エントリ

 大野病院事件の起訴によって高まった医療側からの司法不信は極めて深刻な問題を生じさせた。

 医療側の司法不信の大きさについては、司法側から見ると過剰反応と感じられることが多かったのだが、つまり、本件の検察の起訴(身柄拘束を含む)は検察のスタンダードからかなりずれていると感じられたのだが、さらに言えば今後大野病院事件と同様の起訴がそうそうあるとは思われなかったのだが、医療側がそれを一般化して将来的な不安感を増大させたことは無理からぬことと思われたので、その点について批判する気はまったくない。

 福島地検の起訴によって高じた司法不信に対しては、判決があるまでは何を言っても無駄だろうと思って発言を控えていたが、今回無罪判決が出たことにより福島地検の検察の不当性が裁判所によって指摘され、それを受けて警察や法務・検察の首脳がスタンダードの確認ともいえる発言をしたにもかかわらず、依然として医療側の中には

 被医療者から見れば「いくつかある医療業過事件の一つ」であった大野事件は,医療者から見れば大変な事件で,その理由の大きな一つは「ベストの診療を刑罰に問うたから」だと言えるでしょう。医療者側から見ればそのことだけでもとんでもないことですし,万が一にもこれに対して有罪判決など出そうものなら,それは「ベストの診療に司法までもが犯罪を認めた」という決して容認できない事態ということになります。逆に言えばこれに対して無罪判決を出したところで,それは司法が合格点を取ったことには決してならず,単に一次試験の足切りを通過しただけの意味になります。

 というような発言をなさる方がいる。

 これに対しては私も少々いらだった回答をしている。

 と、この私のレスを確認したら、さらにこんな発言まで飛び出しているのに気がついた。

産婦人科学会は「当時、被告人が産婦人科専門医として行った医療の水準は高く、全く医療過誤と言うべきものではありません。」との声明を出したといいます。そして各所での議論も,それを裏付けるものだったと思うのですが,法律家の方々はそれだけでは不足というか,どうしても法律家の方々の理論に従っての納得を得ようとしていたということなのかな,と思います。(それ自体は悪いことではないと思います)

そうなると,「当時、被告人が産婦人科専門医として行った医療の水準は高」かろうが,ずぼらな医療であろうが,それを無罪(無責)と結論付けるための論理に特別な差が出るわけではないので,今回の事件を無罪にした意義は非常に大きい,ということでしょう。そういう意味では「これでもう大丈夫」と言いたくなる気持ちは,ようやくちょっとはわかってきました。

しかしだからといって「もう心配することはないぞ」とか,「これが専門家の意見だ,それを受け入れなくてどうする」とかいう話に対して,「いやそれはどうか」と言われとたんにギャースカ怒り出すのは,そもそも「当時、被告人が産婦人科専門医として行った医療の水準は高く、全く医療過誤と言うべきものではありません。」という専門家の意見を素のままでは受け入れなかった方々がすることなのかな,と考えてしまいます。

 まあ、一部の医師の発言に対して私がカチンとくるのは毎度のことで、一部なんだからスルーすればいいじゃん、という声も痛いほど聞こえてくるが、ほんとに一部なのかなという私の医療側不信はいまだ払拭されていない。
 このブログの常連さんの中では少数だと思うが、常連の中からこういう意見が出てくるということは、このブログの存在を知っている医師に限定したとしても、相当数同様の意見の持ち主がいることが推測される。

 ということで、あらためて大野病院事件判決を医療側としてはどう受け止めるべきかと言う点について、医療側と議論してみたい。

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コメント(71)

大野病院判決の受け取り方にずれがあるのでしょうか。

法律家の方々は大野病院判決を通常の判決とみなしており、当たり前の判決を下したと判断しているように思います。

対して、法律家以外の方々は特別な判決、画期的な判決だと見なしているように思います。

ん〜、私は昨年6月以来w、刑事についてはあんまり心配していなかったです。だから福島地裁の判決に関しても「ああ、まっとうな判決が出たな」ぐらいのもんで・・・。

 杏林割り箸事件と東京女子医大事件に関してはどちらも我々の目から見れば不当起訴、不当控訴に見えますが、大野病院事件と同列に扱うには無理があると思います。
 杏林の方はカルテの記載があまりに不十分であることが弱点ですし、常識的にほとんど考えられなかったような事故でこんな物を見落とすなと言っても無理だと言うことはあるにせよ、割り箸を見落としたことだけは紛れようもない事実です。
 東京女子医大事件の方は執刀医のカルテ改ざんが事件の印象を悪くしていると思います。もちろん「紫色の・・・・」先生には全く責任のない部分で、その意味で控訴は不当だと思いますが、外部から見た場合に「同じ穴の狢」的に思われてしまうのもありがちかと思っています。

法律家以外の方々は特別な判決、画期的な判決だと見なしているように思います。

私は、当然の無罪判決だと思います。
しまさんのおっしゃる通り、当たり前の判決だと思います。

事実認定はほぼ検察の主張どおり。
何が起きたかに関する認識の相違がほとんどない一連の事実を見て、検察はこの一連の事実のなかのある行為を犯罪と考え、一方裁判所は過失はないと判定したのだと受け止めています。

まったく同じものをみて、検察には黒く見え、裁判所には白く見えたのだと解釈しています。(で、このことが私にとって、多分ほかの多くの医師にとっても、一番怖いことなのです。一般論として黒いものはびしびしと取り締まって頂かねばならないと思っていますので。)

判決にはほとんど注文はありません。

ひとつ過剰な期待を言わせてもらえば、(私は付言エントリーでも書かせていただきましたが、判決文の付言には反対なのですが、)この訴訟がきっかけのひとつとなり、福島の県立病院から産科医が一人もいなくなったことに対して、あるいは医師たちの中に警察や検察に対する不信感が高まったことに対して、何らかの所感(予防策なり善後策なり)を付言していただいても良いように思います。

>何らかの所感(予防策なり善後策なり)を付言していただいても良いように思います。

 気持ちはわかりますが、たとえリップサービス的な付言だっとしても、それは三権分立を侵害しかねないので、最高裁の議員定数不均衡違憲判決(事情判決)ですら、少数説や補足意見ですら、相当抑制的にしか付言しなかったほどですから、一地方裁判所の部総括クラス程度の裁判官には荷が重過ぎた期待でしょう。

判決は加藤先生がベストの診療をしたなぞとは一言も言ってないはずなんですが。

ほとんどの医者がやるだろうと思われることをやらなかった場合に罪に問われることがあるといっているだけです。
ただし、こういう判示は初めてだと思います。この意味では画期的な判決でしょう。しかもまだ地裁レベルであり、判例として確定したわけではありません。
したがって、今後はいかにこの判決を確実なものにしていくかに焦点をあわせるべきで、当面の問題はやはり安全調です。
われわれ医師としては警察、検察への非難に向かいがちですけれど、過渡期においてはいろいろ不都合なことが起こるのはいってみればやむをえないことであり、いつまでも拘泥しなければいけない問題でもありません。

昨日場外に書き込もうと思って書いたら、長すぎて全部消えました(笑)。気を取り直して、峰村氏のご意見について、思うところを書いてみました。

 嵌鵑梁任曾蠅里覆ぐ緡邸廖嶌覗韻琉緡邸廖100%の医療」等について

これは無理。僅かでも改善余地のある治療であれば、崩れる。何らかの副作用や合併症があれば、やはり崩れる。故に、そんな医療は存在したことなどない。より完成度が高まり、予知性の高い治療方法というのは確立されたものはあるかもしれないが、それでも依然として100%でない。そんな夢の治療法があるというなら、具体例を挙げるべきかと。

人的要因もあるので、「これまで確立された治療法の完成度が高い」としても行為者が異なれば結果や評価が異なることは当然。特に外科系であれば顕著。全部の医師の技能大会でも開いて「最善」を決めますか?そんなことはできないんですよ。前にも書いたが全くの「同一条件」など、再現できないんですって。だから、正確に判定なんかできない。

当該事件の医療行為の水準について

これは書くのが躊躇われるが、無茶な主張をする人間の為に書いておくことにする。
被告人医師は、術前から心配していたのは前置胎盤である可能性についてであった。オペ室入室後にエコーで確認したのも、そのことへの心配からであったろう。後壁の癒着胎盤については、「知らなかった」。だから、子宮摘出に少し手間取った時(例のクーパー使用時だ)にも「癒着胎盤」であることの認識はなかったであろう。もしも癒着胎盤を知っており、その可能性について脳裏に浮かんだとすれば、違った対処や操作を行っていたかもしれない。

