エントリ

 このエントリは、峰村健司氏のコメント(刑事司法の介入と業界に対する信頼感No.15 以下)を契機とするものです。

  最初にいくつか確認しておきます。

 私のここ最近(大野病院事件判決の前日から)の発言は、いずれも大野病院事件の判決とそれに対する検察の不控訴決定を踏まえてのものです。
 以前の青戸病院事件判決や割り箸事件判決について言及する場合はその旨明示しているはずですし、多くの民事医療過誤事件判決は考慮に入れていません。
 民事と刑事の過失判断理念が違うからです。
 過去の民事のトンデモ判決(と医療側が理解している判決)を前提に大野病院判決を理解しようとすると色眼鏡で見ることになります。

 次に、「誠実」という言葉についてですが、大野病院判決の要旨には「誠実」という言葉はありません。
 つまり、要旨で見る限り、大野病院判決の論理の中には、誠実な医療行為という概念はないでのであり、当然のこととして大野病院判決が医師に対して「誠実な医療」を要求していません。
 判決の論理自体は、誠実とは無関係に無罪を導いています。

 このブログで、「誠実」ということが議論されるようになった原因は、私の「誠実な医療の重要性」にあるのですが、このエントリは、すでに説明したつもりですが、大野病院判決を医療側から見てどう受け止めるべきか、という観点で書いたものです。
 つまり、医師の側において、誠実さを重視することの重要性を指摘したものに過ぎず、司法の論理として「誠実さ」が重視されていることを言いたかったのではありません。
 峰村氏の「私の言うところの「そういう司法」は,その直前に記した『「誠実さ」を重視する判断手法』を行使する司法,の意味であり,モトケンさんが言われるところの「信頼感」によって判断する司法であります。」というコメントは誤解です。
 大野病院判決jの論理(この論理というところが重要です)そのものは、「信頼感」によって判断しているわけではありません。

 なぜ、医師の側からの受け止め方を問題にしたかというと、医師が感じている訴訟リスクが問題だと思っているからです。
 私のこのような視点は、これまでのこのブログにおける2年以上にわたる議論の中での私の発言をお読みになっている方には当然のことと思っていたわけですが、今回の峰村氏のコメントはその意味で、私にとっては最も衝撃的な発言でした。

 繰り返して確認しますが、大野病院判決は、医療行為が誠実なものであったかどうかは判断していませんし、誠実な医療行為を要求しているわけでもありません。
 大野病院判決の論理としては、誠実な医療だったから無罪にしたのではありませんし、不誠実な医療だったら有罪になったとは限りません。
 そもそも、誠実さなどという曖昧な基準で有罪無罪を決することはできません。

 次に「誠実」という言葉の意味ですが、私の理解で、誠実という言葉は、人の能力や技能レベルと無関係の概念であると考えています。
 つまり、「誠実な医療」というのは、「理想的な医療」でも「完璧な医療」でも「最良の医療」でも「最高の医療」でも「最新の医療」でも「最適な医療」でも「人を死亡させない医療」でもありません。
 ヤフー辞書によれば、類語または関連後として「真面目」「正直」「真心」があげられています。
 要するに、与えられた状況に応じて最善を目指す医療と言っていいのではないかと思います。
 具体的な医療行為の内容が、誠実という基準で一義的に決まるものではないということも当然の前提です。

 私は、大野病院事件の論理の前提にある医療というものに対する裁判所の理解として、「誠実な医療」であるならば、それに対する刑事司法の発動(処罰)は謙抑的でなければならないという判断を読み取ったのです。
 私が、そう読み取ったのです。
 つまり、福島地裁の裁判官の医療行為に対する認識と、医療側が理解してほしいと思っている医療の実情との間に大きな乖離はないと、私は理解しました。
 そして、私は、そこに裁判所の加藤医師の誠実さに対する信頼を感じ取ったのです。
 そうなると、今後の医療側の課題としては、福島地裁が加藤医師に抱いた信頼を、他の裁判所と他の医師との間に広げ深めていくことが大事なのではなかろうか、というのが私の「誠実な医療の重要性」であったわけです。
 つまり、「誠実な医療の重要性」で指摘した「誠実な医療」とは、司法の論理としてのそれではなく、医療の論理としての「誠実な医療」であったわけです。

 さて、ここまで書いて、同じようなことを何度も書いたような気がするなと思っておりますが、いくら言葉を重ねても理解できない人には理解できないようです。
 私の文章力の拙さによるところもあるかと思いますが、最初から対立構造で見られたらお手上げだなという気もしています。

 しかし、どの程度の人が理解してくれているのかな、という点はとても関心のある事柄です。
 そこで、本エントリのタイトルです。
 別に、裁判所が誠実さを求めているわけではないことは、ここで述べたとおりです。
 しかし、裁判所が誠実さを求めていると誤解してそれに対する反発を示す医療側の発言も少なくないと思われます。
 そこで、あらためて聞いてみたいと思いました。

 医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?

| コメント(84) | トラックバック(1) このエントリーを含むはてなブックマーク  (Top)

トラックバック(1)

トラックバックURL: http://www.yabelab.net/mt4/mt-tb.cgi/7425

ぷにっと囲碁!なブログ - 医者=犯罪者予備軍 (2008年9月13日 20:25)

■「医療の限界」による落命が「殺人」と呼ばれるのなら 情けない理由 - 日々の出来事から - Yahoo!ブログ http://blogs.yah... 続きを読む

コメント(84)

「誠実」とか「信頼」はやや鵺的用語の感があります。

諸問題をそういう「横着な用語」に帰する方法論の齟齬が現れているような気がしますが、いかがでしょうか。

まあ、使うのがいかんとは言わないですが、ボトムアップ的な使い方をしないと軋轢を生むような気がします。

社会から要求される誠実さは、結局、医師は倫理感持てとか、だまって僻地にいくべきとか、厳しくても患者のために文句言うなとか、その類の論調の裏返しですからね。というか、そう感じるところまで私は来てます。


お題目としては誰も反対はしませんが、自分のコアの部分に誠実であればいいのであって、他人から言われたら、そうですねぇ以上のものじゃないです。


誠実さが科学的に定義できない以上、医療裁判において裁判所が誠実さを求めなかったというのは非常に正しい判断だと考えます。必死さとかを声の大きさで判断されたらもう、すべてが終わりです。

 医療側から司法側に対して、

 許される医療(逮捕されない医療)と許されない医療(逮捕される医療→起訴→有罪の医療)とを区別する基準を示してくれという要求をよく聞きます。

 それに対して、過失犯論の基本構造から、予見可能性、回避可能性、回避義務という法律用語で説明しても医療側にはまったくピンとこないのではないですか?

 私は、医療側にイメージしやすく、少なくとも福島地裁の裁判官には通用しそうな言葉として「誠実な医療」という言葉を使ってみたんですが、誤解を生じさせるだけでしたね。

 誤解を生じさせないように法律用語を使う(裁判の議論なんだからそれが当然ですが)と理解されない。
 法律の素人にわかりやすいように非法律的用語に置き換えると当然法律論としては不正確になりますし、素人にわかりやすい言葉というものは曖昧さを含みます。
 
 結局、法律の素人である医師が裁判の話を理解しようとすれば、法律家の言わんとすることを理解しようという姿勢を持たないと司法側の話を医師が理解することは不可能だと思うのですが、はなから自分たちの理解でもって司法側を批判しようとしている医師の皆さんは、このブログでいったい何が言いたいのでしょう?

