解決の道を探るのは大事だということです。


日本はこうした問題のデータベース化が行われていません。医療関係のデータベースの専門家が不在だと言うこともありますが、もっと国が中心になって取り組むべきだと思います。データベース化がなされていないと言うことはデータの共有がなされていないと言うことであり、同種の事件を起こす可能性は極めて高くなるからです。いくら優秀な医師でも、データベース化されていないと素人から見たら同じような事件を起こします。というのは、専門家から見れば、同種ではなくて異種だからです(そもそも全く同じ事件というのは医学的には確率的に低いです)。

前向きなものを医療界に求めるのであれば、医療費の2200億円削減を無くして下さい(笑)


お金で買えるものがすべてではないですが、先立つものがないとどうしようもありません。

いや、かの福島県でも、バンバン、それほどハイリスクでもない症例を大学病院に送られるようになったと、佐藤章教授が、あちこちで発言されていますから、福島県では、「改善」しているのでしょう。ええ。

大野事件の教訓というわけでもないですが、
産科崩壊に絡み、出産費用の値上げ、医師待遇改善などを
国民の立場からも容認します、と私は従来より発言してきましたが、
私以外の非医療者からそういう声ってあまりというか
ほとんど聞かれないような気がします。

原価意識もろくにない、医療界へこれ以上金を出したくない、
っていう意識が強いんでしょうかね?

非医療者の方に聞きたいです。出したくない理由は何?

何度もこのブログで取り上げられていますが、お金を出せば医者が来るというわけではありません。お金は最も重要な問題ではありません。
最大の問題はシステムの問題です。それには経済だけでなく、医師の士気、社会の医学への理解、様々な問題があります。お金の問題はそこから派生してくるものに過ぎません。医師不足、パラメディカルの雇用、病院の経営問題、医学的研究の不足などからお金の問題が出てくるのです。お金の問題が先にありきではなく、また、医師の給料を上げれば解決というものではありません。ただ、お金はこれらのシステム問題を解決する上では必須項目ではあります。

>No.180 一市民 さん

 あなたは、数日間、自分の投稿姿勢を見つめ直して来たんじゃないんですか?
 大野病院の出来事は、無罪が確定した以上、事件ではありません。表現に、十分注意してください。

 非医療者として、現状の医療が維持できれば、それに越したことはありません。
 しかし、東京都内でさえ、受入れ拒否が起きる現実ですよ。
 十分な医療を望むのであれば、それに見合う報酬を支払うのが、国民の義務です。
 権利ばかり主張する人は、所詮、他人ごとです。

 一市民さんは、非医療者の代表ではありません。
 あなたを認めることはできません。

大野病院の出来事は、無罪が確定した以上、事件ではありません。表現に、十分注意してください。

今後はこの掲示板では大野病院の出来事
と呼べばよろしんでしょうか?

訴訟ないしその訴訟で下された判決に関しては、民事刑事を問わず、また請求認容/棄却、有罪/無罪を問わず、「○○事件」、あるいは「○○事件判決」等と呼ぶことは、少なくとも法曹内部や法学教育の現場では珍しいことではありません。

無罪が確定した事件について、「犯罪」「犯人」といった用語を使っている場合には不適切の誹りは免れないと思いますが、「事件」というだけであれば、特に問題はないように思ったのですが。
一般(非法曹)の方からすると、やっぱり違和感があるということでしたら、私自身も今後は注意する必要がありそうです。

# 「事件」の表現に限定したコメントであり、他の点については言及・論評はあえて避けております。念のため。

 費用が必要であれば支払わざるを得ない。でも必要以上に支払いたくはない。どこまでが必要かという線の位置に違いはあるものの(むしろ線の位置こそが重要なのですが)、現実的な判断をすると被医療者の基本的な考え方に大差は無いのではないでしょうか。わざわざ「一銭たりとも払いたくない」と言及する人以外は、必要な費用については容認せざるを得ないと考えている、と思った方が自然ではないですか?

産科崩壊に絡み、出産費用の値上げ、医師待遇改善などを 国民の立場からも容認します、と私は従来より発言してきましたが、 私以外の非医療者からそういう声ってあまりというか ほとんど聞かれないような気がします。

 一市民さんのコメントは、もっともなことを言っていることが多い割には、個々のコメントはほとんど記憶に残っていません。意見に重みを感じないからです。重みを感じる意見というものは、そこに至るまでの議論を十分に理解して踏まえているか、その意見の背景にある実体験を感じられるか、そのような要素があります。一市民さんのコメントは、議論の流れの中で唐突に出てきて、腰を据えて議論するでもなくすぐに次の意見に移ってしまうことが多く、重みを感じずすぐに記憶から消えてしまいます。そして一市民さんの姿勢が軽薄であるかのような印象だけが残ってしまいます。残念なことです。

>>産科崩壊に絡み、出産費用の値上げ、医師待遇改善などを
国民の立場からも容認します、と私は従来より発言してきましたが、
私以外の非医療者からそういう声ってあまりというか....(略

少子化対策も重要な国策のひとつであることを理解されている
方が多いので、それと矛盾する上辺だけの発言をされていない
というこだと思います。

大野病院の出来事は私自身の認識では、警察検察が引き起こした事件と思っています。

(仙谷議員が、以前厚生労働委員会でそのように言及していました。)

 ICが病院によって、医師によってかなり格差があるように、個々の患者が要求するICにも大きな格差があると考えられます。限られたリソースの中で出来ることは、少なくとも最低限必要なレベルのICを全ての患者に提供できること、それに加えて患者から要求があれば出来る限り要求に応えること。となります。

 ただ、患者の方もその場では納得したにも関わらず、あとで望まぬ結果が出てから、「あの時もっとちゃんと話を聞いていたら」と後悔することがあるのではないかと思います。ICが不十分であったという不満は必ずしもICだけに依るのではなく、医療側に対する不満のはけ口の1つに過ぎないのではないでしょうか。よってICだけに限らず、医療の全ての面についてクオリティを上げていく必要があるのだと思います。もちろんICそのものに関する不満も含まれるので、出来る限り患者の声に答えていく必要はあります。出来る限りやっても満足してもらえないかもしれませんが。

 私も表記としては、「大野病院事件」で差し支えないと思いますが。
 但し、加藤医師は既に被告人ではありませんし、犯人でもありません。
 それを確認しつつ、無罪が確定した事件として、想起するたびに警察・検察に反省を迫る意味でも、「事件」でいいと思います。

 冤罪事件という言い方も一般的だと思います。

大野冤罪事件でいいと思います。

死亡という事実があるのに「冤罪」はおかしいと思う人もいるかも知れませんが、病死であり、過失無しという判決がある以上、本来は刑事裁判にかかるものでなかったと言う意味でこの言葉を使わせて貰います。