何故そう言えるのか?
もし知っていて、「最善の医療」を行っていたのであれば、検察取調時にそのことを供述していたであろう。だが、検察官には、「止血困難だったのは、癒着胎盤だったからだ」とは説明できなかった。知っていたのであれば、弁護側鑑定医が証言した如くに、同じ説明を検察官にできたはずなのだ。しかし、被告人医師はそのようには供述しなかった。
だから検事は、弁護側立証のような「医学的説明」を裁判が始まるまでは知らなかったのだ。被告人が全く同じ説明をしていたら、起訴しなかったかもしれなかったのに、だ。

裁判所が無罪としたのは、「非の打ち所のない医療」だからではない。術前に癒着胎盤を正確に知り得る方法が確立されていないこと、診断方法が決まっていないこと、がまずある。更に術中であっても、癒着胎盤かどうかは正確に知りようがないことがある。結果的に「癒着胎盤であったろう」ということが事後的に推測されるだけだからである。更に、術中に「癒着胎盤」であることを診断したとしても、止血困難であることには何らの違いもない。診断できてもできなくても、そのことには無関係に癒着胎盤においては「止血困難」ということが多々ある、ということである。

投入できる医師が10人とかではない、当該病院の置かれた環境や人的要因などを考慮し、有罪であった場合の医療に与える影響も勘案した上で、被告人医師に「救命例と同等の医療水準(=例えば弁護側証人の医師たちのレベル)」を求めるのは酷である、すなわち「医学的準則」には反しない程度の医療行為、と認定したものである。何かの特別なミスをしたとは呼ばない、という程度でしかないということ。

もしもベターを求める(ベストであるはずもない)のであれば、「癒着胎盤を診断でき、何例か救命した経験を有する医師」の水準となろう。その医師が本件症例を担当したとしても、救命できたかどうかは同じく不明ではある(これが不確実性ということ)。

野球で全く同じ状況に置かれた時、100人の投手が100人とも「敬遠を選択する」、という判断が成り立つような場合が、確立された医療ということだ。A投手は敬遠を選択し、B投手は勝負を選択する、という違いを生じない、ということである。殆どの投手が「敬遠を選択する」というのが、「医学的準則」の意味である。ただし、敬遠した後に打たれてしまうかどうかは、不確実性ゆえに判らない。正しい選択をしたとしても、打たれることもあれば、抑えられることもある、ということだ。投手の技量が全く同じで、全く同じコースに同じ球を投げたのに、結果が異なる、ということが起こり得るのだ。現実には、それらを再現できないし、同一条件を作り出せないので確かめようがないのである。

裁判所批判について

不適切な判決はある、ということを言いたいのであれば、それは同意できる部分はある。医療分野に限らず、「ある」であろうと思う。それは司法サイドで、検証するなり改善策を考えるなりしていくべきである。判決について専門的に批判できるのは、法曹や法学関係の専門家たちだけであるので、その責任は果たしてもらいたいと思っている。

そのことと、本件判決とは直接的に関係がない。「被告人医師が無罪であった」ことをもって、裁判所批判や司法サイド批判に用いることはできない。

会社で経理課のXさんが計算ミスをして、総務課の課長に怒られました。次の日、総務課のYさんが計算ミスを知らずに経理課に書類を持っていったら、経理課の課長は「総務課だってミスしているじゃないか、経理課のミスばかり責めるんじゃないよ」と言いました。経理課の人たちは、「そうだそうだ、総務課だってミスしてるだろ」と言います。さて、この口論は無益なばかりか、経理課と総務課の信頼関係を壊すだけにしか見えません。
しかも、Yさんがミスしたことを責めてみたところで、Xさんの計算ミスがなかったことにはならないし、ミスはミスとして対処せねばならないでしょう。「Yだってミスしてるだろ」の言い草が、何の意義も持ちません。これでXのミスを帳消しにせよ、とでも言うつもりなのでしょうか?「Yさんのミスはこうこうこういう原因だったと思うので、こうすれば次からはミスしなくなると思います」という「経理課の立場からのアドバイス」が必要なのであって、「ミスした経理課が言うんじゃねえよ」とか言っても次にはいかせません。

「お前もミスをやってんじゃん!」と言い募るので、「お互いに誠実に話し合っていく方がいいですよ」と言ってることが理解できないのでしょうか。「お前らがミスを反省して土下座するまでは信用できねえ!」とか言うよりも、「こうすればミスは減らせると思いますよ」と言ってあげる方が、ずっと役立つと思うのですが。

ただし、こういう判示は初めてだと思います。この意味では画期的な判決でしょう。しかもまだ地裁レベルであり、判例として確定したわけではありません。

 そうかなぁ・・・。私は特別画期的な判決だとは思わないんですけどね。
 いや、民事は話が別だと思いますよ。民事の最高裁でこういう判決が出たらある意味画期的かなと思いますが。

 どうも峰村先生にしてもうらぶれ内科先生にしてもこの辺で民事と刑事をごっちゃにしている感があるんですが。

 民事裁判と刑事裁判の違いが分からず、よく知らないものは不審(不信)に見えるのかも知れません。存外「不審(不信)」とはこういうところから生まれるものです。
 専門外の事項には、知ったかぶりして決め付けしては何ですから、謙虚になりましょう。

 我田引水を承知で申し上げますが(…(^^ゞポリポリ…)、私がこのブログで過失構造論を紹介し始めていたころから
(1) 予見可能性
(2) 予見義務
(3) 回避可能性
(4) 回避義務
は必ず書きましたが、これは刑事法では通説判例で、現在は異説をほとんどみない常識レベルです。実は。
 大野病院事件の判決も、この通説判例にしたがっただけで特に変わったことはなく普通の地裁判決例として自然確定(控訴期限徒過)しています。判例理論としては特に目新しい点があるわけではありません。
 強いて言えば、事実認定と法的評価(注意義務の規範定立)で、回避可能性と回避義務を厳密に検討して証拠(他の症例・手術成功例の有無内容)に基づいて、丁寧に判決書に記載したという意味では目立つでしょう。
 死因(因果関係)について疑問を呈する向きもありますが、死因は、通常なら死体検案書、争いがあれば司法解剖に基づく鑑定書と鑑定人証言に基づいて認定されますから、鑑定結果(鑑定書と鑑定人尋問結果)に疑問を呈するのが正しい理解になるかと思います。
 ご参考まで。m(_ _)m

まさくに様のコメント中、△砲△覦焚爾虜枷十蠅了実認定は、判決要旨からすると私には同意できかねる部分がると感じました。

裁判所が無罪としたのは、「非の打ち所のない医療」だからではない。術前に癒着胎盤を正確に知り得る方法が確立されていないこと、診断方法が決まっていないこと、がまずある。更に術中であっても、癒着胎盤かどうかは正確に知りようがないことがある。

判決要旨の原文から引用していくと、まず「第4 予見可能性」の「2 被告人の癒着胎盤の認識について」の項で次のように認定しています。(引用中の括弧書きは引用者による)

(被告人は)前壁にある前回帝王切開創への癒着胎盤の可能性を排除せずに手術に臨んでいた
この引用部分から、裁判所は手術前の時点での癒着胎盤に対する認識があったことを認定しています。ただし癒着の可能性は低く、被告人の認識は可能性5%程度としています。しかし5%であっても癒着胎盤の可能性はあったはずとしています。

さらに同じ「2 被告人の癒着胎盤の認識について」の項で、さらに次のように明白に癒着胎盤と認識したのは用手剥離が困難になった時であると指摘しています。

被告人は、用手剥離中に胎盤と子宮の間に指が入らず用手剥離が困難な状態に直面した時点で、確定的とまでいえないものの、本件患者の胎盤が子宮に癒着しているとの認識をもったと認めることができる。

そして事実認定の総括として次のように結果回避可能性があったと判定しました。

胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行した場合に予想される出血量は、胎盤剥離を継続した場合である本件の出血量が著しく大量となっていることと比較すれば、相当に少ないであろうということは可能であるから、結果回避可能性があったと解するのが相当である。

しかしこうした結果回避可能性を認めたにも関わらず、何故過失罪が成立しないと判示したのか。そこで初めて「医学的準則に照らして妥当な医療行為か」という考え方を用いている。