図らずとも、専門家から素人へのインフォームドコンセントの困難さを示しておられますね。


最近、わたしが困っているのは、このブログに出会ってから司法側の判断は、医学的には間違いだが法的には正しいと思うようになってしまったことです。


真実が二つになってしまいました。

 私は、大野病院事件の論理の前提にある医療というものに対する裁判所の理解として、「誠実な医療(この定義がモトケン先生の定義に従うとして)」であるならば、それに対する刑事司法の発動(処罰)は謙抑的でなければならないという判断を読み取ったのです。

 もし、裁判所の判断が(あるいは検察の判断が)この条件において統一されているならば、これに異議を唱える医師はいないと思いますが・・・。

 大野病院事件をあれほど我々が問題にしたのは、明らかに先生の定義から外れる起訴が行われたからであり、裁判所が福島地検の方法を否定されていることに関しては満足しています。

 結局のところ、我々に出来るのは自分に出来る最良の手段で患者さんのQOLを上げることだけだと思っています。

>柳様

社会から要求される誠実さは、結局、医師は倫理感持てとか、だまって僻地にいくべきとか、厳しくても患者のために文句言うなとか、その類の論調の裏返しですからね。というか、そう感じるところまで私は来てます。

 明らかに言いすぎですし、マスコミに毒されすぎだと思います。現実の一般市民の論調は必ずしも上のようではないと思います。

 一方で峰村先生の疑念も分からなくはありません。

 すでに遠い話になりますが、白鴎大法科大学院長の土本氏の談話は衝撃的だったと思います。私はこの方が元最高検検事であったことより、現時点で法科大学院長であることにより重大な懸念を感じます。
 もしこの方の考えるような手法で新しい司法修習生が生まれてくるとなれば我々の疑念は強くなります。願わくば、この方のコメントが判決文をきちんと読んでない事による誤解であることに期待したいのですが・・・。

モトケンさんはボトム側の人間として発言したにも関わらず、
元検事の意見=お上の意向=トップからの押し付け
という風に受け取られてしまったのではないでしょうか。

産科医ですが、
私としては、「誠実な医療」と曖昧に言われるよりも、「予見可能性、回避可能性、回避義務という法律用語」で説明された方がわかりやすかったです(^^;)。

私がこちらのブログを拝見していてもっとも知りたいなと思っていることは、現在の医療裁判のあり方、医療に対する司法、警察の関与のあり方に司法の側に何らかの問題があると法律家の方が感じられているのか、だとしたらどんなところが問題でどういう風に改善したらいいと考えるのかを、法律の専門家の観点から語っていただけないかということです。医療側が考える司法側の問題ではなく、司法側から見た医療司法(という言葉は適切ではないかもしれませんが)の問題点を知りたいです。

モトケンさんは、「医師が感じている訴訟リスクが問題」と語られていますが、それは、司法側には(制度そのものを含めて)特に問題が無く、医師の考え方が(や対応の仕方)変われば解決すると考えておられるということでしょうか?

それとも司法側の問題は数年前に医療裁判の問題が議論され始めたときにすでに語り尽くされていると言うことでしょうか(だとしたら、私の読み込み不足ですので申し訳ありません)

ガチガチに定義を固められた法律用語ですら、使われる文脈次第でまったく意味が変わってしまうことは珍しくありません。

「誠実さ」も、業過致死罪なり不法行為なりの判断においても、「予見義務・回避義務を【尽くしたのか否か】」という判断の材料とされるものであり、法律用語ではありませんが、法的判断においては不可欠の要素と位置づけることも可能です。
(他の用語で言い換えることも可能であり、「不可欠」とまではいえませんが)

法律関係者も、医療関係者も、それ以外の人も、議論に際してはことばの多義性には常に留意する必要があると思います。

何を言いたいかといいますと、相手の発言について意味を決めつけて批判するのは望ましくないということです。
特に、自分の属していない業界の専門用語が使用されている意見に対して批判する場合には、その用語の意味を確実に理解したという自信・自負が前提にない限り、その批判が相手の意図を誤解した誤爆である可能性が(相対的に)高いことに留意すべきだと思います。
自省も兼ねまして。

なるほど、ちょっと毒吐きすぎました。ここにはふさわしくないですね。お詫びします。


一点だけ。私が、そう考えるのはマスコミのせいではなく、私の経験からです。

>モトケンさんは、「医師が感じている訴訟リスクが問題」と語られていますが、それは、司法側には(制度そのものを含めて)特に問題が無く、医師の考え方が(や対応の仕方)変われば解決すると考えておられるということでしょうか?

 大野病院事件については、起訴判断に相当問題があったと考えています。
 しかし、それに対する医療側の反応については、私から見ると、過剰反応ではないかと思われるところがあります。
 しかし、医療崩壊の観点で見ると、私の見方が重要ではなく、医療側から見た見方こそが重要であり、医療側が深刻かつ重大に受け止めれば、深刻かつ重大な問題になるというのが私の理解です。

私の理解ですが、

・いわゆるトンデモ訴訟、トンデモ判決と医療側が呼んでいるものを見ると、確かに司法側(裁判所だけでなく、検察にしても、患者・遺族側、病院側双方の弁護士にしても)に問題はある(ように見受けられる)。

・しかし、その「トンデモ判決」の医療側の受け止め方には、法の理解の不十分さに起因する「過度の一般化、拡張解釈」が含まれているものが多い。つまり「おいおい裁判所はそこまで言ってねーよ」という。

どちらにも考えるべき点、改善すべき点があると感じています。

>つまり「おいおい裁判所はそこまで言ってねーよ」という。

 で、そこをきちんと説明して理解してもらえれば、医療側の感じる訴訟リスクを低減する(実際以上に感じている訴訟リスクの印象を客観的なレベルに近づける)ことになるのではないかと思っているんですが、うまくいかないですね。

いや、この場合の「ボトムアップ」は手法的な用例で、立場ではありません。

あと、法学的説明が難しいので、喩えや抽象的な用語にするというのは、私のモヒカン族的部分が、受け入れないですね。

統計学的概念を、理解できない人には、統計学を説くことしかすべきではないというのと似ています。
あ、喩えちゃった・・・。

キーワードは

「FAQの整備等の『自動化』による百人組手の負担軽減」

であるとは前々から思っているものの、なかなか。。。

モトケンさん、早速のコメントありがとうございます。

モトケンさんのやってくださっていることも大変重要でとても参考になってはいますが、私としては、司法側の問題点を司法側の方がどのように考え、司法側としてどう対処すればいいのかを提案していただければ、司法側の考えがより分かるし、より安心(信頼)する気がします。
先ほどから指摘があるように、専門分野の問題は専門家にしか分からない部分がありますから。

例えば、患者医師関係の問題でも、医師自ら医師側の問題点を指摘し反省点を見いだす意見を出すことの方が、患者側が指摘する医師の問題点に対して医師が「それは違う、それは納得」という議論だけよりも、双方の信頼感は増す気がします。(もちろん、患者側が何を問題としているのか把握することも大変重要なことで、それを怠ってはいけませんが)

 このブログほど医療側と司法側の相互理解に努めよう、進めようというブログは見たことがありません。モトケン先生、千里の道も一歩からですよ。ドンマイ( ^^) _旦~~
 多少の摩擦や緊張関係は論点抽出機能を兼ねている必然的な自然現象だと思います。過去ログを見ても、雨降って痔…もとい地固まるですよ。o(^ヮ^)o

>司法側としてどう対処すればいいのかを提案していただければ、

 申し訳ありませんが、膨大な過去ログの中にあります(^^;

 簡単に言いますと、司法側の医療に対する無知・無理解を補う鑑定のあり方に帰着すると思われます。
 と同時に、鑑定を理解する程度の司法側の能力も問われます。
 この問題は、今の安全調に関する議論と密接につながります。