No.190 元外科医 さん

大野冤罪事件でいいと思います。
法律用語の正しい使い方は全く持って自信がないのですが...
冤罪というのは一度罪が確定したものの、後日、無実であることが明らかになった場合に使うイメージがあるのですが...
加藤医師の場合は逮捕・起訴はあったものの無罪確定したので、冤罪とは言わないのではないでしょうか?
変に意識せず、中立的にこれまで通り福島大野病院事件、もしくは事件という言葉に抵抗があるのなら、福島大野病院の事例とかが穏当な気がします。

>法曹の方々のフォローをお願いします。m(_ _)m

>No.183 一市民 さん

fuka_fukaさん,田舎の消化器外科医さん,モトケンさんのご意見を参考に
マスメディアで【通称】
富山冤罪事件、薬害エイズ事件、志布志事件など取り扱われていることは事実ですから、
 K医師にとっても起訴されたことは「事件」といえるかもしれません。無罪とのいう点にデリケートになったことは、確かであると認めさせていたできます。(強調の不必要なところに強調を入れる姿勢)
 できれば、「大野病院医療訴訟」「大野病院医療裁判」が妥当かと思います。

 私が言いたかったのは、上記のことではなく、一市民さんの投稿姿勢がいかにも医療者側の意見に同意をしているように思わせて、他の非医療者の代表のように振る舞っていることです。
 他の非医療者には、それぞれのコアがあり、すべてを諮り知ることはできません。そのことを理解の上、投稿を願いたいと言うことです。

県の事故調査委員会が05年3月、加藤医師の医療ミスを認める報告書をまとめたことを受け、県は同年6月、加藤医師を減給1カ月の懲戒処分としていた。  県病院局はこの報告書についても、見直しを含めた検討を行うとしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000065-jij-soci

捏造報告書を端緒として立件された事件ですから冤罪で問題ないでしょう。

ところで「冤罪」って法律用語ではないですよね。
>>法曹の方々

>yamaさん
多分、お金の問題じゃないと言うのは最前線で頑張られている医療者にしてみればモチベーションのありようとしてそうなるのかもしれません。しかし、全体の構図としてはやはりお金の問題でしょう。
便利な生活になかなか逆行できないように安全で安心な生活に逆行することもまた難しいと思います。ただ、これはなんだかんだといって国が保障してくれていると言う暗黙の了解(思い込みに近いかな?)があるからであって、最近の言葉で言えば「他人事」なんでしょうね。うすうすやばいと思ってても誰かが何とかしてくれるとかね。
別館のエントリーでありますが、国の決めた医療報酬の単価が低いことがすべての元凶だと思います。
単純に原因といえるわけでもなく条件や雰囲気に過ぎないケースもままあろうかと思いますが、お金の改善は徐々に効いてくるはずです。なんだかんだといって日本の医療の向上は高度成長に伴う医療費の増大が環境を整備したはずですので。
最近のように需要が伸びているのに抑制すれば軋みが出てモチベーションの話は実際の医者の数やベッドの数といった物理的な話に押しやられてしまうことになってしまうのでしょう。それが現在の医療崩壊になっていると理解しています。大野病院の問題などはそれを後押ししてるだけではないでしょうか。
まあ、それがために無罪になったからと言って医療崩壊が止まるとは私も楽観していません。
すべてをお金の話にしてしまうのは頑張っておられる医療者の皆様には申し訳ないのですが・・・制度改善はもちろん必要ですし、司法の問題も重要だと思いますがこれらの問題はお金で代償措置はある程度可能です。
あくまで現状のアクセスを確保しつつ医療水準を下げずにいようと思えば一市民さんの言われるように医療費の増額、ひいては国民負担にいかざるを得ないでしょう。
おそらさんyamaさんの言われるお金と一市民さんのお金は同じお金でも意味合いがちょっと違うんだと思えます。

内田樹教授が、おっしゃっていましたが、何かを隠すときには、「無くなった」というのが良いと言っておられます。
医療崩壊も「医療が崩壊した」と言うと以前は崩壊していなかったというように誤魔化すことができます。

現在の「医療崩壊」は、欲求の崩壊という側面があります。
以前は、さほど質を落とさず医療費抑制に成功していたという事実もあるので、医療費に見合った質になったときの欲求とのギャップが医療崩壊というイメージで語られています。

 大野病院無罪事件でどうでしょう?
 ちなみに訴訟法では民事刑事を問わず「事件」と抽象的に呼ばれて批判の意味合いはありません。「事件番号」とか普通に使われています。

PS:
 ちなみに刑事事件の判決言い渡しでは、「被告人●●に対する業務上過失致死被告事件について、次のとおり判決を言い渡す。主文。被告人は無罪。」という感じが普通です。
 なお「冤罪」は法律用語ではないので、定義で争うという神学論争を避けるため、また、判決主文を明示するため、「大野病院無罪事件」がいいかと思う次第です。m(_ _)m
 事件名の特徴を表す通称は「大野病院」のように土地や現場の名称を掲げるものが多いようです。

>おそらさんyamaさんの言われるお金と一市民さんのお金は同じお金でも意味合いがちょっと違うんだと思えます。

僕は
○一市民さんのいうお金
 1)被医療者が医療というものにかけるコストの話題
○yamaさんのいうお金のうち
 ・「お金を出せば医者が来るというわけではありません。」は
 2)お医者さん個人個人の収入を高くするという話題
 ・「お金はこれらのシステム問題を解決する上では必須項目ではあります。」は
 3)医療というものにかける国としてのコストの話題。

という事なのかなと思いました。

3)に関してはあらためて医療崩壊について語るエントリ(その2)の冒頭でしまさんが

医療崩壊に関して語るなら、そもそもの医療費問題、医療費の財源問題に関して語る事も必要だと思います。

とおっしゃられているように、このブログでは皆さんが認識をされていると思いますので、一市民さんの発言は「そのために非医療者がコストをかける覚悟はあるんですか?(なければ医療が崩壊してしまいますよ)」という点の問題提起なのだと思います。

僕としては総論として「医療への適切なコストを負担する」という気持ちはある(おそらく多くの人はそう思っているでしょう)のですが、具体的には?という感じです。

例えば上記しまさんのコメントでは「消費税の税率上昇」という具体案がでていますが、「行政不信」から「本当に上昇分が適切に医療費へまわるのか?」という疑問はまだ解消されてません。

ただ、医療機関で窓口で支払う料金(3割負担分)は(受けるサービスに比べ)安いかなと感じますので、医療費負担があがるのは個人的には許容範囲ですが。

この辺の論議というのは、既出でしたっけ?