すなわち「第5 被告人が行なった医療措置の妥当性・相当性、結果を回避するための措置として剥離行為を中止して子宮摘出手術に移行すべき義務の有無」における「オ 判断」の項での以下の文章である。(引用中の括弧書きは引用者による)

(癒着胎盤であることが明白になった時点で直ちに子宮摘出手術等に移行するべきという)検察官の示す医学的準則が、一般性や通有性を具備したものとまで認められない

またこれに続けて結論として次のように判示しています。

検察官が主張するような、癒着胎盤と認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが医学的準則であったと認めることはできないし、本件において、被告人に、具体的は危険性の高さ等を根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできない。
すなわち本件での被告人の医療措置とその措置に至る判断は「一般的な医療準則」に照らして逸脱していたとは言えない、よって結果回避の注意義務に反しないから過失罪に問うことができない。

以上のように私が読み込んだ判決要旨からすると、冒頭にて指摘したようにまさくに様の判決文解釈とは少々意味するところが違ってまいります。またまさくに様のコメントには「有罪であった場合の医療に与える影響も勘案した」ことが、裁判官の判断に影響したと読み取れる部分がありますが、そのような影響を勘案した形跡は私には読み取ることができませんでした。

今回の裁判では「K先生の行なっていた医療」は刑事司法のハードルをクリアしました.では,そのハードルはどの位の高さにあったのでしょうか?
つまりは,「もし仮にxxであったら有罪とされたであろう,ハードルの板」はどの辺りに存在したのでしょうか?
それとも,警察や法務・検察の首脳の発言からして今後は「トンでもないレベルの医療を行なっていない限り,起訴される可能性は非常に低い」と考えてもよいものなのでしょうか?
我々医師にとっては,たとえ「有罪とされる可能性は非常に低い」としても,警察に介入され,取り調べを受け,起訴されたりする,ということ自体が脅威ですから...
そういった視点で教えて頂ければ幸いです.

 判例評釈は、判決書に書いてない部分の推定や推測部分には、評釈者の主観(立ち位置や価値判断や希望)と学識程度が色濃く反映されて、読む方は大変勉強になります。

>我々医師にとっては,たとえ「有罪とされる可能性は非常に低い」としても,警察に介入され,取り調べを受け,起訴されたりする,ということ自体が脅威ですから...

 普通の医師がごく普通に標準的に行っていれば刑事捜査を受けることはないよ〜、という判決例とご理解いただければと思います。
 もし、前例がほとんどない致死率リスクが高い先進的な又は成功すれば劇的な効果を生む特殊な手術を行うのであれば、徹底したインフォームドコンセントを行い(詳細な書面化して告知する)、患者や家族に1週間以上の熟慮を促して(米国ではこれが普通)、相当期間を経た上での患者や家族の最終的な真意に基づく同意を得るということまですれば、医療の実験性や予測可能性もクリアできると思います。

PS:
 知り合いの弁護士によれば、ハイリスクの決断をクライアントに求めるときは、ハイリスクの最悪の結果も臆することなく告知書に淡々と書いて納得を得ることが大事だそうです。
 おそらく、中脳や脳幹部のグリオーマ除去手術とか、心臓中核欠損と弁膜異常の合併症に基づく肺高血圧低酸素症の小児心臓外科手術なんかが、これに当たるかもしれません。
 このままではお子さんの命は3日から1週間程度しか持ちませんとか、ここで手術しなければ1年が余命ですし、手術で正常な細胞を傷つけば一生寝たきりで全盲となる危険がありますとか、一縷の望みにすがる家族に書面で告知するのは辛いと思いますが。

書いてみたら長〜いものになってしまいました(^^;)
ご容赦を。

>よく知らないものは不審(不信)に見えるのかも知れません。
ハスカップさんのこの言葉に同意です。

さて、私個人の意見です。
医療側の感じている不安・不信は、裁判の結果よりも、依然として「今回の大野病院のような事例であっても刑事事件起訴される可能性があり、裁判結果を待つまでもなく起訴そのものによって人生が壊されうること」こと、「医学的に正しいと思われる判断であっても、自分の人生が滅茶苦茶にされてしまう可能性を払拭できない」ことにあるのではないか、と思っています。
裁判不信・司法不信であるというよりは、検察不信が払拭できていないのではないか、と思います。
司法のやり方が頭で分かったとしても、「私達の普段の医療行為そのものを犯罪とされる可能性は、とにかく怖い」という気持ちは捨てきることは難しいのでしょう。
私見ですが。

そう思うのは、私自身も「通常の医療行為を行っていても、警察に捜査される可能性がある」ことまでは受容可能であっても、「通常の医療行為を行っていても、逮捕・勾留・起訴されて収入もなくなり新聞・世間からは犯罪者扱いされ人生があまりにも大きく変転する」ことは受容できそうにないからです。
それはほとんど起こらないはずだ、と頭で分かっていても、事実一つの例があった以上、これから同様の事が起こらないとは感じられません。
こう考えるのは「医師は通常の仕事中であっても、常に最悪の事態を頭の片隅で想定している」という事も関係あるのかもしれません。
(そして、医療上(=医師の日常において)、「最悪」ではなくとも「想定の通常例より悪い」結果が起こることは日常茶飯事ですから)

そういったことから「しっかりした法律上の枠組みが欲しい」「『謙抑的な姿勢』という言葉では不十分だ」といった感想等が出てくるのではないでしょうか。

「一般の検事や裁判官は医療者からの信頼に値する」ことは分かりますが「そうでない検事とそうでない裁判官がたまたま組み合わさってしまう可能性も未だに怖い」です。
これって、まさに「藪医者にかかって命が助からない」ことを怖がる被医療者と同じ気持ちなのかもしれません。


これを書くに当たって、客観的に書こうと思ったつもりではあるのですが、うまく自分を客観視できていないような気もします。
「今回の判決は、妥当な判決結果が出ただけ」「同様の刑事訴訟は、同様の結果になるはず」といった理解はできたつもりですが、「でも、怖い」という気持ちの部分が未だにあることが、今回これを書いてみて分かりました。

 死に直結する大病を患ったマナ板のコイ状態の患者だと、主治医の言葉を信ずるしかないですけど、心の片隅に「もしやこの先生は自分の症例はヤブでは?」という不安が拭えないのと同じです。40代で脂の乗り切ったベテラン風貌の自信に充ち溢れて評判の良い先生であっても。
 知らない無知ゆえの漠たる不安はどの立場にもあると思います。それが自分の生物学的生命でも、社会的生命でも、一生を棒に振る不安という意味では同等に近いと思います。
PS:主治医の先生
 心の片隅とはいえ、一時はこの症例は藪ではと疑ってしまったことを告白した上、謝罪します。心弱き者、死の恐怖に慄き周りが見えない者、汝の名は重病の患者なり。

>警察に介入され,取り調べを受け,起訴されたりする,ということ自体が脅威

このお気持ちはともかく、実際には今後どうなるかを推定してみます。

今までは医療過誤事件については有罪となるならないの基準、検察にしても起訴前に判断できるような明確なラインが、過去の裁判などでは示されておりませんでした。そこで医療行為として過誤があるかどうかの鑑定を依頼し、その鑑定書を検察官の法律知識で評価して、敢えて表現すれば「医療のことはよくワカランが鑑定書も問題ありとしているから起訴してみよう」こんな感じであったと思います。

ところが今回の大野事件の裁判で「一般的な医療準則」という明確なラインが示されましたので、起訴する前にかなりハッキリと評価できるようになりました。ですからハスカップ様の言われるように「普通の医師がごく普通に標準的に行っていれば有罪判決は有り得ない」ことが、検察にも予測可能になりました。

このようなことから警察がシャカリキに血相変えて捜査している事件があると検察が知ったとき、起訴して有罪に持ち込める可能性がほとんど無い事件であることが明かであれば、そんな事件を送検されてもウチは迷惑ですよというサインを警察に送るでしょう。そして検察がダメだとサインを送ってくるようであれば、警察が捜査するにしても、警察が一生懸命シャカリキに捜査することは無いと思います。

今回の福島県警の所轄書が非難されたことを知っている警察関係者は、逮捕や家宅捜索などの強制捜査に出る前に検察にチョイとお伺いを立てることはするでしょう。また鑑定も依頼するときに「医療準則に則った医療か否か」と、ポイントを明瞭に鑑定医に指定できるようになりました。その結果異常死の届出や患者家族からの相談などがあったとしても、医療機関に事実紹介の問い合わせぐらいは警察からあるかも知れませんが、いきなり逮捕だ家宅捜索だということは無いと安心していいと思います。