 最終的には司法の社会的機能にまで及ぶ議論になります。

私に対するご裁定がまだのようですので、ここのエントリータイトル「医師の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?」のモトケン先生からのお尋ねに、医師の端くれとしての私見をお答えしたいと思います。

私は日々ひとりひとり症状も訴えも違う患者さんから「誠実な」診療を行なうことを求められております。医師たる私はひとりひとりと1対1の診療契約を結んで自分のできる限りの範囲内の診療を誠実に行なうことでのみ、目の前の患者さんが私に要求する権利がある誠実な診療を責任をもって果たしたといえると考えています。
患者さんから誠実さを求められることは医師であれば当然であり、医師が実際の診療を行なうことでその要求にこたえることは、好き嫌いの問題ではなく医師が必ず果たさなければならない責務であると思っています。1対1の診療契約の中に誠実な診療を行なう責務が含まれるという考えであり、これが臨床医の職業倫理(医の倫理)であると私は信じております。

患者さん以外の人に対して診療することでしか証明できない誠実さと同じ誠実さを診療行為以外の行為で証明するよう要求されても、診療業を止めない限りそうする時間が作れないというのが、医師の端くれである私にとっての現実です。

以上は私見ですが、私が臨床医としてモトケン先生のお尋ねにお答えできる内容はこれですべてです。

前段については全く同意です。

患者さん以外の人に対して診療することでしか証明できない誠実さと同じ誠実さを診療行為以外の行為で証明するよう要求されても、診療業を止めない限りそうする時間が作れないというのが、医師の端くれである私にとっての現実です。

 ここは難しいところで、全く同じ誠実さをと言うのはおっしゃるとおり不可能だと思います。ただ、やれることは0ではないと思います。
 思えば我々も忙しさにかまけて、医療の不確実性をアピールすることを怠ってきた部分は確かにあると思います。で、これらをアピールするのにネットは不的確だと思っています(効用は多少あるが不十分)。何らかの形で少しずつ社会に「リアルワールドで」アピールしていくことが今我々がするべき事ではないかなと思っています。
 私はLMnetやMJLnetを基盤にしていますが、「リアルで一般市民やマスコミ、法曹と話し合う」ことの重要性はこれらSNSに参加している人たちが口をそろえて言っていることです。
 自分の出来る範囲で良いからこのようなリアルでの話し合いに参加していく事が我々に出来る事じゃないかと思います。

 自分自身は、医療者の無私と誠実が認められる社会であればそれで充分と思っています。

 「誠実」という言葉が問題であるとも思わないのですが、negligentではないという意味でのdiligentであれば、皆様、どうでしょうか。…日本語としては熱心とか勤勉ということになり、心情よりは態度を評価する方に傾くことになります。議論が拡散するのは本意ではありませんが…。

刑事罰については、医師の思う「誠実」であれば、有罪にはなりにくいとは言え、患者側が「誠実」と思わない限り"裁きに掛けられる”可能性は閉じていません。
(閉じろ!と言っている訳じゃありませんので)

刑事裁判に未だに怯えている医師に安心感を与えるのが先なのか、刑事裁判に未だに報復感情を込めている自称”被害者家族”の怨念を断ち切るのが先なのかは、やはり弱い訴えられる立場としての防御本能が先に立つのは仕方ないと思います。

大野事件の射程が全国に及ぶかどうかさえ、私には判断できません。


民事賠償については、医師の思う「誠実」と、司法の思う「誠実」とに依然として大きな大きな溝があるように思えてなりません。
民事の過失判定による自己の医療行為の否定であっても、医療を継続するには十分に困難であることも御理解願いたいものです。

…いえ、ですから民事のことは別の機会で如何でしょうか?

>「誠実」とか「信頼」はやや鵺的用語の感があります。
>諸問題をそういう「横着な用語」に帰する方法論の齟齬が現れて
>いるような気がしますが、いかがでしょうか。

全く同感です。

No.柳さんの
>誠実さが科学的に定義できない以上、医療裁判において裁判所が
>誠実さを求めなかったというのは非常に正しい判断だと
>考えます。必死さとかを声の大きさで判断されたらもう、
>すべてが終わりです。

にも激しく同感です。

以前にも書きましたが、刑事裁判に於いて「誠実」「不誠実」という主観的な印象が判決の根拠にされるようになったら、世間一般に「医者は不誠実だ」という空気が広がれば、裁判はただの魔女狩りになってしまいます。
医療崩壊が進み、睡眠時間さえ満足に取れない医師が謝罪に出向いたり墓参りに行ったりすることがますます難しくなったら、ますます「医者は不誠実」という考えは蔓延し膠着していきます。
法律家の方々も裁判所を刑務所への形式的な通過点に貶めたくなかったら、こういう感情的な議論は避けるべきだと思います。

ん〜、というか、モトケン先生の言葉の読みに問題がある気が・・・。

前のコメで私が引用していますが、

私は、大野病院事件の論理の前提にある医療というものに対する裁判所の理解として、「誠実な医療(この定義がモトケン先生の定義に従うとして)」であるならば、それに対する刑事司法の発動(処罰)は謙抑的でなければならないという判断を読み取ったのです。

で、さらに「誠実な医療」の定義として

要するに、与えられた状況に応じて最善を目指す医療と言っていいのではないかと思います。

と、されていますので、これ自体に我々が異議を唱える必然性は皆無ではないかと思います。

 要するに「普通の医療」、すなわち特段の手抜きが無く、その条件下で出来る最大限の医療をやっていれば刑事司法は謙抑的であるべきという判断を裁判所がしていると言うのがモトケン先生の言いたいことでしょう?

 これって、我々が主張していることと何ら変わらないと思うんですけどね。

 ですから、fuka_fuka先生のおっしゃっているように

法律関係者も、医療関係者も、それ以外の人も、議論に際してはことばの多義性には常に留意する必要があると思います。

に注意を払えば、モトケン先生の定義の元に返答出来るわけで、

以前にも書きましたが、刑事裁判に於いて「誠実」「不誠実」という主観的な印象が判決の根拠にされるようになったら、世間一般に「医者は不誠実だ」という空気が広がれば、裁判はただの魔女狩りになってしまいます。 医療崩壊が進み、睡眠時間さえ満足に取れない医師が謝罪に出向いたり墓参りに行ったりすることがますます難しくなったら、ますます「医者は不誠実」という考えは蔓延し膠着していきます。
というレスにはならないと思うんですけど。

あ、そう言う意味ではssd先生の言う鵺的用語という言葉の意味はよく分かります。

 もし、モトケンさんに失敗があるとすれば元スレの「誠実な医療の重要性」で定義をきちんとされなかったことにあると思います。実を言えば私自身、元スレの意図を十分読み取れず、このスレにおける定義を読んで初めて得心した部分があります。

 要するに「普通の医療」、すなわち特段の手抜きが無く、その条件下で出来る最大限の医療をやっていれば刑事司法は謙抑的であるべきという判断を裁判所がしていると言うのがモトケン先生の言いたいことでしょう?

 これって、我々が主張していることと何ら変わらないと思うんですけどね。

なるほど。そうだったらありがたいんですが。

しかし、それがモトケン先生のおっしゃっていることだとして、今までの裁判所の判断は「患者は全国最高レベルと同等の治療を受ける権利がある」というものだったはずで、医師会側がが主張していた「患者はその状況下で出来る最高の治療を受ける権利がある」とは真っ向から対立していたはずです。モトケン先生は、刑事事件に関しては、裁判所が今までの方針を変えたとお考えなのでしょうか?