 急速な高齢化社会による社会保障費の急増を考慮すれば、平成35年ころ(昭和100年問題)、勤労世代の収入の50%を税金&社会保険で徴収しないと帳尻が合わない計算です。
 以後、高齢者1人を勤労者2人が支える世界になります。これは人口構成という動かし難く容易に軌道修正困難(不可能)な現実に基づくものだけに、事態は深刻だと思います。_| ̄|○

やはり姥捨て医療と言われようとも、いずれは削減するしかなくなるのでしょうね。

しかし、2007年度の医療費は自然増の抑制どころか純減だそうで、医療の崩壊の主因であるといえると思います。これでは誠実医療どころか逃散阻止も無理ではないかと。

変な方向に話しを曲げて申し訳ないのですが、医療費の問題は、高齢化と人口構成の問題、人口構成の問題は少子化の問題、少子化の問題は・・・

そもそも、子供を育てることの手間が異常に大きくなったのが少子化の根本的な原因。子供3人大学に行かせる経済力のある家庭がどれだけあるのでしょう?4人は?5人は?産業構造から単純に考えて、大卒の人口は最低でも同レベルに維持されなければならないのに、大卒者の平均所得から逆算したら不可能でしょう。

では、教育費がそんなに高いのかというと、実は日本の大学の学費は先進諸国の中ではむしろ安い方です。では、何にお金がかかっているのかというと、学習塾などの受験教育費です。

少子化問題、ひいては人口構成に起因するすべての問題を解決する最善の方法は、大学入学試験・高校入学試験を全面廃止することです。すべての講義をオンラインで公開し、すべての学生は自宅から講義を受け、気に入った大学の気に入った講座の期末試験を受け、必要な単位を集めたら、国から「大卒相当証書」をもらうシステムにすればいい。

人口構成に起因する問題のすべては、東大を頂点とする学閥・学歴社会を維持しようとするから起きていることなのです。東大至上主義の官僚様は猛反対でしょうが、受験システムを廃止しなければ社会的コストが高すぎます。

一般の普通科高校までが何人東大に合格したかで評価され、一般の公立中学が受験校に何人合格したかで評価され、官僚様の経歴作りのシステムに国民全体が巻き込まれて、子供を育てるコストが異常に高くなっているのです。

受験さえなければ、少子化はかなり改善されます。「国滅びて東大あり」ではどうしようもないと思います。

 このデータを大学時代に学んだ昭和年間では、ずーーーーーとっ未来の話だと思ってました。年金が積立方式から賦課方式へ変更やむなしと言われ出したころ……。ときは過ぎ去り、鉄腕アトムの誕生年を過ぎて、もう目の前。

医療の将来はどうも暗い話ばかりのようですが、
医療費増額して、つまり医療に投資して、外貨を稼ぐとか、
雇用を大幅に増やすとかの意見もあるようです。
そういった医療を重要拠点産業にしよう、みたいな
明るい方向は見出せないでしょうか?
また、安易に言うな、と叩かれそうですが、あえて
言ってみました。

>医療費増額して、つまり医療に投資して、外貨を稼ぐとか、

 そういう考えがあるのですか?
 で、それが「明るい方向」なのですか?

>あえて言ってみました。

 あえて言う理由は?

そういう考えがあるのですか?  で、それが「明るい方向」なのですか?

「医療を外貨の稼げる輸出産業に」

こういう考えもあるようです。
これはこれでひとつの明るい方向だと私は思います。

あえて言う理由は?

医療の将来が暗い話ばかりじゃ、夢がないではないですか。
医療費増額容認派の私としては、明るい将来展望が、
少しでも欲しいです。
どういう話であれ、国民が医療費増額賛成、みたいな
雰囲気作りが必要かと思います。

キューバ医師のように外国に派遣するとか(笑)

スミマセン、社会保険制度のプロとしてツッコミを一つ。

今の日本の公的年金制度は、昭和17年の労働者年金保険法(今の厚生年金保険法の前身)がルーツで、昭和36年の国民年金法による国民皆年金の確率、そして昭和61年の基礎年金背戸導入と歩んできました。ただし、最初から今に至るまで賦課方式であり、積立方式を採用した時期はありません。

>年金が積立方式から賦課方式へ変更やむなしと言われ出したころ……。

何か思い違いなされているような気がしますが‥‥‥。

 昭和年間の学生時代の社会政策の知識なので間違っているかもしれません。国庫負担部分が賦課方式で保険料拠出部分が積立方式という修正積立方式……じゃなかったでしたっけ?(自信ないですが
 当時・和光大学の出水教授が、「厚生年金と国民年金の積立黒字部分が昭和70年代にゼロになり、昭和80年代には賦課方式に移行せざるを得ない。」「昭和100年の老齢年金給付は、厚生年金で8倍・国民年金で3倍になる」という趣旨の解説をしていたのをそのまま信じていました。m(_ _)m
 正確な知識をご指導いただければ幸いです。m(_ _)m

>正確な知識をご指導いただければ

別に正確とか間違いとじゃないのですが、年金制度や健康保険制度という社会保険については、お茶の間の父ちゃんカーちゃんはともかく、一応大学教授という肩書きがあっても誤解・勘違い・無理解が多いので…

例えば厚生年金の130兆円ほどの「積立金」ですが、積立方式で溜めたわけでは無い。そもそも厚生年金の制度が確立したとき、年金受給に必要な厚生年金の加入期間は最低で20年必要だった。ということは厚生年金保険法の前身である労働者年金保険法が成立した昭和17年から20年経過した昭和37年までの20年間、原則として老齢厚生年金を貰える人は居なかった。(加入年数を短縮して受給権を取得できる特例該当者を除く)

というわけで、厚生年金制度が作られて最初の20年間は、保険料は徴収するが年金を支払う必要は無かったから、徴収した保険料は全て「積立金」として溜め込んでいた。これが130兆円の原資です。

なお、労働者年金保険法は昭和17年1月より一部施行(加入者の登録受付開始)がされていますが、前年の昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争を行なうための戦費(国家財政上の軍事費)の枯渇に悩んだ東条内閣が、賦課方式の年金制度を作れば受給に必要な最低加入年数が経過するまで、徴収した保険料をもって軍事費に宛てる(年金積立金での戦時国債への投資)ことに着目して労働者年金保険法が制定されました。決して社会保障制度の充実のために実施された政策ではありません。

なおこの賦課方式の公的年金の保険料徴収と、最低加入年数のギャップによる財政上の余剰金=後の積立金の存在に東条内閣が着目したのは、戦前の商工省官僚であった岸信介の献策があった結果とも言われています。
(この岸信介の献策と関与についてはあくまでも噂の域を出ず、真偽のほどは不明です)