>法務業の末席さん

いつも冷静かつ鋭いご指摘をされているので、勉強になり参考にさせて頂いております。

判決要旨全文は私も読みました。裁判所認定では、仰るようになっておりますが、上記△砲弔い討六笋凌簑を大幅に入れて書いています。この理由については、「検察官にそう説明していなかったから」としています。
一応、裁判傍聴記の全てを読んだ上で、被告人医師の供述変化(単なる推測ですが)を感じるようになりました。癒着胎盤に対する証言は、裁判が始まって以降に被告人医師が述べるに至ったものと思われました。被告人医師が慎重になっていた(=オペ室でエコー検査実施、これは通常行うことがありません)理由というのが、「後壁の癒着胎盤の可能性」を怖れたのではなく前壁癒着を警戒していたから、であろう、と。
どちらであっても、要するに大量出血を警戒していたことに違いはないわけですが、「後壁の癒着胎盤」については「術前にエコーで調べても判明しない(診断できない)」方法を被告人医師は行っていたのです。
剥離困難の時には中止して子宮摘出をするもの、というのは被告人医師がそう検察官に供述したからで、検察官がそうした術式を自ら発案したものではないのです。が、被告人はその選択をしなかった。また、剥離中に出血が多いとは本人が思っておらず、胎盤を取るまでは(後壁の)癒着胎盤については考慮していなかったものと思います。癒着胎盤と診断するのは、本人曰く「剥離困難」と「出血量が多い」という場合、です。供述では「剥離中に出血がいつもよりそれ程多いとは思っていなかった」ということなのですから。条件が欠けているのです。

裁判所判断は、被告人の取った措置について逸脱とは判断しなかったものの、ベストかと問われれば疑問の余地は残されるでしょう。本件の意味を裁判所が考えないとすれば、例えば「砂浜の陥没事故」の如く、過失認定をされることも有り得ると私には思われました。あくまで個人的感想に過ぎませんが。

医学的準則として、剥離を中止し子宮摘出せよ、ということが義務と言えないのは、他の救命例で剥離後子宮摘出している証言があった為と思います。出血量でも本件より多い例で救命されている症例があります(逆に総合周産期母子医療センターの例のように少ない量で死亡した例もあります)。
いずれにせよ、最善の医療だったから過失としなかった、ということではないと考えます。

一部医師の「非の打ち所のない医療を行ったのに、逮捕起訴された」というような認識は違うだろう、ということです。

判決文についての解釈は、ご指摘の通りで特に異論はありません。以下の記事に書いた通りです。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8d77a6a47c775a622ca4f8cc2b0bcb3f

民事と刑事を混同しているつもりはまったくないのですが、(民事でこんなこと言ったら判例違反でしょ)「医学的準則」なるものがわれわれ医療者にとっては当然過ぎるほどのものであったも、これが法曹の間で一般化、共有化されていたとはとても思えないのですが。もしそうならば福島地検は大いにとがめられてしかるべきでしょう。
現に、モトケン先生自身も判決が出る前は5分と5分、またまったく逆の結論で判決文を書くこともできたとおっしゃっていたではないですか。

まさくに様
福島地裁判決の判決要旨に、傍聴記などからの情報も加味した解説であるとのこと、了解いたしました。

>一部医師の「非の打ち所のない医療を行ったのに、逮捕起訴された」というような認識は違うだろう、ということです。

これは同意いたします。
あの大野事件での医療は決して完璧な最善の医療ではない、これは判決文を読めば、福島地裁の裁判官もそのように認定(事実認定)したことが分るはず。神の如く完璧に、患者に起こり得る最悪の事態を予測できたなら、救命できた可能性はあると判示している。だが完璧最善の「非の打ち所がない医療」ではなくても、同じ状況に直面したほとんどの医師が行なうであろう「医療準則に則った医療」であれば罪に問うべきでない。これが福島地裁の判決で無罪を言い渡した論理。

ということから、「非の打ち所のない医療を行ったのに、逮捕起訴された」との主張は、認定された事実とは両立しない。

では、「医療準則に則った医療を行なったのに、逮捕起訴された」という主張は成り立つのか?
これはロジックとしては矛盾は無い。

だが今回の大野事件では、裁判の判決によって初めて医療準則に則った医療だから無罪と決まった。逮捕起訴された段階ではこのような明確な基準は誰も示していなかった。であるならば逮捕起訴は誤りだったと論ずるのは、8月20日の判決を知ってから2年前の逮捕起訴を、レトロスペクティブに断罪する主張である。

司法に対して「レトロスペクティブにしか判断していない」とか、「後出しじゃんけんだ」と批判する一部の医師の方がおられたが、その司法批判の見事な裏返しであろう。

> No.20 法務業の末席 様

本件エントリでの法務業の末席様のご見解は、全てにおいて私が感じつつも上手く文章に出来ずにいた事を仰っていただいており、「私が漠然と感じたのはこのことだ!」と思うこと頻りです。

ただ、「非の打ち所のない医療を行ったのに、逮捕起訴された」という文脈が登場するとき、時として暗黙裏に「(当時の状況下において)非の打ち所のない医療を行ったのに、逮捕起訴された」という含意を含んでいる可能性も否定できないかな?とも思います。つまり、この文脈において「非の打ち所のない医療=判決で無罪の理由とされた医療準則に従った医療行為」と解する余地も無いではないような。。。

とは申しながら、法務業の末席様が直近の投稿の最後段で仰っている事は、さもありなむ!、としか申し上げようの無いように思えます。

だが今回の大野事件では、裁判の判決によって初めて医療準則に則った医療だから無罪と決まった。逮捕起訴された段階ではこのような明確な基準は誰も示していなかった。であるならば逮捕起訴は誤りだったと論ずるのは、8月20日の判決を知ってから2年前の逮捕起訴を、レトロスペクティブに断罪する主張である。

この判決以前は「完璧な医療以外は逮捕起訴される可能性がある」が事実でしたが、
この判決後は、「完璧な医療でなくても医療準則に則った医療は逮捕起訴をまぬかれる可能性が高い」が医師の間でもコンセンサスになっていくのではないかと思います。

>この判決後は、「完璧な医療でなくても医療準則に則った医療は逮捕起訴をまぬかれる可能性が高い」が医師の間でもコンセンサスになっていくのではないかと思います。

 公務員部落の常識では、(実質)上級庁の長官の発言(起案決裁は幹部級のコンセンサス済み)は、ものすごい重みがあります。
 建前としては、警察庁は都道府県警の上級庁ではないし、法務省は検察庁の上級庁ではありません。しかし、各種警察庁の通達は、自動的に都道府県警察本部長(長官)の通達となって都道府県警を拘束します。そして、法務大臣を支える法務省幹部は、原則として検事高官で、彼らのコンセンサスに基づいて大臣所感や国会答弁が形成されています。
 したがって、警察庁長官発言と法務大臣発言は、今後の警察と検察の大方向指針として事実上の拘束力をもつと思います。
 ご参考まで。m(_ _)m

この判決以前は「完璧な医療以外は、どこで有罪無罪の線が引かれるのか明確でなかったので、起訴して裁判所の判断を仰ぐ」と検察が行動したのは、裁判制度や司法の原則からある意味で止むを得なかったこと。法の理屈としてはこのように論じざるを得ません。

ただ私は、加藤医師が受けた起訴による有形無形のダメージは、大変お気の毒なことで深く同情しますし、また社会的に受けたダメージが少しでも補填されることを切に願っています。これは理ではなく情の部分の議論かと思います。

この理と情の峻別が曖昧なままに、上滑りした言葉による応酬が行なわれることが残念です。また私個人としては逮捕が必要とした警察の判断には、大いに疑問を感じていることを付言しておきます。

医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反した者には刑罰を科する基準となり得る医学的準則は、臨床に携わる医師がその場面に直面した場合、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性がなければならない。

この判示は「ほとんどの者」というところに解釈の余地はありますが、医療側の贔屓目で見れば、医療側の大方のコンセンサスであろうところの「ほとんどのものがこいつはひどいと思うような医療」を行ったもののみが刑罰を科せられると解釈できます。つまり従来主張されてきた刑事免責に近いものがあると私は考えてます。
これを法曹側のコンセンサスにするためには、医療側もやるべきことはたくさんあるだろうというご指摘があるならばごもっともと思います。もっとも私は立場上ほとんど何もしてないに等しいですが。(言ってしまった・・・・)