今までの裁判所の判断は「患者は全国最高レベルと同等の治療を受ける権利がある」というものだったはずで
そんな判決ありましたっけ? 思い込みだけで物言ってません?

今までの裁判所の判断は「患者は全国最高レベルと同等の治療を受ける権利がある」というものだったはずで

違います。
そのように医療関係者には見える裁判例も一部にはあったかもしれませんが、一般化しないでください。
一般化するのに十分な調査はされましたか?していないでしょう?

事実誤認からは何も生まれることはないと思います。

一般化するのに十分な調査はされましたか?していないでしょう?

勝手に決めつけないで下さい。
医療裁判に関する書物に書いてあった内容です。
私の記憶違いかも知れませんので明日調べてみます。

 間違いなくあなたの記憶違いです。発言には責任をもってください。判例の射程距離についての理解もないようですから誤読も含まれているでしょう。

 医師全般への問いかけとお見受けしましたので、ROMの海からちょっと顔を出します。

「誠実さを求める」という字面だけを見ると、私などは理屈でなくもっと原始的な部分で、「じゃあ今は誠実じゃないっていうのかよ!」と思わず反発したくなってしまうかもしれません。
 しかしこれは我ながらずいぶんと捻くれた言葉の解釈であり、自分以外の誰かが本当にそう反応したら、何か嫌な事でもあったのかと邪推します。ここで反応してしまう医師側は、やっぱり過去の色々な「嫌な事」を引きずっているんでしょうね。
 こういった感情的な反応をこそ、モトケンさんは嫌がっておいでなのだと思っています。ムッと来そうなのを深呼吸で一度しずめて、「いやいやモトケン先生がそんな嫌味みたいな事を言う筈はない。これはそういう意味じゃないぞ」と思うだけの余裕を持つよう、気をつけます。

 さて、この先はあくまで個人的な感じ方の話なので流し読みして頂きたいのですが、自分としては「誠実な医療をすればよい」よりも「普通の医療をすればよい」のほうが、言葉としては抵抗が無いです。それなら自分にもきっとできると思うからです。
 モトケンさんは、普通の医者は普段から誠実に医療をしているとお考えなのですよね?「誠実」と言われると、何やら、小人の自分には決して手の届かない高い理想みたいに聞こえて…これも我ながら卑屈です。

ぜひ、そのようないい加減なことを書いている書物のタイトルと著者を教えてください。
その著者をここで徹底的に批判します。

仮にそう書いてあったとして、文献たったひとつでしょう?
明らかに「不十分な調査」ではないですか。
裁判所の判断基準が、お書きのようなものとはまったく違うことは、「まともな文献」にさえ当たればハッキリクッキリ理解できるはずです。
即座に決めつけられるに十分な、トンデモ言説を書かれたのですから、相応の批判は甘受していただきます。

トンデモ判決があったとして、そこで狂っているのは、「基準」ではなく、「その基準に合致するような事実が認定されてしまったこと」です。
その違いはどうかご理解下さい。

「普通の医療をすればよい」

基本的には、「普通の医療」と認められれば、「過失は認められない」となるはず、ではあります。
結果回避義務の水準は、「その職業に従事する通常人」が基準になっていますので。

ただ、最高裁判例によってその基準がやや厳格化されているという実情があるにはあります。

裁判所の判断基準が、お書きのようなものとはまったく違うことは、「まともな文献」にさえ当たればハッキリクッキリ理解できるはずです。

ぜひそのまともな文献をご呈示ください。
勉強させて頂きます。

まともでない文献に関しては帰ってから調べてお知らせ致します。

内分泌科医さま

どれでも結構です

民事 (あるいは「債権各論」のキーワードでも可)
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%95s%96@%8Ds%88%D7&x=6&y=16

刑事 (「刑法総論」のキーワードでも可)
http://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_ss_b?__mk_ja_JP=%83J%83%5E%83J%83i&url=search-alias%3Dstripbooks&field-keywords=%89%DF%8E%B8%94%C6

 横レス失礼します。
>ぜひそのまともな文献をご呈示ください。

医療過誤判例百選 (別冊ジュリスト No.102)唄 孝一ほか編集
医療過誤判例百選 第2版(別冊ジュリスト No.140 ) 唄 孝一, 宇都木 伸, 平林 勝政:
医事法判例百選(別冊ジュリスト第183号)宇都木伸,町野朔,平林勝政,甲斐克則/編
 これらを読んでないと医療関係公務員だとモグリ扱いされます。m(_ _)m

基本的には、「普通の医療」と認められれば、「過失は認められない」となるはず、

「普通の医療」が裁判所に「普通の医療」と認められるためのシステムがいかに不備であるか(医療と司法の相性の悪さ)、を認めたうえで、如何にして理想的なシステムを構築するかということが、過去2年間のこのブログでの司法と医療関係の大きなテーマであったと理解しています。

そして、ちゃんと機能する事故調(安全調)を作るためには、制度設計にもその維持にも、医療側も多く汗をかく必要があるのは当然と考えて活動しております。

それが、患者さんへの誠実さの1つの形と思っています。


ただ日常診療では、誠実ではあるが私から見ればピンとはずれなことをする医師もいるので、「真っ当な医療」を表現するのに、「誠実さ」といわれているのであれば、少し違和感を感じます。

大野病院事件判決前日のエントリでモトケンさんは

私の予想は、無難に五分五分というところです。
もっとも大きな問題は判決の社会的影響をどう見るかだと思われます。  被告人を処罰すべきかどうかの判断に当たって、裁判官が被害者・遺族の顔を強く思い浮かべれば過失有りに傾くかも知れませんし、本件の起訴の後で閉鎖された産科やその結果、不安を抱えながら遠くの病院にまで行かなければならなくなった妊婦の顔を強く思い浮かべれば過失なしと判断するかも知れません。
と書きました。さらにしまさんからモトケンさんへの
立法云々ではなく、裁判官がどのように事実を評価する事が問題になるので、法解釈ではなく裁判官の価値判断が重視されるという事ですね。

価値判断ですから、社会的な影響を考慮する余地があると言う事になるという事でしょうか。

という問いかけに対するモトケンさんの回答は

そんな感じです。

というものでした。この時点で,モトケンさんはある程度,「裁判所というのは「大岡裁き」をする場所だ」と認識しているのだろうな,と感じました。

で,判決はご存知の通りで,当然ながら医療の誠実さなどを考慮した判決要旨ではないし,私が見る限りあの判決の背後に,そのような考えが見え隠れするような気配も感じることはできませんでした。私には,「検察は,有罪の立証が全然出来ていない。終わり。」そんな判決にしか読めませんでした。

ところが,モトケンさんは,刑事司法の介入と業界に対する信頼感のエントリで,

今回の大野病院事件の判決によって、刑事司法の最終判断者であって最高権威者の裁判所(地裁どまりではありますが、警察・検察との関係では明らかに上位者です)から、医療に対する信頼感が示されたのです。
と書きました。私から見れば何じゃそりゃぁ!です。この判決要旨のどこをどう読んだら「信頼感が示された」になるのか理解不能でした。ところがモトケンさんは「この判決文に信頼感が示されている」と強く主張されたいようで,しかもこれを今後さらに続けろとおっしゃる。私から見たら,「検察は,立証が全然出来ていない。終わり。」の判決文にかこつけて,誠実な医療を絶え間なく続けることを説くことはやりすぎに思えたのですが,この判決要旨に「裁判所が示した医療への信頼感」を見出したのだとなると,それは結局モトケンさんが「裁判所は大岡裁きをする場所」と認識しているのだろう,と改めて推測するに至りました。