> そういった医療を重要拠点産業にしよう、みたいな

 既に医療・福祉・介護は労働者約600万人の大規模産業です。

 ありがとうございました。m(_ _)m
 喉に引っかかっていた社会政策の疑問のトゲがとれた気分です。戦前と終戦直後の積立金はハイパーインフレで消滅したはずなのに?とずっと疑問でした。m(_ _)m

かなり古い資料ですが、福祉と公共事業への資本投下したときの経済効果を比較したものが載っています。

雇用創出は、福祉部門が勝っているようです。


福祉部門への投入に伴う経済効果等と建設効果に関する質問主意書

表−1 全国への生産波及効果(各々一兆円投入の場合)

表−2 全国で創出される雇用効果(各々に一兆円の投入の場合)


 病院経営者のための論理のように思えました。
 つまり、日本の患者または患者予備軍のための医療崩壊抑止策なのかどうか疑問なんですけど。

国内で医療の財源を求めるとすれば、税金を投入するか、保険料率を上げるか、患者の自己負担を上げるか。しかしいずれも、現実には難しいのはお分かりでしょう。そうした中で、医療者として何をすべきか、と考えたとき、「輸入産業」という構造を変えていこう、医療を輸出して外貨を稼ごう、と考えたわけです。
■医療の財源は自ら輸出して稼ぐ

─医療の輸出とは、具体的にどういうことなのでしょうか。

 何も難しく考える必要はありません。世界中で今、普通に行われていることですから。外国に日本の医療を持っていく。要は病院を建てて診療を行い、治療費を頂くということです。あるいは、海外から患者さんを呼んで、日本で治療を受けてもらい、治療費を払っていただく。そうすることで、外貨を稼ぐ。それを医療の財源にするわけです。

 引用された記事は、むしろ外貨を稼ぐことによって医療の財源に充て、国民の医療負担を下げようという話なのではないですか?国内向けの医療リソースが海外に出て行くのとトレードオフになるので、海外への逃散を前向きな表現にしてみただけ、とも言えるかもしれません。でもどうせ同じ内容なら、前向きに考えた方が良い結果に繋がるというのはあるかもしれませんね。

 輸出産業にするために一時的にでも医療負担を増額しようというというのは、記事の趣旨とはむしろ逆ではないかと思います。一市民さん独自の見解なのであれば、ご自分なりの言葉で説明を加えるべきではないかと思います。

医療ツーリズムを志向している国家の、ふつうの一市民の医療水準を調べてから書けよ(www。
そういう国に日本もすればいいのにという神経がバロス。

>医療輸出論

 費用対効果というか採算性の設計をしてみてください。数値で収支計算しないと理屈倒れだし、第一説得力がないですよ。
 病院建設のコスト(投下資本)を回収するだけで、最短でも10年はかかるのが普通です。
 それに日本人の高賃金は、米国都市部や西アジアや東南アジアの富裕層を除き、現地の物価(医療収入算定基礎)から見て採算割れでしょう。
 富裕層を狙った輸出は、すぐ需要の飽和点に達するほどパイが小さいですよ。
 それに点理容業〜医師・弁護士は、ハンドメイド・オーダーメイド産業の宿命から、薄利多売のコストダウンが難しく、1000円10分理容業のように質を落とすしかコストダウンが図れません。

僕としては総論として「医療への適切なコストを負担する」という気持ちはある(おそらく多くの人はそう思っているでしょう)のですが、具体的には?という感じです。

国民が医療全体をシステムも医療従事者も含めて買っていると考えてはいかがでしょうか。
もちろん医者である私も国民として医療を買っているわけです。私が急病になったときに救急車を呼べば多分そこそこまともな医療を受けられるだろうという期待を持つ権利に対して税金や保険料を払って医療を買っているのだと思います。

医療全体が出力するポテンシャルは医療システムやその中で働く医師、看護師、技師、事務員、、、などの人材にどれだけ金をかけるかに大きく依存すると思います。
人に関して言えば2倍金を出せば2倍の人が雇えるので、医療現場での人手不足による事故が減ることでしょう(転倒による骨折、食事中の窒息などそばで見ている人がいれば防げた事故は少なくありません)半分にすれば危険が増します。
ある職種一人あたりに支払われる報酬も、中長期的に、その職につく人の能力を決定する重要な因子です。ワーキングプアの代名詞のようになっている介護福祉士の学校はすでに定員割れです。

ポテンシャルの範囲でどれだけ出力があるかは、やる気や嫌気にも依存するでしょうが(これこそが最近の医療には重要な問題だと思っていますが)、いくらお金を出すかも極めて重要な問題です。

私たち国民が満足するあるいは期待する(我慢できるとか許容できるかも?)医療とはどのようなもので、それにいくら必要か、それを買うための金を出す予算や資産や気持ちがあるかという議論が医療を提供する側にも受ける側にも不足しているように思います。

 コメント数が200を超えましたので、続行エントリを立てようと思いますが、現在の議論のテーマは何でしょうか?

 エントリ本文の趣旨とはかなりずれた議論がされているようですので、(その2)といういつもの続編エントリのタイトルは不適当と思います。
 皆さんのご希望でタイトルをつけたいと思います。

グローバルスタンダードから見て既に採算割れであった医療を、現場で何とか献身的に支えてきた勤務医が、過剰な要求、過剰な労働時間に耐えかねて逃散したのが医療崩壊の本質だと思います。医療に対する刑事司法の介入停止は、多少は勤務医逃散を抑制するかも知れませんが、毎年2000億以上の医療費を削減する政府を、日本国民が選択している以上、医療崩壊の流れはもう止められないと思います。現場の指導医層が抜けた所ではもう研修医も入ってきません。現在一部の地方、時間帯にとどまっている医療のアクセス悪化は、今後加速するでしょう。英国のように再生させるには膨大なコストがかかります。

いわゆる、続編エントリと言うより、いくつかのテーマをフォークするようなのがいいのでは。

「誠意」がやや抽象的であったような気もします。

医師として一番知りたいのは、法曹側から見た、業務上過失に問うべき医療行為と正当な医療行為の境目です。法理に詳しい方々が大野病院事件の判決から何を嗅ぎ取ったかを知りたいと思います。

知識や経験の不足からベテランや専門医と異なる選択をすることは時にあります。
また、救急を引き受けて患者さんが到着して初めて、自分には見切れない患者さんであることがわかることがあります。精一杯やって何とかすることがあり、転院していただくこともあり、ときに転院先がなかなか見つからずできるだけのことをしながらも亡くなる方もいることでしょう。

