他人を批判するなら弁護士たるものもっとまっとうな批判をするべきではなかろうか。
la_causette の「『手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ』という外野の絶え間ない要求」についてです。
小倉秀夫弁護士は、「『手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ』という外野の絶え間ない要求」というエントリタイトルのもとに
思えば,ネット上では,「手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ」という要求に絶えず弁護士は晒されています。
と書きだした上で、
医療問題では,患者側代理人として難事件を勝訴に持ち込んだ弁護士のブログがコメントスクラムに襲われ,その後も矢部弁護士のブログの常連コメンテーターを中心に,法律家どもは医療問題から手をひけとの要求が盛んに突きつけられました。
と書いています。
しかし、この記述ははなはだしく事実を歪曲したものです。
「患者側代理人として難事件を勝訴に持ち込んだ弁護士のブログ」というのがどのブログなのかは特定されていませんし、「コメントスクラム」という用語がどのような状態を指すのか明確ではないので言及は控えますが、私のブログについては小倉弁護士の認識は明らかに違うと指摘できます。
たしかに、私のブログにおいて、法律家は医療問題に介入すべきではないという意見が述べられた事実はありますが、そういう意見を述べた人の「常連コメンテーター」の中に占める割合はともかく、少なくともそれらの意見が、「弁護士は手抜きをせよ」というものではなかったことは明らかです。
医療側の主張の中に、法律家はどんなに頑張っても高度に専門的な医療行為の適否を判断できないのだから医療問題の当否ないし適否に介入すべきではない、という意見はありましたが、「手抜きせよ」という意見は私のブログで見た記憶はありません。
他のブログでも見た記憶はありません。
また、私のブログでは、弁護士に対して「依頼者を裏切れ」とか「サボタージュせよ」という意見が述べられた記憶もありません。
他のブログ、たとえば「池田信夫blog」においてもそういう意見は述べられてなかったと思います。
なお、
光市母子殺害事件では,刑事弁護人としての職務を全うした弁護人たちが囂々たる非難を受けました。
というのは事実であり、私も光市母子殺害事件の弁護団に対する非難を強く批判してきましたが、光市母子殺害事件の弁護団に対する非難の中に「手抜きをせよ,依頼者を裏切れ,サボタージュせよ」というような要求が含まれていたという記憶はありません。
小倉弁護士のこのエントリは、池田信夫氏に対する反論・批判のために書かれたものだと読めますが、そのエントリタイトルと文脈において、光市母子殺害事件の弁護団に対する非難の問題や医療過誤訴訟に対する医療側の主張を持ち出す必然性がありません。
それぞれ弁護士に対する批判・非難の内容が異なるからです。
ただでさえ必然性のないものを持ち出すことは議論を混乱させる一因になりますが、小倉弁護士は、事実を歪曲し、ほとんど捏造的な印象操作のネタとして持ち出しており、まっとうな議論の姿勢とは言い難いと思います。
ネタとして使われた側としては非常に迷惑です。
小倉弁護士がまっとうな議論であると反論されるのであれば、小倉弁護士自身の分析力が問われることになります。
まあ、先日「ちょっとだけ更新してみました。」で想定したリアクションが、池田氏がこのブログに言及したことによって押さえきれなくなったのだろうと想像しますが(^^)
しかし、小倉先生は、まったく変わってないな。
おっしゃるとおりです。
最近の小倉さんは、「キレる若者」のように周りが見えなくなってますね。
司法の品位を著しく下げています。
モトケンさんもがんばってください。
はじめまして。
本題からずれた非難を始める前に、小倉さんは議論に負けたと認めるべきですね。
雇用問題の話を始めたときはまともだったのに...。何か病気でもあるんでしょうか?