「医学的準則」なるものがわれわれ医療者にとっては当然過ぎるほどのものであったも、これが法曹の間で一般化、共有化されていたとはとても思えないのですが。もしそうならば福島地検は大いにとがめられてしかるべきでしょう。

福島地検の手法が特殊であろうと言うことはすでにモトケン先生が書かれていることですよね?
 で、その特殊性のレベルが我々の世界で言うなら、「あの先生ちょっとあれなんだよねぇ・・・orz」のレベルであれば咎めるとかそう言う話にならないと言う事じゃないでしょうか?で、そう言う感覚って内部の人間にしか分からないタイプのものだと思うんですけどね。

 だからNo.15の桜井先生とか、No.16のハスカップさんとかのおっしゃっていることがきわめて「言い得て妙」なんだと思いますよ。

ちょっとよく分からなくなってきたんですが、僻地外科医さんは「医学的準則」なるもについて、以前から法曹のあいだのコンセンサスがあったとお考えなんでしょうか?それともなかったとお考えなんでしょうか?
私は後者であり、だからこそこの判示は画期的であり、一方で福島地検が(警察の逮捕はともかく)起訴したのはやむをえなかった面があるという主張です。「医学的準則」がなかったのですから。もちろん地裁判決ですから判例として確定したとは言えず、ご指摘の懸念はありうるとは思いますが。

…またまたモトケン先生をカチンとさせてしまうかも知れませんが…。

 確かに、被害者団体側弁護士からさえも、大野病院事件の判決内容そのものを正面切って批判するステートメントは出されていないようです。

 ただ、多くの医療関連団体が異議を唱える騒然たる中で行われた起訴当時、被害者団体側弁護士達が、被告は民事和解を早期且つ積極的に進めて裁判所の情状を得る努力をすべきであると主張していたことは、紛れもない事実です。(信義則上、具体的内容をここで開示するつもりはありませんが、今後必要であれば裁判所等への資料提出の準備はあります。)…もちろん、当時は有罪判決を確信した上での発言であろうと思います。

 それでも、民事手続に刑事告発やその可能性の示唆を絡めるというような類の試みは、被害者団体側弁護士によって今後むしろ活発に続けられるでしょう。検察官はともかく、裁判官や、特に検察審査会によって指名された特定弁護士から、いつも医療の本質に充分な理解を頂けるというようなことは期待できないのではないかという不安は払拭できません。

 最終的には、特に刑事医療訴訟においては医療専門職の参審が必要ではないかと考えています。

ちょっとよく分からなくなってきたんですが、僻地外科医さんは「医学的準則」なるもについて、以前から法曹のあいだのコンセンサスがあったとお考えなんでしょうか?それともなかったとお考えなんでしょうか?

 医学準則という明瞭な形であるかどうかはともかく、検察では「普通の人が普通に仕事をしている場合に起きた事故でむやみに刑事訴訟を起こさない」という感覚があるのだと思っています。
 この部分がモトケンさんのおっしゃる「大野病院事件における福島地検の特殊性」だと言うのがこれまでのモトケンブログ他における過去ログを読んできた私の判断です。
 捜査を行うことはある程度やむを得ないでしょうし、捜査をした以上それを送検することもやむを得ないと思いますが、それを起訴するかどうかの判断の段階で「福島地検のやり方が特殊」という風に考えています(もちろん逮捕も含め)。

 この点、割り箸事件、東京女子医大事件とは少し状況が異なるのではないかと言う考えです。

そうすると僻地外科医先生はたまたま福島地検に普通とは違う判断をする検事がいて、おかしな起訴を行ったとおっしゃるわけですね。しかしそうだとすると、医師の世界にも弁護士の世界にも検事の世界にも常識的でない判断をするものは少数ながらも必ずいるわけで、これらを一掃するのはまず不可能でしょうね。
でも本当にたまたま起こった起訴だったのか、今となってはあまり詮索しても意味はないと思います。それよりもこの「医学的準則」についてコンセンサスを獲得するほうが急務であると思います。

「医学的準則」をどうやって認定するのかわからなければ不安は解消されないと思うけど。
裁判やってから、この医療行為は「医学的準則」にのっとていたから無罪ですって言われても、って不安は解消されません。
そういう意味ではもともと「医学的準則」に即したと考えて裁判官は判決をしてたような気もするし。
大多数が間違っていることを、先駆的に正した場合(十分な根拠を持って)ってことも状況によってはありえる世界だし。

まあ、何はともかく大野事件で検察が起訴に慎重になるのは一定期間は間違いないとは思うけど。

でも本当にたまたま起こった起訴だったのか、今となってはあまり詮索しても意味はないと思います。それよりもこの「医学的準則」についてコンセンサスを獲得するほうが急務であると思います。

裏でモトケン先生が書かれていますが

>だから誠実な医療の重要性を書いたんですけどね。

ってことでしょうね。

>「医学的準則」をどうやって認定するのかわからなければ不安は解消されない

だ〜か〜ら〜、認定機関となる「安全調(事故調)」を早く作れ、と法務大臣も言っている訳で…

少し疑問様
素人が口を挟んで恐縮ではございますが・・。

>「医学的準則」をどうやって認定するのかわからなければ不安は解消されないと思うけど。

お分かりいただいてらっしゃるとは思いますが。
だからこそ、安全調(事故調?)を早急に立ち上げる必要がある、起訴される前に「医学的準則」であるということを速やかに判断する組織が必要である、という流れになっているのだと思います。
医師の方が普通の医療行為をしていただいているならば、極めて殆どの医療行為は「医学的準則」に当てはまるのだと思いますので、うらぶれ内科様も仰るように、故意、常識外れ(ICが無かったり)でなければ、医療行為はかなり免責に近い感覚になるんではないでしょうか。
(断言しすぎかな〜)

連投すいませんm(_ _)m

うわっ 思い切り法務業の末席様と被ってしまった。

「医学的準則」が一人歩きすることの怖さは傍観者にはわからないでしょう。
お金も出さない、人もいない状況で健全な事故調をどう作るかのコンセンサスもありません。
事故調を作ればいいというのは、教育水準が低ければ学校を作ればいいというのと同じです。

そのような後ろ向きなお考えのレスには、反応するべきではないとは思いましたが、私のような素人から指摘された事が、少し疑問様の癇に障ったのであればお詫び申し上げます。

しかし、今、長官発言や大臣発言の後押しがある追い風状態の時に、このままで良いんでしょうか・・・。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3910/1220243158/569

横レス失礼します。
安全調(事故調)に十分な予算・人材の配置がなされず、個々の調査・議論が不十分となり、トンデモ医学的準則が作成され、トンデモJBM と同様の効果を生む危険性がある、とのご指摘かと思います。
懸念はもっともですが、十分な予算・人材の配置のための議論は国民全体でこれから行っていく事でしょう。
少し疑問 さん の投稿は挑発的で非建設的であるように思えます。

横レス失礼します。
安全調(事故調)に十分な予算・人材の配置がなされず、個々の調査・議論が不十分となり、トンデモ医学的準則が作成され、トンデモJBM と同様の効果を生む危険性がある、とのご指摘かと思います。
懸念はもっともですが、十分な予算・人材の配置のための議論は国民全体でこれから行っていく事でしょう。
少し疑問 さん の投稿は挑発的で非建設的であるように思えます。

申し訳ないけど司法制度そのものをあんまり信用してないんですよね。日本の刑事裁判の有罪率はどのくらいですか?
検察の裏金告発した人はどうなりました?

医療側としては防衛医療に走るべきだと思いますよ。
もう走ってますけど、それは仕方ないと思います。
その上で事故調とか出来るだけまともな制度を
つくるために努力するべきですね。

>安全調(事故調)に十分な予算・人材の配置がなされず、個々の調査・議論が不十分

この話は普通に心配するべきところだと思うんですが・・・
今の流れから行ったらこの安全調での事例の積み重ねが「標準医療」として捉えられていってしまうんですよ。
事例の積み重ねは組織としては楽ですが医療の進歩・変遷に対応しきれないんじゃないんでしょうか。
十分なマンパワーと予算の裏づけがなければ危なくて信頼できないってのもひとつの考えだと思います。
予算とマンパワーのない組織は情報の収集が難しくなり、えてして前例踏襲になってしまいますので危険です。
少なくとも国民全体が予算について認識する前に実例が積み重なってしまうでしょう。
その実例が医療にとっていいほうに向かうとは現時点では思えないです。
訴訟に対して安心になっても医療実務に対して手足を縛られる結果になってしまっては本末転倒ではないでしょうか。
流れを見ると事故調さえ出来れば前向きに進むといった様に受け取れますが、事故調は「医療崩壊」を防ぐためのひとつの方策でしか過ぎないはずでは?