誠実な医療が起訴逮捕をまぬかれるなら、誠実の定義が知りたいですし、他の表現を含めて出来るだけ具体的に、逮捕される医療とされない医療の境目あたりを探るようなテーマを見せていただきたいと思います。

医療関係者にとっての「誠実な医療」
患者とその家族にとっての「誠実な医療」
法律関係者にとっての「誠実な医療」

これらが食い違っているのが問題なんでしょうね。
たぶん、知識の違いが大きい。
「まっとうな医療」であるかどうかを判断する知識が無ければ、「一見誠実そうに見える医療」が誠実な医療であると思われてしまう。

>逮捕される医療とされない医療の境目

逮捕はともかく、業過罪で有罪になるかどうかの境目は、先の福島地裁判決で次の基準が示されたと思います。

示された基準:医療準則に則った医療行為であれば、患者の死亡など不幸な結果に終わったとしても、その医療行為を行なった医療者は業務上過失致死傷罪で有罪となることはない。

そして、この「医療準則に則った医療行為」であったかどうかを判定する公的機関として、安全調を新たに作り、その安全調に「医療事故原因の調査鑑定センター」とも言うべき調査委員会を、医療の最前線で働いている実務医療者を委員に嘱託して設置しよう、このように模索が始まっているのが現状でしょう。

いや、その答えはもうでていませんか?
いいかげんパターナルな態度をやめて、

「消費者==患者様に誠実だと感じていただける医療」

を追求すべしというのが、この10から20年の流れだったと思います。

救急を引き受けて患者さんが到着して初めて、自分には見切れない患者さんであることがわかることがあります。精一杯やって何とかすることがあり、転院していただくこともあり、ときに転院先がなかなか見つからずできるだけのことをしながらも亡くなる方もいることでしょう。

こんなときに「見られないかも知れないのに引き受けないで下さい」という患者さん側のご意見は、正当とお考えですか?

言い換えると、「見られないかも知れないが助けてあげられるかもしれない」と思って救急を引き受ける医師の態度は、確かにパターナルな態度ではありますが、私は『医師が持つべき誠実さ』だと思うのですが、患者さんや法曹にとっては『蛮勇』であり慎むべきなのでしょうか。

「見られないかも知れないのに引き受けないで下さい」という患者さん側のご意見
そういう意見が通るようになったので、いわゆるたらい回し、受け入れ拒否が全国的にどんどん発生するようになったのであろうと思われます。

 上記の「」の理屈は、医療機関にとっても、正論なので、誰も反対できません(笑)

 
 こういう建前と本音が異常に乖離してしまったシステムというのは完全に崩壊させてしまわない限りダメだと思うのは小生だけではありますまい。

 救急救命(救急外来)では、先ず症状を固定(安定)させるのも重要なお仕事と聞いたことがあります。その間に、専門家を手配するなり、情報を集めるのだそうです。症状が悪化して死亡されては意味がありません。これは法学を学んだものでもわかる理屈です。
 未知の症例で担ぎ込まれた患者(たとえば地下鉄サリン事件)への対処方法がこれだったそうです。心肺蘇生のABC(死語)を施さなかったら、パムを投与しても助からなかった方又は重篤な脳障害後遺症が残った方が多数いたはずです。
 それは、決して蛮勇ではありません。

>「消費者==患者様に誠実だと感じていただける医療」
>を追求すべしというのが、この10から20年の流れだったと思います。

いや、そういう要求をするようになったというだけで、供給側は、それに医療崩壊で答えているわけですが。

>医療関係者にとっての「誠実な医療」
>患者とその家族にとっての「誠実な医療」
>法律関係者にとっての「誠実な医療」

>これらが食い違っているのが問題なんでしょうね。

 私は、今回の判決は、

裁判所が、「医療関係者にとっての『誠実な医療』」に最大級の理解を示したもの

と考えているんですが、医療側にはそういう見方をしていない方が多いように感じられます。

今回の事件は「遺族にとっては誠実と思えなかった。」ことに警察がひっぱられてしまって、それを裁判所が、「医療関係者にとっての『誠実な医療』」に最大級の理解を示したものと捉えています。

あと私は
>「消費者==患者様に誠実だと感じていただける医療」

を追求すべしというのが、この10から20年の流れだったと思います。

というのがそもそも違ってると思うんですよね。
お医者様というのも患者様というのも変。
患者さんと医療関係者が協力して、病気に対処する。
一緒にやってく対等な関係だと思うんです。

しかも怖い話ですが「消費者==患者様に誠実だと感じていただける医療」って感じさせるだけなら患者をだますインチキ医療のほうが上手にやってる気がします。(あ、また問題発言かな?

モトケン先生、こんにちは。

確かに裁判所は「誠実な医療」に理解を示してくれたのかもしれません。検察側も譲歩したのかもしれません。
しかし、大野と同じくらい医師たちを震撼させた、「割り箸事件」はいまだに検察側から追求されています。事故発生から9年ですかね。

 私が大野病院事件の判決を受けて強調しているのは、医療側が注目すべきは、検察の過去の動向ではなく、大野病院事件において示された裁判所の姿勢を見るべきだということです。
 そしてそれを受けた検察の不控訴の姿勢を考えるべきだということです。
 
 検察の論理としては、一旦起訴なり控訴なりをした以上は、裁判所の判断を受けて自らの行為についても白黒をつけるということになりますから、割り箸事件についても、控訴した以上は判決を待たずに控訴の取下はしません。
 割り箸事件の控訴の取下をしないことをもって、現在の検察の姿勢を推測すると判断を誤ります。

 いい加減に後ろ向きの発想を転換したらどうですか。
 訴訟リスクについて医療側が今後の行動基準を考えるのであれば、今現在と将来における検察と裁判所の動向を考えるべきです。

もう少しありふれた状況について考え方を教えてください。
以下のようなケースはどのように判定されると思われますか?