大野病院事件判決前後に,何人かの弁護士の方々から「裁判所の判断なんて,変なのがたくさんあるの,わかるでしょ?」と聞かされたことも私の考えに影響しているかもしれません。民事はまた別とはいえ,私が見てきた医療訴訟の判決文に司法判断が明らかにおかしいものが少なくなかったことも影響しているかもしれません。

ちなみに大野事件の判決要旨から私が何かを感じ取るとなれば,こんなことです。

1.事実認定で失血死など,検察の主張を全面的に認めている。
2.しかし,この事件での死因が本当は失血死だったとまでは断定できないのであることは,この事件での「予見可能性あり」,「回避可能性あり」,「回避義務なし」を明快に判断した優秀な裁判官たちが,理解していないはずはないだろう。
3.それでも失血死と断定し,検察の調書なども含めて事実関係を検察の主張どおりに認定して,そしてなお有罪立証が出来ていないと判示したのは,それだけ今回の起訴に関する検察の問題点を顕示して,検察を咎めることに主眼を置いたということではないか。
私の場合この判決からは,「医療に対する信頼感」なんか感じずに,「検察に対する(この事件に関する)不信感」を強く感じているので,「大野病院判決を医療側から見てどう受け止めるべきか」に関して「医療に対する信頼感」を語る題材にするのは,どうしても無理が強いようにしか思えませんでしたし,それでもそれを語る題材にしたということは,モトケンさんは,「裁判所は大岡裁きをする場所」的な考えがどこかにあるのだろうな,と深読みした次第です。それが違っていたというならお詫びしますが,上記した通りで私の中ではある程度理由があってのことでした。


以下おまけ


そもそも,この事件の加藤医師の医療は,誠実云々以前にまず非の打ち所のない医療だったわけで,それを元にして「誠実な医療」を言われたら怖くて仕方がありません。この事件では「胎盤剥離を続行せず子宮摘出に移行していれば救命できた」という事例がなかったので明快な判決が出ましたが,事件によってはそのような事例が集められるものも出てくるでしょう。そのような例で無罪判決が出れば,そのときこそ「誠実な医療」を題材にすればいいんじゃないかと思いますけど,今回のようなまず完璧な医療を題材に「誠実な医療」を語られることには,かなり強い嫌悪感を持ちます。

一部医師の暴言とも思われるコメントの背景にある苛立ちをよく表現しているのが、bewaad氏の下記エントリーと思います。

まだご覧になっていない方(特に医師)はどうぞ。

「ナイトの不確実性」で読み解く医療側の「逃散」「『業務上過失致死傷罪』廃止論」

憔悴しきった医師が、経験の無い恐怖感を抱くようになったのがこの数年と思いますが、この心理状況がよくわかります。

そのうえで、よくわからない恐怖を、理解して解決に向かって前に進むしかないと思っているわけです。

 いくつかの点についてレスします。

 まず、最初に質問ですが、「大岡裁き」というのはどういう裁判ですか?
 過失犯の特殊性も考えずに勝手な推測をされても困ります。


 次に、結局峰村さんは、判決をどう読むかについて、法律家の話より自分の考えを優先して考えるということですね。
 立場を変えればそれが何を意味するかか説明するまでもないですね。
 もちろん専門家が自分の専門分野で間違うことは珍しくありませんから、私の話を無条件に受け入れろというつもりは毛頭ありませんが、あなたには聞く耳が感じられませんでした。


 三つ目として、「非の打ち所のない完璧な医療」というものが存在するのですか?
 そして加藤医師の本件の医療行為がそうなのですか?

 過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。

誠実について一言。
私は自分の専門の疾患であれば、家族がそれで倒れた場合でも自分で治療しよう、もしくはきちんと判断してどこかへ紹介しようと思います。
そうでなければ、専門科の先生にお願いするでしょう。

私は自分の患者と家族を区別しません。私の誠実さとはそういうものです。

たしか、検察官が、判決理由を聞いているときに、なぜ無罪の結論になるのか分からなかったとコメントしていましたね。
結果回避可能性を肯定しながら、結果回避義務が否定される事例が他にあるでしょうか?
まさに裁判所が一般的な医師がとる手段は医療水準を満たしていると「信頼」しているからこその判断だと思います。

法律の専門書まで引かなくても、医療系の商業誌とかで、素人向けの判例解説みたいな連載で、「医療水準」の話は頻出事項でしたけどねえ。

最近は、そんなの読まないで、Webに依存してますけど。

トンデモ判決は、人が犬を噛むような事例だからこそ、ネタになるわけで。

>モトケン先生

モトケン先生は、「誠実な医療の重要性」エントリーにおいて、こうおっしゃいました。
>私が思いますに、判決が加藤医師を無罪とした判断プロセスの中に、加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないかと想像しているのです。
>大野病院事件の判決に示された論理が定着していくためには、なにより医療側の誠実な医療の積み重ねが大事だと思います。

ところが今回はこうおっしゃいます。
>大野病院判決jの論理(この論理というところが重要です)そのものは、「信頼感」によって判断しているわけではありません。
> 私は、大野病院事件の論理の前提にある医療というものに対する裁判所の理解として、「誠実な医療」であるならば、それに対する刑事司法の発動(処罰)は謙抑的でなければならないという判断を読み取ったのです。
 私が、そう読み取ったのです。

 モトケン先生は、判決の論理が大事といいつつ、その「前提」としてモトケン先生が初めて持ち出された「誠実な医療」のほうを医師に要求されておられます。
この、モトケン先生が読み取られた「論理の前提」とは、司法関係者の皆様なら、あの判決文要旨から読み取れるものでしょうか?私の印象では、モトケン先生の読解は、判決文要旨のテキストよりも、あの判決に関するいくつかの根拠薄弱なマスコミの社説に奇妙に符合しているように思えます。

峰村健司(眼)先生がおっしゃるように
>私には,「検察は,有罪の立証が全然出来ていない。終わり。」そんな判決にしか読めませんでした。
という読解は、司法関係者から見ると誤りなのですか?

「大野病院事件の判決に示された論理が定着していく」ために、医療側の誠実な医療(ないし「普通の医療」)の積み重ねがいったい関係するのでしょうか?判例の「論理」が定着する為に、私が来年から行う医療行為は関係しますか?

判決文の読解には当然一定の客観性が要求されると思いますが、モトケン先生が読み取られた判決の論理を明らかにしていただきたいと思います。

過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。

メチャ初歩的な疑問ですが、このご意見に賛成の法律家の先生、挙手をお願いします。

 判決には、判決書には書かれていない(し、かけない)けれども、言外に裁判所からのメッセージが隠されているケースと言うのは往々にしてありますよ。

 私が読み取った判決の論理は、「大野病院事件地裁判決要旨」に書いたとおりです。

 なお、私は「誠実な医療」を要求しているわけではありませんよ。
 「誠実な医療」の積み重ねが医療側にとって大事だと言っているのです。

 私が患者の立場にたったら、医療契約上の当事者として医師に誠実な医療を求めますが、大多数の医師はあえて口に出して要求しなくてもちゃんとやってくれると信頼してますけどね。

 「誠実な医療」をやっていれば、刑事訴追の関係ではそれほど心配する必要はないんじゃないですか、ということが言いたいことなんですけど、「誠実な医療」という言葉のイメージにかなりずれがあるようですので、その点についてはさらに議論が必要かも知れません。