僕自身は、自分の信じる医療を行っています。
司法に対する恐れはふっきれています。

そのうえでですが。
しかし、事故調作ればっていってるのにわかんないの。
事故調作ったら解決するんじゃないの。

という言葉には依然反発を感じます。ましてだ〜か〜ら〜、と書かれれば。

今回の判決でなんだかんだいっても安心もしています。
起訴が抑制されると信じています。

しかし、「医学的準則」という言葉は実態のないものです。
全ての判決が民事も含めて、「医学的準則」にのっとっていれば、医療側を非としない、というのは、今までも原則だったはずで大野事件で変わったのではないと思います。

「医学的準則」を決めることの難しさ、「医学的準則」が科学的には間違っている場合があると思うからの感想です。まして、時間も人も割かない方針が変わらない事故調に期待できない者がいても不思議はないはずです。事故調を作る方向性に異論はないとしても。

 昭和30年代からの航空事故調活動を追っている私から見れば、事故調は立ち上げから安定までは苦難の道です。安定した後も、さまざまな圧力(機体メーカー、エンジンメーカー、国益)にさらされますが、これは日本だけでなく諸外国でも同じです。柳田邦夫著『マッハの恐怖』『続マッハの恐怖』〜メアリ・スキアヴォ著『危ない飛行機が今日も飛んでいる(上)』『同(下)』が詳しいです。
 医療事故調が同じ苦難の道を歩むことが推測できるだけに、今のところはコメントを控えています。緊急時には操縦マニュアルどころか法令(レギュレーション等)を無視したからこそ生還したニアミス・インシデントもあるくらいですから。逆に稀な事故例マニュアルを念のために精読したから助かった例もあるくらいですし。
 「調査機関は自分の認識できるスキル(技量)以下しか判断できない」という限界は、常に念頭に置いておいた方がいいでしょう。

>十分なマンパワーと予算の裏づけがなければ危なくて信頼できないってのもひとつの考えだと思います。
>予算とマンパワーのない組織は情報の収集が難しくなり、えてして前例踏襲になってしまいますので危険です。

これは既にモデル事業で証明されています.
モデル事業はコストを掛けなかったために,1例に1年以上も掛るのはザラ,遺族たちはしびれを切らせて訴訟に持ち込んだりとかいったことも起こっているのです.

マンパワーと予算の両方を獲得する算段がなければ逆効果になる可能性は十分にあるということです.政府,厚労省にそこまでの見込みがあるか?ということですね.
「仏を作って魂入れず」ではお話になりません.先立つものが必ず必要です.それがあって初めて具体案の検討になるべきものと私は考えます.

「医学的準則」を決めることの難しさ、「医学的準則」が科学的には間違っている場合があると思うからの感想です。

本来は学会や医師の団体が先手を打って「医学的準則」を決めるべきだと思いますが、医療界のそのような動きが見られない以上、国民としては医療安全調に頼るほかないと思います。

なお、決まらないというのも一つの準則だと思います。「○○に関しては何が最善か決定する事ができないので、これを持って過失か否か判断するべきではない」と言うのもあり得るかと思います。

 「医学的準則」という言葉の捉え方の問題ですけど、大野病院事件の判決にある医学的準則とは、「刑事罰を課すべき」と言える医学的準則ですよね。
 「こういうケースには、こういう方法を採用すべき」と言う医学的準則ではありません。
 そして、刑事罰を課すべき医学的準則があると言うには、大多数の医師なら採用しないであろうと実証的に証明されなければいけないとされたわけです。
 この判例の考えに立てば、少なくとも刑事訴訟との関連について言えば、事故調に要求される調査のハードルはそんなに高くないと思うのですが、どうなんでしょうか。

そして、刑事罰を課すべき医学的準則があると言うには、大多数の医師なら採用しないであろうと実証的に証明されなければいけないとされたわけです。

傷の湿潤療法とか、ブラッドパッチ療法、バチスタ、人工心臓etc...の時に問題になってきそうなんですけどね。医療の場合、ある医師以外にはとても採用しないような治療法もあるかと思いますので、「大多数の医師なら採用しない」ものに刑事罰を与えても、それだけでは問題だと思います。


少なくとも刑事訴訟との関連について言えば、事故調に要求される調査のハードルはそんなに高くないと思うのですが

調査よりは、メンバーの構成が重要になりそうです。事故調のメンバーの中に、自称スーパードクターが存在し「俺だったら患者は絶対に助けられた」と言うような観点から判断を下す可能性が少なく無さそうなのですね。

私は「事故調の位置づけ」こそ最重要と考えます。

福島地裁判決要旨を見れば「医学的準則」を問題に中心にすえたのは。

検察官は、癒着胎盤であると認識した以上、直ちに胎盤剥離を中止して子宮摘出手術等に移行することが本件当時の医学的準則であり、本件において、被告人には胎盤剥離を中止する義務があったと主張する。

検察が「医学的準則」を主張したから

弁護側は「標準的な医療措置」を主張しただけともいえます。

つまり裁判所が検察に要求した事は・・・この二つ。
1、その義務に反したものは刑罰を科す基準となり得る「医学的準則」を示し
2、被告の行為がそれを大きく逸脱した、ことを示す。

刑事訴追の場面で、その医療らしき行為が「トンデモ」と証明できなければ「トンデモで有罪」には成らない、そうと解っていれば起訴もされない。

福島地裁判決の論理が司法のコンセンサスで有る可能性が高いのですが。
それなら事故調が「医療と呼ぶに値しないトンデモ」と認定しなければ検察が裁判を維持できない、とはっきりすれば良いのでは。

 ちょっと書き方が良くなかったと思ってますけど、「大多数の医師なら採用しない」の意味は、その方法を採用する医師の単純な寡多を指しているわけではありません。
 判例の趣旨には「他の多くの事例に照らして見ても、独りよがりで危険かつ無謀な方法」と言う意味が含まれているはずです。
 なので、難易度の高い手術方法を採用する医師が少ないからといって、そのことだけをもって当該手術方法を採用した医師がクロになることはないと思います。

事故調のメンバーの中に、自称スーパードクターが存在し「俺だったら患者は絶対に助けられた」と言うような観点から判断を下す可能性が少なく無さそうなのですね。
 これについては、事故調の人選の問題もありますけど、むしろ事故調の制度設計の問題じゃないでしょうか。  つまり、「俺だったら助けられた」という俺流医学的準則ではなく、「助けられなかったけれど、罰すべきという医学的準則はない」という客観的医学的準則で判断すされるような制度設計をすれば済むと思います。

おっしゃることはもっともだとは思います。

でも、というのはグダグダのそれこそ非建設的意見になるので飲み込みます。僕自身は、ある種の楽観主義によって自分の信じる医療をするしかないという境地です。もう医者はやめれないですから。

ここに来てコメントしている自分の矛盾を承知して言うならば、僕にとって医療だけを考えて患者さんのことだけを考えて診療をしているのが幸せな訳です。標準的医療から少し逸脱しても一生懸命考えてその患者さんのQOLをあげることに専念できることが幸せです。
何を言いたいかというと、医者を救うのは自分自身だから自分たちのためにもっと運動しないか、というのは正論なのですが、それはそれで患者さんに全力投球できなくなる後ろ向きになりがちな自分になる訳です。

うーーん。
書いてて思ったんですが、やっぱり僕はコメントしない方がよさそうです。って、反省も何度したことか。

とりあえず、誠実な医療をすることだけは誓ってひとまず退場します。

退場前に、僕の主旨はわかっていただけたと思いますが、ゼロ+Oさんに対して、素人が何を言っているのかというように思えるコメントをしてしまったことをお詫びします。
法務業の末席 さんの、だ〜か〜ら〜、に対しては少し感情的な表現をしてしまいました。法務業の末席 さんはROMしているなかでその見識の高さには尊敬をしております。だからこそ、少し感情的になりました。