腹痛を訴える患者さんが救急車で来た。問診し身体所見をとっている間に外来で吐血。担当医は循環器の専門医であり内視鏡ができないので、その他の方法でがんばりながら、緊急内視鏡ができる病院を探したが見つからず、患者さん死亡。

この患者さんは胃潰瘍の既往があり、隣町のかかりつけ医が、3ヶ月前に吐血の内視鏡的治療をしていた。

救急隊はこのかかりつけ医に連絡したが、休診のため連絡がつかなかった。吐血の既往があることは引き受けた救急医には知らされていなかった。

このケースでは明らかに、消化器内視鏡の専門医であれば救命の可能性が高いと思われます。しかも救急担当医は、吐血に対する標準的な医療を行っていません。救急医は最近の吐血歴があることを知らされていれば、引き受けなかったかもしれません。

この患者さんを引き受けた医師の行為は、誠実でしょうか、それとも消化器専門医でもないのに腹痛を引き受ける蛮勇でしょうか。

>232 モトケン先生、

 一言だけ言わせてください。
 私は、割り箸事件の控訴を取り下げろなんて主張はしておりません。
 この裁判は2006年3月に一審無罪が言い渡され、2007年6月より二審が始まっております。
一審で、裁判所は診療行為に過失はあったが、死因との因果関係を認めなかっただけです。検察は控訴審で救命できたと主張しており、二審では有罪になる可能性は十分あると思います。

 確かに、大野の判決は、産科をはじめとする医療界にとって非常に大きな前進であったと思います。
割り箸事件は救急に携わる可能性のある医師にとって、非常に重要な刑事裁判ですが、まだ結審しておりません。私を含め多くの医師が、固唾を呑んで見守っていると考えられます(医療系ブログを観るとしばしばあげられていますし)。

 ですから、229において、「医療側にはそういう見方をしていない方が多いように感じられます。」とモトケン先生が仰ったのを受けて、私はまだまだ素直にはそうは考えられないな、という意味で割り箸をあげました。

最後に、232における苦言は私に対してでしょうから、管理人であるモトケン先生に不快な思いをさせたことについてはお詫び申し上げます。

大野の判決が、割り箸の裁判官にも影響して、
無罪になることを願いますし、きっとそうなる気がします。

これが有罪なら、確かに救急はやってられないという
医師が増えると思います。

 そういう趣旨であれば、

 「割り箸事件については、高裁の判断がまだ出ていません。」

と書いていただきたかったところです。

>検察側から追求されています。

と書かれましたので、私としては検察批判としか読めませんでした。

 司法側と言っても、「検察」と「裁判所」(弁護士や警察も)は別だということは、これまで何度も何度も指摘したことです。

 高裁の判断がまだ出ていないという意味でならば、ご指摘の問題はあろうかと思います。
 
 しかし、私が指摘したのは、大野病院事件の判決を踏まえていますが、個々のケースの判断とは別に医療側として、訴訟リスクを低減する方策を提案したつもりです。
 訴訟リスクについての不安感を払拭できないということと、不安感を低減するにはどうすべきかという問題は別の問題です。

 不安感ばかりを強調しても仕方がないでしょう、ということです。
 患者側としては、おっかなびっくりで治療行為をされたのではたまったものではないのです。
 だから、私はもう少し自分の判断に自信を持ってくださいよ、と言っているのです。
 その裏づけとして大野病院事件の判決の意味を説明しているのです。

 裁判官に対して、「医師は不安に思っている、その不安を解消してくれ。」という主張を行うことは判決の社会的影響を認識してもらうという意味では重要ですが、医療業過事件の判決としては、「許容される医療行為はどのようなものか」という問題こそが重要なのです。

 その観点で、大野病院事件の判決とそれに対して控訴しなかった検察の判断を重いと考えて差し支えないと思います。
 判決自体は地裁の判決ですが、不控訴を決めた検察の判断の中には、最高検の判断が入っていると見て間違いありません。

 その観点で、大野病院事件の判決とそれに対して控訴しなかった検察の判断を重いと考えて差し支えないと思います。  判決自体は地裁の判決ですが、不控訴を決めた検察の判断の中には、最高検の判断が入っていると見て間違いありません。
小生もそう思っています。検察が謙抑的に振る舞っていてくれる間に安全調を立ち上げる方向を医療界は探る必要がありま。幸い政治の世界が混沌としているので時間的余裕が与えられた感じですが、いずれ麻生政権になっても小沢政権になっても安全調の必要性が強くなりこそすれ弱くなることはありません。政争の具にすることなく医療者側の最低限の要求を満たせるものを成立させることが出来る良い機会ではないでしょうか。

 大野病院事件が、特にその他の事件との対比という点で持つ意味は、誠意に基づいて最善を尽くしたという「印象」さえあれば、医療界の指導者層の大半は、たとえ事実関係が必ずしも明らかでない段階であっても、積極的にその医師を守るという意思表示を行う用意があるということだったのではないかと思います。

 訴訟においてはあまり効果はありませんでしたが、医療界内部に対しては一応以上のメッセージになっているだろうと思います。

 逆に、これを守る意思表示が行われなかったとしたら、中堅以下の前線で働く若い医師達の行動がどうなっていたのか、薄ら寒い思いを禁じ得ません。

 また、所詮は「印象」に基づいた意思表示であったわけで、これが当初の印象を全くひっくり返すような事実関係が出てこなかったことは非常に大きな幸運でしたが、しかし危うい局面であったことは間違いなく、多くの関係者が同じ橋は渡りたくない、懲り懲りだと感じていることだろうと思います。

 医療界の重鎮達としては、今回は非常に大きなリスクを取ったから、あとは若い医師達にしっかりやって欲しいと考えているのではないでしょうか。

 ま、妄想です。

 で、問題はやはり事故調だけでなく、平時のpeer reviewの問題にまで拡がるべきものと思います。

>医療関係者にとっての「誠実な医療」
>患者とその家族にとっての「誠実な医療」
>法律関係者にとっての「誠実な医療」

のうち、法律関係者は、医療関係者の「誠実な医療」をとりあえず信じてくれた、というのが今回の判決であったと思っています。これは大きな前進で、医療関係者は法律家の期待を裏切ってはならないでしょう。

一方、このスレの冒頭で、モトケンさんは、「患者の不信」をどうするか、という問題提起をなさっています。まさに、

http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/10921.html#more

みたいなのをどうやって説得するか、という問題です。ですから、沼地さんのようなお話が出てきて当然かと。

内科の医者さん、私も「患者のためを思って治療せよ」と教えられましたし、そう教えてもきました。でも、家族や本人とぶつかってまでそれをしろと教えるのには既に躊躇があります。幸い現在ではドロポしていてそういう場面に直接出くわすことはありません。

(* 沼地先生、うちの職場では、外部監査なんとやらから「患者」用駐車場などとは怪しからん、「患者様」にせよ、という要求がありました。あっというまに刑事もとい掲示が全部「患者様」に化けましたよ。*)

幸い私は子育てのため患者さんを「患者様」と呼べという病院から戦力外通知を頂いて、患者さんを「患者様」とは呼ばないという方針の病院でまったり裏方をやっております。(笑
患者さんによっては好きで患者になったわけでもなく「様」つけられてもうれしくないって反応もありますよね。
でも若い先生は患者様に慣れているのか、よそから来た人は医者同士の会話でも「こういう患者様で」などと話しているのでおばさんとしては違和感。
今いる病院は「患者さんと医療側は対等、「様」はつけない。」と全職員に通達されてるんですが。