ところで、ここで参加している医師の先生方の中には、

「EBMを用いれば、常に科学的な臨床が実践できる。」

とかお考えなのでしょうか。

cookbook medicineの司法版が望ましいのか、お考えになっては。

>医療裁判に関する書物に書いてあった内容です。

つまりあなたは「加藤医師は癒着胎盤と判明した時点でただちに子宮全摘に切り替えるべきだったのだから『犯罪者』だ。産科医療についての専門書に書いてあったのでまちがいない」とした福島地検の言い分や、「加藤医師は女性を死亡させた責任がある咎人だ。毎日新聞が報道していたから間違いない」という読者の声も肯定なさる姿勢でいると。そういうことですね。

なおモトケンさんの「過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。」ですが大学の一般教養で概括的な刑法理論を齧った程度の理解であれば法律家なんぞでなくても当然にたどり着く結論です。
法律家に質問をぶつけたり闇雲に噛み付く前に、初学者向けの刑法関係の入門的学習書をお読みになるべきでしょう。

純粋理論的な机上論であっても、リーガル・システムの動作原理に関する一定の知識が身につけば「訳のわからないことに対する盲目的恐怖」は多少なりとも緩和される筈です。

峰村さまに言おうとしていたことと重なるのですが。

判決文(のような文章、でも同じ)に、内心の動きをまったく反映させずにロジックを組み上げることは可能です。
法律家はそんな文章を日常的に書いています。
つまり、冷徹でスキのないロジックで固められた文章であっても、その裏には心証の揺れ、感情の動きが隠されているだけであることは、自分の経験に照らして十分に可能性があると考えるわけです。

それに、大野病院事件の福島地裁の判決文の書きぶりについては、あくまで結果論です。
何かひとつ印象的な事情があるだけで、あるいは事実立証はまったく同一であっても、裁判官が別の角度から着目しただけで、大きく心証が変わり、無罪の結論は同じであったとしても、まったく違う書きぶりの判決理由になった可能性も、十分に考えられる(と法曹は考えたりする)わけです。

だからこそ、モトケン先生は、判決前には「無罪の保障はない」、判決後には、そのように明快に検察を斬って捨てた判決理由骨子の書きぶりから、そのようなエモーショナルな面、メッセージ的な面も読み取ることが可能、という解釈を示されたのだと理解しています。

経験豊富なプロの見立てなんだから鵜呑みにしろとは当然言いません。
疑問があれば議論に発展するのはむしろ双方にとって望ましいことです。

が、自分の知識・経験からみて「おかしい」と思うだけで、疑問を飛び越えて、自分の理解が正しいことを前提にしての批判までいっては、行きすぎではないかと思うわけです。
「疑念・疑問の提示」にとどめて、専門家による解説を待つというのがオトナのマナーではないでしょうか。

同じことを医師ブログで法曹コメンテーターがやったらどう思うのか、という相互思考を常にお忘れなく。

# 医学科6年生 さまへの批判ではなく一般論としてですので、ご容赦

>モトケン先生

なるほど。ご教示ありがとうございました。不勉強で失礼致しました。
 不安がなかなか消えないもので・・・・・・。

挙手しておきます。
理由は惰眠さまが書かれてますので省略

挙手 ノシ(ただし私は弁護士ではないですが)
 初学者レベルなら回避可能性を認めて回避義務を否定する高度な法理論は理解できていないからです。

>fuka_fuka先生

大変理解し易いコメント、ありがとうございます。

優しいご叱責に感謝です。

 返信機能を使ってもらえるとうれしいです(^^)

 「コメント投稿における「返信」リンクの活用について

>不安がなかなか消えないもので・・・・・・。
責任は全部、上が被りますから大丈夫ですよ。
早く助けにきてください(笑)。

No.43 めそ さま

流れてしまう前に

結果回避可能性を肯定しながら、結果回避義務が否定される事例が他にあるでしょうか?

裁判所の判例検索と有料判例データベースでそれぞれ検索してみたのですが、これぞというものはhitしませんでした。
予見可能性は肯定し、予見義務を否定したケースは見つかりましたが。

私は、本件では結果回避可能性すら否定可能、そのほうがしっくりくると思っているくらいなのですが、いずれにしても、過失犯の無罪判決の中でもレアな構成であるとは思います。

# 完全に余談ですが、だからといって、「回避可能性と回避義務を別個に判断するのはおかしい」という強弁をするような人がもしいたら、素人レベルですので、ご留意を

「上席医師が責任をとってくれる。」
そのような指導医ばかりだといいのですが、大学に行くといろんな先生がいますから、研修医にのみ誠実さを要求したり(^^;)

了解。
ただいま全速力でそちらにむかっております(笑)。

># 完全に余談ですが、だからといって、「回避可能性と回避義務を別個に判断するのはおかしい」という強弁をするような人がもしいたら、素人レベルですので、ご留意を

fuka_fuka先生にこう言って頂けるとちょっと安心します.玄人気取りでこんなことを行っているブログもありましたので...

モトケン先生、お返事ありがとうございました。
残念ながら過去ログを全て読むことは時間的に出来ませんが、医療裁判でもっとも問題なのはより正確な医療鑑定と、司法側の鑑定結果の判断力だ、と考えておられることは分かりました。
私もこの問題が解決することが出来れば、裁判で医療側が「おかしい」と思うような判決はほとんどでなくなるのではないかと思います。

ところで、

>過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。

とのご意見で、何人か賛同されている法律家の方がいらっしゃいますが、理由はどうしてでしょうか?

「結果回避可能性があったから」

ということでしょうか?
医療的には、今回の大野の症例で、胎盤剥離中に出血が始まってから剥離を完遂するのと途中で剥離を中止して子宮摘出に切り替えるのとどちらがより救命の可能性があったかどうかは全く証明されておらず、よくて五分五分、出血の程度によっては大出血のさなかに子宮摘出に切り替えた場合摘出を完遂する前に失血死した可能性さえ考えられると思うのですが(何度も指摘されているとおり、この症例では胎盤剥離後子宮摘出までは完遂されています)。
だから、回避可能性はあったかもしれないが、より早くに死亡した可能性もあったと、医療的には言えると思います。

それでも「何パーセントかも分からず、剥離を完遂するよりも可能性が高かったかどうかも証明されていないけれども(低かったかもしれないけれど)とにかく回避可能性が(机上の空論として)あった」だけで有罪と判断されるということでしょうか?

それとも、今回は裁判官が検察の主張通り子宮摘出に切り替えたほうがより回避可能性が高かったと認めたから、有罪、ということでしょうか?


純粋に疑問としてお伺いします。

(ちなみに、偉そうな言い方ですが、私自身は、今回の大野裁判の判決は、医療行為に対する考え方(医療の不確実性への理解)として、医療の実態に合致していると高く評価しています)

最近の私の理解ですが、
「医師の裁量」に対して「医師は好き勝手に治療してよいのか!」という批判がされる場合がありますが、その批判に対して医師ならば「好き勝手とは訳が違う!」と反応すると思います。
このことから類推すると「裁判官の裁量」に対しても「裁判官は好き勝手に判決下してもよいのか!」という批判は失当であると想像できると思います。

「医師の裁量」の基礎になっているものはなんなのか?
それは医学的ロジック
どちらも医学的ロジックとしては誤りのない二つの治療法
同様に想像すれば
「裁判官の裁量」の基礎になっているものはなんなのか?
それは法学的ロジック
どちらも法学的ロジックとしては誤りでない二つの判決

法廷代理権は無い法律職の端くれですが、モトケンさんに挙手です。

ところで、ここで参加している医師の先生方の中には、

「EBMを用いれば、常に科学的な臨床が実践できる。」

とかお考えなのでしょうか。

cookbook medicineの司法版が望ましいのか、お考えになっては。

この問いかけに激しく賛同します。医師にとってこれほどわかりやすい解説は他にないと思います。

加藤医師のどの行為が犯罪行為なのですか?

