小倉秀夫弁護士の「論者の党派性に言及すること」についてです。
自然科学に関する議論をするのならともかく、社会に関する議論をするにあたって論者の党派性を一つの考慮要素にすることは、「属人論法」として批判されることではなく、むしろその論点について関連する党派性を有しているのにこれを敢えて隠そうとすることの方が非難されるべきことだと思ったりはします(もちろん、守秘義務等との関係で自らの党派性を公言できない場合はあると思いますが。)。
小倉弁護士は、「党派性」という言葉をどういう意味で使っているのだろうか?
「敢えて隠そうとすることの方が非難されるべき」と言っていますが、最近のどのような出来事に基づいてこのようなことを言っているのでしょうか?唐突すぎる印象を受けます。
だからこそ、討論会やシンポジウムでは、論者の経歴やポジションをまず明らかにしてその党派性を明示するのが通常だし、書籍を発行したり、雑誌に寄稿したりすれば、そのプロフィールを紹介することで、論者の党派性を明示するのが通常です。
プロフィールのことを党派性と言っているのでしょうか?たぶん違うでしょうね。
これは、日本に特有の現象ではなく、欧米なんかでも普通に行われている話です。一部の人は誤解されているようですが、「実名主義」者は、この党派性が明示され、それが読者によりその議論をどのように受け取るかを決定する上での重要な要素となることを、基本的に肯定します。
自然科学や数学の議論においては、再検証可能な実験結果や純粋論理に基づく議論が多いので論者の哲学や価値観が問題になる場合は少ないと思いますが(最先端ではそうでもないようですが)、社会科学の議論においては、論者の価値観や歴史認識などが理論に影響してくる場合が多いので、論者の理論や主張を理解するためにはその論者の過去の論文などを知っている方がその論者の考え方を理解しやすいですし、誰それ先生の弟子ということであれば、先生の影響を受けているだろうことが想像されますので、これも主張や理論の理解を助けることになります。
その意味で、論者の経歴などのプロフィールを知っていることは有益です。
しかし、このような意味でのプロフィールなどは普通は党派性とは言わないと思います。
政治に関わることについては、論者に政治的な色合いが強い場合、例えば○○党の党員であるとか支持者である場合には、その観点でバイアスがかかる場合が多いと言えます。
しかし、これは蓋然性の問題であって、例えば公明党の支持者であれば常に公明党の政策を支持するというわけではありません。
日常的にも、「あの人なら当然こう言うと思っていたけど、今回は違った。」という経験は誰でもあるだろうと思います。
つまり、小倉弁護士のいわゆる党派性や傾向性を念頭におくとしても、目の前にいる人は今何を言おうとしているのかということをその主張自体について論理的に理解しようという姿勢が必要なのであって、それがあれば属人論法には該当しないと思います。
しかし、小倉弁護士の論法は、「彼は某宗教団体に属しているから、こういう主張をしているのだ。」というものであって、論理的な批判や検討を放棄して党派性から短絡的に結論を導いています。
まさしく属人論法です。
バックグラウンドを資料の一つとして相手の話を理解しようとするのと、バックグラウンドから短絡的に結論を導くのとは、本質的に異なります。
ところで、
だからこそ、討論会やシンポジウムでは、論者の経歴やポジションをまず明らかにしてその党派性を明示するのが通常
であるとのことですが、小倉弁護士は自己の党派性を明示されていないように思います。経歴は分かってますけどね。
ちなみに、宗教的党派性を問題にする場合、欧米のように特定の信仰を持っていることが当たり前の社会ではそれぞれの信仰を尊重することによって対等の議論ができますが、日本のように特定の信仰を持たない人が多い社会では、小倉論法に従えば、無神論者は、特定の信仰を持つものに対して特定の信仰を持っているだけで「偏った主張である。」との批判を加えることが可能になります。
つまり論理性の有無にかかわらず議論に勝てる(正確には勝ったつもりになれる)ということです。
追記
なんやかんや言っても、はてブコメントでこんなことを言ってるようじゃ終わりですよ。
OguraHideo その発行する雑誌で特定の個人をかなり悪し様に罵ることが好きな宗教団体に属する人が、それよりはかなり穏やかな個人批判すら許さないが自分が特設ブログで匿名さんを手足として個人攻撃を加えるのは◎ってこと?
属人攻撃主義・実名原理主義・匿名卑怯臆病罵倒主義・出張放火主義…でしょうか。いずれにしても生産性も自然かつ合理的な議論の深まりもない論者の独自の見解で採用の限りではない、と思います。私の理解できない世界です。