>家族や本人とぶつかってまでそれをしろと教えるのには既に躊躇があります。

ぶつかるというか話し合っても合意点がみつからないときには他の病院に移っていただいてもいいと思うのですが。
死んでもいいから輸血したく無いとか、死んでもいいから手術したく無いという自由はもちろんあると思います。
でもそれを見ていられないと感じた場合は、私はご期待にそえませんって言ってもいいんじゃないでしょうかね〜。
でないと、双方ストレスでしょうから。

私は、今回の判決は、

裁判所が、「医療関係者にとっての『誠実な医療』」に最大級の理解を示したもの
と考えているんですが、医療側にはそういう見方をしていない方が多いように感じられます。

私は、正しい知識と判断力と技術に基づいて行われた医療行為はその結果にかかわらず正しいと判断されたのだと思っています。

誠実さが、まじめに勉強してきた医師が持つべき正しい知識、判断、技術と言う意味で用いられているのであればその通りだと思います。

それとも、彼の行為に正しい知識と技術の結果とは異なる行為があったが、何らかの理由で無罪となり、その理由が誠実さだったのでしょうか?

医療ツーリズムを志向している国家の、ふつうの一市民の医療水準を調べてから書けよ(www。 そういう国に日本もすればいいのにという神経がバロス。

代表的な国としてはインド、シンガポール、インドネシアといったところですかね。

日本もやがてそのレベルになるんじゃないですか。
患者様残って、医者残らず。

腹痛を訴える患者さんが救急車で来た。問診し身体所見をとっている間に外来で吐血。担当医は循環器の専門医であり内視鏡ができないので、その他の方法でがんばりながら、緊急内視鏡ができる病院を探したが見つからず、患者さん死亡。 この患者さんは胃潰瘍の既往があり、隣町のかかりつけ医が、3ヶ月前に吐血の内視鏡的治療をしていた。

救急隊はこのかかりつけ医に連絡したが、休診のため連絡がつかなかった。吐血の既往があることは引き受けた救急医には知らされていなかった。


この症例に関して、
予見可能性ということで言えば、自分の専門外である可能性がある患者さんを見るのであるから、自分が見切れない可能性、自分以外の医者が自分よりもうまく診療する可能性を予見できたはずである。

自分が引き受けることが、患者さんに不利をもたらすことを予見できたはずであり、この点を予見可能性があったと判定される可能性があると思います。

間違えがあればご指摘いただければ幸いです。

「予見」の対象は、「不利」や「最善ではないこと」ではありません。
業務上過失致死罪の問題であれば、「死の結果」が予見できた可能性があったかどうか、です。

また、「予見可能性」が肯定されるだけでは、過失にはまだまだ遠いです。
「予見可能性・予見義務」と「回避可能性・回避義務」が、最終的には「回避義務」の違反があったかどうかが過失の有無の分かれ目です。
この1ヶ月内くらいでも激しく頻出の話ですので、ご確認ください。

当然、死の結果を予見しています。

論理の立て方を質問されたのではないのですか?
「死」以外を対象に据えるのは法的なロジック処理として誤っている、と教えて差し上げたのですが。

そして、医療行為で「予見可能性」が0%と認定されることはまずありえません。
だから、「予見可能性」だけを独立に論じることにはまったく意味はないし、むしろイメージを誤導するので有害なんです。

「過失」の有無を知りたいのではないのですか?
なぜ、必要条件のひとつだけを抜き出して検討しようとなさっているのですか?
それに意味はあるのですか?

>「過失」の有無を知りたいのではないのですか?

その通りです。もう少し言えば、私が逮捕されたり、起訴されたり、有罪判決を受けたりする可能性があるのかないのかを知りたいのです。議論をもてあそんでいるのではありません。今日、目の前にある、現実なのです。

自分が良く遭遇する場面で、これは患者さんが亡くなると業過致死と言われかねないなと思う場面を、多少の脚色をして提示したのです。

No.233への答えがほしかったのです。
どなたからもレスがなかったので、自分の考えを述べ、法曹の方の考えを聞きたいと思っています。

自分が手におえない可能性があって、その結果死ぬかもしれない。でも十分に役に立って、すぐに楽にしてあげられるかもしれない。私は、めったに救急車を断りませんが、そこに犯罪と言われかねないこともあるのだろうと思っています。

多くの場面で、役に立てるのですが、時々どうしようもなくて転院を求めることがあります。なかなか引き受けてが見つからず、このまま患者さんが亡くなったら、この患者さんは最善の医療を受けられなかったために亡くなることになるなと感じます。

この方が、亡くなったら私は、業過致死の容疑者、あるいは犯罪者なのだと思っています。いかがでしょうか。

追加コメント。
命を助けることに積極的な誠意に対して何らかの免責がほしいと思っています。
以下は別エントリーへの投稿。レスが付かず野ざらしになってしまいました。

http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/08/09-180703.php#c180654

論理として噛み合っていないように感じられてしまったため、きつい表現になってしまいました。ご容赦下さい。

一般論としては、緊急性が高くなれば高くなるほど、民事でも刑事でも、責任を負わされる可能性は低くなります。

この方が、亡くなったら私は、業過致死の容疑者、あるいは犯罪者なのだと思っています。いかがでしょうか。

そう思われることは、内科の医者さまご自身の問題ですから、他からどうこうできることではないと思います。

過失判断の基準については、法律家以外でも理解可能な程度に噛み砕かれて、何度も何度も説明されてきていると思います。
それをご自身にあてはめて、
「これこれの状況下でこれだけやっているんだから、過失だなどと責められる謂われはない」
と考えるか、
「やばい橋を渡り続けている、いつ刑事裁判にかけられてもおかしくない、もう足抜けだ」
と考えるか、いずれの判断が妥当かは、具体的な事情によります。

No.233にお書きの事情だけでは、第三者からはなんとも申し上げることができません。

 個々の具体的なケースについての具体的な判断、つまり起訴されたら有罪になるかどうか、という問題はかなり微妙な問題があるのは事実です。
 ですから、私を含めて答えにくいのです。

 しかし、基本的な考え方として、できる限り医療側の不必要な不安感は除去したいと考えています。

 「誠実な医療」つまり起訴されないまたは有罪になるべきでない医療について、仕切り直しの別エントリを立てました。

 「誠実な医療」と「普通の医療」と「まっとうな医療」

突き放してばかりでもあれですから私見を申し上げますが、私はまさにリンク先のコメントのようなことが、まさに過失なしと認められる基準を引き下げるか、軽過失を非犯罪化することの理由となると考えています。
社会にとっての利益を最大化する。それに資する行為は、ミクロで見てでこぼこがあったとしても、全部をきっちり均そうとすべきでない。

救急医療の「特殊性」を一般国民が理解せず、「他の業種では認められない特権を得ようとしている」などという批判が出るうちは、立法措置は難しいとは思っていますが。

私のように考える被医療者が少しでも増えるよう、これでもできる範囲で努力しているつもりではあります。
(ので、「賛同者の存在」に目もくれようともせず、ただただ愚痴っているだけのコメントを見るとうんざりしてしまうのです。ご寛恕ください)

例えば、脳梗塞で倒れて、救急車でA病院に運ばれた。
A病院で処置不可能なため、B病院に転院したが、転院途中に
死亡、あるいはB病院到着後、死亡などの場合。

A病院で適切な応急処置はされたのか?
そもそもA病院で受けたことに過失はなかったのか?