最も「シンプル」に、つまり具体的事情や現場の様子などに思いを馳せたりせず、

・癒着胎盤を剥離したら大量出血が起こる可能性はある(予見可能性あり)
・大量出血は胎盤剥離面から。剥離しなければ大量出血では死ななかったはず(回避可能性あり)
・にもかかわらず、胎盤剥離を継続したために大量出血が起こった。胎盤剥離をしなければよかった(回避義務違反あり)

という理屈を並べることはロジックの上では可能、といった程度の意味です。

 すでに説明がありますが

>「結果回避可能性があったから」

 そういうことです。

 回避可能性がある→回避義務がある→回避義務違反により結果が発生した

という論理は、初学者並みの適用としては自然なものです。

>とにかく回避可能性が(机上の空論として)あった」だけで有罪と判断されるということでしょうか?

 初学者ならそういう結論になりがちですが、裁判官は初学者ではありません。
 しかし、有罪とする論理的な可能性はあるわけです。
 ですから、法律家としては、予想の段階で無罪を確信なんてことは言いにくいのです。

 No.67 とNo.68 を読んでも理解できなければ、刑法と刑事訴訟の基本から勉強していただく必要があります。
 犯罪というものはどのようにして成立が認められるのか、ということです。
 ある行為が犯罪かどうかは自明なのではなく、事実の存否と事実の意味の評価を含む事実認定と認定された事実に法規範を適用するという論理操作が必要です。

「大岡裁き」は確かに曖昧な言葉で失礼しました。裁判官の価値判断が判断を左右するような判決というような意味でした。そして,そして,「過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。」ということにもかかわらず,大野事件で無罪判決が出たということは,過失犯の裁判官の価値判断が判断を左右するのはおかしくない(むしろそういうものだ)ということですね?

次に,判決に,誠実さを認めた件ですが,最初に誠実な医療の重要性では,

判決が加藤医師を無罪とした判断プロセスの中に、加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないかと想像しているのです。
と,「想像」と書かれていて,それが刑事司法の介入と業界に対する信頼感では,
今回の大野病院事件の判決によって、刑事司法の最終判断者であって最高権威者の裁判所(地裁どまりではありますが、警察・検察との関係では明らかに上位者です)から、医療に対する信頼感が示されたのです。
と,断定に変わっています。確かに,専門家の言われることは原則として受け入れることが妥当だと思いますが,「想像」がいつの間にか断定に変わってしまい,それが大前提であるかのような話の進め方に違和感を持ちました。そのため,私としては判決文から読み取れてモトケンさんも大野病院事件地裁判決要旨で示されている,検察斬りの話に立ち返ったものです。

これが最初からNo.51 fuka_fukaさんがご教示くださった

つまり、冷徹でスキのないロジックで固められた文章であっても、その裏には心証の揺れ、感情の動きが隠されているだけであることは、自分の経験に照らして十分に可能性があると考えるわけです。
という前提説明があれば,感じ方が全然違ったと思います。なにはともあれ,行きすぎた点お詫びします。

あと,

 三つ目として、「非の打ち所のない完璧な医療」というものが存在するのですか?
 そして加藤医師の本件の医療行為がそうなのですか?
これはちょっとズコーな感じです。

差し出がましいですが、失礼します。
ここ暫くは書き込むのを控えておりました。幾度かコメントを書いたものの、投稿直前に消しました。常連の方々がどうにか収拾をつけるかもしれない、と思い止まったからです。が、受忍限度(笑)を超えたので、やはり書くことにしました。あくまで個人的感想ですが。

ゴチャゴチャ書いている医師と思しき方々が「何を見ているか」というと、自分、自分の狭い周囲、字面、みたいな感じです。司法・マスコミ・警察などへの恨みつらみみたいな心情や「判ってくれない患者」たちへの苛立ちのようなものが判るだけで、残念ながら得られることが何らありません。前にも無駄な批判は程ほどにしとけ(超意訳ですが)とコメントに書きましたが、そのことの意味が未だに判っていないようです。

事件の担当弁護士の方のご意見が出ていましたので、是非お読み下さい。
http://obgy.typepad.jp/blog/medical/2008/09/post-1341-32.html

以下、長くなってしまったので、拙ブログ記事にしました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cfdf20b797df22c45144c9bf279a8473

fuka_fukaさん

返信ありがとうございます。

No.43はそういう事例がないであろうことを前提に書いたものです。

手元にある刑法の教科書(書研、大谷)を見ても、結果回避可能性が認められた後に、さらに結果回避義務の存否を検討するとういことは書かれていないからです。
過失犯においては、予見可能性と、結果回避可能性が認められれば結果回避義務が認められるというのが一般的だと思われます。
その限度では、某blogで強弁している方の見解も間違いだとは言い切れないでしょう。まったく賛同はできませんが。

fuka_fukaさんの仰る通り結果回避義務を別に考えることは可能だと思いますし、現に福島地裁はそのように検討して結果回避義務を否定しています。
この判断は妥当だと思っております。

そのような判断をした背景には、これまで医療に携わってきた方々の多くが、「誠実」に、すなわち単なる慣習ではなく医療水準に沿った医療をしてきたことがあるのでしょう。だからこそ、福島地裁は一般的な医師が行っている医療行為は医療水準を満たしていると信頼しているということです。

これが他の業界では、当該業界において一般的な行為だからといって同じ判断はなされないでしょう。医療界の多数が、これからも「誠実」であることが重要であるというのがモトケンさんの仰りたいことだと思うのですが、医療者のみなさま、いかがですか?

司法が誠実であるかどうか、私は割り箸事件の裁判の控訴審に注目しています。大野事件の判決の論理を踏襲すれば、問題なく無罪となるはずです。

 刑事法の基本を学んだ初学者程度では、回避可能性と回避義務を「分別」して分離出来難いほど、この判例は高度なロジックに基づいているということです。
 あまりに簡単に結論や理屈を、ないものねだりされても答えられないと思います。m(_ _)m
 その上、医学的常識にしたがった事実認定をした上で、上記の高度なロジックにあてはめる作業が必要です。
 事実認定と法的判断(法的評価)をキッチリ分別できるスキルをもった人が法曹実務家で、それができないのが学生学者レベルσ(^_^)です。

 三つ目として、「非の打ち所のない完璧な医療」というものが存在するのですか?  そして加藤医師の本件の医療行為がそうなのですか?

どんな場合でも完璧なんてことはありえませんが、与えられた条件の中でベストの医療というものは存在するでしょう。

そして加藤先生のおこなった処置はあの場面でベストでした。

 過失犯理論を(初学者並に)最もシンプルに適用したとすれば、本件は有罪ですよ。

これも理解できます。教科書を読まずともwikipediaで過失論のページを見ただけで一目瞭然です。

ベストであっても有罪になる可能性があった。この法律上の判断基準と医学的な判断基準の齟齬ゆえに、ここまで混乱が大きくなったのであり、この2年間の議論があったのだと思っています。そういえば「結果が悪ければ……」と書いた方がいて大荒れになったこともありましたね。だけど、誰がBest or Notと判断するのか、その材料をどのように提供するのかという議論から、医療裁判における医師の果たすべき役割についてまで理解が拡がったのは自分にとって有用でした。

ところで

社説を離れて私が思いますに、判決が加藤医師を無罪とした判断プロセスの中に、加藤医師の医療行為については誠実なものと認めたからではないかと想像しているのです。
http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/08/24-132547.php
 繰り返して確認しますが、大野病院判決は、医療行為が誠実なものであったかどうかは判断していませんし、誠実な医療行為を要求しているわけでもありません。
 大野病院判決の論理としては、誠実な医療だったから無罪にしたのではありませんし、不誠実な医療だったら有罪になったとは限りません。
 そもそも、誠実さなどという曖昧な基準で有罪無罪を決することはできません。
http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/09/10-093133.php

この辺でよく分からなくなってしまったのですが、ひょっとしてこの二つの引用の中で誠実という言葉の意味は異なっていますか?