初めまして。
最近、小倉ブログ・池田ブログのかみ合わない空中戦を生暖かく観察し始めた者です。
彼はいったい何と(誰と)戦っているのでしょうか?私にはその正体が把握できません。
たまにまともなエントリもあるのですが、散見される(自主規制)が、全てを台無しにしている気がします。
>彼はいったい何と(誰と)戦っているのでしょうか?私にはその正体が把握できません。
小倉弁護士ヲチャーによれば、彼は「藁人形(定義:ソースを示さず具体的な根拠理由も説明せずに自説に都合よくレッテルを張った仮想敵)」と闘っているのだろうと推察しているみたいです。そのため、仮想敵からは「そんなことを言った覚えはない!曲解も甚だしい!ソースがあるなら出せ!」という反論?が来るみたいです。
>たまにまともなエントリもあるのですが、散見される(自主規制)が、全てを台無しにしている気がします。
私もたまに賛同支持したいエントリがあるのですが、もしや本人が誤読曲解に基づいている意見なのでは?と思うと、怖くてコメントできません。
自説をゆるがすような意見をつきつけると突然
カルト信者のヒステリーのように、思考停止に
陥って、相手を罵倒したり話題の方向性をすり
かえようとするみたいですね。
学生のときにどこかの細胞で総括でもくらって
トラウマが残っているのかなあ、かわいそうに
と最近は思っています。なんにせよあのクセを
治さないとまともな議論はできないし、人間的
成長も図れないでしょうね。
議論のルールと大人のマナーに尽きると思います。m(_ _)m
自己レスですがたとえば…
25/02/2009付け「神頼み経済学」というエントリにおいて
>「目の前に苦しむ人々がいても,政府はこれに手を差し伸べず,手の見えない神に委ねれば全てうまくいく」ということ自体が神懸かりですが,それにも増して,「供給の効率性さえ高めれば消費の原資は神様が天から贈って下さる」ことを前提に,「企業活動による生産活動の成果を賃金という形で労働者→家計へと移転させなくとも,内需は増加する」との預言をして回るあたりが神懸かりです。
とか
>どの世界にも神を気取るペテン師というのはいるものであって,様々なトリックを使って「奇蹟」もどきを見せてまわるわけですが,「新自由主義」という「神頼み経済学」にとってのトリックが,「サブプライムローン」に代表される「消費のための借金の容易化」により,賃金ではなく融資により,消費の原資を降らせてみせることだったわけですが
とかは、穏当とは言えないと思います。
なるほど。
最近の流れでいえば、彼の中で創り出された「新自由主義」という単一の思想とこれを信奉する「新自由主義者」がいて、彼はこれら(=藁人形?)に対して批判を繰り返していると。そして、批判の相手はオリジナルから時間とともに乖離して行っているわけですね。理解したくはありませんが、理解してしまったような気がします。
批判の手法もかなり特殊ですよね。「結局のところ」「思えば」「それにしても」「そういえば」「きっと」「思えるのです」「なのでしょうか」「ようです」「一部の」などの語の意味には要注意でしょうか。文体の特徴を分析すると、自動でブログのエントリを生成するスクリプトが書けそうな気がしてきました。
>判の手法もかなり特殊ですよね。「結局のところ」「思えば」「それにしても」「そういえば」「きっと」「思えるのです」「なのでしょうか」「ようです」「一部の」などの語の意味には要注意でしょうか。
これは、断定を避けて因果関係を曖昧にしているように読めるのは、一重に名誉毀損や誤読曲解という批判を避けるためではないか、と思えなくもないと言えそうなのでしょうか。
ただ、「思えば」は、民法の大家である我妻教授や刑法の大御所である団藤教授が、「検討するに」の代わりに平易な「思うに」という言葉を使われたのを読まれた影響かも知れません。
横から失礼します
コーディングを間違うとこんなふうになりますのでご留意の程
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/3910/1182565691/1658-
ハスカップさんが次のように述べています。
(引用略)
結局のところ、一部の反新自由主義者の間ではやっている「思えば」というような表現って、きっと原典の「思うに」の影響を受けて考案された、まさに原文を確認しないと危ない用語法なのでしょうか。実際、そうやってオリジナルとの文脈の違いを確認しておかないと、我妻先生や團藤先生に申し訳ない気がします。
はまってしまいそうです。↑ではまだまだ甘いですね。自分の文章が影響を受けないようにしないと・・・
文章の構造を理解しながら読むと、味わい深い文章ですね。味はアレですけど。