こういう理由で、医師が訴えられるケースはあると思います。
でも、具体的な訴訟は聞いたことがありません。

どなたか具体的な訴訟をご存知でしたら教えてください。
尚、大淀事件は似ていると思います。

ところで、救急は免責にしようという提案も議員からあるわけですから、そちらと議論することが大事だと思いますが。

例えば、脳梗塞で倒れて、救急車でA病院に運ばれた。 A病院で処置不可能なため、B病院に転院したが、転院途中に 死亡、あるいはB病院到着後、死亡などの場合。

A病院で適切な応急処置はされたのか?
そもそもA病院で受けたことに過失はなかったのか?

こういう理由で、医師が訴えられるケースはあると思います。
でも、具体的な訴訟は聞いたことがありません。

心筋梗塞ならば
http://kenkoubyoukinashi.blog36.fc2.com/blog-date-20070421.html

 民事ですが医師を激怒させた判決の一つです。

>例えば、脳梗塞で倒れて、救急車でA病院に運ばれた。
>A病院で処置不可能なため、B病院に転院したが、転院途中に死亡、あるいはB病院到着後、死亡などの場合。
>A病院で適切な応急処置はされたのか?
>そもそもA病院で受けたことに過失はなかったのか?
>こういう理由で、医師が訴えられるケースはあると思います。
>でも、具体的な訴訟は聞いたことがありません。

脳梗塞ではありませんが,心筋梗塞では有名な加古川訴訟がありますね.似たような事例ならまだまだ出て来ると思いますが...

>モトケンさん、fukafukaさん、

レス、ありがとうございます。
お互いに信用したり、不信を感じたりしながら、議論を重ね、ひとつでも多くの命を助け、ひとつでも多くの苦痛を減らしながら、不適切な医療を受ける患者さんを減らしたいと言う共通の目標を目指していくのだろうと思います。

雨降って地固まる。

雨を降らせようとは思っていませんが。

社会にとっての利益を最大化する。それに資する行為は、ミクロで見てでこぼこがあったとしても、全部をきっちり均そうとすべきでない。

こういうところを法律で定める根拠となる法理があれば知りたいと思います。医療のどの部分がそれによるある程度の免責の対象になりうるのかを考える基礎になりそうに思います。

私のように考える被医療者が少しでも増えるよう、これでもできる範囲で努力しているつもりではあります。

頼もしい限りです。


『「助かった95人に免じて、2人の不運の責任は私に取らせないで下さい。その代わりこれからも次の95人を助けるから」ってところです。』を医者のわがままでなく公益の最大化と表現していただけたのだとしたら、私の気持ちのもやもやを理論武装していただけたようで、心強く感じます。

ところで、救急は免責にしようという提案も議員からあるわけですから、そちらと議論することが大事だと思いますが。

 レスを忘れていましたが・・・。こういう動きも実際にあります。

 >社会にとっての利益を最大化する。それに資する行為は、ミクロで見てでこぼこがあったとしても、全部をきっちり均そうとすべきでない。
  
こういうところを法律で定める根拠となる法理があれば知りたいと思います。

抽象的ではありますが、その法理とは、「過失責任主義」 にほかなりません。

「過失」とは、「結果さえ悪ければ責任をとらせる」という制度(=結果責任主義)の不都合性を克服するための概念です。
「常人では避けることのできなかったミス」については、許容し責任を問わないことが、社会正義に適うという価値判断から生まれたものです。

結果責任主義の不都合性とは、説明するまでもなく、いま医療業界で起こっていることです。
(過失責任のはずが、責任を追及された側にとって、「やるべきことをやっていたはずなのに、運悪く結果が伴わなかったせいで責任をとらされている」 と感じられているので)

端的に二次救急の崩壊が、それですね。

三次はまだまだ、やる気のある医者が残っていますが、二次の崩壊で、さすがに刀折れ矢尽き果てている状態。

だから一次を開業医の先生が手伝ったりし始めましたが、焼け石に水の感です。

私の聞き方が誤解を招いているように思います。

私の質問は、

100回のうち1回か2回は過失を犯すけれども、残りの98回に免じて1−2回の過失を免責してくれる法律ができる可能性のある法理があれば知りたい
と言うものです。

もちろん、死亡にいたる過失はこのような高い確率で起きるわけではありませんが、専門医だったら処置が違っていただろう、結果も良かったかもしれないと思う場面は特に救急の場ではすくなくありませんので。

もちろんこう考える基には、断ればこの患者さんは医療を受ける前に、重症化するとか亡くなってしまうなどの危惧があるわけですけど。つまりは診療拒否、たらいまわしの予防策にはなるのだろうけど、法理はそれを許すのか、と言う疑問です。

医療関係者以外はこういう考えを受け入れられるのか、ということもとても大切だと思いますが。

救急における誠実な医療って何だろう、と考えさせられる
今日この頃。
今は各病院対応がかなり違っているようですし、
この病院に運んでくれ、と依頼もできないようですから、
患者は運任せ、ということだと思います。
それでも、そのことに国民の不満はないようですから、
ベッドが空いていたら、受けるというのが
あくまで基本であるべきだと思います。

No.261 一市民 さん
細かいツッコミですが...

ベッドが空いていたら、受けるというのがあくまで基本であるべきだと思います。
ベッドが空いていても医者や看護師が病棟の患者さんにかかりきりで手が離せない場合もありますし、ベッドの空きが無くても、入院患者が落ち着いていれば診察できる場合ももちろんあります。
ただし、後者の場合、入院が必要な患者さんの場合は転送が必要となり、それならば最初から入院も出来る施設へ直接受診していただいた方が時間のロスも減ることが期待できます。


ちなみに、

この病院に運んでくれ、と依頼もできないようですから、
よほどの遠方でなければ、かかりつけ病院に問い合わせて、可能なら搬送してもらえますし、問い合わせがあり受入可能なら受けますよ。

P R

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