子供のくせに、子供扱いするなというようなものだったとは思います。

 訴訟リスクについての不安がふっ切れていて、医療だけを考えて患者さんのことだけを考えて診療をしているのが幸せな医師の皆さんは、特に運動などを考える必要はないと思います。
 そういう医師の皆さんは、医療崩壊という現象から無縁のところにおられると思いますので。
 これは皮肉じゃありません。
 このブログが目標とするところの理想だと言っていいと思います。

退場するつもりでしたが、一言。

ありがとうございます。
少し、複雑ではあります。

ROMっていてまた何か書き込でもご容赦ください。

 そういう医師の皆さんは、医療崩壊という現象から無縁のところにおられると思いますので。

 うむ〜〜。余計な突っ込みですけど、医療崩壊は自分一人の訴訟面の心配だけが問題じゃなくて人員面の問題が大きく絡んでいるためにどうしても無縁ではいられないんですよねぇ・・・orz。
 特に田舎にいると風が吹いたときの桶屋のもうけが大きいです。

私の気軽な書き込み
http://www.yabelab.net/blog/medical/2008/09/09-103235.php#c181042
から騒動を起こしまして申し訳ありません。

その書き込みをするに至った原動力は,私の不快感からであったと思うのですが,それがどのような不快感であったかは,自分でも適切な説明ができなかったのだと思います。このスレッドで,No.6 まさくにさんのコメントを読んで,だいぶはっきりしてきたように思います。

まさくにさんは「「被告人医師が無罪であった」ことをもって、裁判所批判や司法サイド批判に用いることはできない。」と書かれました。私としては,「被告人医師が無罪であった」ことに絡めて,青戸は不誠実だったとか,不断の努力によって裁判所からの信頼を固め続けなければならないとか,一人の不誠実な医療行為によってその信頼が瓦解する可能性があるとか,なんでそこまで書くのかな,と思ったのだと思います。まさくにさんが「裁判所批判について」で書いた不毛な議論(ミスの指摘合戦)の端緒のように「私からは」見えたということです。

あと,「刑事司法にはもう心配しないで大丈夫」という思想の押し付けというか… 私自身は,No.52でモトケンさんが書いているところの,「訴訟リスクについての不安がふっ切れていて、医療だけを考えて患者さんのことだけを考えて診療をしているのが幸せな医師」なんですが,そうは考えていない医師とか,そもそも判断がつかずに右往左往している医師もいるわけで,そういう医師が安心感をもてるには,司法の不断の努力が必要なのと違いますか,と,結局言い合いになっちゃて… (ちなみにここで出てくる「訴訟リスク」は,刑事訴訟リスクということですよね?)

なお,「完璧な医療」のコトバ問題については,「普通の医師が普通に行う医療」と置き換えて頂ければ幸いです。つまり,私の最初の考えでは,ほとんど全ての医師が,実践においてその行為を取るような医療を,完璧な医療だと考えていました。言い過ぎをお詫びします。

(ところで,そうなると非医療者が「ベストの医療」という言葉・概念を使うことに,何か有益なところはあるのだろうか,と素朴な疑問が浮かびますが,どうなんでしょう?)

申し添えますと,私は以前から書いていることですが,警察検察が今後無理な立件をしてくる可能性はまずないと考えています。今回の判決は「無罪」という判決自体は当然と考えていますが,鮮やかな方法で医学的準則を示した点で画期的と考えています。ただ,裁判所の医療事件の判断については信頼感が薄く,それも最初の気軽な書き込みになりました。私の場合,接する医療訴訟はほとんど民事で,裁判所への信頼感に関しては刑事と民事をごっちゃにして判断していると言えますが,刑事だけを取ったとしても,少なくとも割り箸訴訟の判決が出てみないと,今回の大野事件だけではなんとも… 検察警察と違って裁判所は,上意下達が望みにくいですよね?

民事医療訴訟を見ていると,「これがもし立件されてて大野事件判決の医学的準則に照らされたら,有罪になるだろうな〜」なんて例もあるので,まだ色々考えるところはありますが,時間が厳しいので今日はこれで失礼します。

また私への批判などありましたら,よく考えてみますので是非お願いします。

追伸

裁判所の医療事件への判断については信頼が薄いと言っても,多くの医療事件に妥当な判決が下されているとは思っています。ただ,医療側が負けた判決を比較的多く見ているせいか,鑑定医の意見が厳しいものやら,最高裁の厳しい判例に縛られたものやら,そもそも判断手法がおかしいだろうというものやらが多く目に付くからというだけかもしれません。とはいえ,そもそも判断手法がおかしいだろうという例が,10%を超えている印象はあります(素人目からなので,アテにはならない見解ですが…)

亀レスで申し訳ないのですが、
それって民事でのアドバイスですよね。
普通に考えて今回のような業務上過失致死に問われた案件で、
全く同じ治療を行ったのに
あらかじめ説明していたら無罪説明が足りなかったら有罪という判断はたとえボーダーライン上の1ファクターとしても納得しがたいです。
そう考えるとやはりリスクのある冒険的な治療は萎縮せざるを得ないのではないでしょうか。

>なんでそこまで書くのかな,と思ったのだと思います。

 峰村さんは、医療と司法との対立構造という認識を前提にして、私や私以外の法曹コメンテイターは医療と対立している司法側の人間であって、私のコメントは医療側に対する恫喝である、と理解されていたわけですね。

>全く同じ治療を行ったのにあらかじめ説明していたら無罪、説明が足りなかったら有罪という判断はたとえボーダーライン上の1ファクターとしても納得しがたいです。

 そういう趣旨ではありません。説明義務を果たして同意を得ていた方が、民事刑事ともに過失の回避義務の判断でリスクが低減するという趣旨です。
 予見義務でも回避義務でも、説明しなかったら有罪・説明したら無罪という単純能天気な判断はありえないと思います。

 きちんとしたリスクの説明をすれば訴訟リスクが低減するというのは刑事にも妥当します。
 関係者(特に患者本人)の納得という面とともに、理論的にも「被害者の承諾」によって違法性が阻却されると考えることが可能だと思います。

新規の治療や特別の治療を行うときは、通常は病院の倫理委員会の承認が必要のはずです。倫理委員会の承認を経て、充分な説明の元に患者の承諾を取れば、大部分の医師はでたらめな治療とは考えないでしょうね。

 倫理委員会は、お目付け役として煩く感じる方もいらっしゃると思います。しかし、医学無知の事務屋サイドから見ても、(1) コンプライアンスも、(2) インフォームドコンセントも、(3) 適切な医療水準の専門家による設定・管理も、全部クリアされているので、安心して見ていられます。

>峰村先生
医師でもない私の意見に耳を傾けて頂き、お礼申し上げます。出すぎた真似をしていることは自覚していますが、伝わって欲しいという願望故のご無礼をお許し下さい。実を申しますと、拙ブログにおいては過去の大半が司法への厳しい意見を書いてきたので、峰村先生のお気持ちはよく判ります。医師たちが不安を抱えながら、訴訟以外にも多くの問題に直面した中で、誠実に全力で治療に当たっておられるということは重々承知しております。他の医療者たちを思えばこその、先生のご発言であろうということも、理解しているつもりです。だからこそ、ここで「不利益に繋がるような失着」は医療側としては避けるべきではないか、ということを申し上げたかったのです。自分自身、司法(警察含む)や報道などについて常々厳しい批判をしてきましたので、「相手が応えたら」それを評価し「こちらもそれに応える」のが望ましいとも考えているのです。
恐らく多くの医師たちは、「みんなは判ってくれない」という思いがあったのではないかと思います。特に、本件事件以前には、医療側の声というのは国民にも、司法サイドにも遠く届いていなかったであろうと思います。しかし、ここで喧々諤々議論や意見を出されてきた方々のご尽力などもあって、改善が進んだ部分はあったと思っています。その上で、ネット上の人々だけではなく、もっと多くの「みんな」に向かって声を届けなければならない、と考えています。目標とは、ここに訪れる方々だけではなく、ブログやマスメディアなどを通じて、もっと広い「みんな」に伝え説得せねばならないのだ、ということです。すなわち、大勢の国民が対象なのです。その為には、「これを判って欲しい」ということを、マスメディアに言ってもらうとか議員さんや著名人に言ってもらうとか、そういうことを達成せねばならないわけです。媒介する人たちをまず「説得する」ことが必要なのです。それを達成する為には、説得的な意見を必要とします。反発を招きやすい言説や感情的言説などは殆どが説得力を持たず、かえって反対者を増やす結果を招きかねません。ここ最近の一連のやりとりを見れば、そのことは一目瞭然ではないかと思います。
医療崩壊を食い止めるのは、本質的には「政治問題」です。政治的な成功を収めることが必要なのです。その為には、「多数派」形成が必須なのであり、幾度となく説明を繰り返し、賛成に回ってもらえるまで努力してみるしかないのです。
先生が様々な法学的論点について理解を深められてきたこと、司法側の言い分も理解していること、これはここの常連の方々はご存知のことです。その上でのご発言ですから、「心の奥底にあるもの」の発露なのだということも、よく判ります。医療者たちが「こんなに頑張っているのに、何故そんなことを言われねばならんのか、何故これ以上に精神論を要求されるのか」というような思いがあるとしても、大義の為と思って個人的感情を封印して頂ければと思います。その他大勢の医療者たちを救う為と思って、少々のことは堪えて下さることを願っています。