 

次に「誠実」という言葉の意味ですが、(略)
 要するに、与えられた状況に応じて最善を目指す医療と言っていいのではないかと思います。

この様な意味であれば、先に引用したモトケンさんの言葉は

「加藤医師の医療行為についてはベストを尽くしたものと認めたからではないかと想像しているのです。」

と、十分理解できるものとなります。ベストを尽くす医療というのはごく一般的な医療ですから。
ベストを尽くせば有罪になることはない、願わくば逮捕も起訴もされないように。こうなってくれれば、どれだけ心理的な負担が軽くなることか。

なんかまとまりがつかなくなってしまったのですが、誠実という言葉は曖昧過ぎる上に、あまりにエモーショナル過ぎて適当じゃないと感じています。言葉を変えてみませんか。

内分泌科医さん宛というわけではないんですが。

>文献に関して

刑事医療過誤に関しては,以下の本がおそらく現況では最も詳細です。民事は載っていませんので,刑事弁護プロパーではありますが,資料価値は相当高いです。

その名もずばり「刑事医療過誤」「刑事医療過誤供廚任后
amazonで引けば出てきます。値段はべらぼうに高いですが,一定の基準というのが見出せるのではなかろうかと思います。

解説は,検事寄りではありますが,事案によっては判決書がそのまま掲載されており,参考になります。

当然,大野病院事件判決前のものですが,罰金で処理されている事案も含めて,極めて(ほぼ網羅ではなかろうか。)多数の裁判例が載っています。
医療過誤に伴い,カルテを改ざんした例も載っています。
もちろん無罪例もかなり載っています。
考えられないミスの事案も多数あります。そして,私の記憶する限り,「最高の医療を受ける権利を持っている。」と志向して有罪となっているものは見当たりません。

結果回避可能性が肯定されれば、回避義務も肯定される。これはそのとおりです。
その限りでは両者は表裏一体といえます。

が、回避義務に「違反したかどうか」は、程度の判断です。
回避義務があるのに結果が生じればすべて回避義務「違反」か、というと、そうではない。

特に、回避可能性を抽象的に、あるいは神レベルを基準に設定すればするほど、回避義務「違反」の認定とは差が生じるはずです。

たとえば、マークシート試験では必ず正解が「埋まっている」のだから、全問正解の可能性は常にある、よって「満点が取れないという結果」の回避可能性がある、と認めても。
回避義務「違反」は一般人基準なわけですから、平均点が80点だった場合に、85点とった被告人を回避義務違反に問うことができないのは、当然すぎる結論となります。

そういう意味では、類型によっては、あるいは「回避可能性」の程度の設定次第で、いくらでも「回避可能性はあるが回避義務違反はないので無罪」という場合は想定可能です。

 昨夜の峰村氏のコメントに端を発した私の苛立ちはひとまず沈静化しました(^^;
 「非の打ち所のない」「完璧な医療」という言葉に前提の違いを感じましたので。

 また、このエントリのタイトルは、読み返しますと(読み返すまでもなく)、読みようによっては(一読して)、挑発的なニュアンスがありますので、ここにお詫びしてこのエントリでの議論を終わりにしたいと思います。

 「誠実な医療」という表現については批判が多いようですので、その批判を受けて

 「誠実な医療」と「普通の医療」と「まっとうな医療」

を立てました。
 「誠実さ」についての議論は、そちらでお願いします。

>モトケンさん

ありがとうございます。
理解いたしました(と思います)。

「誠実さ」という言葉に何を盛り込むかにもよるんですが、別に嫌じゃないですよ。

ただ、「医者は誠実に医療をすることを求められるのは嫌か?」という問いは、
「親は誠実に子育てをすることを求められるのは嫌か?」という問いに似た違和感を感じます。

fuka_fuka さん

再び返信ありがとうございます。

本論から離れる上、法曹であられるfuka_fukaさんに、法律論をするのも気が引けるのですが、回避可能性自体が一般人基準なのではないでしょうか?
具体的な事案における回避可能性の基準の高低はともかく、一般人を超えるないし神レベルを基準とした回避可能性を過失犯における回避可能性とする考え方はないと思われます。

つまり、提示していただいた事例で平均点が80点なら、100点を取ることは一般人を基準とした回避可能性ではないということです。
一般人なら100点を取れるからこそ、100点未満を取ることが回避可能なのであって、一般人が100点を取れないのなら回避可能性はないからです。

大野病院の事案では、一般的な医師が検察官が提示した方法をとって結果を回避する可能性がないとして回避可能性自体を否定するということは考えられるでしょう。
そうであれば、No.58で回避可能性を否定することも考えられるというご意見には納得できます。

普段ROMの横レスですが

「誠実であれ」と求められるのは当たり前のことなんですが
同じことを信頼関係のない相手から求められるのが嫌なんじゃないかと

「弁護士の皆さんは誠実さを求められることがお嫌ですか?」
なんて言われたら侮辱に感じる人もいると思います。

No.81 めそ さま

まさに、私が福島地裁判決に対して感じたのと同じ問題意識です。

http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/08/20-163409.php#comment-178658

「回避」については、ものすごい複雑な3D迷路の最短ルートを走り抜けた場合の所要時間を基準に、「○分以内でこの迷路を脱出できる可能性はあった」と言われているようで、「そりゃ理屈上はそうだろうけど、事前に正解を知らない以上、現実的な可能性はないだろが。それを『可能性あり』と呼ぶことにどれほどの意味が?」
という違和感です。


No.81の

具体的な事案における回避可能性の基準の高低はともかく、一般人を超えるないし神レベルを基準とした回避可能性を過失犯における回避可能性とする考え方はないと思われます。

については、「神レベル」は誇張ですが、それに近い「回避可能性」を福島地裁は認めたように読めるように思います。
癒着胎盤と判明後に直ちに子宮全摘していれば 「確実に救命できていた可能性」 については、検察も立証できていないし、裁判所も認定していないので。

私も、注意義務違反の評価が一般人基準である以上、「可能性」の認定も一般人基準でいいはずだと思います。
ただ、福島地裁のように、「回避可能性」は広く認めたとしても、「回避義務違反」の評価をきちんと行うのであれば、結論として問題はないかな、という気もします。

「安全な医療」は、人と金さえかければできる可能性があると思います。
 物質的な意味が大きいから。
 「安心の医療」は、どれだけ金をかけ人を投入してもできない。
 安心という、受けての側の心情を提供する医療内容の評価基準とすることは、医療提供者側にはできない。

「誠実な医療」ってのも、「安心の医療」と同じ。
感覚論、ですから量的に実現するための手段が無い。

医師が今の限られた医療資源の中で、精一杯患者に対して誠実に努めても、患者側がそれを理解できない、ってことは、多いと思います。
患者側が誠実に説明を求めたのに医療提供者側(医師個人じゃありません。院長だったり、管理者の行政だったり)がわが応じなかった、てこともあるでしょう。

大野事件の判決の意味は、検察があおった被害者論に引きずられることなく、客観的な医療標準、ってものに立って判決を下したことだと思います。
もちろん、心証として加藤医師の真摯な態度があったことは事実でしょうが。

P R

ブログタイムズ

このエントリのコメント