>モトケン先生
かなり紛糾したと思いますが、これ以上細かい言辞に拘るのは双方にとって益がないように思われますので、矛を収めて下されば幸いです。誤解を生じるような部分があったが故に、こうして紛糾するということはありますし、法廷の如くに勝敗が決するまで徹底的にやる、というのが良い結果をもたらすとは限らない場合もございます。
このまま続けても、某O弁関連の如くに双方の評価が低下してしまうように思われることもあるかもしれません。峰村先生は既に謝罪の意を示しておられるのですから、語句や表現方法等に認識・感覚の違いや行き違いがあったのだな、ということで、納得してもらえればと思います。

ハスカップさん
モトケンさん

返信ありがとうございます。
書き込んで一晩落ち着いてみたら
他の(明らかな犯罪の場合でも)「悪質性」という言葉でそういった調整がされていることを思い出しました。

>これ以上細かい言辞に拘るのは双方にとって益がないように思われますので、矛を収めて下されば幸いです。

 私は細かい言辞に拘ったのではないんですよ。
 言葉の背後にあるバイアスを感じとってしまうんです。
 そういう仕事をずっとしてきましたからね。
 私の感じ取り方が正しい保証はありませんけどね。
 その意味では切れたのは私の思い上がりということもできます。
 しかし、私は私の感じ取り方に従って反応するしかありません。
 溜め込むか切れるかのどっちかですね。
 で、私のキャパシティはそれほど大きいものではないのです。

 みなさん、私が切れた理由を分かってるんですかね?

 少なくとも、私は、司法側を代表して医療側に何事かを要求した覚えは一切ありません。
 「誠実さ」もそうです。
 医療側が、医療側自身の問題として不安感を少しでも減らすためにはどのように司法に対峙したらいいかという観点でものを言ってきたつもりです。
 たぶん、私以外の法曹コメンテイターも同様だと思います。

で,医療は,その「誠実さ」を重視する判断手法に愛想を尽かしたというか,そういう司法に誠実さを見出させない状況なわけなんですが,医療側から見ると,自らの誠実さを激しく損なっておいて,医療に対して誠実さを求めるというのは,ちょっと虫が良すぎるんでないかなという風にも感じます。

 「誠実さ」という言葉は、判決要旨にはありません。
 私のエントリで私が使った言葉です。
 読みようによっては、私が医療側に「誠実さ」を求めたと読めます。求めたつもりはありませんけどね。
 つまり、「ちょっと虫が良すぎる」というのは私のこととしか読めません。
 そう読む人は私だけではないと思います。
 そう読んだときに、この発言の背後にあるバイアスをどう感じ取るか?
 これ以上言う必要はないと思いますのでこのあたりでやめますが、まさくにさんが指摘されているように、医療側のみなさんはこのブログで発言する意味をもう少し考えたほうが医療側のためになると思います。
 (以下略)

 やっぱり言葉が足りなすぎますね。
 「ちょっと虫が良すぎる」と言われたから腹を立てたという単純なものではありません。
 私と私と気持ちを同じくする法曹コメンテイターがこのブログに投下した膨大な時間が無駄だったのかな、という徒労感みたいなものです。
 私達が勝手にやったことですのでうらみつらみはありませんけど。
 少しでも医療側の不安感を減らすことができればという思いがまるで通じていなかったのか、という思いはしましたね。
 発言者が古くからの常連さんでしたから。

 いやいや、大野判決とその後の警察庁長官、法務大臣の談話で十分に不安感は減っています(個人的にですけど)。あの談話の重さについての小生の解釈が誤りではなかったと言うことは、法曹内部、官庁内部の事情を理解されている人たちの発言から裏付けられています。

ご丁寧にありがとう御座います。

少し疑問様が抱いていらっしゃる懸念も十分に理解できます。
私自身も今の世間、政治の状況を踏まえても、実際どれ位の予算でどのような組織作り、どのような人選が成されて行くのか、不安を感じる所はありますし、安全調が立ち上がり稼動されたとしてもハスカップ様がご指摘のように茨の道が待っているのかもしれません。しかし、医師の皆様がプレッシャーを感じることが少しでも少なくなる為にも、司法と医療の乖離感が未だ有るとすれば、それを埋めて行く為にも、少しずつかもしれませんが、現状よりも前進して行く事に期待したいです。

私は、「医学的準則」というものを軽く考えすぎているかもしれませんが、少し疑問様のようなお考えで医療に携わっていただいていれば、ほとんどそれに当てはまると思います。

>モトケン先生

コメント有難うございます。先生の徒労感と仰ることは判らないではありません。先生やその他法曹の方々のこれまでの努力は、多くの人に十分理解されていると思います。
言葉というのは時として、誤解を生じることもあります。「意を汲む」ということを書きましたが、相互に「意」ということについてすれ違いを生じてしまうことは有り得るでしょう。「そんなつもりではなかった」「そんな意図で言ったのではない」等々。これは家族間や親しい友人間などでも同じです。全てを明確に定義して、誤解を生じないように伝えるというのは困難です。読み手に違った印象を与えたり、意図せざる解釈をされたりというのも、有り得ることであると思います。

モトケン先生は、背後にあるバイアスということを取り上げておられますが、発言者の背後を読むというのは人によって異なるものです。結局のところ、双方が自分の意図するところについてうまく相手側に伝わっていなかった部分が「互いに」あるのだな、と思って頂ければと思います。それは、どちらが悪かった、どちらに原因があった、ということを突き詰めていくことでは解決できないのではないかと思います。自らに非はない、ということは、よく判りますが、それは主張する時には双方から出されてしまうものなのです。まさに裁判になってしまう紛争と同じではないかと思います。
ウチの夫婦の例は役立たないかもしれませんが(笑)、長年連れ添っているにも関わらず発言の「行き違い」みたいなことはあるので、そういう時もあるかもな、と思って頂ければ幸いです。

今いる誰かにとって徒労であってもいいではないですか
ここで議論されたことについては今後長くログに残ります
いつかそれを読んだ誰かが安心を得られるならそれでいんでないですか
それこそ前向きにまとめサイトがいい影響を与えることに期待しましょう

モトケンさん
横レス失礼いたします。

少しでも医療側の不安感を減らすことができればという思いがまるで通じていなかったのか、という思いはしましたね。
古株ではありませんが少なくとも私は、私の法律無知から来る漠然とした不安感が、皆さんのやりとりを読むことで緩和したと思っています。


〜以下つぶやきです。
それでも、正直に言うと、やはり不安を感じている自分がいます。
それを客観的に考えてみました。
最終的な結論を一言でいうと、、、、、、医者だからなのです。
うまく説明できていないかもしれませんが...医療は試行錯誤の繰り返しと言っても良いと思います。患者さんにとって良い結果をもたらすようにベターチョイスを行いますが、常に、悪い結果も想定しながら医療行為を行うようにトレーニングされています。
つまり、医療者の不安感を減らす書き込みがあると、それに対し、どうしてもネガティブな部分も考えざるを得ないように特にトレーニングされているのです。言うなれば生物のホメオスタシス(恒常性)の維持と同じで、前向き発言が出ると後ろ向き発言が、後ろ向き発言が出ると前向き発言がでて、意見のバランスを保とうという心理反応が起こります。医療者の不安を減らす意見が出ると、その心理反応として医療者側からどうしても後ろ向き思考が現れてしまうのではないか、という考えに至りました。
バランスを保つためには前向き後ろ向き両方のベクトルが必要です、時として後ろ向きの発言も出ますが、誰もがよりよい将来を期待しているわけで、相互理解によって最終的に前進していくことが肝要だと改めて思いました。

お目汚し失礼しました。

P R

ブログタイムズ

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